スターチス お茶が入ったとの声で腰を降ろしたものの、カリムは尻にクッションの質感が感じられていないような、僅かながら宙に浮いているかのような不確かさを味わっていた。
「……ジャミル、」
「砂糖が足りなきゃ自分で足せ」
目の前には湯気の立ちのぼるカップ。彼の部屋で、当たり前のようにお茶を淹れ当たり前のように置いてくれた幼なじみに声をかければ、そっけなくシュガーポットを指先で押しだされる。
そのしなやかな指が、以前と変わらず美しく強い弦を思わせることにカリムは安堵した。
「おう、ありがとな……じゃなくて」
「食後のお茶が欲しそうに見えていたが、違ったか」
「いや、違っちゃいないけど、」
心の中にある言葉を口に出してもいいものか、今の彼には分からないのだ。
ウインターホリデーの帰省を取りやめさせたのは、カリム自身によるお達しだと、熱砂の国はじめ寮生たちの故郷では、今もなお信じられている。
事件が収束して以降も、誰もが熟慮の精神から口を噤んでいるからだ。
アジーム家に由来するいざこざに巻き込まれたと認識した上で、迂闊な言動を危ぶむ熱砂の国出身者だけではない。その意味合いを把握できない、他国出身の寮生も等しく成り行きを見守っている。
希望者にはアジームからの帰省便が手配される運びになったことで、ひとまず溜飲を下げた者もいた。文字通り水に流そうと言わんばかり、行く年を惜しみ来る年を祝う今夜の宴とご馳走も、彼らのご機嫌取りに一役買っていた。
それは、寮生たちの心身に宴の楽しさを覚え込ませたカリムの功績と言えるのかもしれない。オーバーブロット間もないジャミルの体調を慮り、宴の支度に立ち働いてくれた、オクタヴィネルの三人と監督生のお陰でもあった。
(彼らに言わせれば、もはや乗りかかった船、ならば下船する前に貸せる貸しを作れるだけ貸したい下心、ましてや、高級食材をどれだけ消費しても、使えば使うほど満足そうに頼ってくれるスポンサーあってのこと。痛くも痒くもないのだが)
だからカリムは、言っても良いものなのか逡巡している。
彼らが労力を払い休息を与えてくれているこの幼なじみに、己が飲む茶の一杯を淹れさせても良かったのだろうかと。
本来のところ、良いも悪いもないのだ。
宴の盛りも過ぎ、後片付けは任せて身体を休めろと談話室をやんわり追われ、自室に戻れば待ち受けていたかのように茶を淹れ始めたのはジャミルの方なのだから。
しかし今のカリムには、当たり前の顔をしてなされる行為をすんなり受け取ることに、迷いが生まれていた。
この幼なじみを筆頭に、身の回りの世話を任せる使用人達のすることはどれほどでも受け入れ、突っぱねたことなどなかった。快く受け取ることが自身の役割だとすら思っていた。それが、カリム・アルアジームという男である。
そんな態度もまた、ジャミル・バイパーを傷つけてきた原因の一つではないか。
カリムはそう疑っている。
一つ疑い出せば切りもなく、アレも、コレも、ジャミルの好きなようにやらせてきたつもりの何もかもが、自身から見えていた形とは違っていたのではないかと疑われてしようがない。
そして、これまでは言動を躊躇うなんてことをついぞしてこなかったために、躊躇っている自分自身にも戸惑う始末だ。
「おっと、……花火か」
「へ?」
ゆらゆらと香気が立ち昇る紅い水面をぼんやり見ていた紅い瞳は、聞き間違いでもしたのかとカップを離れ、そのさきでジャミルの横顔を捉えた。
間違いではなかったのか、チャコールグレーしたジャミルの瞳は寮長室の窓からスカラビア寮をぐるりと囲む砂の上、さらに上へと向けられている。
ぱん。
続いて聞こえた軽い破裂音。それはカリムに、幼い頃の悪戯を思い起こさせた。
薄っぺらい紙袋を膨らませて叩き潰すだけで、飛び上がるほど侍女が驚くと知ったときの愉快な気持ち。それを教えてくれたジャミルと一緒に笑い転げたこと。
窓の外ではスターチスのようにささやかな火花がぱらぱらと弾けて散っていく。
フロイドの悪戯だろうか、それともグリムか、寮生の誰かか。
あるいは、監督生が住んでいた国の習わしなのかもしれない。とカリムは想像する。先ほど談話室でも、母国では今頃「ソバ」という麺類を食すのだと話してくれていたからだ。
とても花火とは呼べぬほど小さなこの花弁も、異国の風習かと思えば、故郷を遠く離れてこその趣きがあるように感じられた。
またひとつ、ふたつ。
ぱぱん、と破裂音が届く。
赤や緑の小花が、闇に爆ぜる。
いつからかジャミルは、カリムに悪戯を教えることも、一緒に「悪いこと」をすることもなくなった。
それが何故なのかを深く考えることもなく、ただ、大人びていく彼を眩しいように感じていた。変わらぬ「友達」なのだと思い込んでいた。
自身の浅はかさに、カリムは瞼を落とす。手にしたままのカップの中、紅茶の水面に再び映る瞳に、いままで何を見てきたのだと問いかけて。
「冷めるぞ」
同じティーポットから注いだ茶を飲み干した口で、かつての「友達」に窘められる。
ああ、うん、と曖昧に頷きカップのふちにカリムの唇がくっついたとき、聞き漏らしてしまいそうなほど小さな声が口早に、すまなかった、と続いた。
「会って挨拶がしたかっただろう。旦那様や、奥様や、きょうだいたちにも」
濁った音で喉を鳴らしたものの、治らなかったしわがれ声はひどく聞き取りにくい。それでも、口腔から喉へと滑り落ちていく茶の香りと熱につられたかのように、カリムの耳はその音色が直接耳管へと注がれるような錯覚をおぼえていた。
粘膜を洗い、内蔵を温めていくハーブの香味。カリム好みのブレンドだ。
砂糖が足りないなんてことはスプーンの先ほどもない、カリム好みの甘さ。愛用の茶器は持ち手の先まであたためられている。
物理的に触れることなどできない心の内にも届くぬくもりは、言いにくかっただろう言葉達のためにジャミルが整えた水路のようだとカリムは思う。
「ジャミル……」
「ん」
「……オレ、いま、お前がいることが一番嬉しい」
淹れさせてもいいのか、とか。茶の世話などしなくていいんだ、とか。迷っていた言葉よりもっと正直で、しかし口に出してもいいものなのかが最も迷われる気持ちを、カリムは口にした。
自由を求めて叫んだこの男にとっては、嬉しくなどない言葉だろう。
それでも、今ここに自分がいることを、カリムをスカラビアに留めていることを詫びたこの男に、伝えたい気持ちはそれしかなかった。
この瞬間、カリムがこの新年を共に迎えたいのは、ジャミルしかいないのだと。
「……ふん、お人好しが」
「えへへ」
新しい年を迎え入れ終えたと気が済んだのか、気が変わったのか、悪戯者の花火はもう上がらない。
紅い瞳と濃灰色の瞳は同じようにして、ただまっさらな空へと向けられている。
スターチスの花言葉
変わらぬ心・途絶えぬ記憶 他