国の憂い、王の愁い エクバターナの王宮はその長い歴史の中で数々の君主に住まわれてきた。君主が違えば施政の方針も違い、貴族や神官をよく取り立てるもの、あるいは武官に重きを置くもの、さまざまであった。そのなかでもアルスラーンは王宮を広く開放したことで知られている。アルスラーンとて王としての職務があるから長く謁見の間にいることはできないが、真面目な少年王は極力長い時間を割くようにしていた。
いろいろな人物が漏らす陳情をひとつひとつ丁寧に聞いていく。重要なものは傍らの書記官に筆記させる。謁見の間で聞く内容は国の機構としてのことより人心に基づくものが多い。そういったものを放置してはのちのち大きなひずみになるだろうことは明白であるから、アルスラーンとしても怠るわけにはいかなかった。
途中からするりとナルサスが謁見の間に滑り込んできた。目立たないように目で合図をする。ある意味で、だれよりも恐れられている宮廷画家である。わざわざ近くに呼び寄せることもない。
だいたいの謁見客を捌いて一息ついた頃、年若い貴族の一団がアルスラーンの前に進み出た。アルスラーンの健康とパルスの繁栄を言祝ぎ、それぞれ自己紹介をしていく。なんだか若い熱気を感じて、それがアルスラーンへの反感には繋がっていなさそうなことにこっそり安堵した。こんな、誰もが見れるようなところでアルスラーンと貴族階級が諍いを起こしたりなどしたら未だアルスラーンの王位に反感を持つ輩につけこまれかねない。ゆったりと座りなおしながら、何かあったのか、と聞く。
「は。我らのことではないのです。陛下、いつになったら妃を娶るのでございましょうか」
不意打ちに近いそれに目を瞬く。宰相からの小言には慣れて、どうにか躱すことができるようになったが謁見の間では逃げるわけにもいかない。まさかルーシャンが焦れて自分の一族の若者に頼んだのだろうか、とひねくれたことも考えてしまった。
「陛下が王位にお着きになって、パルス国内もやっと地に足ついてまいりました。しかし恒久的な安泰とは言い難く、次代のパルスの為にも妃を娶り御子をもうけていただきたいのです」
幾度も繰り返された文言である。軽く溜息を吐きたくなる。
「そうは言うけれども、わたしはまだ20歳にもなっていないし、子どもはそれからでも遅くはないのではないかな」
「パルス王家には14歳で御子をなされた王もいらっしゃいます。けして早いことはないかと」
「相手がおらぬよ」
「それは陛下が目をお向けにならないからです。一度陛下がお声掛けされれば皆こぞって手をあげましょう」
それは面倒だな、と思ったがアルスラーンは言わなかった。この手の話にはうんざりしていて、どうにか早く終わらせてしまいたい。なのに、続いた青年貴族の言葉がアルスラーンの呼吸を一瞬奪った。
「……誰ぞ、心に決めたお方でも?」
一瞬、黒衣の騎士を思い浮かべ、慌ててその想像を振り払う。今思い出すべきことではない。ダリューンはアルスラーンの枷となることを望まない。
アルスラーンの逡巡をどう思ったか、青年貴族が声を張り上げた。
「陛下、陛下が妃を娶ろうとなさらないのはダリューン卿のせいでございますか」
鋭い声にぴしりと謁見の間の空気が凍る。あるものはおそるおそるアルスラーンの顔を窺い、またあるものは天を仰いだ。べつにダリューンとのことは特に隠し立てをしているわけではない。十六翼将はみな知っているし、少しばかり奥に顔がきく者も知っているだろう。それはいい。だが、不快と反感を感じてゆっくりとアルスラーンが立ち上がった。
「私が結婚しようとしないのは私の意志によってだ。誰にそうしろと言われたわけでもなく、私が決めたのだ。その理由に、一片たりともダリューンは関わっておらぬ」
しかし、と反論しようとした貴族をアルスラーンは許さなかった。
「たしかに、私はダリューンを傍に置いている。だが、それを理由に婚姻せぬと決めたわけではないし、妻を迎えないと決めたからダリューンを寵しているわけでもない。貴公らにとってどうかは知らぬが、私にとって情愛というのは全く打算的なものになりえぬ」
言い終えるや否や、アルスラーンはマントを翻して立ち去ってしまった。
足早に自室に戻る。自室といっても先王時代とは異なりアルスラーンのものは随分と質素だった。やわらかなクッションに身を預け、細く長く息を吐き出す。こつこつと扉が叩かれ、ナルサスが顔を出した。気にかけてくれたのだろうとは思うが、気分が浮かない。しばらく続いた沈黙を破ったのはアルスラーンだった。
「ナルサス、私は嘘をついたやも知れぬ。たしかに私は結婚に関心がないのをダリューンのせいにしようとは思わぬ。けれど、ダリューンに対して誠実でありたいとも思っているし、それは傍から見ればダリューンが私の結婚を阻んでいるとなっても仕方ないのかもしれない」
「心を預けた相手に誠実でありたいと思うのは人として当然のことです。陛下があれをどうしたいかの方が重要であり、言いたいやつには言わせておけばよろしい」
うん、と力なくアルスラーンが頷くのと同時に、控えめに扉を叩く音が響いた。
「陛下、ダリューンにございます。入ってもよろしゅうございますか」
ああ、とアルスラーンが応え、では私はこれで、とナルサスが頭を下げた。すれ違いざまに親友の肩を叩く。
「あとは頼んだ」
「おう」
ダリューンは長剣を佩いてはいるものの平服で気楽な装いである。だが休日であったわけではなく王城で大将軍格としての職務があったことをアルスラーンは知っていた。
「その、ダリューン、仕事は」
「部下に任せてまいりました」
こんな些細なことまで即座に伝わっていく。わが身のままならなさにアルスラーンは溜息をつきたくなった。誰かの手を煩わせるようなことではないのだ。ダリューンが強い視線で何があったのかと問うてくる。言わなければずっとこのままだろうな、と察してアルスラーンは重い口を開いた。仕方なく、自分の懊悩まで含めてすべてを白状する。
「……ナルサスは、人として当然だと言った。私もそう思う。だが、腑に落ちないのだ」
なんとも少年らしい潔癖さであった。この手の矛盾は受け入れるしかないとアルスラーンも気づいているが、どうしようもないのだろう。生真面目なようすに視線が緩む。
「ダリューンは、どう思っている?」
何を、と明確に出さないあたりにアルスラーンの迷いが現れている。言葉を探しつつ、ダリューンは口を開いた。
「陛下がご結婚なさると決められたならば、パルスにとって久方ぶりの慶事、謹んでお喜び申し上げまする」
うん、とアルスラーンが意気消沈しつつ頷く。しかし、とダリューンは続けた。
「私は不忠者ゆえ、とうてい花嫁探しに熱心にはなれませぬ」
「……おぬしでもか?」
ぱちり、とアルスラーンが目を瞬く。はい、と返すとそうか、と頷く。そのまま何度か頷きを繰り返すうちにふふ、とアルスラーンが笑みを零した。
「ダリューン、こちらへ来てくれ」
上機嫌な手招きに応じてダリューンが膝を折る。その頭を両手で抱えるようにしてアルスラーンがむに、と口付けた。ダリューンが一瞬目を見開いて、けれどすぐに閉じる。背中に腕が回されて、不安定に首を伸ばすアルスラーンを支えた。幾度か唇を舐め、食む。少しかさついているところを丹念に舐める。唇をいじることに満足して、その端からそっと舌を差し入れる。いつものことながら、ダリューンの抵抗はない。自分から求めることはないが、拒みもしない。甘やかされているのだ。嬉しくも悔しくもあり、ダリューンの自制心をすこしばかり恨めしく思う。つるりとした歯を一通り舐めあげ、そっと舌と舌を絡ませる。舌裏を舐めればふ、と鼻から息を漏らす。たまってきた唾液を嚥下する。とろりとしたそれがほのかに甘い。口蓋をつつくとダリューンの舌先がアルスラーンの舌裏をかすめてくすぐったい。また溢れそうになる唾液を飲み込む。さんざん口内を嬲ってやっと口を離す。唾液が伝ってぷつりと切れる。アルスラーンの方が息を乱しているのが悔しい。口の周りに溢れた唾液をそっと拭ってダリューンの首筋に顔を埋める。ちゅ、と軽く肌を吸えばわずかにダリューンが慄いた。
「へ、陛下」
「ん……続きは、夜に」
高まった情欲を隠さずに言えば、かしこまりました、とダリューンが答える。ダリューンはもうすっかり落ち着いていて、もう少しだけ甘えたくなる。
「もう少しだけ、ここにいてくれぬか」
「仰せのままに」
眉尻を下げた甘いとしかいいようのない表情でダリューンが答える。もう一度唇の端に口付けて、くふくふと笑みを漏らす。不安や苛立ちは消えて穏やかな幸福感がアルスラーンの胸の内を充たしている。ダリューンはすごい、と掛け値なく思った。