それでは、良い終末を。【仁玖】 悪夢というやつは、どうにも質が悪い。
これでもかというほど悪趣味な内容でこちらを追い詰める。目を醒まし現実に逃げ帰ったとて、重苦しい気分はなかなか消えない。こちらに選択権などないので最悪だ。夢は所詮現実ではなく、悪夢でさえその例に漏れず、脳の働きのひとつであるのだと分かってはいても。
舎利弗玖苑は、その日の朝も何となく気分が優れなかった。こうも連日連夜悪夢が続くと流石に堪える。寝台の中ではたと目を醒まし、寝返りを打った後に大きく溜息を吐き、心底大儀そうに起き上がる。ベッドのスプリングが僅かに軋み、その肌の上を、冷えた掛布ばかりが滑っていく。
環境が変われば多少は眠れるだろうと思っていたのだが、結局はいつもと一緒だ。場所など関係ない、要は自分自身の問題なのだと、……未だ悪夢の名残が尾を引く中で、鈍く軋むこめかみを揉む。
――折角、……こんなにいい部屋を予約してくれたっていうのに……。
ここのところ休めていないんじゃないのか、と声を掛けてきたのは、他ならぬ十年来の親友である。葬儀の席でそんな風に眉をひそめるものだから、そんなことはない、と即座に否定したのだが、彼の目を誤魔化せるはずもない。
――あまり根を詰めるなよ、玖苑。
――ホテルの選択は俺に一任してくれないか。少しでもいいところを探しておくから。
有無を言わさぬような静かな迫力に、玖苑は返す言葉を失う。確かにそれ以外にも、航空機の予約や現地の宿の手配などやることは山積みだ。どうせ俺も行くのだから細々とした手続きも分担すればいい、そう重ねる親友を、頑なに突っぱねても仕方ない。だから玖苑は渋々了承した。了承するしかなかった。
今思えば、多分、疲れていたのだろう。何も考えたくなかったというのが当時の心境に近い。否……何も考えられなかったというのが正しいか。
――何時いかなる時でも、ボクは完璧でなくてはならないのに。
――それは、ボクの大事な人が亡くなった時でさえ……
そのときだった。まるでタイミングを計ったかのように、唐突に、軽快な音楽が鳴り響いた。
玖苑はハッと顔を上げ、次いで、周囲をぐるりと見渡した。並べられた二台の寝台の間、黒を基調とした小さなサイドテーブルの上で携帯電話が震えている。発信者の名前を確認するまでもない。玖苑はすぐさまに手を伸ばし、未だ鳴り続ける携帯電話をひっつかみ、素早く着信ボタンをスライドさせた。一時の静寂。ひとつ息を吐き、耳に押し当てる。
「お早う、玖苑」
聞こえる、耳慣れた声。何故か、ほっと穏やかな心地になる響き。
「うん」短く応えながら一旦立ち上がり、隣の寝台――昨夜誰も使用しなかった方のベッドに座り直す。「お早う、……仁武」
「随分眠そうな声だな。起こしたか?」
別に、キミに起こされたんじゃないよ。恐ろしい悪夢が、ボクを寝かさなかっただけさ。
そう言いたかったが、流石に口を噤んだ。要らぬ気遣いをされても仕方ない。なので、努めて明るく「勿論さ!」と応じる。「全く、良い夢を見ていたというのに、キミのせいで台無しだ」冗談めかして笑ってみせる。
「そうか、……それは悪かったな」
軽やかに話す親友の――鐡仁武の声には、隠しきれない安堵が滲んでいた。彼の声の合間を縫って、機械音によるアナウンスと、人々のさざめきが聞こえてくる。
まもなく一番線に電車が参ります、白線の内側にまでお下がり下さい……――
「駅に、いるのかい?」
ああ、と肯定する仁武の声が、一際大きく聞こえる。おそらく、到着した電車の騒音に負けまいとして声を張り上げているのだろう。
「そちらには時間通りに着くだろう。待ち合わせ場所は銀の鈴で、変更はないな?」
「ん、……」
頷きかけ、けれど玖苑は、慌てて口を開いた。
「ねぇ、仁武……やっぱり、キミは付いてこなくてもいいよ。忙しいんだろ?」
受話口の向こうで、ゴーッという音がした。電車が到着したのだろう、背後の喧騒が、より一層賑やかになる。それでも、はぁ、という仁武の深い溜息は玖苑の耳にしっかりと届いた。
「お前なぁ、……今更、そういうわけにもいかないだろ」
――そうだね。
来るなと言ったところで、はいそうですか、じゃあ気を付けて……とならないのが鐡仁武という男である。予想通りの答えが一字一句違えずに返ってきたにも関わらず、玖苑はつい、頬を緩めてしまう。
「それじゃあ、また連絡する」
それ以上の問答を許さぬように、通話はぷつりと途絶えた。最早物言わぬ薄い板をしばし眺めた後、玖苑はそれをぽいと寝台に放り投げた。同時に、自身もぱたりと仰向けに倒れ込む。
東京駅の駅舎内であるのに、部屋は静かだった。ターミナル駅特有の人波も、騒々しさも、廊下を歩く足音も、話し声も、果ては列車の音ですら、ここには至らない。世界からこの場所だけが切り取られたかのように、しんと静まり返っている。
流石は、大正時代から続く老舗のホテルである。ホスピタリティも申し分ない。
……けれど。
ほうっと溜息を吐く微かな音ですら、辺りに響き渡るような感覚。自分が今、ひとりきりであるという事実と現実を、じわじわと実感し始めた、……そのときだった。
キンコン。
メッセージアプリが、軽やかに着信を告げる。仁武からだ。
『そこの朝食はなかなか評判が良いらしい。国内のランキングでもだいたい上位だ。朝食付きのプランにしてあるから、楽しんでくれ』
さっきまで通話していたのに、何故メッセージ……としばらく考えてから、そうか、電車に乗ったからだと気付いた。通勤ラッシュにはやや早いが、いつでもどこでも人で溢れているのが東京の常だ。満載の乗客に揉まれながらも必死にメッセージを打っている仁武の真面目さに、玖苑は思わず苦笑する。
さてどう返信しようか。
本当は『キミと一緒に楽しみたかった』とでも返してやりたかったが、何だか気が削がれた。無難なところで、後で朝食の写真でも送ってやるかと、トーク履歴を眺めていると。
『一緒にいてやれなくて、悪いな』
その文章と共に送られてきたスタンプは、モルモットを模した愛らしいキャラクターが何度も頭を下げているもの。玖苑は目を丸くし、それから、ふっと小さく噴き出した。
全く、こういうところも実に仁武らしい。強面の割に、可愛いものが好きなのだ。
『気にしないで。キミの分まで楽しむことにするよ』
既読はすぐに付いた。それを確認して、玖苑は再度携帯電話を放った。身体を起こし、天井へ向け両手を突き上げる。それから、一拍おいて立ち上がった。
カーテンを開けると、朝日が眩しかった。
六時台とはいえ五月も半ば、既に日は昇っている。鮮やかに晴れ上がった空は高く青く、低層には薄雲が広がっている。丸の内側に位置するこの部屋からは、駅舎前の広場の向こうに、鮮やかな新緑に囲まれた皇居を臨んだ。人も車も、今の時間帯であれば、都心とは思えぬほどにまばらだ。もう少しすれば、会社に向かう人たちの群が続々と駅舎に吸い込まれていくのだろう。
そういえば、この景観の美しさも売りのひとつなのだと仁武が言っていた。玖苑はしばらく景色を眺めた後、くるりと踵を返した。先ほど放り投げた携帯電話を持ってきて、硝子越しにパシャリと一枚撮影する。
仁武も、ここからの眺望を楽しみにしていたに違いない。後で朝食の写真と一緒に送っておこう。
「さて、……じゃあ、その噂の朝食とやらを拝みに行こうかな」
物言わぬ携帯電話に向けて宣言し、朝の支度を手短に済ませた後、玖苑は、最低限の手荷物と共に部屋を出る。
朝食会場とされるゲストラウンジ『アトリウム』は、駅舎の中央最上階のちょうど屋根裏に位置する。
スタッフは中央付近の席に案内してくれた。ちょうど会場をぐるりと見渡せる場所だ。さて、何から頂こうか。目移りするほどにずらりと並んだ料理たちを眺めつつ、玖苑は考え込んだ。
「うわー、凄いね、どれも美味しそうで迷っちゃう」
「ねぇねぇ、混まないうちにシェフのオムレツ、行っておこうよ」
「さんせーい!」
近くを通りかかった若い女性がふたり、きゃいきゃいと盛り上がりながらカウンターの方へと歩いていく。その姿を目だけで見送り、ふと、思い至った。
そうだ。仁武も言っていた。ここの朝食は、ライブキッチンでシェフが作る卵料理が一番人気なのだと。厳選素材を選りすぐったという多種多様の料理も気になるが、親友がそこまで力説するのなら、まず、それから味わってみなければ。
――後で仁武に、味の感想を求められそうだしね。
玖苑は立ち上がると、先ほどの若い女性たちの後を追い、奥のカウンターへと向かった。
件の卵料理とやらは二種類あり、順番を待つ間にかなり悩んだが、他ではあまり見たことのない、トリュフ入りフランスソルト添えオムレツとやらを選んだ。
シェフは手際よく、丁寧にオムレツを仕上げ、提供してくれた。鮮やかな黄色と整った形は、食品サンプルと見紛うほどに美しかった。温かな湯気と共に、バターの香ばしい匂いが鼻先を過ぎる。食欲をそそる良い香りに、途端に空腹を実感する。
――オムレツ、……か。
――そういえば、母が昔、よく作ってくれたっけ……。
母が作るオムレツは、円形で分厚く、沢山の野菜が入った彩りの良いものだ。ケーキのように切り分け、たっぷりとケチャップを掛けていただく。母の得意料理は沢山あるけれど、中でも、この具沢山の平たいオムレツが玖苑は好きだった。
――もう、……味わうこともないのだけれど。
小さな溜息と憂いは、会場の微かなさざめきに紛れる。
他にも気になるものはあったが、まずは出来たてのこれを味わっておこうと、オムレツだけを連れ席に着いた。食前のお祈りを済ませ、フォークを入れようとしてはたと気付き、携帯電話で一枚、パシャリと撮影した。
『これから、仁武のお勧めをいただくよ』
ついでに、先ほど撮った部屋からの眺望も送っておく。
『本当にいい部屋を有り難う。今度は、是非、キミと一緒に――』
手の中の画面に目を遣った仁武は、ふっとそこで頬を緩めた。
ちょうど朝食の時間なのだろう。玖苑から次々と送られてくる写真は、料理を大写しにしたものが殆どだ。まずは綺麗な形のオムレツが先陣を切った。ややあって、色鮮やかな野菜が盛られたサラダ。小鉢に入った種々の惣菜にはご飯と豚汁が付き、後ろには盆に載りきれなかったであろうオードブルの皿が見える。牛のステーキだろうか、油の滲んだ断面が実に食欲をそそる。
電車に乗る前、コンビニのおにぎりを急いで掻っ込んだ自分とは大違いだ。仁武は苦笑し、美味そうだな、楽しそうで何よりだ、と画面に指を滑らせて、
「……ん?」
ぽん、と唐突に送られてきたのは、とある風景の写真であった。
どうやらホテルの部屋から写したものらしい。遠景に新緑を臨み、アシンメトリーに配置された道路や街路樹が、よく出来た絵画のようだ。人も車もまばらで、そこが都心であること、しかも東京の一等地であることを一瞬忘れそうになる。
『本当にいい部屋を有り難う。今度は、是非、キミと一緒にこの景色を楽しみたいと思うよ』
玖苑のそんなコメントが付き、それきり、トーク画面は黙り込んだ。仁武はひとつ息を吐き、打っていたメッセージを一旦全て削除した。画面から目を離し、携帯電話をぱたりと伏せる。
……本来であれば。
本来であれば、自分もあの場にいたのだ。そのつもりでホテルも予約したのだし、準備だって済ませていたのだから。……だけど。
昨夜、待ち合わせの駅へ向かう途中、仕事用の携帯電話に飛び込んできたのは、自分の噛んでいるプロジェクトに不具合が生じたとの連絡だった。責任者は音信不通、顧客がカンカンで、頼れるのはもう鐡先輩しかいないと部下が泣きついてきたのだ。
――まぁ、そんなことだろうと思った。
電話口で聞かれた玖苑の声は、失望と呆れとがない交ぜになっていた。何を伝えても言い訳にしかならないと思った仁武は、ただひたすらに謝り倒した。すまない、必ず埋め合わせはする、そう何度も繰り返した。
――別にいいよ。キミの大事なお仕事とやらに、ボクが勝てたことなんて今の一度もないわけだしね。
仁武は唸った。事実そうなのだから何も言えない。拗ねたように、玖苑は続ける。
――ねぇ、仁武。そこまで忙しいのなら、わざわざ付いてこなくてもいいよ。お仕事に専念すればいいだろ。いつも通り、ボクのことなんて放っておいてさ。
――そんなこと、……。
出来ない。出来るはずがない。仁武は短く息を吸い、静かに受話器を握った。
――……例え仕事がどうにもならなくとも、フランスには、お前と共に行くつもりだ。それは、何よりも優先される事項だから。
でも、と玖苑が言ったようだが構わなかった。遮るようにして言葉を続けた。
――待ち合わせは明朝、東京駅地下街にある銀の鈴の前でいいな。……それじゃあ、また連絡する。
ガタン、と車体が一度大きく震え、電車が停止する。
はっと物思いから醒めた仁武は、停車駅を確認した。まだ降りるべき場所ではない。車両の自動ドアが開き、ホームにいた沢山の乗客たちが、さざめきと共に乗り込んでくる。
人波が一段落した頃、手の中で、ぶるりと携帯が身悶えた。はて、また玖苑が何か送ってきたのかと画面を返したが、着信したのは、ニュースサイトのお知らせのようだった。芸能人の熱愛スクープやら、来月公開の映画のインタビューやら、近日オープンのテーマパークの特集やら、よくもまあ連日話題に事欠かないものだ。半ば呆れつつも情報を辿っていた仁武の指が、サイトを閉じる前にひたりと止まった。
太陽フレアの連続観測。通信障害を引き起こす磁気嵐とオーロラの可能性――
それは、先ほど更新されたばかりの記事だった。
曰く、――現在、太陽表面の異常な爆発である「太陽フレア」が連続で観測されており、今後、通信障害を引き起こす「磁気嵐」の発生が警戒されている。GPSの位置情報や無線通信などに通信障害が発生する恐れがあり、最悪の場合、携帯電話が断続的に繋がらなくなるなどの被害が想定される。また、巨大な磁気嵐の影響で、普段は見られない地域、例えばフランスやドイツなどでもオーロラが観測される可能性がある。
『玖苑、朗報だ』
仁武はメッセージアプリを開き、先ほどのニュースサイトの記事を貼り付ける。
『もしかしたら、フランス滞在中にオーロラが見られるかもしれない』
既読は意外と早く付いた。食事が終わってくつろいでいるのだろうか。それか、トーク画面を開きっぱなしにしているのかもしれない。
ややあって送られてきたのは、モルモットのような愛らしいキャラクターが、真っ赤なハートを抱えているスタンプだった。満面の笑みが、一瞬、玖苑のそれと被った。
『それは楽しみだね』
滑るように、電車はホームを離れた。慣性の法則に則って、立っている乗客たちが吊革に掴まったまま同一に揺れる。密集する人々の隙間から僅かに見える景色が、ゆっくりと、しかし徐々に速度を上げて後方へと流れていく。
「次は、池袋……池袋。終点です。お手回り品にお忘れ物のないよう、お支度下さい」
池袋。東京駅までは、多めに見積もって三十分ほどか。ちらと腕時計に目を走らせ時間を逆算するが、幾つか電車を見送っても、待ち合わせには十分に間に合うと確信する。
『そろそろ、池袋に着く』
メッセージを送信するとパッと既読が付いた。もしかしたら何か返信しようとしているのかもしれないが、仁武は待たなかった。
『待ち合わせは時間通りで構わない。ゆっくりしていてくれ』
それだけを送りつけ、携帯電話をバッグに入れ込む。
電車が駅に到着すると、待ちかねたように、圧縮された乗客が吐き出された。仁武もその中の一員となり、邪魔にならぬようにとスーツケースを寄せつつ、階段を下って改札を通った。賑わう駅構内を抜け、更に、地下鉄丸ノ内線の乗り場へと潜る。
目的の電車に乗り込むと、ドアと座席の隙間にスーツケースを嵌めてひと息吐き、改めて携帯電話を確認する。玖苑からの返信はなく、新着は広告やスパムメールばかりで、仁武は苦笑しつつも携帯を仕舞い、代わりに読みさしの旅行雑誌を取り出した。カラフルな表紙にはフランス・パリの文字。エッフェル塔を中心に、凱旋門やらモン・サン・ミッシェルやらの写真が踊る。いかにも女性受けしそうな、賑やかな、楽しげな雰囲気で。
車内はあっという間に満載になり、僅かな軋みを響かせて、電車は駅を発った。ゴーッという地下鉄独特の音が車内に満ち、仁武は、何とはなしに雑誌のページをはぐる。
玖苑とは、……
フランスに着いたら何処へ行こうとか、何をしようとか、詳しい話は一切していない。そもそもが観光目的ではないのだから、こんな雑誌も意味がないかもしれない。重要なのは自分が同行するということだ。彼をひとりにしてはいけない、するべきではないと強く感じたから。
ただ、それでも、目的地について完全に無知でもまずいだろうと、仁武は半ば義務的に雑誌に目を通していく。
そうやって何気なくめくっていたページは、不意に、モン・サン・ミッシェルの特集で留まる。空に突き上げる尖塔を擁した修道院は、満潮ともなると全体が海に囲まれるという。澄み渡る青空を背景として映り込む画は、世界遺産の名に相応しい荘厳さである。
――母と、故郷に帰ろうと思っているんだ。
玖苑の声が蘇った。普段の彼からは微塵も想像出来ない、覇気のない声が。
――ずっと帰りたがっていたからね。……今しかないんだ、母の魂が天に還る前に。
「次は東京です。JR線はお乗り換えです……」
隣にいるスーツ姿の乗客、つり革にぶら下がった若者たち。それぞれがそれぞれに降車準備を開始したので、仁武もそれに倣い、雑誌を仕舞い手荷物を纏めてスーツケースを引き寄せる。
そうして降り立った東京駅は、相変わらず、見渡す限りの人の群であった。
あちこちから聞こえるのは様々な言語で、売り子の声やアナウンスのまにまに、幾つもの足音が混ざる。空調が効いているはずだが、この人波のせいで何となく蒸し暑く感じる。仁武は極力自分の直ぐ近くでスーツケースを引き、時折滲む汗を拭いながら、一路、待ち合わせ場所である銀の鈴を目指す。
『東京駅に着いた。今から、銀の鈴へ向かう』
メッセージを送りがてら時間を確認する。経路は何回か確認したが、それでも、この人混みでは無事に辿り着けるのか、いささか心配になる。ターミナル駅になどなかなか出向かないので尚更だ。
『お疲れ様』即座に返信が表示される。『それじゃあ、ボクもホテルを出ようかな』
仁武は頷き、携帯電話をジャケットのポケットに突っ込んだ。
銀の鈴は商業施設の目の前、八重洲地下中央口改札の傍にある。新幹線の乗り場も近く、休憩できるベンチスペースも用意され、待ち合わせ場所には申し分ない。硝子ケースの中に入れられ派手にライトアップされた姿は、今も昔も、分かりやすい目印として重宝されている。
仁武がそこに到着した頃は、既に、銀の鈴の周囲に数人がたむろしていた。指定した時間にはやや早いものの、もしかして先に着いていたらと通りすがりに彼らの顔を確認するが、どれも待ち人のそれではなかった。
ひとつ息を吐いて、仁武は、銀の鈴のちょうど真横に並んだ。携帯電話にちらりと目を走らせるが新着はない。まぁ、時間にはややルーズな玖苑のことだ、恐らく多少は遅れてくるだろうと、高を括ったときだった。
「やぁ、仁武!」快活な声が、耳を過ぎった。「待たせたね!」
ハッと顔を上げると、その先に、颯爽と歩いてくる青年を視認する。肩口で垂れた亜麻色の三つ編みが、楽しげに揺れている。傍らに控えるスーツケースは、三泊四日の海外旅行にしてはやけに大きい。
「お早う、玖苑。随分早いな。ゆっくり出来たようで、何よりだ」
仁武が片手を挙げると、青年――舎利弗玖苑は仁武の直ぐ傍で足を止めた。
「まぁ、誰かさんが突然キャンセルなんてしてくれたおかげで、部屋もベッドも広々と使えたからね」肩を竦めつつ、視線は真っ直ぐに仁武を見る。「朝食も、とっても美味しかったよ。流石はランキング上位だ。誰かさんにも、味わわせてあげたかった」
「すまなかった。でも、……これからはずっと一緒にいられる」
「そうだね。お仕事とやらは、フランスまでは追い掛けてこられないしね」
「……悪かったよ」
素直に謝ると、彼は晴れやかに笑った。多少根に持ってはいても、謝罪を素直に聞き入れてくれるのは玖苑の良いところだ。次の瞬間には、けろっとした様子で、「さて、それじゃあボクたちの旅を始めようか!」と張り切って歩き出しているのだから。
仁武は、溜息を吐いた。先を往く玖苑の後をゆっくりと追い掛ける。その背を人混みに見失うことのないよう、けれど必要以上に近付きすぎないように。
***
玖苑の母が亡くなったのは、五月初めの頃のことだ。
新緑が目に眩しく、薫風は心地よく、世間がゴールデンウィークに浮かれきっている頃、彼の母親はその短い生涯を終えた。
玖苑をして「女神アフロディーテが嫉妬するほどに美しい」と言わしめるほど、彼の母親は実年齢よりもずっと若く、綺麗で、快活な人だったという。年の離れた姉弟、あるいは恋人に間違われるのも日常茶飯事らしい。玖苑にとって自慢の母親だったようで、何かに付け話題に上った。だから、実際に会ったのは数えるほどであるのに、彼女のことはよく知っていた。
――母が今し方、息を引き取ったよ。最期はさほど苦しまなかったようで、安らかな顔をしている。
報せは唐突だった。受話口の向こう、玖苑は淡々としていた。
確かに、冬の終わり頃から、体調を崩して入院しているとは聞いていた。だが、まさか亡くなってしまったとは……。仁武は愕然とした。
――葬儀の日程は決まり次第連絡する。それじゃあ、……。
けれど仁武は、玖苑の声の違和感に我に返った。だから切られる前に慌てて、玖苑、待て、と彼を制止した。
――……大丈夫か?
――……。
沈黙は長かった。通話が打ち切られてしまったのではと焦ったほどだった。だからもう一度呼び掛けようと口を開いた矢先に、小さく、けれど長々と、吐息の音がした。
肺の中の空気を、すっかり吐き出すかのようだった。
――……大丈夫なわけ、……ないだろ……。
掠れた語尾は、すぐに嗚咽に塗れた。泣いているのだと気付き、ずきりと胸が軋み、仁武は思わず言葉をねじ込んだ。
――今すぐそちらに向かう。玖苑、気をしっかり持てよ。今、どこにいる?
場所を聞き取った後、直ちにタクシーを飛ばした。薄暗い霊安室で再会した玖苑は意気消沈し、ひどく憔悴しているように見えた。玖苑の父親は彼が物心が付く前に亡くなっており、他の親族は誰も連絡先が分からない。なので玖苑は、母親が眠るベッドの傍で、ぽつんと座っていた。茫然自失といった面持ちだった。
仁武はふと、昔のことを思い出す。
今から六年ほど前、仁武もまた、幼馴染みを亡くした。事故だった。突然のことで頭が追い付かず、失意の中に在った仁武に、玖苑はあっけらかんとこう言ってのけたのだ。
大丈夫だよ、仁武。これからはこのボクが、キミの親友になってあげよう! ……と。
むちゃくちゃな物言いは、けれど、そのとき確かに仁武を救った。だから仁武は、もし今後玖苑が困るようなことがあるのなら、出来る限り力になりたいと思っていたのだ。
――フランスに、……母さんの故郷に帰ろうと思うんだ。
通夜の席で、ぽつりと、玖苑は零す。あの頃とは違う、落ち着いた口調で。
仁武は黙って、静かに玖苑を見守る。俯き、亜麻色の前髪がすだれのように覆う表情は、全くもって見通せなかった。
――この世のしがらみから解き放たれて、母さんは今、自由なんだ。だったら、母さんの魂がこの世界に留まっている間に、彼女を連れ、故郷へ帰ろうと思って、……。
「……それで、旅程は決まったのか?」
仁武の問い掛けに、玖苑は頬杖を突いたまま目だけを上げた。卓の上に広げてある雑誌は仁武が貸し出したものだが、そのページは先ほどから一向に動いていない。早々に飽きてしまったのか、それともじっくり眺めていたのか、仁武を捕らえてパチパチと瞬く蛍石の瞳からは分からないけれど。
「いいや、何も」
玖苑はふるりと頭を振り、ラテを一気に飲み干した。グラスの中の氷が、カランと乾いた音を立てた。
「でも、まぁ、問題はないよ。このボクが一緒なんだから、大船に乗った気持ちでいなよ」
「……あのな」仁武は溜息で応えた。「一応、これから異国に行くんだぞ?」
「キミにとっては異国だろうけど、ボクにとっては故郷だよ。どこもかしこも馴染みの土地であるのに、何が心配だって言うんだい」
「そうだけどなぁ、……」
ふたりの目の前には滑走路が広がっていた。大きな硝子窓の向こう、航空機が轟音を上げて滑走路を横切ると、その様子を食い入るように見つめていた親子連れが、わぁっと微かな歓声を上げた。
出国審査は意外と早く終わった。平日の午前中というのもあるだろう。そのためふたりは搭乗口から最も近い、空港内にあるラウンジに来ていた。昼に近い時間帯のため割と混雑していて、座れる場所を探すにも一苦労だ。大きく開かれた窓の傍、滑走路を臨む場所に空席を見つけ、ようやく腰を落ち着けた。
「母の故郷は、景色が綺麗なところさ。豊かな自然と気の良い人々。目の前にはとうとうと流れる大きな川があって、遙か向こうにエッフェル塔を臨むんだ」
謳うように、玖苑は言う。その指が、それ以上開かれることはない雑誌のページを辿る。
「春になれば花々が咲き誇り、どこもかしこも、絵画のように整っているんだ。ボクの母が美しいのは勿論だけれど、母さんの美しさがより輝くような、見事な眺望なんだよ」
そのページには、パリ郊外の街が特集されていた。旅行雑誌ということもあり、載せられている写真は観光施設を紹介したものが多く、周囲の景色はほんの僅かしか映っていない。だが、そのどれもが、玖苑の言うような見事な眺望を切り取っている。実地ではどうなのだろうと、どれほど素晴らしいのだろうと、期待を抱かせるほどに。
「まぁ、……お前の故郷の話はよく分かった。けどな」仁武は溜息と共に玖苑を見た。「具体的にフランスの何処なんだ?」
玖苑は、けれど、何度かその目を瞬いた。ややあって、にこっと笑う。
「そんな細かいことを気にしなくたって、何とかなるよ。何せ、このボクがいるんだからね!」
「おいおい……」
終始この調子であった。
フランス行きの話が出たときに、彼の母親は一体どこに住んでいたのか、何度も玖苑に確認した。だが、毎回このような感じで要領を得ず、一応、調べておいた方がいいとは言っておいたものの、強く言い含めることは出来なかった。
母の過去を調べることは、母を思い返すことにも繋がる。母親を喪ったばかりの玖苑に、無理強いはしたくない。
――まぁ、当人が納得しているならそれでいいが……。
玖苑が手洗いに立ったタイミングで、仁武は、上着のポケットから携帯電話を取りだした。何とはなしに新着情報を確認しているとメールが届いていることに気付く。新商品のお知らせか、それとも企画の販促キャンペーンか、どうせ大した内容じゃないだろうとタイトルを確認した仁武の指が、削除ボタンに伸びる前にひたと止まった。
『捜しものは見つかっただろうか?』
普段であれば即、消してしまうものだ。中身さえも検めなかったかもしれない。
けれど仁武は消さなかった。消せなかったのだ。
――捜しもの……?
思い当たる節など当然ない。なのに、その短い文言から目が離せない。
――一体、何のことだ……?
「仁武」
呼び掛けられ、顔を上げた。視線を巡らせればその先に玖苑がいる。怪訝そうな顔をしている。
「どうしたんだい、ぼうっとして」
「あ、……」
目の前にラウンジの風景が映る。沢山の人で賑わっている。食器が触れ合う音、人々の話し声、微かに聞こえる管弦楽。晴れた空に向かい、ジェット機が飛んでいく……。
そうだ。仁武は思う。そうだ、ここは結倭ノ国ではない。東京であって、俺たちの知る燈京ではない。あぁそうだ、俺はここに、確かに、誰かを捜しに――
誰か。
……誰か?
「仁武!」
「……ッ!」
仁武は、ハッと目を見張った。今度こそ、我に返った。
玖苑は眉をひそめている。腰を屈めてこちらをじっと覗き込んでいる。その肩口から、緩く編まれた三つ編みがぱさりと流れ込む。
「……大丈夫かい?」
ああ、と応えようとするが言葉にならなかった。だから曖昧に、笑って頷いた。玖苑はそれでも、しばらくは眉根に皺を寄せていたが。
「お疲れなんだね」ふぅっと息を吐き、やおら身を起こした。「お仕事とやらに、かまけているからさ」
「あぁ、……」
そうなのかもしれない。自覚している以上に、疲労が溜まっているのかもしれない……。
後頭部を掻き、仁武は苦笑した。玖苑もまた苦笑を返し、踵を返す。
「ほら、そろそろ案内が始まるよ。搭乗口へ急ごうじゃないか」
「そう、だな……」
さっさと歩き出す玖苑を追い、仁武もまた席を立つ。玖苑を見失わぬよう、その後ろ姿を視界に入れつつも、手の中にある携帯電話にちらと目を走らせる。
けれど。
「うん……?」
確かに開きっぱなしになっていたはずのメールは、何処にも無かった。
ただひどい文字化けで解読不可能になった文面だけが、ぽつんと画面に残っているだけで。
***
――母さん、見えるかい。そろそろ、ボクらの故郷に到着するよ。
一面の雲海を見下ろしながら、玖苑は首元に下がったペンダントヘッドを静かに握った。
四つ葉の形の蛍石が嵌め込まれた小さなロケットには、母の遺影が入っている。保存してある母の写真はどれも素敵なものばかりだったが、中でも最も気に入っているものを現像し切り抜いた。健常であった頃の笑顔はとびきり眩しく、また、美しい。
羽田空港を定刻で発ったボーイング機は、一路、シャルル・ド・ゴール空港を目指している。現在の航路は予定の半分ほど、上空の気流も比較的落ち着いているようで、このまま順調に進んだなら夕方頃には現地に到着する予定だ。
ちら、と隣に視線を遣れば、仁武は、先ほどから旅行雑誌を読んでいる。フランス・パリの文字が躍る、カラフルな表紙のもの。写真をふんだんに使い、いかにも楽しげな雰囲気を演出しており、恐らく若い女性がターゲットなのだろうと察する。
「……玖苑?」
呼ばれ、はっと目を上げると、仁武がこちらを見ている。憂うような、気遣うような、何とも言えない表情。玖苑は、誤魔化すようにして笑い、掌を振る。
「ごめん、何でもないよ」
――心配を掛けている。
それはこの旅の始まり、あるいは、……この旅を計画したときから感じていたことだ。
たったひとりきりの肉親の死から、それほど時間も経っていない。それなのに急にフランスへ帰るなどと言い出したものだから、聞いてしまった手前、放っておけなくなったのだろうと玖苑は思っている。彼は本当に優しい。大家族の長男であるからか、弟妹の面倒を見るかのように、こちらのことも逐一気に掛けてくれる。
玖苑は、そんな仁武をとても気に入っていた。どれだけ我が儘を言おうとも、悪態を吐きつつ何だかんだで付き合ってくれる、真面目で義理堅い男なのだ。
――だからもう、これ以上は、……
「なら、いいが……」
仁武は微笑し、また雑誌に視線を戻す。飛行機の微かな揺れに、ホルダーに置かれた紙コップがカタカタと鳴いて、水面に細波が立った。
機内食の提供と片付けが終わり、フライトアテンダントらも早々に各々の業務に戻っている。もう少しすれば客室は薄暗くなり乗客は寝に入るのだろう。時差ぼけ予防には機内での休息は必要不可欠だ。フランスに付いたとて体調不良で動けないのでは困る。
備え付けのモニターをいじっていた玖苑は、ふぅ、とひとつ息を吐いた。そうして窓のシェードを下ろし座席を軽く倒す。ストールを肌掛け代わりに肩まで被り、ごろりと横を向く。
「もう寝るのか?」
仁武が言った。弟妹にでも話し掛けているような、優しい声だった。
「うん、……向こうで眠くなっても仕方ないしね」
「そうか。おやすみ」
おやすみ、と応えた言葉は、相手に聞こえたかどうかまでは分からない。客室に響く轟音は、玖苑の微かな呟きなど簡単に掻き消してしまう。
……けれど。
アームレストに置いた手に、温かな感覚が重なった。そっと包み込んでくるような感触だった。玖苑は思わず目を開け、仁武を見る。仁武は雑誌に目線を落としたままで、玖苑が息を凝らして見つめていることなど気付きもしない。
でも、手は繋がっている。ふたり分の体温が重なっている。
久しぶりの人の温度だ。母の手からゆっくりと喪われ、二度と戻らなかった体温が、仁武を経てもう一度、自分の手に蘇ったかのような……――
不意に鼻の奥がツンと痛み、玖苑は慌てて顔を背ける。
こんなところで涙を零すわけにはいかない。仁武に心配されてしまう。
それでも。
――母さん。
ストールに顔を埋めるようにして、玖苑は静かに泣いた。
どれだけ経っただろうか。
何となくの重苦しさに、玖苑はうっすらと瞼を引き上げる。照明は全て落とされ、窓から入り込む月光だけが照らす世界は薄青い。天井に備え付けられた荷物棚や、座席の影ばかりが影絵のように浮かび上がっている。
気圧の関係だろうか。それとも、機内が乾燥しているせいだろうか。意識的に肺を膨らまさなければ、呼吸がしづらくなるような嫌な感覚。重たい身体をゆっくりと起こすと、肌掛けにしていたストールがするりと滑り落ちる。
「……うん……?」
はらりと衣擦れの音が響いて、それで気付いた。
周囲が妙に静かだ。しんと静まり返っている。機内の轟音すら、黙り込んでいる。
これは一体どういうことか。玖苑は何気なく左隣を向いて、……
「あれ、……仁武?」
いない。
手洗いにでも行っているのだろうか。彼の座席には、外されたシートベルトだけがぽつねんと残っている。ただ、静寂に包まれた客室は人の気配がまるで感ぜられず、玖苑はおもむろにその場に立ち上がる。そうして回りを見渡し、あ……、と小さく息を呑む。
誰もいない。……誰も。
あれだけの乗客で埋まっていたはずの座席は、どこもかしこも空っぽだった。鞄や靴、パンフレットや飲みかけの飲料ばかりが座席に置き去りにされているが、はてその主はと視線を巡らせたとてなかなか行き当たらない。それは玖苑の回りばかりではなく、遥か前方に至るまで同様であった。本来であれば座席の上に見える人の頭の先端が、どこにもないのだ。
ぞっと背筋が冷えた。得体の知れない暗闇に、自分だけが放り込まれた気分だった。明かりさえも見えない真っ暗な海に、唐突に放り出されたような、……
「仁武……?」
小さく親友の名を呟き、ふらりと通路にまろび出る。それでも、世界は黙ったまま。
「仁武ッ……!」
不安と焦燥に駆られ、玖苑は思わず通路を走る。空っぽの客席ばかりがいくつも両脇を行き過ぎる。誰もいない。どこにもいない。気ばかりが急いて、呼吸が切迫する。バタバタと忙しない足音だけが周囲に響いた。
機内は静かだ。どこまでも静かだ。玖苑が知らぬうちにどこかの空港に到着し、玖苑だけを取り残して基地へと戻ってしまったように、エンジンの駆動音さえも聞こえてこない。
一体どうしたのか。
何があったのか。
仁武は、皆は、そもそもどこへ行ってしまったのか。
取り留めのない疑問は次から次へと湧いて、玖苑を混乱させる。答えなど出ようもないので尚更だった。
「ッ……!」
足がもつれ、転びそうになり、そこで玖苑は漸く足を止めた。息を切らせ、しばらく、喘ぐような呼吸を繰り返した。額に滲んだ汗をぐいと拭い、顔を上げたところでハッとする。
誰かがいる。
ずらりと、どこまでも続くかの如く並んだ座席から、見覚えのある赤銅色の頭が見える。空調の風に髪の先端がふわふわと揺れている。
「仁武ッ……!」
呼び掛け、駆け寄り、覗き込む。けれど次の瞬間、玖苑は息を呑み、後ずさる。
それは確かに親友であった。鐡仁武、その人であった。
ただ、彼は動かなかった。ぴくりとも動かず、座席にぐったりともたれ掛かっていた。顔は陶磁器のように白く、瞳は閉じられ、口の端には血の泡がこびりついている。既に息絶えているのは、誰の目から見ても明らかだった。
彼の身体の前面には、鋭利な刃物で袈裟斬りにされたような跡があった。傷口は深く、衣類は真っ赤に染まり、溢れた分はぽたぽたと床に垂れ落ちる。決して助からない出血量だ。鉄錆の濃い匂いが鼻を突く。
「なん、で……?」
玖苑は呟く。呆然と、目の前を見遣ったまま。
「どうして、……仁武が、……」
糸が切れたようにその場にへたり込む。その前で、仁武の遺骸が目映い光を放つ。
玖苑は知っている。最終賦活処置を受けた純の志献官は、死後、結びついた元素に還ることを。それは鉄の志献官であった仁武も同様で……――
視界を灼く光が収まった後、ざぁっと粒子が散った。彼らは肉体を現世に残さず、残るのは存在した痕跡のみだ。例えば、真っ赤に濡れた座席と、床に広がった血溜まりのような。
――どうして、……
――どうして皆、ボクを置いていくんだ……。
――母さんも、……仁武も、皆……ボクばかりを置いて……。
玖苑はひとり項垂れる。身体中の力が抜け動くことさえままならない。……否、動く気力すら沸かずに座り込んだまま。
――嫌だ……
――ひとりにしないで、……
――もう、誰かを喪うのは、……
「――……ッ」
冷水でも浴びたかのように、玖苑はその場で跳ね起きた。背中に嫌な汗を掻いている。
呼吸が乱れ、目を醒ましても尚、悪夢の残滓が鼓動を轟かせる。心臓の辺りを漂う嫌な感覚に胸を押さえ、それを散らせようとして意識的な深呼吸を繰り返した。
ふと顔を上げたなら、そこは、先ほどまでの機内である。夜は明けたようで、柔らかな陽光が窓から差し込んでいる。轟音は客室に満ち、座席と座席の間の通路を、フライトアテンダントらが慌ただしく歩き回っている。到着は間近のようだ。
「玖苑、……?」
覚えのある声が名を呼んだ。玖苑が声の方を向くと、仁武と視線がかち合った。
蘇芳の瞳は怪訝そうに、けれど心配そうに、玖苑を見つめている。
「大丈夫か? 随分とうなされていたが、……」
「あ、あぁ……」応えて、玖苑は笑った。眉尻を下げ、困ったように。「大丈夫さ。……その、ちょっと夢見が悪くてね」
誤魔化そうと思えばいくらでも言い訳が出来たのだが、玖苑は敢えてそれをしなかった。そうしたところで仁武の心配げな表情が晴れることはないと、分かっていたから。
「そうか、……」
なので、仁武が先を続けようと口を開いたところで、わざとらしく伸びをして遮った。欠伸をかみ殺す振りをしながら「はぁ、それにしてもお腹が空いたな」と続ける。「もうすぐ二回目の機内食が出てくるんだよね。内容が何か、楽しみだなぁ……仁武もそうだろ?」
「……」
仁武は鼻の頭を掻き、苦笑しつつも頷いた。その後何かを呟いたようだが、機内の騒音に紛れ、はっきりと聞き取れなかった。ただ確認しても詮無いと思ったので、玖苑もそれ以上を構わなかった。視線を何気なく、窓の外、一面に広がる雲海の向こうへと投げる。
――あれは、……夢なんだ。
もう一度、胸中に呟く。自分自身に言い含めるように。
――だから、大丈夫だ。……大丈夫なんだ。
――仁武が死ぬわけない。ボクを置いていってしまうなんて、……ない。
――母さんのように、……ボクをひとりにするなんてことは、……。
もうすぐフランスに到着する、ようやく母を故郷へと連れていける……そんな期待で胸をいっぱいにしようとも、胸を覆う暗雲はなかなか晴れない。玖苑はふぅと息を吐き、自身の首に下がった四つ葉のロケットに手を遣った。その冷たい感触を、掌に馴染ませるように、ゆっくりと握り込む。
そんな玖苑を、隣に座った仁武だけが見つめていた。
憂わしげに、眉をひそめたままで。