Shopping集団行動が上手くいく要のひとつは、プライベートの確保だ。
例えば家族であっても、物や時間のすべてを共有するのは相当のストレスになるだろう。他人であれば尚更だ。
D4。警察に追われる立場の彼らもまた、時にはほんの数時間でも別行動をとる機会を意識的に確保していた。
仲違いが最も自分達の命を脅かすことを、彼らは充分分かっていたのだ。
たまたま通りかかったクラブで強奪した臨時収入。
まだ使い慣れないヒプノシスマイクを馴染ませるにはちょうどいい暇潰しになったが、この臨時収入はそのまま持っていても仕方がない。
集う誰もが貯金をする人生なんか送っちゃいない。
「警察を呼び寄せるような真似だけはしないでくださいね」
四人で均等に分け前を分配し、それぞれが懐に仕舞う。
ここから明日、夜の出発時間まではそれぞれのフリータイムだ。
拠点はここと決め、何かあれば連絡は取り合うが基本的に各々の判断で行動する。
「ねえねえ伊吹」
声を掛けたのは時空院のほうから。
「良ければ明日、一緒にお出掛けしませんか?」
与えられた自由にやりたいことはないのかを問われても、今の自分には何も思いつかない。どうせただ浅い睡眠と覚醒を行き来して苦痛を重ねるだけだ。
「どこに行くんだ?」
「買い物ですよ。一人では寂しいので、伊吹に付き合っていただけると助かります」
特に深く考えずに「分かった」と了解する谷ケ崎に、時空院はにっこり笑う。
「ありがとうございます。お礼に明日は三段アイスをご馳走しましょう!」
「それ自分が食いたいだけだろ」
別に要らないという谷ケ崎の返答も聞かず、「準備がありますから」と浮かれた様子でコートをゆらゆら揺らしてどこかへ出掛けて行った。
そうして翌朝、てっきりただの物資補給の買い出しだと思っていたのだが。
寝起きでぼんやりする谷ケ崎に、時空院はハツラツとした大声を響かせる。
「おはようございます!!」
ガバッと両腕を広げる姿はいつもの時空院だが、着こなしているのはいつもとは違う服だった。
「?……何張り切っ」
「さあ!!これに着替えてください伊吹!!」
じゃん!と見せてくるのは明らかに今の谷ケ崎とはモードの異なる衣服。シャンとしてるというか…窮屈な服に見えた。心底面倒で、谷ケ崎はうんざりと溜め息を吐き出す。
「必要ねえだろ、今のままじゃダメなのか?」
「……あのね伊吹、」
途端にぐいと谷ケ崎の目と鼻の先に迫り、時空院から発せられるのは脅しにも似た息も継がない低い声。
「変装は脱獄の醍醐味なんですよ蔑ろにしないでいただきたい」
「っ………分かっ、た」
さすがに一歩引いてしまった。何がスイッチだったかは知らないが、顔面に迫る眼鏡の奥の瞳は笑ってすらいなかった。
そこまで本気になるものなのか?ただの変装で…。
美的センスにうるさい戦闘狂の脅しなんて、目覚ましの衝撃には最適だ。
どうやら自分の予想とはだいぶ違う目的らしいと気付いたのは、着替えが終わってからだった。
「んん!やはり私の見立てに狂いはないですね!お似合いですよ伊吹~」
姿見の中に立ち尽くしている自分を見て、谷ケ崎は首を傾げていた。
グレージュのジャケットとパンツ。カジュアルスーツなゆとりのあるセットアップ。渡された時は窮屈そうなデザインだと思っていたが、実際に袖を通してみるとほんのりオーバーサイズで谷ケ崎にはちょうど良いサイズだった。
中にはロゴや飾りのないシンプルな黒のカットソーだけで、靴はいつものスニーカーでいいと言われた。
着替えている最中にいつもはパーカーの中にしまっているネックレスに気がついた時空院に「素敵なネックレスですね、それは外に出しても?」とやんわり伺われた。普段は特別人に見せるものではないと思っているが、良いと言われると心の中が少しほわりと浮かれる。
「…別に高価なものじゃない」
「値段は関係ありませんよ」
そう言いながら、黒い指先が余計な部分には触れないようにチェーンに触れて、チャラリとカットソーの上に流す。鈍い銀が黒に映えて、遊びのある良いアクセントになっていた。
これが似合っているのかどうかは、自分ではよく分からない。
どこの服だとかいくらの代物なのかとか、そんなことも一つも分からない。ただ確かに分かるのは、ジャケットの襟を直してくる時空院がとんでもなく上機嫌だということだけ。
「ほら、ちょっとお揃いみたいに見えて可愛くないですか?」
そうして鏡の中に並ぶ時空院は、全体的に谷ケ崎よりも縦に長いデザイン。
灰色のステンカラーロングコートに白無地のインナー。黒のワイドパンツにいつものスニーカーを合わせていて、ストンと落ち感のあるリラックスとフォーマルを組み合わせたスタイル。
二人ともデザインは異っていても、色味や生地が似通っている。よく探してきたなと感心するが、それでもるんるんと輝いた目に同意を求められるとどうにも賛同したくない。
「……お前遊んでるだろ」
「時には羽根を伸ばすことも大切ですよ~」
お前はずっと伸ばしてるだろ。そんな据わった目のツッコミは完全無視で、最後の仕上げだと隠し持っていた丸眼鏡を谷ケ崎にそっと装着する。
いよいよもってお揃い感が強い。眼鏡にかかる前髪を横に流して直されるが、ここまでくるともう好きにしてくれと諦めが強くなる。
「滾ってきましたねえ!さあ!行きましょうっ」
着せ替え遊びに一通り満足したのか、まるでスキップするような足取りで谷ケ崎の前を歩き出す。
「どこ行くんだ」
「言ったじゃないですか、お買い物ですよ」
「だから、どこに」
「伊吹は何が食べたいかだけ考えておいてくださいね、それ以外はすべて、私にお任せを」
「…………。」
質問の答えは返ってこなかったが、こうなってしまえば谷ケ崎には敵わない。
そこまで言いきるということは、よほど自信があるのだろう。時間の使い方が苦手な自分には他に案なんてないのだから、付き合うと承諾した以上は流されるしか道はない。
少し不安げに黙った谷ケ崎を覗き込んで、時空院はふふと笑う。
「ご安心なさい、お菓子の家に向かうわけじゃありません」
「それを言うなら丞武のほうが魔女だろ」
時空院はあの刑務所を出る時からずっと、まったく、いっそ羨ましいくらいに笑顔で楽しそうなのだ。考えてみれば、糖分が人生だとか突拍子もないことを言うことはあっても、場の空気を悪くするような言動をとったことは一度もない。
誰に対しても、例えそれが燐童であっても、人の心の機微をよく見ているのが"時空院丞武"だった。
「人が多い…」
「みな自分のことで頭がいっぱいですから、我々のことを気に留める者はいませんよ」
谷ケ崎と時空院が歩いている場所は大型ショッピングモール。祝日に当たって家族連れやカップル、若い学生の集団でそれなりに混んでいた。
「買い物って、何を買うつもりだ」
甘味ならその辺のコンビニでも充分手に入るが、時空院は道中たまにここにしかない限定だとか言って騒ぐこともあった。
有馬は「女子かよ」とその度に苦い顔をしていたが、谷ケ崎は案外それが嫌いではなかった。自分から何かを探求するやり方は分からないが、それでも知らないことを知るのは面白いと素直に感じるのだ。
だからこの買い出しもてっきりそういう限定品狙いなのかと思っていたのだが。返ってきたのは思いも寄らない言葉。
「伊吹の服を買いに来たんです」
それは、谷ケ崎にとっては嫌な予感しかないツアーの始まりの合図だった。
他のエリアに比べて客の姿はまばらで、微かに聞こえるBGMもクラシック。図書館のように人の気配が静かなフロア。
海外ブランドが並んだその通路をしばらく歩き、「ここにしましょうか」と入店していく時空院に少し気後れしながらついていく。
自分達にとっては到底場違いな空間にも関わらず、後ろから見ていても時空院には全く違和感がない。こういうハイランクの場での立ち振舞いを知っている人間の歩き方。
「いらっしゃいませ」
店員からの歓迎の声は苦手だ。谷ケ崎は彼らとは目を合わせずに、ただ時空院が選ぶものを黙って眺めていた。
次々と持たされた服を抱えてフィッティングルームに押し込まれる。
上から下までこれはこう着ろと指示されて、ボタンの開け方一つとっても時空院のこだわりは強かった。
「伊吹はやはり派手な色で揃えるよりもモダンのほうが合いますね」
元からこういうものにはうるさいタイプだと感じてはいたが、実際に目の当たりにするとまるでこっちのほうが本職に見える。
「何か差し色が欲しいところですが」
「グリーンとブルーがあります」
若い店員と朗らかにトレンドの話をしながら谷ケ崎のコーディネートをする時空院は、とてもじゃないが殺人鬼には見えない。
ガラス棚に並べ置かれた小物を次々と谷ケ崎に合わせて、全体的に見比べる。
「このネクタイ、どちらもいただきます」
「ありがとうございます」
接客した彼らがのちに谷ケ崎達の正体を知ったとしても、もしかすると誰も信じないかもしれない。
「今日のお召し物もお兄様のコーディネートですか?とってもお似合いですね」
穏やかな女性店員の声掛けにほんの一瞬身体が固まった。自分達をどういう設定で話してるんだあの変態は…。
しかしここは経験則。こういう時は余計なことは言わず、少し力を抜いて口角を上げる。それだけでいい。あとはとっととその場を離れる。
支払いを済ませる時空院はスススと逃げるように背中に回ってきた谷ケ崎の様子を横目に見て、人知れず口許を緩めていた。
「逃げることないでしょう?」
退店時には店先で二人の店員から深々とお辞儀をされ、次の店へ向かう。なんとも言えないこそばゆさを感じ、彼らを振り返って見ることも出来なかった。妙に強張っている谷ケ崎に、時空院はついに吹き出して笑う。
「でも伊吹もあんな真似出来るんですね?良い笑顔でしたよ、今度写真でも撮りましょうか」
場所が場所なら一発入れていた。お前みたいな意地悪な兄貴は死んでもごめんだ。
それから三店舗も店を巡った。こんなに着替えたことは人生で一度もない。もう一生分の服に袖を通した気がする。
「こんなに買ってどうすんだ」
もはや二人とも両肩にショップバックがぶら下がってる。どの店もご丁寧に梱包してくれるおかげで、かさばってしょうがない。
帰ったら絶対に有馬にうるさく言われるぞと続けても、時空院は全く意に返さず前方を指差す。
「あ!見てください伊吹!アイスクリーム屋さんがありますよ!寄りましょう」
「~さっきも果物の飴みたいなやつ食っただろうが」
「また落としたら拭いてあげますから大丈夫ですよ」
「っ!……うるさい」
ソフトクリームの上を車の中で落としたのは数日前の話だ。
家族連れや若年層もターゲットにしている商業施設。ハイブランドエリアを離れて、レストランフロアへ向けて通りを歩いている時だった。
「?…なんだこれ」
フロアいっぱいに積み上げられてるカプセルトイマシン。理路整然と並列された異様な光景に、思わず谷ケ崎の足が止まった。
「あぁ、ガチャガチャですねえ。こんなに並んでるのは私も初めて見ます」
圧巻ですねと話しながら、通りに面した機体を眺める。谷ケ崎は少し離れた場所にある一つのマシンに目を留めた。不意に時空院の傍を離れていく。
「伊吹?」
一歩踏み入れればそこは迷路の始まりのようだ。子供や小柄な女性なら周りが見通せずに本当に迷子になってしまうのではないだろうか。
谷ケ崎の気を惹いたのは、子供向けのチャームを扱ったカプセルトイだ。
じいと前面に貼られた品書きを見ている谷ケ崎の横顔はいやに真剣で、見ているとどうしても笑ってしまう。
こういう表情は、本当に何も知らない子供と変わらない。気がついたら財布の中の小銭を確かめていた。これくらいの甘やかしは、有馬や阿久根だって許してくれるだろう。
「ちょうど手持ちがありましたよ」
時空院がその機体に百円玉を三つ投入すると、谷ケ崎は少し驚いたように顔を向ける。その微かな戸惑いに「どうぞ」と柔く促すが、谷ケ崎は困ったように小首を傾げる。どうしたらいいのか分からないのか、突っ立ったままだ。
(……知らないのか…)
どんな育ち方をしたらこれを知らない幼少期を過ごすのか…。だが実態はどうであれ、谷ケ崎の困惑を察した時空院は穏やかに笑んで機体のハンドルを指差す。
「ここをね、右に回してごらんなさい」
ほら。指を差した先、少し離れたところで同じように遊んでいる女子高生達がいた。その動きを見てようやく把握出来たのか、谷ケ崎はゆっくりとハンドルに手を掛ける。
ガチャガチャコロン。取り出し口から現れたカプセルは、谷ケ崎の手にすっぽり隠れてしまうくらい小さく感じられた。
中から出てきたのは、キラキラと愛らしい装飾のパフェをモチーフにしたチャームだった。
「可愛らしいものを選びましたねえ」
ぱちぱちと指先で小さく拍手してると、そのチャームを時空院の手に渡してくる。
「?おや、私にくれるんですか」
「糖分だろ」
当然のようにそれだけを言って、機体から離れていく。驚いた。まさかそんな理由でこれを選んだのか…。
思わずふふと口許が綻んでしまう。迷路を抜けていく背中に「ありがとうございます」と声を掛けても、谷ケ崎は何でもないことのように頷くだけだった。
「ねえねえ伊吹!」
次に足を止めたのは時空院。
「有馬くんはこれじゃないですか!?」
エリアから出ようとした谷ケ崎の袖をぐいぐいと引っ張って連れた先にあったのは動物がモチーフのカプセルトイマシンだった。時空院が嬉々として指を差している動物の名前は『チベットスナギツネ』。絶妙に不細工な顔立ちの狐だった。
「そっくりですよ!?」
その言い様に、谷ケ崎はバッと顔を背けて笑いを堪える。震える肩を押し殺して 大きく深呼吸で誤魔化す。
「…絶対有馬に怒られるぞ」
「物は試しです。有馬くんへのお土産にやってみましょう」
そうして時空院が挑戦し取り出したのは、中でも最も間抜けなチベットスナギツネだった。もう堪えられずに肩の力が抜けて笑ってしまう。引いた本人も笑ってしまい、逃げようとする谷ケ崎の肩を掴んでいた。
「伊吹が渡してくださいよ」
「なんで俺が。丞武が引いたんだろ」
「だって絶対怒られるじゃないですか」
「分かっててやったんだろ、お前が渡せ」
押しつけ合いの末、チベットスナギツネは時空院のポケットに無理やり押し込められて処遇が決まった。
「燐童はこれがいい」
次は谷ケ崎が隣のマシンを指差す。品書きは可愛らしいハムスターのフィギュアだ。
途端、時空院は谷ケ崎にじとーと恨めしく目を据わらせる。
「私は彼をそんな可愛らしい生き物だと思ったことは一度もありませんけどね!」
「…なんでそんなに当たりがキツいんだよ」
苦笑いでそう諌めても、時空院はプイッとそっぽを向いてしまう。それでも手は財布を渡してくるから、谷ケ崎は自分で小銭を投入してハンドルを回した。
ちょうどよく、ボアハットを被ったハムスターを引き当てた。「男二人で何しに行ったんですか」と呆れて笑うかもしれないが、きっと大切にしてくれるだろう。帰ったら渡そうとポケットの奥に落とさないように入れておく。
デカイ男が二人並んで子供用のガチャガチャをやってるなんて、端から見たらおかしな光景だったかもしれない。
もう充分だと迷路を抜け出そうとしたが、時空院は今一度谷ケ崎を引き止めた。
「待ってください、伊吹の分もありますよ」
ほらと示されたのは、パンダがテーマのマシン。コロコロと芝を転がっていたり、黙々と笹を食べていたり。お手玉みたいなぬいぐるみだった。あまりにも愛らしいそれに、谷ケ崎は顔を歪める。
「……どうせならこっちが良い」
と、隣のマシンを指差した。そちらは凛々しいシベリアンハスキーがテーマだ。
時空院はそのハスキー犬と谷ケ崎を交互に見て、しっとりと言う。
「…人間というのは、自分のことはよく見えていない生き物なんですねえ……」
どういう意味だ。
おいと目を据わらせる谷ケ崎を無視して、時空院はパンダのトイカプセルを回す。
出てきたのは タイヤから転がり落ちる子供パンダのぬいぐるみだった。
「わあ!ほら見てください!まさに伊吹ですよ~」
ニッコニコと上機嫌に笑う時空院に、谷ケ崎は黙って(ぶっ飛ばすぞ)と冷えきった顔で握り締めた拳を掲げて見せていた。
「さあ、あの二人へのお土産も出来ましたし。お買い物の続きをしましょう」
子パンダは無理やり谷ケ崎のポケットに突っ込まれていて、ジャケットからその顔がはみ出ている。
「まだ何か買うのか」
「次は靴ですよ」
ツアーはまだ始まったばかりだ。
ぐったり。脱獄した当日すらここまでの疲労はなかった。楽しかったかと言われると難しい。気疲れしてしまった。なにせどの店でも"金持ちの兄に服を仕立ててもらっている弟"だったのだ。そんな設定、程遠いにもほどがある。
でも、最中に「疲れた…」と素直に愚痴を言っても時空院は許してくれて、休憩には食べたことがないものを食べ歩いたり、本当に好きなものを選ばせてくれた。ギブアンドテイク。上手な綱引きだ。
帰り際、モールの出口へと向かう途中。不意に時空院が立ち止まった。振り返ってみると、やけに嬉しそうに笑っている。
「ねえ伊吹。爪を見せてください」
なぜと思いながらも素直に両手を見せる。目の前に差し出された指先を、時空院は目を細めて確認した。
そうして何かに安心したようにふぅと息をついて頷く。「見てください」と谷ケ崎自身にその手を向けさせた。
「…?」
そこに並んでいるのは白く塗られた爪。
あの檻の中にいる時から、時空院がどれだけ世話を焼いても元には戻らない、歪で醜い爪の形。ネイルで誤魔化してもらわなければ、見るに堪えない汚い指先だ。
せっかく整えてもらっても、壊してしまう。
どうしても自分の力で噛んで、ボロボロにしてしまう。
その度に笑って許されてはいるけれど…この悪癖をいつか治せればいいと思っているのは自分だけじゃないことくらい、分かっているんだ。
なんだと小首を傾げれば、優しい答え合わせが返ってきた。
「今日の伊吹は、一度も爪を噛んでいないんですよ」
言われて初めて気がついた。
ハッとして、眺めていた爪先から時空院へと視線を向ける。
「またこうしてお買い物しましょう」
それは、確かなものなんて何もない口約束。
(………また、こうして)
真っ暗で歪んだこの道のりには、たまにこうして花が咲いていく。
自分一人では決して育てられないその花を、必要ないと踏みつけて進むことが出来たらどれだけラクだろう。
忙しく人が行き交う雑音の中で、でもこのいつ枯れるとも知れない約束は しっかりと谷ケ崎に届いていた。受け取っていた。
きっと彼のことを"何も知らなくても"、その思いやりは嘘や詭弁じゃないことくらい、分かるんだ。もう知ってる。
「……あぁ、たまにな「ハッ!見てください伊吹!?クレープ!限定だそうですよ!?」
人の感慨深い返答を最後まで聞きもせず、颯爽と駆けて抜けていく背中。
「……………………。」
柄にもないやり取りへの照れ隠しとかではなく、ただ本心で目の前のクレープの旗に舞い上がっている。
デカイくせに子供みたいにはしゃぐ様。
もう呆れて、目を閉じて溜め息をつく。口許は笑ってしまう。降参だ。
「一人一個ですか!?大丈夫です、連れがいますから!伊吹~!」
分かってる…そう言って俺の分も半分は食うつもりだろ。
早く早くと手招きしてくる姿はもはやバーゲンセールに飛びつくおばさんだ。
歩み寄りながら、ツンと乗り気じゃない声で応えてやる。
最後の最後。今日一日無茶な設定に散々と付き合ってやったお返しだ。食らえ。
「俺は食わない。1個でいいだろ」
「え!?何故ですか!?限定ですよ!?大丈夫です、彼の分もください。生クリーム追い増しで」
「…………………。」
全く意に返さない時空院に、谷ケ崎はもう何万回目の溜め息で諦める。
「……丞武は案外わがままだ」
「それキミが言います?」
……悔しいが何も言い返せなかった。