未体験ゾーン そういえば。
自分とは異なる色素の薄い髪を見下ろしながら、五条悟は首を傾げていた。七海健人、彼との付き合いは長いが、こんな話をしたこと無い。
「七海ってさあ」
「何ですか」
「ムッツリスケベだったんだね」
「いきなり失礼ですね」
とたんにムッとした、機嫌の悪そうな口調。なのに彼の視線は正面を向いたまま動からず、手も止まらない。
ニマニマと口元を緩め、五条はぽんと彼の頭へ手を乗せた。
彼の細い髪は思ったよりも指通りが良く、なんだか面白くなってきた。
正体は自分より背が低いものの、ゴツイ男なのだが。しかも顔が怖い。
彼は元々表情が乏しく、更にお顔の筋肉は常に疲れている。ひょっとしたら疲れが続きすぎて表情を戻す機会を失い、これがデフォになってしまったのかもしれない。かわいそう。
ある日の疲労困憊顔は五条の記憶内で過去最高値に達したし、その翌日はプラスして顔色も悪い。なんか気の毒に思えたので優しい先輩はつい同情し、男子の萌と夢の塊である台詞を言ってみたのだ。
そう「おっぱい揉む?」と。
「揉みます」
「えっ」
「駄目なんですか?」
「いや、いいけど……」
え、こいつの眼がマジなんだけど。
ほんとマジ? と思ったらマジだった。
勿論冗談だった。
だって相手は七海だぞ、あの七海。
ところがだ。間髪入れずに『揉みます』と宣言した七海は両手で五条の胸を揉み始め、そこまで疲れていたのかと五条は驚いた。
その後もノリと勢いとなんとなーく声をかけてしまい、それが悪かったのだろうか。
七海は非常に頼りになる後輩なので、五条はいつもとてもとても、とっても頼りにしている。だから『胸を貸してやろうか』の胸がガチの乳でも、相手が七海のならギャップも面白いしまーいいやーだったのに。ここまで無言で揉まれては、流石の五条もいくつか聞いてみたくなる。
「七海ってさあ、貧乳が好きだったの?」
「乳のサイズに拘りはありませんが、アナタ貧乳です?」
「トップサイズならなかなかのもんだかんね、そこらの女なんかに負けねえよ?」
「アンダーが微妙ですけどね」
「うっさいなあ。んじゃ、男のおっぱいが好きだった?」
「男でいいなら」
機械的に動いていた七海の大きな手が止まり、疲れた声がぼそりと漏れた。
「自分のでいいです」
はい?
五条は反対側へ首を傾げる。
「待ちなさい、七海。さっきから無言で僕の乳を揉み続けてる奴の台詞じゃねえぞ、それ。あとなになに? オマエ、自分の乳揉むの? 開発してんの? 気になるじゃねえか、いきなり爆弾発言すんなよ!」
「開発するなら乳じゃなくて乳首では? ところで結構遠慮なく押してもいるのですが、アナタは仁王立ちのまま全然動かないのが面白いですね」
「やだ、七海のえっちー! ひょっとしてか弱い僕を押し倒したくなった? つーか無視すんな」
「果てしなく私に失礼ですね」
「どういう失礼だよ、そっちこそ失礼の連打だよ。この程度で押し倒されて堪たまるか。あとな、そこまで言うのなら」
五条は両手で七海の手首を掴んだ。
「七海のおっぱい揉ませてもらおうじゃん」
「何でですか」
なんだその不満そうな顔は。いやお前それ先輩にする、しかも乳揉ませて貰ってる先輩にする顔じゃねえだろ!
五条は額に青筋を浮かべる。
「僕の可憐なおっぱいより七海のが上、と豪語しただろうが」
「別に構いませんけど」
冷静に「ならどうぞ」と言われ、五条は舌打ちをする。
「なんでそこでネクタイ緩めんだよ」
首をゆるりと振りながら、ネクタイを緩めた七海は一つ、二つとシャツのボタンを開けた。
「何か問題でも?」
「いちいち動きがえっちなのはいくないと思いまあす」
「そうですか」
「そんじゃ遠慮なく。えーい!」
語尾を可愛らしく決め、五条は七海のシャツへ手を当てた。宣言通り遠慮なく胸を鷲掴み、堂々と動かしてから青ざめる。
「おい、七海」
「はい」
「おいおいおい、何だこれは」
「人の胸に対して失礼ですね」
「バインバインじゃん」
ぎゅうぎゅうと揉む手を好きにさせながらも、七海はうんざりとした声で答えた。
「普通です」
「いーや、これが普通とか絶対無いから! あとお前、ちっとも足元ブレないね」
「確かにこの程度でしたら全く押し倒されてたまるかって気になりますね。ところで五条さん、満足したのでしたら離して貰えますか」
「えっ、やだよ。やばい、癒される。七海のおっぱいすごい」
「そうですか、良かったですね。今日もイキイキとさぼっていたそうじゃないですか。そんな五条さんを癒す必要性はよく分かりません」
「すっげえな」
「アナタも聞きなさい」
ここ数年、彼からこんなに褒められたことはあっただろうか。思わず七海は真顔になる。
その間も彼の手は止まらず、何故か悔しがり始めた。
「いやいやいや、でも僕も負けてない。何歩か譲って胸筋で負けたとしてもだ、乳首なら僕の方がピンクだもんね、たぶん!」
悔し気な五条に呆れ、七海はため息を吐く。
「どうでもいいですよ。アナタの乳首がどんなんだろうが、ついてようが無かろうが」
「確かに男の乳首なんか無くてもなんも問題は無いけどさ。無いと寂しいだろ、絵的に」
「五条さん、シャツを脱がそうとするの止めて下さい」
「くっそ! 七海、乳首見せろ。比べっから」
「セクハラです」
っかー! と五条が天井に嘆く。
「ちょっとー、七海ィー」
「そっちには天井しかいませんよ」
「素肌にシャツってどういうことだ。七海ならYシャツの下におっさんTシャツを着てろよ。卑猥だろ!」
「洗濯物が増えるじゃないですか」
「ってことは、このシャツを脱いだらすぐに乳? マジで」
「マジですが、猥褻物のような表現をしないでください」
五条が外したボタンを戻しながら、七海は長い息を吐いた。この先輩は何を言い出した。
「途中まで自分で外した癖に、猥褻だよ! こんな乳が歩いていたら揉みたくなるって!」
「乳は歩いてきません」
「んじゃ硝子が乳丸出しで歩いてたらどーすんだよ、揉みたい?」
いやもうほんと、何を言い出した。
呆れ果てた七海が吐き捨てる。
「変態ですね」
「え、硝子が? 七海が?」
「そんな事例を出すアナタが、です」
「失礼じゃなーい?」
「その言葉、そっくりそのままお返しします」
「まあいいや! で、どうする?」
「よくは無いですが……。アナタは?」
ハ? と固まった五条は、数秒後にぶんぶんと頭を横へ振る。
「冗談じゃないよ、縮み上がるね!」
「同感ですが、上着をお貸しします」
「握りつぶしてやろうか、五条。あと七海は合格」
「ありがとうございます」
「何で僕だけさー?」
「まずお前らうるさい、黙んな。仮眠してたんだけど」
ソファに転がり器用に缶ビールを飲んでいた家入は、空き缶を五条へ投げつけた。難なく受け取った五条はそのままゴミ箱へ放り投げ、綺麗な放物線を描いた缶は姿を消す。
「飲んでただけじゃん、硝子」
「お疲れ様です。家入さん」
ハイハイ、と家入はプラプラと手を振る。
「人の横で乳を揉み合った挙句に何を言ってんの。バラされたい? てかなになに? 七海って自分で乳首を開発してんの?」
「してんの」
「していません。どうしてそうなるんですか」
あっそ、と一言で片づけた家入は次の缶を開ける。
「おめーらが乳を揉み合ってようがどうでもいいんだけどさあ。相撲取りの突っ張り稽古みたいで色気が無い、ゼロ」
そりゃ萌えがないねえ、と五条は首を捻る。
「ならアハーンとか言っちゃおうかなー。言いなよ、七海!」
「全然感じませんので無理ですね」
「あ、そうくるか。なら直に乳首抓んでやる」
七海へ伸ばした手はパーリングの様に叩き落されてしまい、五条はぷうと頬を膨らませる。
「あっは! 猫パンチかよ。五条」
「猫パンチですね、五条さん」
「んだとおー、この最強に向かって」
地団駄を踏む五条を無視し、七海は横目で時刻を確認する。
ああ、今日も時間外労働だ。
そう思いながら、バタバタと暴れている五条の手首を掴む。この人はいったい、何がしたいのだろう。七海は不思議でならない。
普段は見上げる位置にある顔が何故かほんの少し下にある。
全く、なんだんだこの人は。
果てしなく面倒で、七海には想像もできないほど強く、半分が隠されていてすら綺麗な顔と凄まじい瞳を持つ男。
口角を上げた七海に五条は小首を傾げた。
「どした、七海」
「どうもこうも無いんですが……。五条さん、次に疲れた時ですけれど」
「んー? 次ってことは今回は癒された? ねえねえ、癒された?」
「ええ、助かりました」
七海は先輩の手、そして背中へ回した手をぐいと引く。そのまま強引に近づけた顔へ唇を寄せた。
「五条さん」
動きを止めた五条の耳元で七海はぼそぼそと囁き、薄く微笑む。彫像のように固まる五条から手を離し、七海は椅子の背に投げてあった上着を掴んだ。
「いい声、聴かせて下さいね」
「……は ちょ、七海」
「では、そういうことで。お先に失礼します」
「お疲れー。って、おい。五条」
再び投げつけられた缶を無言で掴み、五条はゆっくりと身体を起こした。少し低い姿勢で固まっていたのを思い出し、肩や首をぐるぐると回す。
「いつまで固まってんのよ。あと赤面してんな、気持ち悪い」
「……なあ、硝子」
「あん?」
「あの子、すごいえっち」
「はー?」
「疲れさせたらヤバいかもしんない」
『次は直に乳首を抓んで、感じさせてあげますよ』