KA-33.
「ここにいたのかよ……」
思わず漏れた声には相当の棘が含まれていたが、当の本人には多分届いていないだろう。相手は毛布をひっかぶったままで、木箱に寄り掛かるような形で気持ちよさそうに寝入っているのだから。
ガウェインは肺が空っぽになるくらいの深いため息を吐いて、ずかずかと屋内に侵入する。唯一の天窓から漏れる光は朝の清浄さに満ちて、眠っているラモラックを静かに照らしている。舞い上がる埃が陽光を反射して、宝石のように煌めきながら落ちていく。
「おい」
話し掛けたとて結果は同じだ。なので、ガウェインは毛布の端をひっつかむと、一気に引き剥がした。どうせ修行が済んだその足でここへ直行したのだろう、濃紺のローブ姿が明らかになる。日中であれば多少の薄着でも何とかなろうが、高地の晩秋を舐めてはいけない。朝晩の気温差は秋が深まるごとに大きく激しくなり、この時期ともなればもう少し着込まないと眠るどころではあるまい。
「ううっ……」
突かれた芋虫のようにラモラックはきゅっと縮こまる。突然吹き込んだ寒気に驚いたのだろう、そのちょうど内側にいたであろう黒いものがびゅんと飛び出した。ガウェインの足に当たり、ギャッと小さく呻き、方向を変えそのまま木箱の影に逃げ込んでいく。農具が倒れ、引っ掛かっていた網が落ち、ガタンと大きな音を立てる。
「んもぉ……うるさい」
聞こえる、呻き声。ガウェインが視線を向ければ、眠そうに目を擦りながらも、ラモラックがのろのろと身を起こしたところだった。
「ガウェインくんったら、起こし方が乱暴なんだからさぁ……」
「こんなところで寝るからだ」毛布を放り、呆れたとばかりに肩を竦める。「ほら、早く部屋に戻れよ。風邪を引くぞ」
「ふぁい……」
くあ、と欠伸をかみ殺し、床に座ったままで大きく伸びをする。いつも後ろでひとつに括っている髪がはらりとほどけて背中に広がり、けれど、ラモラックは特に気にする様子もなく、ぼんやりした顔つきで辺りを見渡している。
「あれ……?」と首を傾げた。「ファミリアは……?」
「ファミリア?」
「うん、ほらあの、……黒いやつ」
おおいファミリア、どこ、と何度も呼びつつ、四つん這いになって積まれた木箱の方へ向かう。そうして辺りをごそごそとし出すので、ガウェインは呆れたようにため息を吐き踵を返した。取り敢えず無事は確認した。後は自分で何とかすることだろう。
「俺はもう行くからな」
「はいはい」
小屋から出る間際に告げると、ラモラックは生返事で応えた。間隙に顔を突っ込んでいるため声はくぐもり、埃まみれの尻が微かに揺れている。仮にも隣国の王位継承者候補だろうにとも思うが、そもそも特別扱いしないでくれというのがウェールズからの要望だ。庶民と同じ目線で学び、暮らし、交友を深めて、帰郷した際に統治に活かすのだろう。
「お、いたいた……」去りかけた背中で嬉しそうな声を聞く。「ファミリア、……もう大丈夫だよ、怖ぁいお兄さんはもう行っちゃったからねぇ……」
――何が、怖いお兄さんだ。
バタン! と閉めた扉の音は意外と大きかった。建て付けが悪いのもそうだが、勢いが良かったのも当然あるだろう。けれど、ガウェインは構わずに歩き出した。目の前に転がっている小石を腹いせまぎれに蹴っ飛ばしながら。
――心配して損した。
ラモラックの不在に気付いたのは昨日の夜のことだ。夕食も済み、あとは寝るだけといった時分に、真っ青な顔をした寮長が家を訪ねてきて開口一番こう言ったのだ。曰く、……ラモラックを見掛けていないかと。
確かに、彼は何だかんだと理由を付けてガウェインの家に来たがる。怪我をしたから治して欲しい、寮の食事は飽きてしまったので美味しい手料理を食べさせてほしい……殆ど我が儘と言ってもいい理由でも、モルゴースもフロレンスも特に拒絶することなく受け入れてしまうので、ガウェインとしては面白くない。そもそも母も姉も魔導師であり、ラモラックもまた魔導師の見習いであるから、自分ばかりのけ者にされているようで気に入らなかった。いつも三人だけで修行をしているので尚更だ。
けれど、……いつだったか、モルゴースが教えてくれた。
ラモラックには母親がいない。隣国で大規模な内乱が起きた年に亡くなった。ラモラックが今よりもずっと小さな頃の話だ。だから寂しくて、つい甘えてしまうのだろうと。
――最初は病気なんだと思った。けれど、違った。彼の母親は事故で死んだのだ。よりによって幼いラモラックの目の前で……。
ガウェインも父親を喪っている。だが、死に際までは知らない。戻ってきたのは立派な棺桶と、国章の入った豪奢な外套が被せられた物言わぬ遺骸だけだったから。父の口からではなく、淡々とした戦況報告書の中でのみ、その最期が語られたのだから。
優しくしてやろうとか気に掛けてやろうとか、そんなことを思ったわけではない。ラモラックは、同じなのだ。自分と同じで、小さい頃に片親を亡くしている。それでも前を向き、自分と同じ年月を生きてきたひとりの少年なのだと、そのとき分かった。理屈ではなく頭で理解できた。
そんなラモラックが行方知れずなのだという。
その日、修行が終わり次第解散だったとフロレンスは証言する。家に寄るか聞いたが、ラモラックはやんわり断った。やることがあるから、とか何とか、はにかみながら言っていたのだと。夕方頃の話だ。当然、ガウェインのところにいるはずもない。
夜間の大捜索が始まった。
自分も加わりたかったが、後は大人に任せて子どもは寝ていなさいと諭されてしまったのならすごすごと自室へ戻るしかない。俺はもう子どもじゃないと反論しても、つい先日一緒に失踪した身であるので聞いてくれるはずもない。ガウェインまで行方不明になったら収拾がつかないじゃないの、と呆れながらもフロレンスは言う。そうね、もう少し明るくなってから捜しに行ったらどう、と――
「……はぁ」
魔導師たちの寄宿舎など余程の用事がなければ訪れまい。中庭へと降りてきたローブ姿の少女たちがじろじろと無遠慮な視線を投げる中、ガウェインは歩度を早めて正門の方へと急ぐ。顔を伏せ、出来る限り彼女たちと目が合わないようにしながら。
そうして辿り着いた先、大通りまでやってくるとようやく大きく息を吐いた。さんさんと降り注ぐ秋の日差しは容赦なく、遮るもののない、高く澄んだ空の向こうから照らしてくる。吹き抜ける風がカサカサと晩秋の便りを運んでいる。
街は未だ眠りの中にあるようで、道行く人たちはまばらだ。あと少ししたのなら、ガウェインも、訓練のため野外修練所へ向かわねばならない。少しでも遅れようものならピート団長の鉄拳制裁が待っている。
「取り敢えず、ラモラックのこと、母さんたちに知らせておくか……」
もう何度目かも分からないため息を吐き、ガウェインは、魔導師団の本部へと足を向ける。首を肩に預けながら踏み出した一歩が、ずしりと重く感じた。
その日は当然、集中できるはずもない。
ただでさえラモラックの件で寝不足な上、あの黒い獣――ファミリアのことがずっと頭から離れなかったのだ。普段は問題なくこなせる模擬戦も格下相手に後れを取り、打ち合いも基礎練習も、全てにおいて上手いかなかった。
勿論ピート団長にはこっぴどく叱られ、同期の訓練生からは哀れみの目を向けられた。追加で野外修練場周辺を走らされながら、ガウェインはギリギリと奥歯を噛んだ。こういうときほど、全ては自分の敵となって邪魔をしてくるのだ。全く、何もかもが気に入らない。
正体の分からない黒い獣も。それをファミリアと名付けて可愛がるラモラックも。
――あいつのせいだ。
――全部、全部。……あいつの!
なので、訓練からの帰り道。ちょうど通りかかった寄宿舎の正門付近で覚えのある亜麻色の髪を見つけたとき、ガウェインは脇目も振らずにずんずんと近付いていった。あまりにも鬼気迫る形相であったので、行き合った人々は我関せずとばかりにさっと道を譲る。
夕陽に照らされ、銀杏の葉がはらはらと降り積もる金色の地面の上。太い幹を囲むように作られたベンチに、彼は座っていた。こちらに背を向けているので表情までは分からないが、考え事でもしているのか、その姿は全く動くことがない。それは、ガウェインが近寄っても変わらない。
「おい!」
歩きながら呼び掛けた。
「……おい、ラモラック、貴様――」
ずかずかと回り込み、文句を言ってやろうとした口がそのまま固まる。ガウェインは目を何度か瞬き、ついにはぐぅと呻いて続く言葉を飲み込んだ。
眠っている。
竹箒を抱き込み、幹に寄り掛かり、ラモラックは実に気持ちよさそうに眠っている。傍らには魔術書が幾つか積まれて、分厚い表紙の上にまで落ち葉が乗っている。
一気に気が削がれた。
ガウェインは息を吐いた。後頭部を掻き、やれやれと肩を竦めた。
大方、行方不明になった罰としてこの付近の掃除を言い付けられたのだろう。けれど、こいつはそもそもふざけた奴であるから真面目に取り組むつもりもない。秋の心地よい陽気に引っ張り込まれつい居眠りをしてしまった……とまぁこんなところだろうか。亜麻色の髪に引っ掛かった幾つもの銀杏の葉が、そんな情景を如実に語っている。
放っといてやれば、と頭の中で誰かが言う。いずれ勝手に目を醒ますだろう。言い付けを素直に遂行しなかったのが悪い。俺のようにこっぴどく叱られれば、自分がどれだけ周囲に迷惑を掛けたのか身を以て知るのではないか、と。
……でも。
「おい、……ラモラック」
肩を叩いても反応はなく、ならばと両肩を掴みがくがく揺さぶる。彼は首の据わらない赤ん坊の如く、されるがままに頭を上下させる。力の抜けた両腕から竹箒がすり抜けて、地面にぱさりと倒れ込んだ。
「おい、起きろ、……起きろってば」
このままにしておけば確実に風邪を引く。母や姉が心配するだろう。
それはそれでますます気に入らない。
「……う……?」
小さな呻きが耳に入った。
ガウェインが手を止めると、ラモラックはぼうっと頭を上げる。口の端の涎を拭い、未だ眠りの際にあるのか、ぼうっとした目でこちらを見る。間抜けな顔だなとガウェインは思った。無意識の狭間にあるとき、人はここまで無防備になるのか。
「あれぇ……」
とろりとした柔らかい声。朱華の瞳が弧を描く。
「ふふ、……ガウェインくんったら、葉っぱ載ってるよ」
「……は?」
何処だ。何処に。顔をしかめ、あちこち髪を触るガウェインに、ラモラックはただ、くすくす笑っている。そこじゃないよ、と。楽しげに。愉快そうに。
やがてその腕がすっと伸びた。手招きされる。
「おいで、……取ってあげる」
普段であれば突っぱねるところだ。悪戯好きのラモラックのことだ、何を企んでいるか分からない。頭に載った落ち葉くらい鏡で確認すればいい……そう考えるところだ。
けれどガウェインは敢えて誘いに乗った。ここで退くのは何か悔しい。相手が俺を嵌めようとするなら、俺はその上をいってやる。……見てろよ。
一歩、二歩。いつでも逃げられる距離から、彼の近傍へ。
ここで良いだろうと足を止めると、ラモラックはそれじゃあ駄目だと頬を膨らませる。もう少し、……もっと近く。
そうして腰を屈めたガウェインの目の前で、ラモラックは満足げに頷いた。
少しでも首を伸ばせば額同士がぶつかってしまいそうな距離だ。息が掛かるほどに近くから、互いを見つめた。朱華の瞳に自分の間抜けな面が映っている。
――こいつ……
――意外と、綺麗な顔をしているんだな……
こう、まじまじと見たことがないからそう思うのかも知れない。ガウェインはしばし呼吸を忘れ、目の前の悪友に見入る。
「はい」
不意に頭の上に伸びた手が、何かを摘まんでぱっと放るのが分かった。
そうして……
「取れたよ、……」
ガウェインは、けれど、そこから動くことが出来なかった。間近にラモラックを見たままで、礼を言うことも、悪態を吐くことも忘れた。
赤く、色付いていくのだ。夕陽のせいだけではなく。
ラモラックの頬が。見開いた目が。口が――
瞬間、何故か、胸が高鳴った。カッと顔に血が上るのを感じた。思わず後ずさった足が落ち葉を踏んで、カサリと乾いた音で我に返った。
「……っ、あ、……」
零れた声は見事に掠れた。それはラモラックも同じだった。
しばし見つめ合い、けれど、耐えきれなくなったのはガウェインの方だった。
顔が熱い。耳まで熱い。
何だ? 一体、……何が起こった?
「ッ……!」
ラモラックが口を開くよりも早く、ガウェインは足を踏み換えた。踵を返し、逃げるように駆け出した。去り際に何か気の利いたことを言えば良かったのだが、叶わなかった。あの場に居続けていたら、何かとんでもないことをしでかしてしまいそうで怖くなったのだ。
その後、どうやって家に戻ったか覚えていない。
気が付いたら自分はベッドの上にいて、くたくたの枕を抱いたまま天井を眺めていた。身体は疲れているし、頭の芯が痺れるほどに寝不足であるのに、思考はやけに冴え渡っている。何度も何度も寝返りを繰り返し、やっとうとうと出来たのは明け方頃。寝入り端をフロレンスに叩き起こされ、道中ふらふらになりながらも野外修練場へと向かった。
再度ピート団長にこってり絞られたのは……最早語るまでもない。
「おお……よしよし、良い子だね、ファミリア……」
開け放った炭焼き小屋の扉は見事に傾き、隙間だらけの壁から吹き込む風は冷たい。さんさんと秋の陽が降り注ぐ午後、育ち盛りの身はそろそろ空腹を覚える頃合いだ。
ファミリアは揺れるエノコログサに夢中になっている。動く穂をじっと見つめ、寝転がっては飛び上がり、尻尾らしき突起を盛んに振り立てている。まるで猫のようだ。
しかし、とガウェインは思う。木箱に腰掛けたまま足を組み替え、手持ち無沙汰に頬杖を突く。
猫にしては諸々おかしい箇所がある。耳は長く、尖り、なりは大きく四肢も妙に発達しているように思う。そもそも猫は青白く光ったりしない。助けたとき以来あの輝きが失せてしまったとはいえ。
ラモラックはファミリアをじゃらしながら、服の裾が汚れるのも構わず、埃まみれの床に座り込んでいる。にこにこしながら、楽しげに。
――全く、何なんだよ……。
陽に照らされた横顔を眺めつつ、ガウェインはため息を吐く。目線の先にはラモラックがいたが、彼はこちらを見ようともしない。ファミリアと遊んでいるので当然といえば当然なのだが何となく気に入らない。
先日の一件があってから、何故か態度が余所余所しく感じる。
避けられているとか、無視されているとか、そこまで拒絶されてはいないが、目は合わないし会話は不自然に短い。じゃあ僕、ファミリアのところに行くから……と逃げられてしまうのもしばしばだ。喧嘩をしたわけでもあるまいに、ガウェインとしてはますます気に入らない。
「あはは、……もう、くすぐったいよ」
そんなことを考えていると、ラモラックの楽しげな声が耳を過ぎった。役目を終えたらしいエノコログサは端に追い遣られ、今は仰向けに横たわったファミリアの腹をくすぐっている。
今日だって珍しく向こうから誘ってきたくせに、いざ炭焼き小屋に着いたならガウェインを放ってファミリアと遊び出す始末。ガウェインが大きくため息を吐いたり、ぶすっとしていても、ラモラックはそれほど気にしていないように見えた。
「クソッ……」
ガウェインはモヤモヤした気持ちを発散する手立てもなく、ラモラックにへばりついていた視線を無理矢理引き剥がした。
――ラモラックめ……何がしたいんだよ。
――ファミリアと仲が良いってこと、見せつけたいのか?
――……お前は、俺の、友達なんだぞ。
イライラと胸中で呟くと、ガウェインはそのまま立ち上がって戸口の方へと向かう。秋の日はつるべ落とし、このまま用がないのなら、裏手の森で鍛錬をする方がいい。日が暮れてしまっては分が悪い。そう判断して歩き出そうとすると、背中に声が被った。
「ちょっと、ちょっとぉ」明らかに拗ねたような響き。「ひとりで帰ろうとするなんて、酷くない?」
――何なんだよ。
そう思う一方で、ほっと胸をなで下ろす自分もいる。
ああそうだ、単なる思い過ごしというやつだ。ラモラックは本当に平時の通りに接していただけで、俺がただ、過剰に反応していただけなんだ。
……そうであって欲しいと思う自分が。
「別に一緒に行こうって言った覚えはないぞ」
既視感のあるやり取りをしながら振り返れば、ラモラックは今まさに立ち上がろうとしたところだった。ローブの裾を払い、尚もじゃれつくファミリアの頭を撫でつつ、腰を引っ張り上げ、……
「うわ、ッ……!」
その身体が一瞬、ぐらりと傾いだ。
何かに躓いたか。あるいはバランスを崩したか。慌てて駆け寄る間もなく、反射的に壁に付いた手が転倒を防いだようだ。ただ、本人も予測していなかった事態らしく、驚いたように朱華の瞳を丸くしている。それはガウェインもまた同様だった。
「あ、はは……ごめん」
「全く、気を付けろよな……」
その間に、ファミリアは吃驚して逃げてしまったらしい。木箱の向こうで大きな音が鳴り、立て掛けてあった農具が次々と倒れ込んだ。あちゃー……と眉尻を下げるラモラックに、ガウェインは手を差し伸べる。ラモラックの視線は、けれど、差し出された手とガウェインとを何度も往復した。困ったように笑い、首を傾げる。
「へ……?」
「良いから。……行くぞ」
「え、ちょっと……っ」
問答無用とばかりに手首を掴んで引っ張るが、ラモラックは特に抵抗もせずに付いてきた。じゃあね、ファミリア、と呼び掛ける声は半分ほどで、扉の閉まる音の向こうに消えた。ギィ、と微かな鳴き声が応える。
「あいつ……、どうするつもりなんだよ」
庭園を歩きながらしばらく、ガウェインはそう切り出した。横に並んだラモラックが朱華の瞳を上げてこちらを見たが、敢えて気にしない振りをした。
「あいつ?」
「ファミリアのこと」
「あぁ……」
「大分元気になってきたし、そろそろ森へ戻してやったらどうだ。あの小屋だって、いつまで使えるか分からないんだし」
ガウェインの提案にしばしの沈黙が挟まれた。ふたりの足が落ち葉を踏む、サクサクという音だけが響いた。ラモラックは視線を外し、ガウェインもまた、俯いて歩いた。
そうして、……ラモラックはぽつりと零した。
「僕は、……反対だな」
「何……」
伏し目がちの視線はどこかを見ているようで、どこも見ていない。虚ろな笑みを浮かべた横顔の輪郭だけが、沈みゆく秋の陽に照らされている。
「まだあの子の傷は癒えていない。今森に戻したとして、また襲われでもしたらどうするの。僕たち以外に、誰が助けてあげるっていうのさ。あの子には仲間もいなかった。……ひとりぼっちなんだよ?」
ひとりぼっち。ガウェインは口を噤む。ただ、目を剥く。
「僕と、……同じなのに」
……違う。
それは違う。お前はひとりぼっちなんかじゃない。
モルゴースもフロレンスもいる。ウェールズの縁者は誰もいなくとも、お前のことを気に掛けている人間はこのダルモアにだって存在する。
しかし、ガウェインは何も言わなかった。言えるはずもなかった。気の利いた台詞のひとつでも掛けてやれば良かったのだが、それすらも出てこなかった。
分かってしまったのだ。
ここはガウェインが生まれ育ったダルモア。だが、ラモラックにとっては仕官に来ただけの隣国に過ぎない。家族も、知り合いも、友人も、見知った風景も生家も……何もない。
そんな自分が、……ラモラックに掛ける言葉などあるのだろうか。
恵まれた者の、奢りなのではないか。
「……そうか」
やっと絞り出した言葉は界隈の賑わいに攫われた。ふたりの足はいつの間にか庭園を抜け、正門の近くへとやってきていた。物売りの声が聞こえる。井戸端会議に花を咲かせる主婦たちの姿も見える。
「それじゃ、僕……こっちだから」
ばいばい。
それを合図に、繋いだ手が、ふっと離れた。
寄宿舎へ入っていくラモラックの背をガウェインは黙って見送った。亜麻色の尻尾が静かに揺れ、紺色のローブの後ろ姿が小さくなっていくのを……その姿が完全に建物の中へと消えていくまで、ずっと。
「……馬鹿野郎」
ぽつり、呟く。
「俺が、……いるだろうが」
掌に残った体温を確かめるように握り込み、ガウェインは、唇を強く噛みしめた。
剣を振れば雑念は消える。生前、父ロットがよく話してくれた。
練習試合に負けたとき。教官に叱られたとき。謂われのないことで同期生に馬鹿にされたとき。ガウェインはいつも裏手にある修行場へ籠もって、ひたすら剣を振り続けた。雑念という名の化け物を己の前に象り、そいつをやっつけるイメージだ。現れては倒れ、倒れては現れるそれらを何度も切りつけているうち、心がスッキリしてくる。一体何を悩んでいたのだろうと、過去の自分を笑い飛ばしてしまいたくなる。
ロットが無言の帰宅を果たしたときも、ガウェインは剣を振るった。今度の敵は雑念ではなかった。英雄となってしまった父。無能な王。無責任に持ち上げた国民。誰ひとり止められなかった無謀な遠征。力のなかった、愚かな自分……。
散々過去の亡霊を痛めつけたところで、ガランとすっぽ抜けた剣もそのままに、ガウェインは泣いた。男は滅多に泣くものではない、泣いていいのは生まれたときと親が死んだときだ。だったら、周囲を気にせず存分に泣きわめいても何も恥ずかしくない。
そして今。
ガウェインは修行場に立っている。
ラモラックと別れたその足でここへとやってきた。どこにも寄り道をせず、真っ直ぐに、ここだけを目指して。夕陽が真っ赤に染める世界の一端で、ガウェインはゆっくりと目を伏せ精神を集中させる。引き抜いた剣の平が橙色の照り返しを受けて煌めいた。
両足を開いて静かに構え、剣を振る。銀の軌跡が真っ直ぐに落ちる。
ラモラックも。ファミリアも。彼らに抱く妙な感情も。全部ない交ぜにして、何度も切りつける。
何度も、何度も。
脳裏を過ぎるのは、ひとりぼっちだと自分を嘲った、あのうつろな表情だ。ぽっかりと空いた二つの穴は先の見通せない真っ暗闇のようだった。
ひとりじゃない。お前は決してひとりじゃない。
周りを見ろ。モルゴースもフロレンスもいる。俺も、……お前の傍にいる。
そうだ。
この、俺が。
お前をひとりぼっちにするはずがないだろう……!
幾つもの雑念が化け物の形となって現れる。次から次へと沸いてくるそれを、容赦なく斬り捨てる。真っ直ぐに。あるいは横薙ぎに。突き通し、抑えつけ、完膚なきまでに叩きのめす。
はぁ、はぁ、……はぁ。
肩を呼吸を繰り返しながらガウェインはようやく剣を下ろす。額に滲んだ汗を拭い、顔を上げたのなら、辺りは薄暗闇の中にある。秋の陽はとうに沈み、紺碧の空を背景に、虫の輪唱が辺りに響く。世界を渡る風がざあっと梢を騒がせた。
剣を鞘に収め、ひとつ息を吐いてガウェインは踵を返す。これ以上は疲れるだけだ。鍛錬はここまでにして、家に帰るとしよう……
「……ん?」
その足が、ふと止まった。
影絵となった木々のまにまに青白い光を見たのだ。
最初は、森に差し込む月光かと思った。しかし未だ月の昇る時間帯には早い。
――あの、青は……
見覚えがある。そうだ、……カルカンサイト。カサンドラの教えてくれた鉱石の色。
しかし、あの青は移動している。周囲を仄かに照らしながら森の奥へと遠ざかっていく。ガサガサと草を掻き分ける音と共に、薄蒼の光が木々の合間に紛れ、徐々に、徐々に小さくなっていく。
「……まさか……」
ふと浮かんだ可能性は単なる思い付きに過ぎない。けれど、ガウェインは踵を巡らせ光に向き直った。そのまま追い掛ける。出来る限り足を潜めつつ、見失わない程度には素早く。
――鉱石が動くはずはない。
――だとしたら、あの光は……ファミリア、あるいは、奴を喰らおうとした四つ足の化け物か。
四つ足の化け物は確かに仕留めた。絶命の瞬間も見届けた。だとすれば……
――ファミリアか。
そう考えるなら、かの光が移動する速さも跳ねるような動きも納得がいく。ガウェインは唇を引き結び、追跡を続ける。周囲の警戒は常に怠らず、いつでも剣を引き抜けるよう柄に手を掛けたままで。
やがて視界が開け、その足ははたと立ち止まる。
廃墟である。
崩れ落ちた煉瓦の壁が辺りに瓦礫をばらまき、こんこんと湧く清水が小さな池を形作る。唯一残っている片脚のアーチは、半分ほどを蔦に覆われている。頭上を覆う木々の葉はそこだけぽっかりとなくなり、ようやく昇り始めた月がスポットライトのようにして、舞台を青白く照らし出している。
手近の大木の影に貼り付いて身を隠し、ガウェインはそうっと顔だけを覗かせた。中央の池の手前で同じように停止した青い光を注視する。
ガウェインはこの光景に見覚えがあった。カサンドラのいた地下洞窟、あそこから脱出し辿り着いた場所。ファミリアが飛び出し、四つ足の化け物が襲ってきた、あの場所だ。こんなに近くにあったとは――
「……おや」不意に聞こえた声。「飛んで火に入る夏の虫……というやつか」
――見つかった
ガウェインはびくりと身を竦ませた。幹の後ろへと身体を引っ込め視線を外し、極力息を潜める。ごく、と喉を通る音がいやに大きく聞こえる。
艶のある声は確かに聞き覚えのあるものだった。次いで耳に届く、コツコツ、と硬質の床を叩く音も、その正体を補完するに相応しい。
「全く、随分と勝手なことをしてくれるじゃあないか」
――魔女、カサンドラ。
謎の地下空間に潜んでいた女は、今、廃墟の中にいる。それは想像ではなく、殆ど確信に近い。
「しかし……上手いこと考えたね。道理でアタシの網に引っ掛かってこないわけだ」
クク、と低く笑う。誰かに話し掛けているようで、独り言のようでもある。だが、この廃墟に彼女以外存在しただろうか。否、誰も……。
まさか。……ファミリア?
話の内容からして対象はガウェインではない。そもそも自分の存在に気付いているのなら、こんなまどろっこしいことはせずさっさと舞台上に引っ張り出すだろう。
ガウェインは息を整え、そっと、幹の後ろから廃墟を見遣る。カサンドラの死角になるように、身体の大半を引き伸ばして隠したままで。
赤い髪の魔女は、確かにそこにいた。
池に向こうに立つ、すらりとした長身。マーメイドラインのドレスから覗く真っ白い腕を組んで、鷹揚に眼前を見下ろしている。その反対側、彼女の視線の先にはファミリアがいて、尖った両の耳をピンと立てる。青白い光が呼吸に合わせてゆっくりと明滅し、互いに様子を窺っているようにも、目線だけで何かを話し合っているようにも見える。
「まぁ、……構わないがね」しばらくの後、カサンドラは言った。形の良い唇が笑みの形につり上がった。「さて。それじゃあ、始めるとするか――」
パキ。
「……ッ……!」
乗り出した靴の下で、枯れ枝が折れた。
静まり返った世界に響き渡った音は、向き合うカサンドラとファミリアの注意を引くには十分すぎた。ガウェインはハッとして、けれど、次の瞬間には足を踏み込んで駆け出した。頭で考えるより先に、身体が動いた。
気付かれたか、気付かれないかは最早どうでもいい。追ってくる気配はないが、振り返って確認するだけの余裕もない。ただ、今はこの場を早く離れなくては。出来る限り遠くへ行かなくては!
ガウェインは走った。
草を掻き分け、せせらぎを踏み、大木の根を乗り越え、がむしゃらに走った。
息は切れ、口内に鉄錆の味が滲む。けれど、立ち止まることはできない。できるはずもない!
「ッ……、あ、……」
視界が急に開け、低木を分けてまろび出る。倒れ込もうとする身体を無理矢理に引っ張り上げ、短く切り崩した呼吸を何とか整えようと、何度も何度も深呼吸をする。
彼らは追ってこない。声も、足音も、物音もない。
青白い月に照らされた世界は静寂に満ちて……
「ガウェイン……?」
「……え?」
ぼうっと映る仄かな灯りの色に、顔を上げたとき。
そこにいたのは、角灯を掲げたローブ姿の少年であった。深く被ったフードの端から、亜麻色の髪が覗いている。朱華の瞳が何度も瞬き、ガウェインを不思議そうに見つめる。
「お前、なんで……」
荒い呼吸の合間に言い掛け、気付いた。
そうか、ファミリアを追ってきたのか。いなくなったから捜索に来たんだ。
「なんでって……」
けれど、ラモラックは困ったように笑った。眉尻を下げた表情は、今にも泣き出しそうに見えた。
「君を捜しに来たんだけど?」
「……は……?」
応えた声は、自分でも相当間抜けな音だと思った。