未来は色づく 薄曇りの空は、ここ数日続いていた。鈍色に染まる雲が頭上を覆い、朝とも昼とも判別し難い薄暗さが、周囲をどんよりと包み込む。
色彩の失った風景の中を、乾いた風が駆け抜けた。冷気を帯びた風が、頬をひたりと撫でていく。吐息が寒風にさらわれ、湿る唇がたちまちひび割れるように痛む。凍れる突風に肩がすくむが、それでもアシㇼパは薪を落とさないよう、両腕に力を込めた。今しがた拾って集めたばかりの、大事な燃料だ。
アシㇼパは再び歩き出し、手頃な枝を三本拾い上げたところで、踵を返した。雪に埋もれた山の中では、歩いてきた自分の足跡も大事な目印となる。降雪の予感を察知し、アシㇼパは来た道を戻る。点々と続く己の足跡を踏み締める度に、水気を含んだ硬い雪が、ぎゅっぎゅっと音を立てる。
灰色の煙が一筋、上空に細く立ち上るのが見えた。それに気づいたアシㇼパは、ふと足を止める。杉元と白石が待っている場所からは、少し離れた方角だ。しばし逡巡した後、アシㇼパはその方向へ歩き出した。自分よりもやや大きめの足跡が、煙が立ち上る方角へ続いている。
程なくして、焚き火を燃やす人物の後ろ姿が見えてくる。倒木に座り、こちらに背を向けたまま、何やら作業をしている。予想通りの人物だった。茶色の外套に身を包み、頭の上まですっぽりと布を被っている。後ろ姿でもよく分かるとんがり頭は、今ではすっかり彼の呼称として定着している。
「頭巾ちゃん」
アシㇼパの呼びかけに、頭巾ちゃんと呼ばれた男──ロシアの脱走兵であるヴァシリは、すぐさま振り向いた。顔の半分を防寒具で覆った彼の顔が、アシㇼパをじっと見つめる。目元でしか表情を読み取れない男だが、元々感情をあまり表に出さない性分なのか、こちらを見る彼の眼差しは常に凪いだ色をしていた。
氷のような淡い色の瞳がすいっと動き、アシㇼパから視線を外す。何事もなかったかのように、ヴァシリは再び手を動かす。呼びかけには反応してくれるものの、さしてこちらに興味がないのか、それ以上の動きを見せることはほとんどなかった。
付かず離れずの距離で、アシㇼパ一行に付きまとう。姿が見えない場合でも、こちらが構わず出発すれば、いつの間にか後方からのこのこついて来る。各々の目的は違えどひとまず道は同じであるため、あまり邪険にはせず、寄ってくれば飯を与える程度の距離感で接していた。
「頭巾ちゃんも、一緒に薪集めしてくれると助かるんだがな」
ヴァシリの背中に投げかけるように、アシㇼパはぽつりと放つ。返事はないと分かっているため、半ば独り言だ。アシㇼパは、ヴァシリが熾した焚き火に近づくと、手元から数本木の枝を抜き出し、そばに置いてやった。何が目的なのか、どういう信念で行動しているのか、ほぼ会話を交えない彼の心情など未知に包まれているが、それでも今はこの熱源が絶えないよう、アシㇼパは薪を分け与える。
シャッ、シャッ、と紙が擦れるような音がする。ヴァシリは大きめの手帳を持ち、先ほどから熱心に鉛筆を走らせている。アシㇼパはヴァシリに近づくと、そっと横から覗き見る。雪雲が立ち込める灰色の空、川を覆い尽くす厚ぼったい雪、空に鋭角を作る枯れ枝──何の変哲もない風景が、紙の中に描かれている。それなのに、彼の手によって精巧に描かれると、まるで目の前の景色が特別なもののように見えてくるから、不思議だった。鉛筆の先から走る黒色が、白い紙に濃淡を生み落とし、無機質な線の重なりと紙の空白が、徐々に景色を形作る。鉛筆が走る度に、何も無い世界に生命が吹き込まれ、小さく産声をあげていくようだった。
ヴァシリは描く手を止めると、ぐるっと首を動かしてアシㇼパを見た。不意に至近距離で目が合い、アシㇼパは体を引く。食い入るように見るうちに、いつの間にか前のめりになっていたようだ。
ヴァシリは手帳に視線を落とすと、違う頁を開いた。パラパラとめくれていく頁は、どれもヴァシリが描いたと思しき絵で埋め尽くされている。
紙をめくる彼の手が止まる。景色や小動物の模写ばかりが続いていたが、手を止めた頁には人の形があった。絵を見た途端、あっ、とアシㇼパは小さく声を上げる。
「それは私たちの絵か?」
ヴァシリは持つ手を傾け、アシㇼパに見せる。そこには、杉元と白石、そしてアシㇼパの姿があった。焚き火を囲み、三人で食事の支度をしている最中の絵だ。
ヴァシリの手が、ゆっくり紙をめくる。そこにもまた、アシㇼパ達の姿があった。獲れたウサギを解体するアシㇼパと、横で共に解体作業に加わる杉元、やや離れた所では、雪に足を滑らせて転ぶ白石の姿がある。
「ふふ……最近のだな」
どれもここ数日のものだった。次にめくられた頁には、右腕を包帯で巻いた杉元の姿が描かれている。松田平太という刺青囚人と一悶着あった際に右腕を骨折し、それからというもの杉元は常に右腕を固定している。しかし片腕が使えないことに煩わしさを感じているのか、時々鬱陶しそうに右腕を上下に振っている。
その様子も描かれていて、アシㇼパは小さく笑った。片腕を固定されて不便を感じている時の、嫌悪感を露わにした表情なんかは、特徴をよく捉えていて杉元らしい。てっきり他人に興味がないものとばかりに思っていたが、案外こちらのこともよく見ているようだった。彼にとっては、ただの時間潰しの観察対象に過ぎないかもしれないが。
次にめくられた頁を見て、アシㇼパは思わず息を呑んだ。瞬きも忘れて、目を大きく見開く。見間違いかと思ったものの、それはアシㇼパがいくら凝視しても、確かに絵として存在していた。
「これって……」
ようよう口を開いたものの、続きの言葉が出てこなかった。杉元と、アシㇼパ。鉛筆で描かれた二人の姿。そこにいる杉元は、右腕を包帯で巻いた状態ではなく、いつもの見慣れた格好をしていた。
二人の手と手が、繋がれていた。アシㇼパの手を取り微笑む杉元と、同じように微笑んで見つめ返すアシㇼパ。見上げるアシㇼパを覗き込むように、杉元が屈んでいる。幸せそうな様子が伝わってくる絵だった。
アシㇼパはすぐにこれが、模写によるものではないことを悟る。まるで二人の日常の一片を切り取ったかのように描かれた絵だが、これはヴァシリによる空想の産物だ。なぜなら──こんな風に手を繋いで見つめ合うなど、身に覚えがないのだから。
ヴァシリは紙の上部をつまむと、慎重に紙を裂いて、手帳から切り離した。どうするのかと見ていると、ヴァシリはその紙をアシㇼパへ差し出す。
「……くれるのか?」
アシㇼパが訊ねると、言葉の意味を知ってか知らずか、ヴァシリはこくりと頷いた。アシㇼパはおずおずと手を伸ばし、丁寧に破られた紙を受け取る。柔和な顔で笑う杉元の顔と、嬉しそうな顔で見つめる自分の顔。頬にうっすらとかかる斜線は、おそらく顔の紅潮を表現しているのだろう。
描かれた絵を改めて見るうちに、ふつりと体温が上昇し、胸元が疼いた。どういう意図でこの絵を描いたのか知る由もないが、それにしても──自分はこんなにも、分かりやすい顔をしてしまうのだろうか。
おのずと手に力が入った。紙にぎゅっとしわが寄る。アシㇼパは下唇を強く噛み、それから深くため息をついた。受け取った紙を、ヴァシリへ突き返す。
「ありがたいが、私にこれは受け取れない。だって、こんなの……ありもしない未来だから」
ありもしない未来。気持ちは固めていたはずなのに、口にしてみると語尾がかすかに震えた。言ったそばから、心臓に氷片が刺さったような心地がする。ヴァシリは、絵とアシㇼパを交互に見つめていたが、やがて返された紙を素直に受け取った。アシㇼパは薪を抱え直すと、すぐさまそこから離れる。
十歩ほど歩いてから、おもむろに歩みを止めた。振り払うように歩きだしたものの、小さく引っかかった未練が、むくりと膨らんでいく。まさかあれを、名残惜しく感じているのか。慌てて首を横に振る。それでも拭いきれない思いが、胸の内でざわざわと音を立てる。
「なあ、頭巾ちゃん、やっぱり──」
アシㇼパは振り返り、はっと言葉を失った。ヴァシリの手から落とされた紙が、焚き火の中へ吸い込まれていく。白い紙はみるみるうちに黒く焦げつき、赤い炎に包まれる。手を取り合って微笑む二人の姿が、跡形もなく消えていく。
アシㇼパの声に気づいたヴァシリが、不思議そうな顔でこちらの様子を窺う。じっと向けられた水色の瞳には、悪意など浮かんでいなかった。不要だから、燃やした。ただ純粋に、それだけのことだった。
「ああ、いや……何でもない。いいんだ、もう」
アシㇼパはそう言うと、足早に立ち去った。もう振り返らないように、立ち止まらないように。杉元と白石が待つ場所へ向かう。いつものように歩いているはずが、膝下辺りが妙に重く感じた。
ひゅお、と吹いた風が、アシㇼパの背を押した。膝裏を押し上げるように風が吹き、薪を抱える体がふっと軽くなる。しかしアシㇼパの歩みは、じきにのろのろと緩慢なものへ変わった。
自分の口から確かに、いらないと言い放った。そして目を背け、突き返した。鉛筆で描かれた、絵空事の未来。白黒の世界で手を繋ぎ、共に微笑み合う、儚い紙の中の自分たち。都合の良い夢物語など、この旅の中では不要だ。もちろん旅が終わった後の、別々の道を行くその未来にも──。
とらわれるな、と心の中で己を律した。アシㇼパは再び歩き始める。ひらりと降ってきた雪が、鼻先を掠めて落ちた。絵を呑み込んだあの炎の光が、いつまでもまなうらを赤く染めている。
****
「ふぅーん……嬢ちゃん、アイヌかい? これさぁ、本当に自分で獲ったわけ?」
顔馴染みの商人がいない時は、大体こうだ。面倒くさい気持ちが表情に出ないよう、アシㇼパはぐっと堪える。アシㇼパから熊の胆を受け取った薬売りの商人は、品定めするようにじろじろと見回す。訝しげな眼差しは、熊の胆だけではなく、もちろんアシㇼパにも注がれている。
金塊の旅を終え、アシㇼパが杉元と共に北海道に帰って来て早三年。三年という月日で随分と背も伸び、今やもうすっかり少女の姿から遠のいた。おかげで、子どもだからと足元を見られることはかなり減ったが、こうして小樽の街で仕留めた獲物の部位を買い取ってもらう際、顔馴染みの商人がいないと手間取ることが多々あった。
熊の胆が本物かどうかくまなく調べ、商人の男はひとまず納得したようだが、アシㇼパへ向ける視線には依然として猜疑の色が刷かれている。
男はそろばんをパチンッと指で弾いた。ずいっと見せられた見積もりに、アシㇼパは思わず眉根を寄せる。安価で来るだろうと予想していたものの、提示された取引額はそれを遥かに下回るものだった。
「はい、これでいいでしょ?」
「いや、だめだ。安すぎる」
「はあ? あのねぇ、嬢ちゃんさぁ」
男はがっくりと肩を落とすと、わざとらしくため息をついた。男の持つそろばんが、じゃらりと音を立てる。男はアシㇼパに向き直ると、眉をこれでもかと吊り上げながら、つらつらと文句を垂れ始めた。小鼻を膨らませて喋る男の様子を、アシㇼパはぼんやりと眺める。
「熊胆なんて貴重なもんは、普通は知ってる猟師から買い取るんだよ。それをわざわざ、特別に良いよつって、買い取ってあげてんの。こっちの優しさだよ? それを踏みにじるのはさぁ、どうなんだい? 大体ねぇ、困るんだよ。猟師かどうかも分からない、あんたみたいなアイヌが来ると……」
「──俺らみたいなのが来ると、何だって? あ?」
突如ぐいっと肩を掴まれ、商人の男は目を白黒させる。身動きが取れないほど距離を詰められ、何が起きたか分かっていない様子だった。
商人の男は恐る恐る横を向き、ヒッ! と小さく声を漏らした。至近距離で視線がかち合うのは、なかなかの迫力だろう。並の男よりいくらか背が高く、とうの昔に除隊した帰還兵とは言え、体つきもそこらの兵に劣らない。顔に連なる大きな傷跡や右頬の破けた痕、欠けた耳朶も、痛々しい印象を感じさせるどころか、この男の持つ猛々しさをより表す勲章になっている。
加えて、あの瞳だ。よく見れば、色素の薄い茶色の瞳をしている。普段は軍帽の唾で影がかかり、瞳の色など目立たないが、ぱっと目を見開いた時に隠れていた色が晒される。
茶色の瞳が光に透けると、金色に見える時がある。獰猛な肉食獣めいた、冷酷な光を閃かせた金色だ。その双眸で凄まれると、ぎょっとするほど凶悪な印象を受ける。並大抵の人間ならば、ここで動けなくなる。
杉元に肩を組まれた商人の男は、分かりやすく青ざめていた。顔面蒼白で言葉を失う男に対し、杉元は目を逸らさずさらに詰め寄る。
「ん? どうした? ほら、さっさと計算しなおせよ、おっさん」
「あっ、はい……そう……ですね」
血の気の失せた唇を震わせながら、男は小さな声で返事をする。小刻みに動く男の手からは、じゃらじゃらとそろばんの悲鳴のような音が聞こえる。
そろばんを弾く男の一挙一動を、杉元は相変わらず射抜くように見つめる。さすがにやりすぎだ、とは思ったものの、アシㇼパは口を挟まなかった。舐め過ぎた態度を取れば、時にこんな天罰が下る。少々気の毒だが、あの商人の男にはちょうど良い機会だろう。
二人の様子を静かに見守っていると、ふと視界の端で何かが落ちた。地面に落ちたのは、二本の筆だ。毛先の先端がやや尖った細い筆と、毛先がぺったりと平べったい筆。よく使い込んでいるのか、二つともところどころに赤や黄といった、鮮やかな着色料が付着している。
「おい、落としたぞ」
アシㇼパは筆を拾い上げると、落としたであろう持ち主に声をかける。しかし落とし主はアシㇼパの声に気づくことなく、すたすたと歩いていってしまう。くすんだ茶色の丸い帽子と、四角い形をした黒い鞄。ぱっと覚えた特徴を頼りに、アシㇼパはその人物を追いかけようと一歩踏み出す。しかし、運悪く目の前を数人横切り、数秒ほど目を離した途端、落とし主は雑踏の中へと消えてしまった。
この人混みの中をかき分けて走ったら、まだ間に合うだろうか。そう思い立ち、アシㇼパは手の中の筆をぎゅっと握る。しかし、行動に移すよりも早く、商人の男がアシㇼパに声をかけた。
「あの……こっ、こちらで、いかがでしょう?」
「アシㇼパさん、どう? 大丈夫そう?」
男は震えの止まらない手で、アシㇼパにそろばんを見せる。先ほどよりもだいぶ取引額が跳ね上がっている。なかなかの高値に、アシㇼパは満足げに頷いてみせた。アシㇼパの反応を見て、杉元はようやく商人の男を解放する。助かったとばかりに、男は脂汗の浮いた額を拭き、ほっと胸を撫で下ろす。
アシㇼパはもう一度人混みの中に視線を移す。もしも気づいて引き返してくれたら、なんて淡い期待を抱いていたが、結局あの落とし主の姿はどこにも見当たらなかった。手の中の筆へ視線を落とす。乾燥して硬くなった毛先から、ほのかに塗料の匂いが立ち上った。
****
人の声が聞こえた気がした。小樽の街から村へ帰る道中、アシㇼパはふと歩みを止めた。山道とはいえ、この辺りはよく山菜を摘みに来る者もいるし、アイヌだけでなく和人も通りかかる場所だ。
聞き間違いでなければ、今のは悲鳴だ。アシㇼパは声が聞こえた方角へ、耳を傾ける。静かに耳を澄ませていると、今度は怒声が聞こえてきた。やはり、気のせいではない。アシㇼパは急いで、声がする方向へ走り出す。
段々と声がはっきり聞こえてくる。アシㇼパは声を頼りに走り、山道から少し外れた細道へ向かう。草木をかき分け、声のある主を見つけたところで、はたと足を止めた。前方に、四人の男の姿がある。何やら揉めている様子だった。
くすんだ茶色の丸帽子──それを被る人物を見て、あっとアシㇼパは気づく。小樽の街で筆を落としていった、あの落とし主だ。右手には四角い黒い鞄を携えている。
落とし主を囲む三人の男のうち、一人が黒い鞄をぶん取った。すぐさま、やめてください! と丸帽子を被った男が、悲鳴のような声をあげる。取り返そうとすると、残りの二人が詰めより、挙げ句の果てには胸ぐらを掴んで恫喝している。
その様子から、アシㇼパはあの三人組が山賊であることを推測する。あの落とし主がここの山道を通った際に、不運にも目をつけられてしまったのだろう。アシㇼパは四人から目を離さないまま、そっと弓を構える。遅れてやって来た杉元が、アシㇼパへ声をかける。
「アシㇼパさん、どうかした? 何か見つけたの?」
ああ、と返事をすると、アシㇼパは一本の毒矢を矢筒から引き抜いた。使うことはないかもしれないが、念のためだ。トリカブトを塗られた面を小刀で削ぎ落とすと、アシㇼパは方向を指し示すように、くいっと顎を動かした。四人の姿を見つけた杉元は、ただならぬ雰囲気を察して、眉をひそめる。
「杉元、頼みがある。あれを仲裁してくれるか?」
事情を理解したのか、杉元は納得したように頷いた。背嚢を背中から下ろし、地面へ置く。腰の銃剣を引き抜くと、自身の銃へ着剣した。ガチッ、と鈍い金属質の音が、いやに耳の奥に響いた。
「仲裁になるといいんだけどね」
薄く笑いながら、杉元が言う。やけに低い声に、アシㇼパは生唾を飲み込む。ひやりと冷たい汗が背筋を流れるが、今はこれが唯一の頼みの綱だ。アシㇼパさんはここにいてね、出てきちゃだめだよ、と杉元はいつものように優しく言うと、四人の方へ向かって歩き出した。
ゆったりとした、迷いのない歩幅。草木を踏み締める音が辺りに響き、四人の喧騒が一瞬静まる。杉元が進む度に、不気味な静けさが広がっていく。なるべく丸くおさまりますように──そう願いながら、アシㇼパは木の影でそっと矢をつがえた。張り詰めた空気を感じ取ったのか、すぐ近くで鳥が飛び去る音がした。
****
「助かりました。何とお礼を言えばいいのやら……」
深々とお辞儀をすると、男は丸帽子を被り直した。ずれた眼鏡をなおし、しきりに顔の汗を拭う。山賊から助け出した男を、アシㇼパと杉元はひとまず自分たちの住む村へ連れ帰ることにした。幸い男に怪我はなかったものの、あのごろつき共に絡まれたのがよほど衝撃だったのか、こうして事が一段落した後も、落ち着きなくそわそわしていた。
「長年旅をしていますが、あんな目に遭うのは初めてで……ああ、巻き込んでしまって、すみません。特に兵隊さんのあなたは、こんな怪我まで」
「俺は兵隊じゃない。とっくに除隊した。それにこんなの、怪我のうちに入んねえから」
言いながら、杉元は自身の鼻に詰めていた綿を抜き取る。綿には赤黒い血がべっとりと付着しているが、先ほどよりも随分と量は減っていた。山賊に顔面を殴られた際に、流れ出た鼻血だ。もう出血が止まったのか、杉元は再び綿を詰めることはしなかった。殴られた左頬も、徐々に赤みが引いてきている。
殺し合いには発展しなかった。山賊達が杉元の存在に気づくと、三人のうち一番体躯の大きい者が、ずんずんと前へ出た。杉元が声をかけるよりも先に、その山賊は杉元に向かって突進し、図体に見合わない素早い動きで銃の先端を掴んで封じると、躊躇いもなく杉元の顔に拳をお見舞いした。それで勝利を確信したのだろう。へらへらと余裕そうに山賊は笑う。しかし、その顔が歪むのも早かった。何せ、不意打ちで殴った相手が倒れない。少しも体勢を崩さない。あまつさえ、すでに反撃の行動を取っている。
油断は命取りだ。杉元に殴り返された一撃が強烈だったのか、その山賊はしばらく立ち上がれなかった。残りの二人はその様子を見て戦意喪失したのか、倒れた仲間に目もくれず、一心不乱に走り去ってしまった。
意外と早く事態が収束し、アシㇼパはほっと安堵する。出番のなかった矢をしまうと、山賊に絡まれていた男の元へ向かう。無傷のようだが、途方に暮れた顔でぼうっと座り込んでいるので、杉元の顔の手当てついでに連れ帰ることにした。これが数刻前の出来事だ。
「これ、お前のだろう? 落としていたぞ」
アシㇼパは街で拾った二本の筆を、男へ差し出した。筆を見るや否や、男は驚いたように目を丸くし、慌てて筆を受け取った。何度も礼を述べながら、慈しむような手つきで筆を撫でさする。よく見ると、男の指先には筆に付着している同様の塗料が、ところどころにこびりついている。
「そんなに大事なものなのか?」
「ええ、もちろん。絵を生業とする私からすれば、筆は自分の腕同然ですから」
やはり男は画家のようだった。四角い黒い鞄を開くと、男はアシㇼパと杉元に中身を見せてくれた。やや硬めの材質の紙が何枚も現れ、どれも絵で埋め尽くされている。
「すごいな、これ。全部お前が描いたのか?」
何枚か拾い上げると、アシㇼパはしげしげと絵を眺めた。淡い水色が紙にすうっと伸び、晴れ渡る空を美しく描いている。その空の下を、緑色や黄色といった様々な色が草木を表現し、豊かな自然が広がっている。野に咲く花々は鮮やかな色で塗られ、今にもそよ風で揺れ動きそうなほど、絵の中でみずみずしく生きている。他にも、仲睦まじい鹿の親子の様子や、魚を咥えて飛び立つ鳥の姿、切り立った崖や澄んだ清流など、この男が目にしてきたあらゆる山の風景が、生き生きと描かれている。
「北海道の豊かな自然を、ささやかながら絵として残す活動をしています。そのためにこうして転々と旅をしているのです」
男は目を細めて言う。先ほどまでの落ち着きなかった様子から打って変わって、絵を見つめる男の眼差しは慈愛に満ちていた。
「なら、しばらくここにいるといい。旅をしてるとは言え、滞在場所があった方が絵を描くの捗るだろう? 食事と寝る場所くらいなら、提供してやる」
アシㇼパの提案に、男は目を瞬かせる。えっと、その、いいのですか? と躊躇いがちに訊ねる男に向かって、アシㇼパは大きく頷いてみせた。
「私たちもアイヌ文化を残す活動をしている。道は違えど、後世に何か残そうとしている人は手助けしたい」
迷いなく言い放つ。男はしばらくぽかんとしていたが、やがてはにかむように笑みを広げると、ぽりぽりと後頭部をかいた。アシㇼパは手元の紙へ視線を落とす。この先の未来にも続いてほしい光景が、色とりどりの鮮やかな絵の具で彩られている。
****
画家の男は二週間ほど滞在した。村の子ども達によく懐かれ、後半はほぼ村の中で過ごしながら、子ども達の要望に応えて様々な絵を描いていた。そろそろ別の場所へ発つとのことだったので、アシㇼパはあらかじめ作っておいた携行食をその男へ持たせる。
男は家を出る間際、二人に礼がしたいと申し出た。その内容は、二人の絵を描いて贈りたい、とのことだった。突拍子な提案に驚くアシㇼパとは対照的に、杉元は興味津々に食いつく。
「へえ、俺たちの絵か。いいぜ、面白そうだ」
「それでは、構図はどうしましょうか? お好きな体勢を取ってもらって構いませんよ」
好きな体勢──。アシㇼパと杉元は顔を見合わせる。急にそう言われても、なかなかぴんとくるものではない。
「こうして並んでるのは駄目か?」
「いいですが……写真じゃないので、もっとお二人らしくあってもいいんですよ」
二人らしく、と言われて、アシㇼパは悩ましげに首を傾げる。姿をそっくり映される、という体験は、写真館でしか経験がない。金塊の旅をしていた頃、写真館で一度撮ってもらったことはあるが、あの時はただ動かないよう要求され、二人並んでレンズを見たままじっとしていたものだ。
考え込んでいるうちに、アシㇼパの左手がひょいと掬い上げられた。見ると、杉元の左手がアシㇼパの手を包み込んでいる。
「じゃあ、こういう感じで手を握ってるのは?」
杉元の声が頭上から降ってくる。アシㇼパの背後から密着するように、杉元が体を寄せる。
「今ざっくり描き写すので、どうかそのまま」
男はそう言うと、大きめの用紙に向かって鉛筆を走らせた。時折こちらを真剣に見つめては、素早く線を重ねていく。描くのに集中する男の様子をしばらく眺めていたが、アシㇼパはふと繋がれた手に視線を移した。
大きく武骨な杉元の手と、包み込まれる自分の手。三年の月日を経て、それなりに背も伸び、手足にも筋力がついてきたが、こうして改めて見比べると、超えられない体つきの差がはっきりと分かる。
分厚い手のひら、あちこちに浮く太い血管、乾燥してささくれた指先や、少し高めの体温。金塊の旅の道中だって、何度も手に触れたり、繋いだり、掴んだりを繰り返してきた。こうして手に触れるのは、初めてのことではない。だというのに、長い間繋いだままでいると、胸の奥がくすぐったくなる。じわ、と体温が上昇する。生まれ出た熱が、耳の先まで侵食していく。
ちらりと上目遣いで杉元の様子を窺う。ほんの少し見るだけだったのに、思いがけず目が合った。繋がった視線の先で、杉元が柔らかく微笑む。アシㇼパはぎゅっと唇を引き結ぶ。意識するまいと心に決めても、無駄な足掻きだった。手のひらから噴き出た汗が、重なる二人の手をしっとり湿らせていく。
はい、終わりました、と声がかかり、アシㇼパはぱっと手を離した。うるさい鼓動を誤魔化すように、アシㇼパは小さく咳払いする。握っていた左手は、まだじんじんと痺れるほど熱い血流が巡っている。
「いいですね。いい感じのお二人です」
では、この絵が完成したら、後日送りますね。男の言葉に、アシㇼパは頷く。男は紙を丁寧に布で包むと、大事なものをしまい込むかのように、四角い黒い鞄の中へ入れた。
その様子を見ながら、アシㇼパはそっと胸に手を当てる。とくり、と心臓が跳ねるように脈打つ。共に故郷へ帰って、もう三年。恋情芽生えたこの想いは、年月を経てもなお色褪せることなく、ずっと胸の中で息づいている。
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三ヶ月後、蝉が鳴き始めた頃だった。アシㇼパが山から帰って来るや否や、フチが小荷物を差し出した。先ほど家に届いた、とのことだった。薄茶色の紙で何重にも包まれた、四角い形の小荷物だ。硬い結び目に苦戦しながら、アシㇼパは開封していく。よほど濡れてはいけないものなのか、ほどいていく途中で珪藻土らしき粉があった。
もしや、という予感は的中した。中から現れたのは、一枚の絵だ。その絵を見て、アシㇼパは目が釘付けになった。やがて、ふっと口元に微笑を灯す。体の奥から込み上がる感情が、笑みとなって溢れ出る。
「アシㇼパさん、どうしたの? 面白いものでも見つけたかい?」
遅れて家に入ってきた杉元が、木の実の入った籠を置きながら、アシㇼパに訊ねる。額から伝い流れる汗を拭い、好奇心に満ちた顔でこちらに近づいて来る。
「ああ、いいのが届いた。ほら、見てくれ杉元」
どうせ叶わない、ありもしない未来。かつてそう決めつけていた、あの時の灰色の感情は、今やアシㇼパの中に存在しない。望んだ未来は、確かに輪郭を持ち、眩いくらいに色づいている。
まるでこの絵のように。絵の中で手を取り合い微笑む、二人のように。