後輩という人種はよくわからないが、とりわけアズール・アーシェングロットのわけのわからなさは群を抜いている。
定石通りの打ち手かと思えば、よくわからない、素人同然の一手を指す。ボードゲーム、とりわけチェスやオセロなどでは定石というものが存在しており、幾千幾億のパターンを練るという思考が存在しているが、彼の打ち方は概ね予測のつくものばかりだ。
なので、それに応じて適度な緊張感を持たせる一手を打ってやればいい。魔導工学分野で名を馳せる、異端の天才であるイデア・シュラウドからしてみれば、アズールとの対局は単なる思考パターンの累積に過ぎない。
「…フム」
神妙な顔をして白の駒を動かし、アズールは盤面を睨みつけていた。黒と白のコントラストはどちらかといえばアズールの持ち駒である白が優勢だ。オセロというゲームは何が起こるかわからない。既に四つの角のうち、2つを掌握している黒がこの先どんな逆転劇を起こすのか、イデアの頭の中にはいくつかパターンが描けている。
なるほど、と脳内で演算を行いながらイデアは手を考えた。数ヶ所考えられる次の一手。勝ちを見据えた布石に、思わずイデアの頬も緩みそうになる。
すると、盤面を見つめながら、イデアの手を待っていたアズールがふと口を開いた。こうして自分が打つ時に彼が声を出すのはいつもの話だ。それこそ、思考を邪魔しようとしてくる姑息な手段と言ってもいい。……絶対に言ったりしないけど。
「…前から聞きたかったのですが、イデアさんって魔法使えるんですか?」
「ハ??? え?なに? いまそれ??ここどこだと思っておいでで??」
「魔法士養成学校、ナイトレイブンカレッジのボードゲーム部の部室ですが。ああいや、別に答えづらいなら結構ですが」
淀みない返答、煽るような口調でもないそれに、イデアは指先でオセロを摘んだまま大きくため息をついた。エラー、アラート。ここにオルトがいたら指摘のオンパレードだったことだろう。
「いや、それどうして今聞いた??? 言っとくけど僕これでも君より一年先輩だけど?」
「素朴な疑問です。可愛い後輩の質問にお答えいただけないかと」
思わずイデアは自分で持っていたオセロを取り落としそうになった。打ちたかったマスの隣に行くことを制したが、アズールは特段気にした風もないようだ。
「かわいい…かわ………」
「なんですか」
「可愛いって…まあエペル氏ほどではないけど、アズール氏も可愛いのかな。ウチ男子校だし…拙者そういう趣味ないけど…」
「話の通りが悪い人ですね。それを話すのに対価が必要ですか?」
「ヒッ怒らんで」
訳がわからない、というのは、ことイデアにおいては機械的なエラーを帯びる意味合いを持つ。
魔法が使えるのか、という問いかけをここで行うほど愚問なことはないだろう。少なくともイデアはナイトレイブンカレッジの3年生で、授業態度はともあれ成績は優秀であるし、必修科目も落としてはいない。確かに飛行術は危ういところがあるが、それとて別に不可の成績でないのだ。
「怒ってませんよ。イデアさんは、魔法は使えるんですか」
「……なんで」
「単純な話です。あなたが魔法を使ってるところを見たことがないからですよ」
ユニーク魔法、と呼ばれる個人の特性が反映される魔法。目の前の少年の場合は契約書を結ぶとかいうヤクザまがいのものだった。知りたわけじゃないが、寮長クラスにもなれば自ずと知れ渡るというものだ。だからこそ、彼はそれを知らないことに不満を覚えていたのだろう。
イデア・シュラウド。異端の天才。魔導工学の申し子。魔法とは対極にある科学分野に秀でた自分が、本当に魔法が使えるのかどうか。
「…教えなきゃダメ?」
「対価が必要でしたら、今この場で賭けても」
す、と指差されたのはオセロの盤面だ。黒が劣勢だが、アズールとて馬鹿ではない。自分が易々と勝てるとは思ってもいないだろう。
「2枚差、じゃ割りに合わないね。10枚差以上でアズール氏が勝ったら、…まあ考えなくもない」
「なるほど、そのくらいの秘密のお話である…と。承知いたしました。大差で、ですね」
どうせそうなるはずもない話だ。話す気もなければ、魔法のことを言うつもりもない。
イデアは爪を噛みながら片膝を抱える。アズールが少しでも勝てる可能性を広げるような手を考えながら。
結論から言えば、勝負はイデアの勝ちだった。辛勝、という結果を選んだのはどこかでイデアの期待があったから他ならない。事実アズールはイデアが予測しうる限りの最善手を使ってきた。結果、四隅のうちの2つは白が占拠している状況だ。
勝敗が着いた盤面をまじまじと見ながら、アズールは意外に納得した表情を浮かべていた。彼のことだから、自分が魔法を使わない理由のためであれば「対価」を払うくらい厭わない。そう考えてイデアは提案を出したつもりだ。
「拙者の勝ち。てことで魔法のことは言わない。つかなんでそんないきなり気になったの…」
早口でそういうと、アズールはふむ、と指先を唇に押し当てる。そうして、自身の胸元をトントン、と数回叩いて、それを示す。
「…マジカルペンですよ。一年以上の付き合いになりますが、そういえば見たことがなかったと思ったもので」
「あー」
ナイトレイブンカレッジの学生であれば、マジカルペンは生徒証を兼ねた重要なものだ。大概の生徒はそれを入学時に配布され、そのまま渡された万年筆として使っている。
アズールも大概の生徒の例にもれず、制服の胸ポケットにペンを差しているが、イデアはそもそも制服ですらなく、当然、マジカルペンというものを携帯もしていない。
「別に必ず携帯しなくてもいいっていうか、そんな目立つところにペン差して希少な魔法石壊したくないですし? アズール氏なら知ってると思うけど、ここの魔法石、学生に持たせるにしてはめちゃくちゃ希少石使ってんだよね。さっすが名門校。金の使いどころが違いますわー」
「ああ、確かに…。持ち主の気質を反映させる魔法石なんてそうそう多くないですからね」
なんとなくうまく言いくるめた、というよりも彼の興味のある方向に話を持って行った方が正しいだろう。魔法――とりわけユニーク魔法のことについて問いただされるのはイデアとて本意ではない。
たとえそれが、ようやくできた知り合いであっても、だ。
「ともかく拙者のマジカルペンと魔法のことは気にしなくていいよ。さすがに式典服の時くらいはつけるし…つけろってオルトがうるさいし…まあそもそも式典とかでないけど…」
ぼそぼそと小さな声で呟くと、アズールの方からふ、と吐息が漏れる。穏やかな放課後、二人きりの教室。ハイスペックな後輩の表情が変わる。
まるで花が咲くようだ。恋愛シミレーションなら、そう形容されてもおかしくない顔が、イデアの前に広がる。
「……いえ、案外可愛いところもあるものだと思って」
「ハ?」
勝負に勝ったはずのイデアに向かって、アズールはにっこりと笑いかける。先ほどアズールが自分自身を形容していた言葉を、そのままイデアに投げつけると、営業スマイルも斯くや、という笑顔が飛んでくる。
否、これはあれだ。一年くらい付き合っているから、なんとなくわかるけれど――これは。
「ですから、イデアさんにも何かを隠そうとむきになる心があったのだと。いえ、失礼。案外、あなたは僕には気を許していた気がしたものですから」
嘲笑だ。む、と青い唇を噛みしめながら、イデアはオセロを片付ける。黒く染まった盤面、勝ったはずなのに全然勝った気もしない後輩の表情。対価を払っているわけでもなければ、何かを失ったわけでもない。なのに、どうしようもなくこちらが負けているような気になってしまう。
部活動の時間はそう長くはない。アズールはモストロ・ラウンジの営業があるし、イデアだってやることは「いろいろと」たくさんある。こんな時間に気を取られている暇はないのだ。
苛立つ心を悟られないように、イデアは極力目を逸らす。アズールのレンズ一枚隔てた向こう側の表情の意味など、イデアが知りえるはずもない。他人と関わることを忌避する自分が、人心掌握を生きがいにするような人間とは、相容れるわけがない。
けれど、そんなイデアの心中を察したように、アズールはさらにダメ押しのように一言言葉を付け足す。本当に余計な、本当に要らない一言だ。
「魔法のことが聞けなくて残念です。イデアさんは僕にとっては尊敬するべき数少ない先輩ですから」
「……ハーヤダヤダ。拙者がその程度の煽りに乗ってくるとお思いで?」
「はあ?煽り?別に、事実を言っただけでしょう」
「じ、事実? 馬鹿にしたんじゃなくて」
「…………僕が、イデアさんを?」
「そ、それしかないじゃん」
「………はあ。なんですかそれ。あなたこそ、僕を馬鹿にしてるんですか?」
溜息と共に、オセロの盤面は閉じられる。白と黒が表裏一体となったピースは簡単に四角い箱の中に消えていく。あ、と思ったときにはもう遅かった。イデアが弁明をするよりも先に、嫌悪のある表情を残しながら、彼は背中を向けた。
「兄さんおかえり。部活はどうだった?」
「……楽しかったよ。それなりに」
自室に戻って、ようやくイデアは息ができる。外に出るのは本当に苦痛だ。誰もがみんな、自分のことを馬鹿にしている。指をさして笑っている。そんなふうに思ってしまうのは考えすぎだとオルトは言ってくれるけれど、簡単に自分が傷つきたくはない。
対面での対話が嫌になったのはいつからだったか。もう思い出すのも億劫な話だ。そのなかで、唯一人と話せる手段が、ボードゲームだ。
「兄さんは人とお話しするのが苦手なのに、ボードゲームなら平気なんだよね」
「何も話題がないよりも、少しくらい媒介があった方が楽だから。会話もゲームの一環だしさ」
屈託なく笑う機械の体をした弟は、浮遊状態でイデアの周りをくるくると飛び回る。寮長になって一人部屋を与えられたのはオルトと一緒にいるという意味ではよかったのかもしれないが、それまでのことだ。結局、一人部屋という恩恵を得るために、寮長という割に合わない責務を担わざるを得なかった。
「会話って、ゲームのこと?」
「え? うんまあ…それもあるし、それ以外もたまに… ほらアズール氏とか普通に妨害で世間話挟んでくるから。あれマジでされるとビビるんだよね…」
「へえ!アズール・アーシェングロットさんとは寮長会議でも一緒だものね」
「そうだね…」
定例に行われる寮長会議への出席。式典ごとには寮長として統率を行わなければならない。他寮の寮長たちからはタブレットでの会議の出席を煙たがられ、挙句の果てにハーツラビュルの寮長であるリドルからは無能呼ばわり。対面でのコミュニケーションというもの全般が苦手なイデアにとっては、寮長という役目はあまりに重すぎるものだった。
それが、ボードゲームという場であれば多少は和らぐのだからオルトも驚いているということなのだろう。あまつさえ、進んで自分から部活動に参加をするのだから、弟からしてみれば不思議な現象であるのかもしれない。
「まあ別にアズール氏が寮長だからってだけじゃないよ。あの子は結構強いんだ。だからこっちもやりがいがあるっていうか…オセロとか今日も兄ちゃん、負けそうになったし…」
「そうなの? すごい! 兄さんに勝てそうな人がいるんだね!」
「…ま、たまにがめついところもあるけどさ。オルトのメンテも手伝ってくれるし…何より拙者にとっては数少ない、まともに話せる相手だし…」
「兄さんが楽しそうでよかったよ!」
オルトが屈託なく笑うたびに、イデアの胸によぎるのは、さっきのアズールの一言だ。魔法を使ったところを見たことがないです。マジカルペンも見たことがないです。素朴な疑問だったのだろうけれど、アズールが言うと意味が変わってくる。駆け引きをしたいと思えるほど、イデアはアズールとの間に利害関係を持ち込みたくはない。
「…アズール氏とはさ、あの知り合い関係を崩したくはないね。オルトのことを手伝ってくれる人なんてそうそういないし……」
「……兄さん?」
「別に拙者悪くないですし? 聞いてきたアズール氏が悪い。あと日頃の行いも悪い。……そうだ、きっとそう」
ぽつり、と頭をよぎってしまっては口に出さざるを得なかった。先ほどの別れ際のあのアズールの顔だ。何か嫌悪感を浮かべて、少しだけ憎々し気に。どこか、自分に失望したようなまなざしを浮かべた彼は、どうしてあんな顔をしていたんだろう。
だって、あっちの方じゃないか。人の秘密を暴こうとしたのは。
誰にだって触れられたくない秘密の一つや二つはある。アズールが踏み込んできた話は、いわゆる地雷の話だ。たかだかアズールの業務提携ごときで、そんなことを易々と明らかになどしたくはない。
なのに。
「(……なんで)」
急に黙り込んだイデアに、オルトがオロオロと顔を覗き込む。まったく、我がプログラムながら弟は優秀だ。こんな時にも気遣いを欠かさない。
「に、兄さん、どうしたの? アズール・アーシェングロットさんとも喧嘩でもした?」
「喧嘩ァ~?? 喧嘩じゃないって。アズール氏が勝手に人の地雷に突っ込んできただけだって」
「でも、兄さんすごい顔しているよ? 鏡、見る?」
「すごい顔ってなに!? あと鏡は見たくないから!!!」
「そんなことないよ! 兄さんは世界一カッコイイよ!」
「そ、そうじゃないって…ってオルト! なにしてるの…?」
「鏡面仕様の画面だよ!」
異様にテンションが上がったオルトは、どこから持ってきたのか、はたまた液晶の断片か、イデアの前に鏡を差し出す。ウウ、と唸りながら、イデアはそれを遮る。そうして、オルトの首元に手を当てて――動作を、停止させた。
『――スリープモードに移行します。データの破損の恐れがあります。繰り返します、スリープモードに移行します…』
機械的なアナウンスが降ってきて、イデアは目を擦る。もう今日もいい時間だ。一日中外を歩いていたオルトも、充電が必要なころあいだろう。そう言い聞かせて、自分の行いに正当性を持たせる。間違っていない。僕は間違っていない。唱えながら、それでも唇の中が渇いていく。
アズールが何を思って、イデアの魔法のことを聞いたかなど、今更聞けるはずもない。そんなことを掘り返して余計に対価を要求されるのも癪だ。今まで、一年以上利害関係を強くもたずともつながってこなかった関係、今更それを壊したくはない。
だから、拒否したし、ゲームにも勝った。秘密は守られて、アズールに一方的に弱点を晒すようなことはなかった。何も失っていない。対等なゲーム。ーーだけど、ひどく傷ついたような顔をしてアズールは自分を見ていた。
まるで、自分に拒絶されたことがショックだったとでも言うように。
「……いやいや、考えすぎ考えすぎ。キモオタ妄想乙」
オルトを充電台に寝かせると、そのままイデアはオルトの記憶の同期を始める定期的なメンテナンスと、一番大きなメモリデータは常にバックアップを取らなければ。万一のことがあったらそれこそショックどころの話ではない。
データのように記憶が置き換わればいいのに、といつも願っている。自分の失敗はデリートされて、何事もなかったかのように関係性はリセットされる。そうできれば、アズールとだっていつでも今の距離感を保って会話ができるのに。
「別に僕はさ、そういう話をしたくはないんだよ。アズール氏とは」
呟いた言葉が暗い部屋で融ける。彼が傷ついた理由など、イデアは考えることもしなかった。