イメージトレーニング
とんだ失態を晒してしまった。ケイト氏がせっかく僕と恋人らしいキスをしようと求めてくれたのに、思いきり突き飛ばしてしまったのだ。ケイト氏はすぐに取り繕っていたけれど、一瞬見せた悲しそうな顔が忘れられない。
そういう話はしたことがないけれど、きっとケイト氏は経験豊富で、今まで何人もの人と付き合ってきたのだろう。こんなことを勝手に考えるのは無粋だけれど、手慣れた感じだったし、あんなキスが生ぬるく感じるくらいにもっとレベルの高いことをやっていたのだと思う。それなのに僕みたいな恋愛経験皆無の人間と付き合ってしまって、物足りなさを感じているに違いない。
「捨てられるのも時間の問題かなぁ」
ケイト氏が僕のことを好きだと言ってくれている気持ちを疑っているわけではないが、あまりに拒否されるといい気はしないだろう。とっとと僕に見切りをつけてもっと価値観の合う人間と付き合ったほうが、ケイト氏も楽しい学園生活を過ごせると思う。
「うぅ……でもそんなの無理すぎる。つら」
僕は嘘偽りなくケイト氏のことが好きだった。初めのうちは、陽キャこわ、なんで僕に構って来んの、そっとしておいてくれ、などと思っていたが、関わっていくうちに少しずつ少しずつケイト氏に惹かれていった。よくギャルと陰キャオタクが紆余曲折して結ばれるみたいな漫画があるがまさにそんな感じで、ああいう類の漫画をありえないとバカにしていた自分がまんまと同じような流れで陽キャに落ちてしまったのだ。
重いのは分かっているが、もしケイト氏に振られてしまったらかなり引きずってしまうと思う。例外はあるかもしれないが、オタクにとって推しは一生推しなのだ。たとえ振られたところで、ケイト氏を好きだったという気持ちを忘れることはできないだろう。
そうなるといよいよ惨めだ。二次元のキャラやアイドルと違って、ケイト氏はクラスメイト。避けるには登校拒否以外のすべがない。今でも相当拒否しているが、今以上となると進学に支障をきたしてしまう。さすがにそうなると教師陣も黙っていないだろうし、オルトにも無理やり登校させられそうだ。そこでケイト氏が視界に入ってきたりなんかしたら、あまりのつらさで正気を保てる自信がない。
やはりここは、僕が変わるべきなのだ。いつまでもケイト氏に合わせてもらうわけにはいかない。僕が自分で成長しないと……。
思い立ったが吉日。僕は自室のマシンを立ち上げる。やはり前回の反省を踏まえるとすれば調べるのはキスの仕方か……。検索履歴が残らないよう、ブラウザを立ち上げるときはもちろんプライバシーモードだ。万一オルトが見たりしたら教育に悪い。
――パソコンを使ってひたすらキスについて調べる。はじめは悪いことをしているような気持ちだったが、進めているうちにスイッチが入ってしまったようで、すっかりお勉強モードで熱心に調べた。勉強が好きというよりは知識欲を満たしたい一心で普段からいろいろ読んだり調べたりしているのだが、今も同じような頭の使い方をしている気がする。おそらく恋人とのやりとりの方法をこんなふうに勉強している時点ですでに邪道な気がするが、わからないものは仕方がない。ケイト氏に教えを乞うわけにもいかないし、自分でどうにか知識を身につけるしかない。
「ふむふむ、プレッシャーキスにスライドキス、インサートキスにサーチングキス……。キスといってもいろいろあるんですなぁ……」
軽く調べただけでも名前のついたキスが三〇個ほど出てきた。僕たちが以前までやっていた触れるだけのキスはライトキスと呼ばれるやつで、挨拶の代わりに交わすキスなどと書かれてある。挨拶……挨拶とな……。ケイト氏がこんなキス三歳児でもやっているとか言っていたが、あながちウソではなかったのか。ところでこのサーチングキスとかいう歯茎のすみずみまで舌でなぞるキスというのは、僕にしてもらうのは酷だな。下手すれば流血沙汰だ。
などと考えながら知識を蓄えていく。時折空に向かって唇を突き出したり舌を出し入れしたりして試しにやっているが、これを誰かに見られたら羞恥で死んでしまうだろう。しかもケイト氏とやることを想像しながらやっているので、にやけた顔ははたから見ればものすごく気持ち悪いに違いない。
「――キス、完全に理解した!」
満足のいくまでとことんキスについて調べ尽くした。名前と動作の整合もバッチリだ。正直名前と動作が一致したところでなんなのだという感じもするが、これでケイト氏に悲しい顔をさせることもないはずだ。もしかしたら僕のテクに惚れ直しちゃうかもしれない。
こうなったら早速実践だ。ケイト氏に連絡を入れるためにスマホを取り出す。
「えーと。『見せたいものがあるから、部屋に来てくれない?』、と」
完璧だ。ちょっと隠しているところも高等テクという感じがする。今、僕は最高に全能感に満ちている。なんでもできる気がする。もしかしたらケイト氏は僕に惚れ直すどころかメロメロになっちゃうかもしれない。
「やほー! イデアくん、見せたいものって何?」
程なくして、ケイト氏が現れた。先日泊まりに来たときとは違って、随分とシャキっとしている。今から僕に高度なキスをお見舞いされるとは微塵も思っていないだろう。とりあえずベッドに座ってもらい、僕もその隣に腰掛ける。
「……あれ?」
「ん? どうしたの?」
……ここからどうやってキスをする雰囲気に持っていくんだ? ケイト氏はそんなつもりで僕の部屋に来たわけじゃないだろうし、突然ぶちゅっと行くのはさすがの僕でも情緒がないということがわかる。しまった。キスの仕方を調べるのに熱心になりすぎるあまり、その前のことをすっ飛ばしてしまった。なんとも爪が甘い。何が、なんでもできる気がする、だ。これでは何も始まらないではないか。
「………………」
「え、えーと、イデアくん? なんかいつも以上に青白い顔してるけど、もしかして具合悪い?」
ケイト氏の反応はもっともだ。呼び出しておいたくせに、何も喋らずにあたふたしているだけだなんて。
「ヒェッ」
突然、ケイト氏が僕の手に触れてくる。予想外のことに思わず手を引きそうになったが、なんとか耐えてケイト氏を見る。そこには、つい先日のように悲しい顔をしたケイト氏がいた。
「もしかして、この前オレが先走っちゃったこと、気にしてる? 嫌だったよね」
「え……?」
確かにこの前のことを気にしまくっているが、嫌だったとかそういうことではなく、ケイト氏の期待に応えられなかったことを悔やんでいるだけだ。思いもよらないことを言われて内心うろたえる。
「ごめんね、無理させちゃって。もっとイデアくんのこと考えてあげればよかった」
ケイト氏は伏し目がちにそう言う。ケイト氏に悲しい顔をさせたくなくていろいろ考えたのに、結局前以上に悲しい顔をさせてしまっている。ケイト氏に弁解しようにも僕の会話力じゃまともに伝えられる気がしない。これは雰囲気の持って行き方がわからないとか言っている場合ではない。行動で示すというのをするべき時なのでは……。
「……ケイト氏」
「なあに?」
ケイト氏が僕を見上げる。綺麗な緑色の瞳が不安げに揺れた。僕は天才と謳われるこの頭脳をフル回転させ、先ほど学んだことを反芻する。そしてどのような順番で各キスをやればいいかの最適解を導き出す。
まずはエスキモーキス。鼻同士を擦り合わせる行為だ。これをキスと定義することに若干の疑問はあるが、お互いの息遣いを感じられてそれっぽい雰囲気になるらしい。
「ッ……イデアくん……?」
少しずつケイト氏に顔を近づけ、鼻同士をぶつける。幸い力加減はうまくいったようだ。擦り合わせるということなので、適当に動いて自分の鼻を擦り付ける。ここで重要なのは、唇がぶつからないギリギリを攻めるということだ。触れそうで触れない距離を楽しむことで徐々にテンションを高めていくらしい。しかしお互いの息遣いを感じるとは……? 僕は今完全に息を止めている。このままじゃ窒息しそうだ。
「……はぁ……イデアくん……」
これだ……! さすがケイト氏、息遣いっていうのはこういうことを言うのだろう。僕も真似してなんとなしに口呼吸してみるが、ケイト氏みたいに色っぽくならない。ケイト氏はそうなるように意識して呼吸しているのだろうか、それともこれまでの経験が自然とそうさせているのだろうか。
さて、いつまでも鼻を擦り合わせているわけにはいかない。ここからが本番だ。ひとまずバードキスという軽く行うキスから、プレッシャーキスという唇を押し付け合うキスに移行する予定だ。緊張で手汗がやばい。なのに喉はカラカラだ。心臓もバクバクうるさいし、イメトレ通りに行くのだろうか。今までケイト氏に任せっきりで、自分からキスするなんて、したことがなかったというのに。
「ん……」
意を決して軽くキスしてみる。と同時に、ケイト氏がゆっくりと目をつむった。バードなだけに、ついばむように何度も何度も口づける。これ何回くらいするもんなの? さっきの鼻の時も思ったが、やめ時がわからない。あんまり焦らすとグダリそうだし、性急すぎるのもがっついているみたいでよくない気がする。
もうよくわからないから仕方なく心の中で三〇秒数えて、グッと唇を押し付ける。唇が感じたことのない感触に包まれ思わず怯んだが、グッと堪えて押しつけ続けた。何だこれは。唇ってこんなに柔らかいものなのか。マシュマロだとか何とかって表現されるけれど、これはそれよりももっと柔らかい気がする。かと言ってふにゃふにゃなわけではなく、適度な弾力があって心地よい。場所によって柔らかさが違うのか確かめたくて、いろんな角度からキスしてみる。やはり最も肉厚の真ん中の部分が気持ちいい。僕はその箇所に、執拗にキスをした。
「いであ、く……きもちぃ……」
「……ッ……」
ケイト氏のまぶたが開いて目が合う。見たこともない呆けた目をしている。なにこれ、ちょっと色気出し過ぎじゃないか。僕はこれから君の口の中に舌を入れると言うミッションがあるから、まだ冷静さを欠くわけにはいかない。ケイト氏が気持ちいいと思ってくれているなら嬉しいが、これ僕も気持ちいよ、とか言うべき? ……やめとこ。確実にどもる。
そろそろ舌を入れたいところだが、相変わらず次に移行するタイミングがわからない。僕としたことが、単体でのイメトレはやっていたのだが、各キスを繋げたイメトレをやってこなかった。ケイト氏は以前、どうやって舌を入れてきただろうか。素直に言えば開けてくれるだろうか。
「ケイト氏……口、開けて」
「ハァ……はぁ……え……? ンッ」
唇を離したら口を開けたままにしてくれたので、そのまま舌を侵入させる。とりあえずまずはサーチングキスだな。僕は舌を使って奥から順に内側の歯茎を舐めていく。調べたときは歯茎を舐めていったい何になるんだと思っていたが、聞いたこともない声を上げながら時折ピクリと体を跳ねさせるケイト氏を見るになかなか悪くないらしい。全てを舐め終わる頃にはケイト氏の息はすっかり上がっており、頬も随分と紅潮していた。
ここからはケイト氏にも協力してもらいたいのだが、舌を絡ませたら応えてくれるだろうか。自分が好きに動くだけでなく、相手の動きに合わせてこちらの動作も変えなければいけないから難易度が上がる。僕はケイト氏の出方を想像しながら、舌を絡ませようと試みる。
「す、ストップストップ! ストーップ!」
「デュフッ」
突然、顔を真っ赤にさせながら、ケイト氏は僕を突き飛ばした。何が起こったんだ。何か失敗した? 僕を突き飛ばすなりベッドのすみで丸まるケイト氏を凝視する。その瞳は少し潤んでいるように見えて、頭の中がパニックになる。
「け、ケイト氏……?」
「イデアくん……もしかして浮気した?」
「……え? なんでそうなるの?」
どういうこと? この流れで何がどうなって浮気したって発想になるのかがわからない。でも目の前の恋人は今にも泣きそうで、とても冗談を言っているようには思えない。
「だって、前ちゅーしたときはそんなんじゃなかったじゃん!」
舌入れるだけで飛び跳ねちゃってかわいかったのに! ケイト氏は早口で捲し立てる。なるほど、前回とあまりにも態度が違いすぎて、誰かで練習したのだと解釈したのか。そんな相手いるわけないのに発想がぶっ飛んでいる。ケイト氏を失望させまいと行った猛勉強が完全に裏目に出てしまったのか。
「そんなわけないでしょ。前回経験値が低すぎて情けなかったから、イメトレを……」
「それにしては余裕そうだったけど。オレなんか……こんなになっちゃってるのに……」
息が整ってきたケイト氏が恥ずかしそうに目を逸らす。確かに恋人とあんな雰囲気になっていたにもかかわらず、僕はかなり心に余裕があった。おそらくそれは学んだことの実践という気持ちでやっていたからで、恋人とそういうことをやっている、という意識が少々希薄だったのだろう。しかし探究心でやってました、だなんてバカ正直に言っていいものか。いや、多分良くない。
「それにイメトレだとして、なんでそんなことしちゃうの。オレが一から十まで教えたかったのにさ」
そう拗ねたように言われ、少しムッとする。僕だってケイト氏に近づこうと頑張ったのに、その頑張りを否定されたようで悲しくなる。
「……余裕のある僕なんて嫌いってこと?」
「そんなこと言ってないでしょ!」
いったいどこで間違えたのか、これではまるで喧嘩だ。ケイト氏に悲しい顔をさせたくない一心でやったことだったが、今のケイト氏の顔を見るに僕の行動は間違っていたのかもしれない。
「ケイト氏、この前ケイト氏にキスされて突き飛ばしちゃったでしょ。それでもっとケイト氏に近づかなきゃって思ったんだよ」
「……そんなの知らない」
ダメだこれ、駄々っ子モード入ってるわ。ケイト氏は普段は達観した態度なのだが、たまにこのように融通がきかなくなる。時と場合によれば可愛いが、今はちゃんと話を聞いてほしい。
「……ごめん……」
どうしたものかと考えていたら、突然ケイト氏が謝ってきた。顔を伏せていて、表情は見えない。声は相変わらず悲しげだ。
「え、いや、別に……」
「イデアくんに色々教えてあげよって考えてたのが無駄になっちゃって、拗ねちゃった」
そう上目遣いがちに僕を見上げる。なるほど、ケイト氏も僕との関係を進めるすべを色々と考えてくれていたのか。お互いに同じようなことを考えていたことを知り、思わず頬が緩みそうになる。ケイト氏に捨てられるかも、だなんて心配はまったく杞憂だったようだ。
「僕も、その……ムキになってごめ……んっ」
言い終える前にケイト氏はグッと僕に近づき、唇に触れるだけのライトキスを落とす。さっきまでもっと激しいキスをしていたと言うのに、ケイト氏からされたキスに全身熱くなった。
「ねえ、イメトレの相手、さ。……オレ?」
「……他に誰がいるの」
そんなに不安そうな顔をして聞かないでほしい。心配しなくても、こんなことを考えるのはケイト氏に対してだけだ。返答を聞いたケイト氏が嬉しそうに僕の手を取りじっと見つめてくる。
「……じゃあさ、いくらでも付き合うからさ、……次からは、本物のオレで練習してよ」
照れくさそうな顔をしてケイト氏がねだる。その仕草の破壊力たるや、恋愛経験皆無の僕を服従させるには十分だった。僕は声を出すこともできず、ただ真顔でコクコクとうなずいた。