弱々しいとばかり思っていた日差しが輝きを持っていることに幸村は気がつく。
「あれから一年か……」
七緒が神域に帰ってから約一年。季節の移ろいは彼にとって意味をなさないものとなっていたが、この季節だけははっきりと覚えている。
彼女が最後に見せた笑顔はこの光の強さとともに覚えていたものだったから。
思い出すと彼女の存在がここにないことに気がつき、辛くなるためどこかで彼女への想いを封印してしまいたい自分。一方で、近くにいなくても彼女が遠くの空から自分を見守っていることを信じ、いつまでも胸に留めておきたい自分。
そんなふたつの考えを持つ自分が鬩(せめ)ぎ合う一年であったともいえる。
ふと幸村は部屋の片隅に小さな箱が置かれていることに気がつく。
神域に行く前に彼女が渡してきた贈り物。
急ごしらえと思われ、自宅にあるもので用意したとのことだったが、丁寧に包装されている様子から彼女の想いが伝わるような気がした。
彼女が、七緒が、自分に託した想いがこの箱に込められている。
あのとき、「今は」神域に行かないと決めたのは自分。とはいえ、人とは異なる悠久の時間を過ごしている彼女が個を保つ保証などどこにもない。
この箱を開けてしまえば、彼女との永遠の別れを受け止めることになるような気がし、ずっと開けることができなかった。彼女はこの小箱を直接渡せないことを想定していたであろうから。
しかし、今日ばかりは違うように感じられた。別れではなく、ふたりを繋ぐ。そのための品のように受け止めることができる。
普段よりは力強い太陽の光に勇気づけられ、幸村はその箱に丁寧に掛けられた紐に手を伸ばす。
丹念に結ばれていたが、端を引っ張れば簡単に結び目は解(ほど)ける。
そして、ふう。小さく息を吸って箱の蓋を開ける。
彼女が自分に伝えたかった想い。それがそこにあることを信じて。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
慶長5年(1600年)2月
「まあ、神子様の世界ではそのような行事がございますの」
幸村の耳につばきとあやめ、そして七緒の声が響き渡るのが入ってくる。
明日は自分が住む上田へと旅立つ。
あやめは引き続き七緒と行動をともにするが、つばきは堺を離れられないため、七緒とはしばし、最悪の場合、永遠の別れとなる。
思い残すことのないようにと今夜は三人で心の赴くまま歓談することとなったらしい。
「楽しそうだな」
三人がいる一室の前を通る幸村は思わず呟いてしまう。
かくいう自分も先ほどまでほんの少しばかり酒を吞んでいた。
これからおそらく同じ道を歩むことのない者たち。場合によっては戦場で刃を向け合う関係ともなる。今までの関係とそれまでの絆への未練を断ち切るための試練、というとカッコつけすぎかもしれないが、今日までと明日からとでは異なる。表向きは楽しんでいるが、心の奥底では気持ちを切り替えるための儀式。そう受け止めながら酒を身体に流し込んでいた。
実際、適量の酒はある程度気持ちを軽くする。憂鬱としか言いようのない未来。それらへの懸念は多少緩和されたように感じられる。
しかし、女性たちの心からの笑い声を聞くと、自分は所詮酒で気分を紛らわしているだけでしかない事実を思い知らされる。
襖越しであるが七緒が楽しげにしている様子が幸村にも伝わってくる。
そのとき、幸村はふとあることに気がつく。七緒に出会ってそろそろ一年となることに。
上田と堺、そして異世界の彼女がある関ヶ原では気候が異なるため、若干の印象は異なるが、彼女と出会ったのは春の日差しが突き抜けるような日であった。
春にしては強い日差しと冬の終わりを告げる暖かい空気。これらは今でも忘れることができない。
そして、改めて思い知る。
初めて見たときから目映いと感じていた彼女であったが、最近、それが一段と増していることに。
当分の間、七緒は上田の自分の近くでともに過ごすことになる。
そのため、彼女の笑みをもうしばしの間見つめることは可能であるが、これから先のことを考えると今見せているような満面の笑みを見ることは叶わないであろう。日の本のどこにいても戦は起こってもおかしくはなく、さらに龍神の神子である彼女は存在自体がいつ狙われてもおかしくはない。
平穏が破られていく中で、彼女が今のような晴れやかな笑顔を見せることは難しくなっていくであろう。
そのことに小さく溜め息をついていると、幸村に七緒の声が響く。心に染み入るような透明感のある声が心地よい。
「うん、二月十四日に『バレンタイン』といわれる行事があって、女性が男性にチョコと呼ばれるお菓子をあげるんだ」
先ほど、あやめが声をあげていたのはこの行事のことなのだろう。
確かにおませな印象を持つ彼女なら興味を持ちそうなことである。
さらに会話は続けられる。
「基本的には好きな人に渡すのだけど、『義理チョコ』と言って恋愛感情は持っていなくても普段お世話になっている人に渡すこともあるんだ」
七緒から飛び出す『好きな人』の言葉。
心のどこかで期待してしまう自分がいる。
一方で、頭の中で理解もする。そのような対象がいないからこそ、出てくる言葉であるとも。
そもそも、その渡す対象に自分が含まれているのであれば、彼女は今頃自分に遠回しに聞いていたはずだ。どのような物を所望するのかと。
そのような会話がなかったことを考えると、あくまでも自分が思い上がっていただけで、彼女の中で自分はそこまで重要な存在として認識はされていない。そんなことを思い知る。
確かにこの一年で七緒との距離は縮まったように感じる。一方で、近づいたかと思うと、彼女はますます離れていくような気もする。まるで逃げ水のように。
「せめて兼続さんが帰る前に気がつけば、八葉のみんなに何か渡せたのにな……」
七緒が真っ先に名を出したのは先ほど主のもとへ帰った友の名。
そして、幸村は先ほど考えていたことがあながち外れていなかったことを思い知らされる。彼女は自分とは離れがたいとは思ってくれているが、男女の中としては意識していないということを。
「残念だったな真田殿」
後ろから聞こえてきたのは長政の声。
先ほども一緒に酒を酌み交わしていたが、まさかここで会うとは思いもしなかった。
少し面白がるような、それでいて安心と落胆が混在するようなそんな声。
おそらく一部始終を見ており、幸村が意気消沈している理由は手に取るようにわかるのだろう。
しかし、決して心の奥底までは見せまいと幸村は心を閉ざしながら応対する。
「そう、ですね……」
昼間は暖かいと感じたはずの風が、冷たく頬に刺さるのを幸村は感じる。
そして、心もだんだんと冷えていくのが自分でもわかる。
少し酒が足りないのかもしれない。そう思いながら、幸村は七緒たちがいる部屋の前から立ち去った。
その後、呑み直した酒は先ほどに比べると苦みが強く感じられた。
その理由が何であるか察していながらも、幸村は気がつかないフリをして酒を進めた。
月の光が眩しいと感じながら。
☆ ☆ ☆ ☆
小箱を開けると、そこにあったのは小さな茶色い物体であった。
これが食べ物なのか、それとも薬なのか、はたまた別のものか皆目見当がつかず、幸村はしばし逡巡する。
しかし、そこに七緒からの文が添えられていることに気がつく。
少し気を引き締め、幸村は文に目を通す。
そこにあったのは、七緒から幸村への感謝の気持ち、もし別離のときが訪れたとしてもいつか再会できることの希望。これらが、簡潔だが、丁寧に綴られていた。そして、最後にあったのは「大好きです」。その言葉だった。
自分が真実を告げ、そして神域での別れのときまでの彼女の葛藤や迷いを考えると胸が締め付けられるような気になる。
それでもそれを微塵に出さず、こんなにも胸が暖かくなる手紙を添えてきた。
手紙によると、中に入っているのは「チョコ」だという。
そして、渡すには少し早い時期だということも添えて。
上田に旅立つ直前の七緒の言葉が脳裏に甦る。異性として意識していないと思い知らされた品物。
「少し早い」、その言葉を深読みすると、彼女が自分に渡したかったのは二月十四日。そして、「大好きです」。その言葉の通りであれば、このチョコが意味するのはたったひとつ。
「まさか姫が手の届かないところに行ってから口にするとは思いもしなかったな……」
幸村はそう呟き、何粒かあるうちのひとつを口にする。
最初に感じたのは甘さ。今だかつて味わったことのない。
しかし、次の瞬間、広がったのは苦み。
まるで恋のようだと思う。胸によぎるのは歓喜と悶絶。
それらの感情が心の中で大きく渦巻き、そしてあとに残ったのは彼女に会えない寂莫感と彼女に会いたい切望感。
ただ、今だけはこの甘美な苦しさを幸村は堪能したかった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
令和のいつかの2月
「ふう、モテる男はつらいね、なんてね」
日中は暖かくなってきたものの、夜はまだ空気が冷たい二月。
天野五月は紙袋を抱えながら自宅へ帰ったところだった。
中に入っているのはラッピングされたチョコレートと思われしきお菓子。
職場の女性たちが日頃の感謝を込めて贈ってきた品物。職場でこのような慣例は廃止されて久しいはずであるが、五月の日頃の気遣いに対し、感謝の気持ちを込めて贈ってきたものらしい。
包み紙を開けながら五月はひとつのことを思い出す。
神域に帰って久しい血のつながっていない妹、七緒のことを。
「あいつ、幸村と出会う前までは『バレンタインにチョコをあげる相手なんていない』と話していたのに」
五月たちが戦国の世に行く直前の高校三年生のこと。
私立大学の受験の合間に渡されたチョコ。
自分以外に渡すものがいないのか、いろいろな意味で気になり、思わず聞いてしまった。
すると、七緒はまっすぐな瞳でこう答えたのだ。
「そんな人、いるわけないでしょ」と。
琥珀を思わせるような透き通った瞳。それを見ていると嘘をついているようには見えなかった。
七緒が想いを寄せる男性の存在がないことにどこか安堵したのを昨日のように覚えている。その気持ちが何から来るものであるか、正直なところ、今でも深くは考えたくないが。
「まさか、それなら1ヶ月もしないうちに運命の相手と出会うとはね」
思わずそう呟いてしまう。
あのときまでは血はつながっていなくても大切な妹であった。
だんだん自分の過去を思い出す一方、幸村と想いを重ねていく日々。ただ、それは淡く緩やかで穏やかなもの。自分を含めたまわりの者たちがじれったく思うほど。やっと気持ちが結ばれたかと思えばふたりが直後に迎えたのは別離。
少し前に見た夢。内容は幸村が討たれるというもの。
あっちの世界はこっちの世界より時間の流れが速いので、もうふたりは再会しているだろう。そんな望みが五月の中にはある。
それどころか、もしかすると、ふたりだけの幸せを追求しているのかもしれない。それは人間である自分には理解しがたいことであったけど、誰の妨げもない平穏な世界で心穏やかな日々を過ごしているのかもしれない。
「もっともさすがに幸村への気持ちが『恋』であるくらい気がついたよな……?」
傍から見ていると七緒が幸村に特別な感情を抱いているのは明らかであったのに、ふたりの仲が深まるまでの様子は見ていて歯がゆかった。
しかし、自分の真実の姿を知ってからの七緒は明らかに幸村に対しての態度が変わっていくのが見て取れた。
ふたりでいるときは明らかに相手を意識するようになったが、決して避けている様子はなく、むしろ愛情を確固とした影響なのか互いへの信頼が増していくのを感じた。
一方で他のものの姿が見えないときは、思案することも増え、溜め息を吐いたかと思えば何かを決意したかのように顔を上げる、そんな動作を繰り返すようになった。
ふたりの間でどのような言葉を交わし、互いの中でどう結論付けたかはわからない。
ただ、気になるのは、最後の戦いの前に七緒が家の冷蔵庫でチョコを探したこと。
そして、それを丁寧にラッピングしていたこと。
冗談交じりに「幸村にあげるのかい?」、そう聞くと七緒は照れとそして寂しさが混ざった表情を見せてきた。
「うん……」
そして、小さく笑いながら五月に話しかけてきた。
「幸村さん、喜んでくれるといいのだけど……」
戦いが終わった後、自分が、そして世界がどうなるのかへの恐れや懸念。そして、幸村が贈り物を受け取ってもらえるかという七緒自身の小さな不安。それらを見せたかと思えば次の瞬間には何事もなかったかのように振る舞い、そして七緒が見せたのは慈愛に満ちた表情だった。
それは今まで見たことのない七緒の姿であった。
―幸村のことを想うだけで、七緒はこんなにも幸せな表情をするんだな。
長年過ごしてきた自分が一度もさせることのできなかった笑み。
彼女は、七緒は、自分の保護下にいる妹ではなく、他の男性のもの。そう感じ取った瞬間であった。
七緒の意思、そして彼女の想いを尊重した幸村の決意。
ふたりが重ね合わせた想いの行きつく先がどうなるのか当時は想像つかなったし、今も知る術はない。
五月は箱の中に入っていたチョコをひとつつまむ。
「甘い……」
率直にそう思った。
しかし、主張の激しすぎる甘さではなく、口の中でほんのりと広がる甘さであった。
「今頃は恋人らしくしているのかな……」
もう二度と会うことは叶わないであろう幸村と七緒のふたり。
やはり七緒は今でも大切な妹であることには変わりないし、幸村は大事な仲間であると同時に親友であると思っていたから。
願っても届かないとわかっていながら、五月はふたりの幸せを願わずにはいられなかった。
胸に小さな痛みを感じながら。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
神域にて
「まだ日本にバレンタインの風習が来ていないから確証は持てませんが、今日はきっとバレンタインかと思います」
七緒が幸村にそう告げたのは、ふたりが長き別離のときを経て再会してから半年以上経った頃。
確か、十日ほど前に下界では節分だったのか豆まきが行われていた。
そして、七緒の計算が合っていれば、今日は二月十四日、いわゆるバレンタインデーに当たる。
「幸村さん、受け取っていただけますか?」
七緒は不安げに幸村に話しかける。
しかし、七緒の不安を吹き飛ばすかのように幸村は笑顔で答える。
「ええ、もちろん」
その笑みに七緒が安心していると幸村がチョコをひとつ摘まむのが見えた。
「甘い……」
甘いものがそんなに好きではない幸村であるが、口調と表情からすると満足いくものだったらしい。
幸村の表情が明るいことに安心したのだろうか、ペロッと舌を出しながら七緒は幸村に笑いかける。
「私の気持ちが伝わるように作りました」
作ったと言っても念じただけなのですが。そうつけ加えながら。
心の赴くままにできる空間、神域。
何もかもが思い通りにできることが便利であると同時に不便でもある世界。
だけど、互いに別離のときを耐えてきた身である以上、もう少しだけこの平穏に浸っていたい。ふたりがそう思うのも事実である。
「以前、あなたからいただいたものはもっと苦かったのに……」
ふたつめのチョコを摘まみながら、幸村はそう話しかける。
「そうですね。チョコも甘さや苦さがいろいろあって、幸村さんに以前渡したのは苦みが強いものでしたね……」
あのとき七緒が幸村に渡してきたものは本意ではなかった。本当なら街に出て彼のためにチョコを選びたかったのだが、それが許される状況でなかった。そのため、自宅にあったもので急ごしらえしたのだが、そのことを思い出すだけで胸が苦しくなる。
すると、幸村がほんのわずかに目にいたずらの光を浮かび上がらせる。
「では、あのときの仕返しに」
そう言うが早いが七緒は幸村に身体ごと引き寄せるのを感じる。
七緒の視界一面に幸村の顔が広がったかと思った瞬間、七緒は自分のくちびるに幸村のくちびるが重なったのを感じる。
先ほど幸村が味わっていたチョコの味が七緒の口の中いっぱいに伝わってくる。
その甘さに引き寄せられていると、幸村はくちびるを深く重ね、そして舌を絡ませ合わせてくる。
離れがたい気持ちでいっぱいになり、七緒の手が幸村の背中にまわった瞬間、口元に冷たい空気が流れるのを感じる。
「あなたはチョコよりも甘いですね」
ふたりの間に風が流れることを寂しいと思う七緒に対し、幸村はしてやったりといった表情だった。
その瞳は七緒のくちびるを、そして表情と態度を堪能した様子がありありと伝わってきた。
「幸村さんのいじわる~~~!!!」
下界にいたときには気づかなかった。
いや、時折見せていたものの、余裕がなかったのか見ないフリをしていた幸村の一面。
基本的に優しい彼であるが、一方で時々こんな風に意地悪になる。しかも、七緒が心底嫌がっているわけではないとわかった上で行動に移すからタチが悪い。
「では、詫びにもう一度」
そして、今度はそっと優しくくちびるとくちびるを重ねてくる。
再度、口元に甘さが広がり、その余韻を手放したくないと思ってしまう。
もっともっと堪能したい。
七緒の気持ちの変化に気づいたのだろか。
幸村の逞しい体躯が七緒を抱き寄せてくる。
この先に起こる展開はただひとつ。
ともに過ごして長いとは言い切れないものの、短いとも言えない時間がそれを教えてくれた。
幸村に与えられる甘美な痛みを予感しながら、七緒は彼の想いに応えるべくこっくりと頷く。
ふたりの甘い夜は始まったばかり。