箱庭の雛鳥今、D4の前に聳え立つ高い壁。
この壁の向こうにあるのは政権でも伝説でもない。
とある反社会組織の根城だ。
「本当にここで良いんですか?」
燐童の半信半疑な問いかけに、有馬は「あぁ」と確かに頷く。
「武器も物資も確実に補給できる。あと車もな」
ここまで乗ってきた車はつい先程警察とのカーチェイスで故障してしまった。
追っ手からは何とか逃げ切ったはいいが、ここは今日到着しようと思っていた目的地にはまだ少し遠い位置。
時刻は22時を過ぎた、闇の濃い夜。
中途半端な場所で足を失い、寝床の確保も見通しがつかず。どうしようかと話し合っていた最中、有馬が提案してきたのがこの反社への襲撃だったのだ。
「こんなに高い塀で建物を囲っているなんて、刑務所とあまり変わりませんね」
「どうせ外からの襲撃にビビってんだよ」
時空院の言葉を受けて、有馬は壁の向こうを嘲笑う。
夜風が冷たく、四人は壁の脇に身を潜めて審議を続けていた。
「ここは組で言えば若頭辺りの幹部が暮らしてる屋敷だからな。この時間じゃ住み込みの若手を何人か置いてるくらいだ。俺らなら余裕だろ」
ずいぶんと詳しい。言葉の端々で有馬のバックボーンが透けて見えるが、誰もそこには触れなかった。
「でも、」と燐童は壁を見上げる。堀の高さは2メートル以上あるだろうか。これが建物の四方をぐるりと囲っているし、正面にはまるでヤクザ映画のような荘厳な門が構えられていたが、あそこからの侵入も自殺行為だ。
「正直、この壁を全員が乗り越えるのも一苦労ですし、庭に見張りがどれだけいるかも調べがついていませんよ」
「じゃあ谷ケ崎だな」
唐突なご指名。壁を見上げてさらりと告げた有馬の横顔に、谷ケ崎はじろりと据わった視線を刺す。
「………。」
こういう場面では自分が適しているのは自覚しているし、有馬の提案に異論はない。が、……その言い方が妙に腹に引っ掛かるのだ。
不満を訴える眼差しに、有馬は今度は堂々と谷ケ崎を真正面に見やった。まるで子供に言い聞かせるみたいに、わざとゆっくり言う。
「 じ ゃ あ 谷 ケ 崎 だ な 」
分かりやすい挑発だ。いちいち苛ついても仕方がない。
「~…分かった」
溜め息と共に渋々と了承する谷ケ崎の腕をバシと叩く有馬は、すっかり調子良く指示を出す。
「よし。中の奴ら一通り倒してこいよ。そしたら中から門が開けられんだろ。俺らは外で待っててやるからよ」
「終わったら電話ください」
すかさず燐童が乗ってくる。どうせこうなることを見越していたに決まってる。
軽く飛べば堀の上には両手が掛かった。あとは指の力だけで充分だ。あっさりと持ち上がった谷ケ崎の身体は、猫のように壁の上に屈む。見える範囲に人はいない。
「さすがですね伊吹~」
「谷ケ崎さんは頼りになります~」
「いてら~」
下で暢気に手を振ってくる面々には冷たい一瞥だけ返して、谷ケ崎は壁の向こうへと飛び降りた。
確かに、金と権力にものを言わせたような広い敷地だった。
有馬はやくざの類いのように語っていたが、イメージしていた日本屋敷というよりはコンクリートで固められた豆腐のような建物。
少ない窓にはカーテンやウィンドが敷かれていて、電気が点いている部屋とそうでない部屋がある。有馬の読み通り、詰めている人間はそう多くはなさそうだった。
「南側は制圧した。反対側は分からない」
しばらくして、燐童のスマホに谷ケ崎から連絡が入った。
壁の向こうからはまったく音がしない。襲撃を受けたにしては人の悲鳴も足音もしなかった。闇の住人としての谷ケ崎の仕事ぶりが伺える。
「では私がいきますよ」
今度は時空院がそう挙手し、同じようにひらりとコートをはためかせて堀を乗り越えていった。
「任務完了です」
ものの数分。正面の門は内側から開放される。
中で待っていたのは谷ケ崎と時空院と、捨てられた人形のように転々と倒れている人間達。
「おいおい…お前ら殺したのかよ」
「殺す必要はないでしょう」
目の前に広がった庭の光景に、有馬と燐童のげんなりと肩を落とす。迎え入れた二人はきょとんと目を見合わせる。頭の上にはてなマークまで付けて。
「そういう注意事項は先に言っておいていただかないと」
悪びれもせずに応える時空院の隣で、谷ケ崎は持っていた人間だったものを放り捨てる。どしゃりと落ちたそれは、赤子のように首が据わっていなかった。
「谷ケ崎さんは兎も角、時空院さんは分かってやってますよね?」
「ですが黙らせるには最も効果的な方法だと思いますがね」
「はいはいもういいからとっとと中行くぞ」
どう言っても無駄だ。この二人は"制圧"の手法が片寄っている。
「こうなったらどう転んでも同じですね。全員黙らせていきましょう」
「あぁ…分かってる」
知っている方法が、それしかないかのようだった。
それなりに広い建物だ。二手に分かれて制圧していく。
「がは…っ!」
谷ケ崎が壁に叩きつけた男の顔を見て、有馬はピクリと眉を上げた。ぴしゃりと声を上げる。
「谷ケ崎!そいつは連絡係だ、殺すな!」
「!」
真正面から首を鷲掴んでいた手が、ふと緩む。その緩みを好機と見た男は谷ケ崎の支配から抜け出そうとしたが、結局、逃げられはしなかった。ここまで距離が詰められてしまえば、どう足掻いても怪物に喰われる運命だ。
「なぁ、定時連絡って何時だったっけな?」
大量の鼻血を垂れ流す男はもはや四肢の関節もまともに動かない。
それでも男は組織への仁義を通し、口を割ろうとはしなかった。
取り上げたスマホのロック画面は顔認証だ。有馬は無理やり男の髪を掴んで認証に当てさせ、セキュリティを解除する。
通話記録は毎日九時、十七時、二十三時。あと十分で二十三時だ。
「寿命が延びたな?」
銃口を突きつける有馬の笑い声はカラカラに乾いていた。
「死にたくなけりゃせいぜいこの十分で俺らを満足させる方法、よーく考えろ」
それで助けてやるとは、言わないけどな。
十分後の銃声は、頑丈な壁の向こうには響かなかった。
一際大きな応接室。黒光りしたソファーと大理石のローテーブル。大企業の社長がふんぞり返りそうなデスクとチェアー。
その社長椅子に、リーダーの男を捕えているのは時空院だった。
「さあ、武器庫のカギは何番ですか?」
男の片目から、ぐちゃりとナイフの刃が引き抜かれる。
「喉は潰していませんよ?お喋りできますよねえ?」
逃げようとする顎を頬ごと掴んで上向かせる。その手に眼からの出血が垂れてきても、構わずに拷問を続ける。
まだ生きている眼にナイフの切っ先をギリギリまで突きつけると、男はぐっと身体を強張らせてのけ反ろうとした。は、は、と荒く乱れる呼吸のリズムを楽しんで、時空院は目を見開いて笑う。
「こちらの眼は止めておきましょう。破壊されていく己の身体を見届けられないのは、もったいないですからね」
燐童はデスクに座り、足をぷらぷらと遊ばせていた。
「その人、イカれてるんです。早く話してくれないと次は指が全部失くなっちゃいますよ?」
軽やかにそう告げて愛らしく笑う。充分、こっちだってイカれていた。
「おいおい何手こずってんだよ」
ズカズカと部屋に入ってきた有馬を見て、男は息を飲んで戦き、片目を見開く。
「っお前、!?」
パン! 最後まで言わせずに足を撃ち抜いた。銃弾の勢いに弾かれて、男は椅子から転がり落ちる。有馬は撃ちながらも歩を止めずに一気に男に詰め寄っていて、床に転がったその身体を靴先で思いきり蹴飛ばしていた。
うあと呻く男の頭を、銃身でコツコツ突いて嬲る。
「なぁ、オンナは元気か?」
うつ伏せに転がし、尻ポケットからスマホを抜き取る。こちらは指紋認証だ。
「身体がありゃ解除出来る方法なんか選んで、ぬりぃ奴しかいねぇーのな相変わらず」
有馬が男の背に跨がって手首を上から押さえつけると、意図を汲んだ時空院はいとも簡単にナイフで人差し指を切り落とす。犬のような悲鳴。痛みでのたうち回る男は無視し、有馬は床にぽつんと残った指を拾い上げる。
それは人参でも切ったみたいに、綺麗な切り口だった。
今時のスマートフォンはどんな金庫よりも重要な情報の宝庫だ。
カメラのアルバムの中には男女の仲睦まじい姿が記録されていた。その画像だけをまざまざと見せつけて、有馬は低く問う。
「この家ん中にある金庫の番号全部だ、今から連れに開けに行かせる。嘘ついたら風穴あくのはてめえの頭だけじゃねえぞ」
銃口を額にぴったりと当てられた男は もはや覇気を失い、潰れた鼻と口から血と唾液が混ざった体液をだらだら垂れ流していた。
しばらくして、燐童から「すべて開きました」と電話報告が入る。
「…こんなことして、お前らただじゃすまねえからな……」
ぐちゃぐちゃの顔から息も絶え絶えに紡がれる恨み節。
ただこのまま死に絶えていくだけの身体から発せられる音に、真摯に耳を傾けるような情緒はここにはない。有馬の後ろで、時空院は爛々とナイフを研いでいたし、谷ケ崎も大人しくソファーに座っているだけだ。
静かに震えた男の呼吸と、銃弾が装填される音。腫れ上がった目蓋の奥の瞳は覚悟と恐怖に揺れていた。有馬に向けて、最期の言葉を吐き捨てる。
「地獄に堕ちろ」
「てめえがな」
直後、男の頭は吹き飛んで 後ろに倒れていった。
「………」
引き金を引いた有馬はそれ以上何も言わなかった。谷ケ崎から見えたその静かな横顔は、何と表現すればいいのか分からない。
ただ、子供が泣き疲れて茫然としているような…そんな空っぽな目をしていた。
―――……
結局、どうやら物資調達と銘打って有馬の個人的な事情のひとつに付き合わされたらしい。そうと気がついていても、わざわざ口に出す者は誰もいなかった。
金や武器の整理整頓が済み、燐童はふぅと一息入れる。
「今日はこのままこの館に泊まらせていただきましょう」
ローテーブルに広げられた物資は潤沢だ。車のキーも見つかり、ひとまずこの襲撃から得た収穫は万々歳だろう。
「朝の定時連絡は九時だったから、それまでに出発したほうがいいな」
「今からなら充分な休息になりますねえ。朝食はホットケーキにしましょうか」
「ね?伊吹」とほとんど同意を求めるような問い掛けに、谷ケ崎は眠気を抑えながら溜め息で返す。
「寝る場所さえ確保出来ればそれでいいだろ」
「そうですね。一応他の部屋もすべて確認して、寝泊りできる場所を探しましょう」
転がっている死体は端に寄せて積み上げながら、また二手に分かれて館内の見回りを開始した。
カチャン…
建物二階はほとんど電気が点いておらず、暗く静まり返っていた。
「ベッドがある部屋は見当たりませんねぇ」
時空院は目の前のドアを開け、壁のスイッチで電気を点けて中を確認している。その後ろで、谷ケ崎は微かな物音にひたと足を止めた。
「…………」
廊下の奥の暗がりに目を凝らす。身体中のアンテナを一気に張り巡らせる。勘違いではない。
「どうしました伊吹」
「ドアが閉まる音が聞こえた」
「…なるほど」
行きましょう、と谷ケ崎が見据える暗闇に二人で歩を進めた。
コンコン、ガチャリ。コンコン、ガチャリ。
コンコン、ガチャリ。コンコン、ガチャリ。
時空院は廊下に連なるすべての部屋をノックし、ドアを小さく開け閉めする。その度に番が合わさる音がした。
コンコン、ガチャリ。コンコン、ガチャリ。
コンコン、カチャン…
一番奥の部屋。そこのドアの開閉音で、ついに谷ケ崎は静かに指を差した。
「此処だ」
閉じたドアをもう一度、時空院が指先だけで押しやるように開ける。開け放たれたその先は、廊下より更に真っ暗な空間だった。
「誰かいらっしゃいますか~?」
「それで出てきたらただの馬鹿だろ」
暢気なやり取り。けれど一寸の油断もない手練れた強者の空気を背中合わせに放ちながら、二人はゆっくりと部屋に入る。
おそらく造りは他の部屋と同様で、パチリと壁のスイッチで電気が点いた。人影はない。部屋中央まで足を踏み入れ、家具や装飾を見渡す。
小型のベッド。教材が積まれた勉強机。背の低いクローゼット。ぬいぐるみ。フィギュア。私立小学校の男子制服。
明らかに子供部屋だった。
「こんなアジトに子供部屋があるなんて物騒ですね」と言いながら時空院はベッド、マットレスの凹みに手を触れる。まだ温かい。
時空院の動きを察していた谷ケ崎に、アイコンタクトだけで結果を伝える。確実に誰かいる。
「次はどこを見ましょうか?」
部屋を出て行くと見せかけて同時に、谷ケ崎はクローゼットを、時空院はベッドの下を、ガバ!と一気に開放した。
「……」
クローゼットは子供用のコートやジャケットが吊るされていて、手を差し入れても人が隠れている隙はなかった。
「出てきてください」
背後、床に這った時空院から優しい声。
ベッド下に向けて差し出した手を恐る恐る握ったのは子供の手。壊してしまわないように丁寧に導いて引っ張り出されたのは、10歳前後の男の子だった。
「こんばんわ」
混乱や怯えを感じる余裕もないのだろうか。何を考えているのか分からない瞳がじいっと時空院を見つめている。
無反応な子供に、時空院はやんわりと微笑んで手を差し出した。
「何か外と連絡するものを持っていますか?」
子供は特に抵抗する様子もなく、寝間着の裏からスマートフォンを取り出した。
素直に提出されるそれを受け取ってみれば、パスワードは設定されておらず、すぐに電話やメッセージが送れる状態。しかしそのどれを確認しても、どこにも通報はしていないようだった。
谷ケ崎がドアの音に気がついてからの数分。通報しようと思えば出来たはずだ。
「我々に気づいてから、どこにも連絡をしなかったのですか?」
「…うん」
子供の声は小さかったが、動揺は感じられない。もしかすると、こんな悪い大人の脅しや尋問は一度や二度ではないのかもしれない。
「スマホを点けたら明るくなって、ここにいるのがバレると思ったから…」
確かにこの階は廊下も部屋も真っ暗だった。谷ケ崎達は照明を一部屋づつ点けて歩いていたのだから、子供のほうが先に侵入者達を見つけたのは必然か。この非常事態に、よく頭が回ったものだ。
「聡明な子ですね」
にっこり。心からの賛辞を送り、時空院は子供に微笑みかける。
手に持っていたはずのナイフはいつの間にかホルダーに戻していて、穏やかに語り掛ける姿は小児科の医師のようだった。
「二階に子供がいた」
谷ケ崎からの電話報告を受け、燐童と有馬は階下の見回りを中断し子供部屋にやって来る。
「おいおい面倒くせえな」
入室してきた有馬が当然のように銃を持ったままであることに、さすがに大人しかった子供もヒッと息を飲む。
「気絶させておきましょう。目撃者は少ないほうがいいに決まっています」
さっくりと言い放ち室内を横断してくる燐童の腕を、強く掴んで止めたのは谷ケ崎だった。燐童は掴まれた腕を見てから、ゆっくりと顔を上げる。言葉とは裏腹の、不釣り合いな笑顔が谷ケ崎を見据えた。
「…なんですか、谷ケ崎さん」
「必要ない」
「外の連中は躊躇なく殺しておいて、この子供には手を出さない。その違いはなんですか。矛盾していますよ」
谷ケ崎の意見を覆ってねじ伏せてしまおうとする声色だった。
「なにも僕は殺そうと言ってるわけじゃありません。僕らと一晩過ごすほうがよっぽどこの子にとっては悪夢だと思いませんか?」
薄っぺらい思いやりで誤魔化そうとしている。
「痛めつけずに意識を奪う方法なら僕の方が得意です」
何の慈悲も感情もない。どろりと淀んだ作り物の飴玉のような視線に見つめられて、子供は思わずベッドから飛び降りる。傍に立っていた時空院のコートの中に隠れてしまった。
「おやおや」
状況を静観し後ろ手を組んでいた時空院は忍び込んできた子供を追い払いはせず、むしろそっと裾を解放し迎え入れる。
有馬はその様を鼻で笑った。わざとらしく子供と視線が合う位置にしゃがみこんで言う。
「おいおいそいつが一番やべえヤツだぞぉ?」
「失礼ですね、心温まる信頼を築いているというのに」
時空院も負けずとわざとらしく胸に手を当てて応える。コートの中の子供は誰とも顔を合わせないように、時空院の腰に顔を埋めて隠れていた。
子供の様子を見やり、燐童はもはや嫌悪感を隠さずに舌を打つ。
「これ以上馴れ合ったら僕らの個人的な部分まで覚えてしまいますよ。痛みは与えません気絶させるだけです」
掴まれた腕を強引に振りほどいてでも子供に近づこうとするが、谷ケ崎の握力はそれを許さない。微かな火種がじんわりと延焼していく低い声。
「…必要ねえって言ってんだろ」
「外に連絡する手段を持ってるかもしれませんよ」
「それはもう丞武が確認してる」
「他にも端末を持ってる可能性は?スマホを二台持っている子供なんて今時ざらにいますよ」
「見れば分かるだろ、二台隠し持てる恰好じゃない」
「子供だと思って甘く見てるんじゃないですか、このくらいのガキでも人を騙す嘘は充分つけますよ。何ならこのぐらい幼くて可愛い年頃のほうが一番騙しやすい」
「嘘はついてない。それぐらい分かる」
「分かる?何をですか?何も分かってないでしょう」
(……どうするか)
有馬は静かに燐童の背中を注視していた。
この言い争い、内容はどうであれ様子がおかしいのは明らかに燐童のほうだ。
燐童がこんなに谷ケ崎に対して厳しい口調と表情で詰め寄ったことは今まで一度もない。
予想だにしなかった口戦。張り詰めていく空気を感じながら、有馬は心の中でうんざりと息をつく。まさに、やれやれだ。
自分が割って入る話題ではないが、この押し問答はラチが開かない気がする。
(何とかしろ)
そんな意図を持って時空院に目をやると、向こうも同じ考えだったのかパチと目が合った。ほんの一瞬の視線の交差。こういう時、最短で状況を読み、即座に最良を判断する。それが、闇を生き抜く鉄則だ。
有馬が動かないことを察し、時空院は白々しく今気づいたかのような声を上げる。場を収めるには、どちらを諌めるべきか…。
「阿久根くんがそこまで声を荒げるのは珍しいですねえ?」
「!」
その一声で、奇妙にいきり立っていた燐童の瞳孔はハッと色を変えた。
「俺は、っ……」
間違えた。自分の言葉に一瞬愕然とする。沸騰していた湯に冷や水を注がれたようだ。
そうか、落ち着け。自らにそう言い聞かせて、無理やり谷ケ崎から目を反らし、微かに溜息をついた。
「……僕は、ただ無駄なリスクを回避したいだけですよ」
「私はキミの判断を批難しているわけではありません」
自分の言動を自覚し、自分なりに事態の収束を図っている。燐童のその努力を受け取り、時空院は穏やかに笑んだまま続けた。出来るだけ、嫌味には聞こえないように。
「確かにこの子は我々の顔を見てしまいました。キミの言い分は理解できます。しかし既に見られてしまっている以上、阿久根くんの案では意味がないように思います」
「っそれは、……確かにそうですね…」
正論だ。もう言い返す理論は展開できない。ここは引くのが賢明か。
「すみません、熱くなりすぎました…」
「ではこうしましょう!」
少し悔しさを残しつつも萎んだ燐童に対し、時空院は一本指を立てる。
「この子のことは私と伊吹で見張ります。それでどうですか?」
「俺が何もしなくていいんなら俺はそれでいい」
間髪入れずに有馬が賛同する。はいはいこれで解決。この話は終わり。話し合いは終了。待ってましたと言わんばかりだ。
有馬の思惑も察し、もはや燐童はしっかりと折れるしかない。
「……分かりました。ならその子はこの部屋からは絶対に出さないでくださいね。それから谷ケ崎さん、」
最後、もう一度谷ケ崎に目をやる。腹の奥まで見抜くような白眼が、ブレることなく燐童を見ていた。やれやれと、いつも通りやんわり笑ってみせる。
「いい加減手を離してください。僕の腕、あと五秒で折れそうです」
―――……
「何、子供嫌いなん?」
一階の隅にあった寝室は、おそらく住み込みの若手に宛がわれていた部屋だろう。
ツインルームのように配置されたベッド。その片方に腰を落ち着けて、有馬は寝入り前の一服を吹かしていた。
さっさと寝てしまおうと布団を剥いでいた燐童は、有馬の問い掛けににっこり笑って振り返る。
「ええ?そんなことありませんよ?」
作り物の笑顔。今更あの状況を誤魔化せるわけがねえだろうが。呆れてハッと吐き捨てた有馬の笑いに、燐童は苦し紛れに頬を引き攣らせていた。
少し間を置いて、燐童は静かに語り出す。
「…有馬さんは見ていて嫌にならなかったんですか」
「あ?何をだよ」
「……自分で自分を守れない存在、ですかね」
「環境に甘えたような生温い奴は確かに気に入らねぇーな。でもあれは……どう見てもただのガキだっただろ」
自分も谷ケ崎と同じくあの子供に危険は感じなかったし、その反面で時空院と同じく燐童の言い分にも一理あると思った。
どちらの肩を持つわけにもいかなかったのだ。だから時空院に任せた。丸投げした。
「あいつらが見張るっていうなら、別にそれでいいんじゃねえの」
あーあと身体を伸ばして欠伸をすれば、燐童は小さく諦めたように笑った。
「……なーんだ。結局僕の一人相撲になってたんですね」
燐童が一体何と重ねて子供の話しているかは分からないが、何か思うところがある表情なのは見ていて感じるものがある。
でも、有馬は何も尋ねない。
そこにむやみやたらと触れるのは、きっと"D4"のルール違反だからだ。
こいつらだって、今日の俺に何も聞いてこない。暗黙のルール。互いにそうやって触れ合わないことで、自分の心を守るのに必死なんだ。
「まあ…腕が折れなかっただけマシだろ」
「…そうですね、あとで谷ケ崎さんにはちゃんと謝ります」
折れることに納得していないのが一目瞭然な表情。思いがけない子供っぽさに、有馬は思わず笑ってしまう。
「別に謝ることじゃなくね。意見が食い違ったってだけの話だろ。向こうだって謝ってほしいとかそんなくだらねえこと、どうせ考えちゃいねえわ」
脳裏に過るのは子供部屋に残った谷ケ崎の背中。何となく落ち込んでいるように見えたのは気のせいだろうか…。
この話はもう終わり。そんな空気を込めて、燐童のほうから茶化して肩を竦めた。
「さすが、いつも谷ケ崎さんとケンカしてるだけのことはありますね」
「うるせえよ」
別に誰のことも"分かってる"わけじゃない。
―――……
「隠しカメラなどもないようですね」
室内を一通り点検し終え、時空院は息をつく。こんな家業に生まれた子供なら、誘拐を警戒してカメラの一つでも仕込まれているのではと疑ったのだが。ここは至って普通の子供部屋だったようだ。
「……そうか」
うわの空な返事を返す谷ケ崎はベッド脇に立って、眠っている子供をぼんやりと見下ろしていた。
時間も時間だ。自分を傷つける恐れのない二人組が残ったことで安心したのか、子供はすぐに寝ついていた。
時空院が少し空気を和らげるような会話を交わして寝かしつけたのだが、一番庇う様子を見せた谷ケ崎自身は子供とは目も合わせず、一言も話さなかった。時空院もそれを強要はせず、谷ケ崎の好きにさせていた。
『矛盾していますよ』
燐童の言葉は、時間が経つにつれてどんどん深く刺さってきた。
…確かに自分の行動は矛盾している。燐童の主張も、理解出来ないわけじゃない。
きっと正しいのは燐童だ。分かっている。
子供の身体なんてきっと谷ケ崎にしてみれば砂の器だ。少し力を込めれば簡単に粉々に出来るだろう。
「………~」
でも、出来ない。
今こうして目の前にある無防備な細い首を捻るのは、違うんじゃないか?
どうしてもそんな迷いが消えず、手は動かなかった。
次第に頭痛を覚えて額に指を添える谷ケ崎を見守り、時空院はそっと声を掛けた。
「阿久根くんに言われたことが気になりますか」
図星だろう。
「どうしたらいいのか分からない…」
俯いたまま、とても頼りない声が返ってきた。
「伊吹より少し長く生きてきた私に言えるのは、その矛盾にはきっといつまでも答えは出ないということです」
対等に渡り合える相手と殺し合いたいと思う反面、そんな相手の足りない部分は補ってやりたいと思う。時空院にとってはどちらの感情も本物で、嘘ではない。
人間とはおかしな生き物だなと自分でも思う。
「必ずしも正しさを選ばなくてはならないというわけではありません」
今日の谷ケ崎が選んだのは"理論"ではなく"感情"だったのだ。ただそれだけのこと。落ち込む必要なんてない。
それを分かってほしくて、時空院は出来るだけ穏やかに語りかけていた。
「そう簡単に割り切れないのが、人間というものですよ」
迷って当然だと言われている。
この胸の中に渦巻く息苦しさは、許されたことでいくらかラクになったような気がした。少し軽くなったその胸の隙間に、たっぷり時間をかけた深呼吸をして、新しい空気を取り込む。
「……俺が見張るから、丞武は休んでいい」
そう伝えると、時空院は安心したように頷く。
「ではあとで交代しましょう。先に軽く休ませていただきますね」
背中に触れた手はぽんぽんと、まるで子供をあやすみたいだった。
――……
交代にやってきたのは燐童だった。
「時空院さんと交代してもらいました」
谷ケ崎はベッドの傍の床に座っていた。
思いがけない人物の登場に一拍だけきょとんと目を丸くしたが、それでも深くは聞かずに「そうか」とだけ言う。時間潰しに手にしていた絵本を床に置いて立ち上がった。
「ご心配なく。今更その子供に危害を加えるような真似はしませんよ。それから、この先も目的を達成するまでは行動を共にするわけですし、妙なしこりは残したくないので言わせてもらいます」
ツンとした声色で矢継ぎ早に話す燐童は、やけに強気だった。
「僕は謝りませんからね」
「?…謝るって何のことだ」
……嘘だろ。信じられない。
拍子抜けしてしまった。
有馬の言うとおりだった。谷ケ崎にとっては謝る謝らないの話じゃないのか…。
「~もういいですよ、休んでください」
真意を説明するのも恥ずかしいから、シッシと追い払うように退室を促した。
あぁと軽く応えた谷ケ崎は、床に落ちていたパンダのぬいぐるみを子供の枕元に添えて、部屋を出て行く。
「……谷ケ崎さん、」
やっぱり、少し悔しい。自分の行動が優しさだとは微塵も思っていないのだろう。嫌味な言葉が口をついた。
「もう僕の腕、折ろうとしないでくださいね」
「あぁ…分かってる。悪かったな」
去り際、谷ケ崎は背中でそう言った。
(なんだよ…)
パタンと閉まったドアの向こうに、燐童は唖然とする。まさか向こうから謝られるなんて…。
「~~····っ」
己の甘さを少しは反省しろ!と刺してやるつもりだったのに、そんな風に受け止められてしまったら逆に奇妙なこそばゆさが残ってしまう。
(なんでそんな、何でもないことのように人の言葉を信じるんだ…)
谷ケ崎のマイペースに引っ張られている。
ダメだ、切り替えろ。ぁあもうと苛立って頭を振ると、不意に谷ケ崎が床に残していった絵本が目に入った。
26人の子供が1ページずつ淡々と死んでいくだけの、不気味な絵本。
そのアンバランスなチョイスに、とうとう観念して笑ってしまった。力が抜ける。
「いや子供部屋で読む本じゃないだろ…」
本当に困ったことに、肝心なところで掴めない男だ。
―――……
翌日。
午前の定時連絡が来る前に、D4はこのアジトを出発する。
谷ケ崎は閉め切っていた子供部屋のカーテンを開け、子供の肩をやんわりと持った時空院が彼を窓のそばへと導いた。
「あの車がここから遠ざかってから通報してください」
窓から見える車を指差して言う。
そのやり取りを、燐童と有馬は部屋には入らずドア口から見ていた。
「約束できますか?」
頷く子供に、時空院は満足げに笑っていた。
車に乗り込む有馬と燐童の後ろを、谷ケ崎はぽてぽてとついて歩いていた。
ふと気になって、子供部屋の位置を振り返って見上げる。
「…………」
子供は言われたとおりに部屋の窓からこちらを見ていて、谷ケ崎と目が合うと少し遠慮がちに手を振ってきた。色の薄い唇が小さくバイバイと呟いてる。
「……、」
どうやら、谷ケ崎だけが少年の別れの挨拶に気がついている。
どうしたものかと一瞬考えたが、それでもぎこちなく、戸惑いながら手を振り返した。バイバイ、とまではさすがに口に出来なかったが…。谷ケ崎なりの返事をしたつもりだ。
そうして最後は振り終わった手をどうしたらいいのか分からず、きゅっと握りしめてポケットに隠した。
「あのバカ、忘れ物しました~じゃねえよ」
「まあまあ気づいただけ良かったじゃないですか」
後部座席に乗り込むと、運転席と助手席ではそんな会話をしていた。
昨晩の厚い雲が嘘みたいに日が射している。眩しいのは苦手だ。光の反射から逃げて顔を背けていると、時空院が隣に乗り込んできた。
「お待たせいたしました」
平然とシートに腰を落ち着ける時空院に、有馬は運転席からビシ!と指を突きつける。
「てめぇ谷ケ崎の世話焼いてて自分が時計忘れるとかマジでねぇぞ」
「仰る通りですね。だからお待たせしないよう、五分とせずに戻ってきたじゃないですか」
悪びれもせずにそう言いながら、そそくさとコートのポケットからメープルシロップを取り出して見せる。
「お詫びにどうぞ」
「いらねえよ!何取りに行ってんだよ!」
弾き返されたそれを、時空院は笑いながら口に運んでごくごくと牛乳みたいに飲み始める。朝からよくそんなものが飲めるなと、隣で呆れながら感心してしまった。
「さて、皆さん他に忘れ物はないですか」
「あったとしてももう戻らねえーよ」
「そうですね、出来るだけ早くここから離れなければなりませんしね」
「それはご丁寧に通報を促してくださったおかげですよ」
真新しいベンツの中、軽快な会話が続いていく。
車が門を超えてから、谷ケ崎は肩越しに陥落したアジトを振り返った。
窓際に子供の姿はもう見えなかった。
きっと今頃言われた通りに通報しているのかもしれない。
「…………、」
出来ればあまり館内を歩き回ってほしくない…。そう思う自分の心には、そっと目を伏せて蓋をした。
数日後の新聞。
TDDの活躍を大々的に報じる一面。その裏の裏、広告が大半を占めるページのそのまた更に小さなスペースに、その記事は載っている。
見出しは『抗争か?反社アジト一晩で壊滅か』
内容は至ってシンプルなものだ。
反社会組織のアジトが何者かによって襲撃された。犯人は複数人と思われるが、まだ捕まってはいない。手掛かりはほとんど残されておらず、犯罪に手練れたグループの犯行だろうと記載されている。
おそらくこれを読む貴方のほうが、真実をよく知っているだろう。コンクリートで覆われた小さな箱庭で起こった、ささやかな衝突と邂逅。
誰の目にも止まらないその記事は、こう締め括られている。
死者、子供1名を含む、計8名。