どきどきはりんごのほっぺ「藍良!」
時刻は朝八時になるころ。夏の日差しがまだ柔らかいうちに、と通学路を歩いていた藍良は、突然後ろから抱きしめられた。そして聞こえてきた元気な声と後頭部にぶつかる柔らかな感触に、思い切り力を込めて眉間にしわを作った。
「~~ッ、ヒロくん!急にぶつからないで、って教えてるでしょ!」
「う、すまないよ藍良・・・」
子犬のように頭を垂れた一彩が、藍良の隣に並ぶ。先程の威勢のいい声が嘘のように静まり返る。藍良はため息をひとつついて、言葉を選びながら声をかけた。
「あのね、ヒロくん」
「ウム」
「おれだから許してるけど、人様に出会い頭に抱きつくのは良くないから」
「分かっているよ」
「は?じゃあなんで」
「藍良だったからね。しかし、藍良もしない方がいいのかな・・・?」
こてんと首を傾げた一彩が、藍良を見る。その瞳は心なしかうるうるとしていて、藍良の心臓をどんと跳ねさせた。
「う、ま、まぁ、俺はいいけどさぁ・・・」
たまらず目をそらして返事をする。そんな素っ気ない態度でも一彩はほっとしたのか、そのまま昨日食べたらしいチーズマカロニの話をし始めた。藍良はその話にぞんざいに相槌を打ちながら、ちらりと隣を見た。
隣で歩く一彩の胸もと。ゆさゆさと揺れるそれは先程藍良の後頭部に当たったものだ。夏服の薄い生地と下着越しにでも分かる女性特有の感触に、藍良はほとほと困っていた。なぜなら、藍良は一彩に恋してしまったからだ。
MDMが終わって姉と和解した一彩は、故郷の習わしだとまいていたさらしをほどいた。姉から勧められるがままワンピースを着てユニ練に来た日の、藍良の衝撃たるや。同性愛だなんだと考えていた枷はなかったのだ。ユニット内でも男と思い込んでいたのは藍良ひとりだったため、恥ずかしくなって一彩に「なんでおれだけ教えてくれなかったの!」などと噛み付いた記憶がある。本人曰く「聞かれていないから答えていない」だけだった、と逆に驚いてしまい、ぐぬぬと口を噤んだのは未だに思い出して恥ずかしい気持ちになる。
そんな一彩の入寮にも、一悶着はもちろんあった。三人部屋に入れる予定だったから、空きがなかったのだ。本人は気にしないと言い、椎名ニキはもともと一彩の姉である天城燐音と二人暮らしをしていたから大丈夫だと返事をした。そして残る葵ひなたは、それに同意せざるを得ない流れになってしまった。結局、椎名のアドバイスもあり三人仲良くしているらしいが。一彩から聞く寮の話は大抵楽しげである。
夏休みが終わった今、一彩は制服にスラックスを履いている。上はシャツの下にブラジャーをきちんと着けており、ボディラインからして男と思うものはいないだろう。そんな姿に驚く面々を見たのはつい最近で、口々に「女の子だったの!?」という声を学年が違う藍良まで嫌という程浴びるはめになった。
「藍良?聞いているかい?」
「うん、聞いてるよ。ニキ先輩の新しいメニューでしょ」
「そう。それがとても美味しくてね、レシピを教えて貰ったんだ。今度、僕の味見をしてくれないかな」
「・・・っ、いいよぉ」
「どうしたんだい?」
「なんでもない!ほら、校舎ついたよ!また放課後ね、ヒロくん!」
「ウム、では放課後よろしくお願いするよ!」
そう言って階段を昇る一彩と別れて、自教室へと向かう。『僕の味見』って言葉のチョイス何なんだよ、と文句を言いながら、がらりと戸を開けて入るなり、にやにやとしたクラスメートに囲まれた。
「はよ~、白鳥」
「おはよう」
「いいなぁ、朝からラッキースケベ。俺見ちった」
「げ、ラッキーでも何でもないし。やめてよね」
「おいおい、一彩先輩デカいのにラッキーじゃねぇのかよ!」
予想通りの言葉に、藍良は大きくため息をついて見せた。これだから、学校で一彩と会うのは嫌なのだ。あれのボディタッチが多すぎて、クラスで弄られる。
「白鳥、貧乳がタイプなの?」
「そういうわけじゃないけど、ユニットの仲間をそういう目で見ないってだけ!その話振らないでよね」
「えぇ、俺と変わって欲しいわ。俺なら喜んで正面から行く」
「ヒロくんが許すわけないでしょ!」
「あー?でも白鳥、いつもくっつかれてんじゃん」
「あれじゃね?可愛いショタ的な」
「なるほど!俺じゃ無理か」
クラスでも一、二を争うほど背が高いクラスメートが笑う。別にいじめるタイプじゃないから、藍良をからかうつもりがないのは分かる。しかし、一彩との仲を色眼鏡で見るような言葉に、藍良は思い切りカバンを机へぶつけながら叫んだ。
「おれのことは百歩譲って弄ってもいいけど、ヒロくんのこと馬鹿にしたら許さないから!」
「っ、ごめん白鳥、そういうつもりじゃ」
「それでも受け取る方はどう感じるかとか、考えてよね!」
「ごめん白鳥、もう言わねぇから」
口々に発せられるクラスメートの謝罪の言葉を無視して、藍良は授業の準備を始めた。すぐに教師が教室に入ってきたため、クラスメートも散り散りに自分の席へとつく。後ろから聞こえる、「白鳥、ALKALOIDに入ってから変わったよな」という言葉は、前向きに捉えることにした。
///
放課後。玄関で藍良を待っていた一彩と共に旧寮へ入る。制服のまま、キッチンでエプロンをつけようとした一彩が、「あ、」と声を出した。
「藍良、ちょっと見て欲しいものがあるんだ」
「なに?」
「ここで待っててくれるかな」
そういうなり、一彩はぱたぱたと部屋の方へかけていった。なんだろう、と藍良が大人しく待っていると、遠くから大きな声で「またせたよ!」と声が聞こえてきた。
「二人しかいないんだから、ゆっくりでいいよぉヒロく、え?」
「昨日届いたんだ。どうかな?似合っているかい?」
キッチンの入口でくるりと一回転する一彩に、藍良は釘付けになった。
制服のスラックスと同じチェックのプリーツスカートが一彩の腰で揺れている。規定より少し短い膝上のスカート。その下から伸びる白い足が眩しい。言葉が出てこなかった。きっとちょっと短いスカートは、姉の入れ知恵だろう。
「どうかな、藍良。届くなり姉さんが丈を短くしてしまって、ちょっと恥ずかしいのだけれど。こちらでは普通の事なのかな?」
ほら見た事か。妹よりも数年早く故郷を家出した姉はファッションモデルのようなスラリとした体型だ。アイドルをしている彼女が、妹を何よりも愛する彼女が、着る服に手を出さないわけがなかった。
ましろな膝が可愛い。夏で暑いから、と上のボタンをあけてただでさえ胸元が心配なのに、下までこんな短いなんて。
藍良は文句を言おうとして、しかし言葉が上手く出なかった。
「・・・その、似合ってると、思うよ」
「そう?」
「ちょっとだけスカートの丈短いけど。燐音先輩がそうしたんならそれでいいんじゃない?」
「よかった。せっかく届いたのだから、着ないともったいないと思って」
にこり、と笑った一彩がキッチンへ立つ。出会った頃から少しだけ伸びた髪はまたベリーショートの域だが、可愛らしい。置いていたエプロンをつけ、冷蔵庫から材料を取り出し始めて、藍良は気づいた。
エプロンよりも、スカートが、ほんの少しだけ短い。
ごくり、と喉を鳴らした。つまり、前を向けばエプロンから足が伸びるのだ。藍良は自分が脚フェチである自覚はなかったし、なるつもりも無かった。しかし訂正せねばならない。自分は脚フェチである。なんならその細くもきちんと筋肉をつけているふくらはぎのラインにもぐっとくる。
可愛い。ヒロくんがかわいい。誰にも見せたくない。おれだけに見せて欲しいし、よそでスカートにエプロンなんてしないで欲しい。今後そんな衣装が来たら全力で反対する。来ないけど。
そんなことを考える藍良をよそに、一彩はテキパキとリンゴをむいていった。輪切りに切ったその中心をクッキー型でくり抜く。
「はい、藍良」
「え?んぐ、」
「ふふ、これは食べていいよ」
にこにことリンゴの端を差し出した一彩のきらきらとした青い瞳。思わず藍良は目を逸らした。しゃくしゃくとかじればじゅわりと甘酸っぱい果汁と果肉が口の中に広がる。ていうか今、あーんした?
「どうしたの、藍良。顔が赤いよ?」
「いや!大丈夫!大丈夫だから続けて!」
「そう?ふふ、すぐ出来るからね。簡単なんだ」
「へぇ。なんていうの?」
「りんごのバターソテーだよ。とても甘くて美味しかったから、是非藍良と食べたくて」
先日椎名さんに教えてもらったんだ、と嬉しそうに語る一彩の話に相槌をうつ。指摘された赤い顔を一彩に見られたくなくて、藍良はその指先を目で追った。
フライパンを火にかけ、バターを一欠片いれる。じゅわりと溶けたその上に、輪切りにしたリンゴを並べて焼き始めた。
「リンゴを焼くってなんか不思議」
「あんまりしないのかな」
「言われればアップルパイとかジャムとかあるから不思議じゃなんだけど、なんか新鮮」
「そうなんだね。故郷にはない果物だから珍しいよ」
赤いといえばまず木苺だったな。そう言った一彩に藍良はこっちではまずりんごだよ、と教えた。そのまま会話をしながら、一彩は焼き加減を見て、りんごをひっくり返した。上から砂糖を振りかけて弱火にする。カラメルのようになったところで、ぱちんと火をとめた。用意していたお皿に、一彩が一枚ずつ慎重にのせていく。
「美味しそう!」
「ちょっと待ってて、バニラアイスを用意してくれていたはずだから・・・」
「用意?」
藍良の疑問を他所に、一彩は冷凍庫から業務用のバニラアイスを取りだして、スプーンで手馴れたようにくるりと皿へのせた。
「できた!」
はい、と差し出された皿を受け取る。焼き色がついたリンゴに、綺麗に添えられたバニラアイス、仕上げにちょんとのせられたミント。お店で見るような出来に、藍良は感嘆の声を上げた。
「ヒロくん、すごい!見た目お店レベルじゃん!」
「ふふ、ありがとう!頑張ったんだ」
「頑張った?」
「あ、いや。椎名さんが作る時、すこしだけお手伝いさせてもらったんだ 」
「へぇ。バニラアイスとか超綺麗に添えてるし、もう完璧じゃん」
「さ、食べよう藍良!」
キッチンから自分の分を持ってでてきた一彩と、ダイニングテーブルへ並んで座る。・・・並んで?
「なんでヒロくん隣に座ってんの」
「ウム?ダメだったかな?」
「いや、ダメじゃないけど・・・」
心臓がどきどきしちゃうからやめてほしいとは言えず、藍良は隣を意識しないようにフォークとナイフを手に取った。さく、と軽い感触でリンゴを一口分切り分けて、少し溶けたバニラアイスをまとわせて口へ運ぶ。バニラの濃厚なあまさがぶわりと舌を通り、りんごと砂糖の甘酸っぱさが口の中へ広がる。その甘さに口角が上がってしまう。ごくりと飲み飲んで、その勢いのまま一彩へ話しかけた。
「すご!めちゃくちゃ美味しい!バニラの甘さとカラメルの甘さがすごくいい塩梅だし、りんごの甘酸っぱさがそれをくどくないようにしてるし!ヒロくん料理上手!」
「あはは、ありがとう、藍良・・・その、」
「もうマジで美味しい!味見とかそんなレベルじゃない!!りんごのバターソテーってぶっちゃけちょっと焼いただけなのに、こんなに美味しいとか知らなかった!!すごいよヒロくん!ヒロ、く、・・・ん?」
「その、褒めてくれるのは嬉しいけれど、ちょ、ちょっと近い、かな・・・?いや!嫌な訳ではないのだけれど!その!」
「あ、いやこっちこそごめん!!」
一彩に指摘され、藍良は慌てて椅子ごとがこがこと距離をとった。隣なのは分かってたのに! 間近でパチリとあった青い瞳から目を逸らして俯く。我慢していた心臓はばくばくと音を立て、顔中に集まった熱い血が体温を上昇させる。ぱたぱたと仰ぎたくなる気持ちを抑えながら、一彩の方を伺った。
はたして彼女は、真っ赤な頬を隠すように俯いていた。手を膝において、ぎゅっとエプロンを掴んでいる。綺麗に揃えられた白い足はじっと閉じられて、微動だにしない。たらり、と垂れた髪をすくおうと手を上げて、ちらりと目が合う。恥ずかしげにはにかんだ彼女が、いつもよりもうんと小さな声で藍良へ笑いかけた。
「その、ごめん藍良。ちょっとビックリしただけなんだ」
「い、いや、こっちこそなんか、ごめん。近かったよね」
「それは全然いいんだ、気にしてないし、・・・。あは、ごめんね、緊張してて」
なぜ、とは聞けなかった。聞く勇気は今の藍良にはなかった。ただ、夕日にすこしだけ照らされたシャツやスカートから伸びる白い手足が、夕日のせいだけじゃない赤いほおが、藍良をいつまでも捉えて離さなかった。
///
藍良と別れて自室に入った一彩は、テーブルを囲んでいた姉にぎゅっと抱きついた。
「姉さん、ちょっと失敗した気がするよ・・・」
「お?どうしたんだ」
「ウム、指示通り隣に座ったのだけれど、その、藍良が勢いよくこちらへ振り向いて、勢いよく感想を言ってくれるものだから・・・」
「顔が近くなったんだ!青春~!」
同じテーブルでトランプをしていたひなたが笑う。一彩は姉の隣に座り直すと、ニキのほうへ向き直った。
「椎名さん、ありがとう!おかげでりんごのバターソテーはとても美味しく作れたよ!」
「妹ちゃんはどこかの誰かと違って飲み込みがいいっすから、良かったっす~痛っ!」
「悪かったな料理覚えなくてよ、お前らが出来すぎなんだよ」
ぽこん、とニキをはたいた燐音は一彩に続きを催促した。
「それで、スカートはどうだった」
「ウム、少し丈が短いと言われたよ。姉さんが良いならいいんじゃないと他人事だった」
一彩の言葉を、ひなたはちっちっと否定した。
「それは照れ隠しだから。絶対照れ隠しだから」
「そうかな?でも勧められた後ろからハグアタックもいつも叱られるし、正直やらない方が」
「いや、それはやめるな」
「やめない方がいいっす。燐音ちゃんならともかく、妹ちゃんのそれは効っだだだだだ!燐音ちゃん!やめて!!」
「このバカの言うことは置いておいて、だ。一彩、」
ニキの髪を思い切り引っ張り、細い腕で首を絞めながら、燐音は一彩へ言い聞かせた。
「藍ちゃんと恋仲になるために、なんでもやるんだろ?」
「ウム」
「日頃からボディタッチは重要だ。良かれ悪かれ、相手を意識せざるを得ないからな。あんまり嫌がってるようなら、手をとるとかにチェンジしろ」
「なるほど、今度からはそうしようかな。うっかり聞こえてしまったのだけれど、教室でも僕の行動でどうやらいろいろ言われているようだし」
その言葉に、ひなたはあー、という顔をした。
「ウチ男女比がちょっと偏ってるし、そう茶化す男子はいるだろうなぁ」
「そいつらなんか眼中にねぇよ!って言ってやれ」
「藍良がきちんと叱っていたから大丈夫だと思うよ」
一彩がそう答えると、三人は「へぇ」と言う顔をした。そのままニタニタと笑い出すものだから、一彩はなんだろうと首を傾げた。
「順調ですな燐音先輩」
「こりゃ時間の問題だな」
「藍ちゃんも成長したんすね~。そんなイメージ無かったなぁ」
「そうかな?藍良ははっきりと言っていたよ、『ヒロくんのことを馬鹿にしたら、・・・」
「馬鹿にしたら?」
「『ゆ、許さない』・・・」
「あ~~!!甘酸っぱい~!!!」
「いや~、可愛いなぁ」
「さすが俺っちの義弟になる男だわ」
「ち、ちょっと待って欲しいよ!まだそうと決まったわけじゃ、」
慌てる一彩の肩をがしりと掴んで、燐音は言った。
「なんでも出来ちまうお前に並ぼうってがんばってんだよ」
「並ぶ?」
「そう、お前に告白できるように今成長中、ってわけだ!あー、今日はうまい酒が飲めそうだぜ!ニキ、つまみ!」
「あー、はいはい。チーズまだあったかな」
「あ、俺も夜食食べる!」
ぱたぱたと立ち上がりミニキッチンへいく3人を見ながら、一彩は考えた。
最初に姉に相談してから、寮部屋の二人を混じえて恋の応援をしてもらうようになって。三人とも、藍良と一彩が両想いと信じて疑わない。本当に、本当に?今日も朝からハグして注意されたし、スカートは他人事だった。りんごのバターソテーは気に入ってくれたのに、至近距離にある藍良の顔に緊張して「離れて」と言ってしまったのだ。がこがこと慌てる藍良をみて、申し訳ない気持ちと、ばくばくする心臓で頭はぐるぐるしていい言葉なんて出てこなかった。顔が熱くて、きっとリンゴよりひどい。
一彩はその時を思い出すように両手で頬を隠した。こうやって隠せばよかった。そしたら真っ赤なほっぺを見られずにすんだのに。しばらくはリンゴを直視できないな、と一彩はため息をつくのだった。