マヴェルス「声をきかせて 僕を愛して」 別離の時はいつだって突然訪れる。俺にとってのそれは父さんが最初だった。小さかった俺は、突然無くした力強く抱き上げてくれていた腕の不在を、成長と共に思い知されていった。そして次は母さん。マーヴや父さんの友人たちが助けてくれていたけれど、それでも大変な思いをして俺を育ててくれた母さんが父さんのいる場所に旅立った。
俺が働けるようなったら楽な生活をさせてあげられると思っていたし、いなくなるなんて思ってもいなかった。だって、父さんが突然死んで家族が一人減った俺の未来で母さんまでいなくなるなんて、そんな悲しい事があるなんて考えたくも無かった。でも、実際にそれは起こる。
体調を崩しがちになった母さんを説得して病院に連れて行った。ただ風邪が長引いてるだけだと笑う母さんが心配だったから。頭の隅っこで長く患うような病気に罹って、しかも治る見込みがないと、そんなどこかのドラマのような事が起こったらどうしよう。でもそんなことが自分の身に実際に降りかかるわけがないと、漠然とそうも考えていた。でも、その時は訪れて、母さんもいなくなった。
親孝行したいと、いつか出来ると思っていた二人はいなくなって。そして俺にはマーヴだけが残った。マーヴは昔から突飛な事をして僻地に言葉通りよく飛ばされていたけど、それでも俺を気遣ってくれたし母さんが闘病していた時も自分のこと以上に心配して、断っていた治療費を工面してくれた。それまで父さんの残してくれたお金にはほどんど手を付けていなかったから、それを治療費に充てると母さんも俺も断ったけど、マーヴは頑として譲らなかった。
じわじわと終わりの見えない、見たくもない生活は突如として終わりを告げた。快活に、優しく朗らかに笑う母さんにはもう会えない。最後は苦しむことなく静かに息を引きとったその瞬間に立ち会えたことにほっとしつつ、握り締めた手がどんどん冷たくなっていくのが不思議だった。
まだ青年の域を完全に超えていなかった俺はずっと続くその生活に疲弊していて、やせ細っていく母さんを見ているのが辛かった。寝ている時にもし病院から電話がかかってきたらどうしよう。スクールにいる時に容体が急変したら、もしかしたらもしかしたら……。そんな事ばかり考えて、でもテレビを見ている時、友達と馬鹿をしている時。美味しいものをマーヴと食べている時、母さんが辛い時に俺は笑っていていいのだろうかと、ふと我に返った瞬間に罪悪感に苛まれることも珍しくなかった。
近所の人や父さんの友達、それはマーヴの友達でもあったけど、その人たちがみんな俺や母さんを気遣って傍にいてくれようとしたけど、それでも俺は母さんと過ごした家で父さんの想い出の品と一緒に独りで過ごしていた。そんな俺を心配したアイスおじさんも家においでと言ってくれていたけど、何かあった時に家にいない方が怖くてどこにも行けなかった。
いつもならスクールの帰りに病院に寄るけど、毎日のように行ってたから今日くらいは家に帰ってゆっくりしようと、雨の降る外をぼんやり眺めていたその日。あまりお腹が空かなくてシリアルで軽く済ませて、これだと母さんに怒られるかななんて思っていたその時に電話が鳴った。
あまり日を置かずにアイスおじさんは連絡をくれたし、もしかしたら友達からかもしれない。マーヴの任期がもうすぐ終わるから、電波の届くところに還ってきていて連絡をくれたのかもしれない。いろんな可能性はあるのに、その時俺はその電話が病院からだとすぐに分かった。
急かすように鳴る電話を取りたくなくてじっと見つめる。電話を取らなければその予感は現実にはならないなんて馬鹿な事を考えるけど、なり続ける電話の音がとても怖くて、とうとう俺は受話器を手に取った。俺は耳に聞こえる声を遠くにききながら、外は雨がひどくて、傘を差しても濡れるだろうななんてそんなことをぼんやりと考えた。
母さんの体に繋がれていたチューブや機械がナースの人たちによって静かに取り除かれて、病室には俺と母さんのふたりきりになった。どの位の時間が経ったのか、すっかり深い夜になった病院の廊下から慌ただしい足音が聞こえて、部屋の前で止まったかと思うとドアががらりと開いた。もしかしたら、なんて思ったけどやっぱりそこに立っていたのは顔を強張らせたアイスおじさんで、
「ブラッドリー」
震える声で俺の名前を呼んだその声を今でもよく覚えている。アイスおじさんは珍しく服がよれていて、きっと急いで来てくれたんだろうなとぼんやりと思った。おじさんは眠っているかのように静かな母さんを見て、そして僕に歩みよると肩を抱いてぐっと引き寄せた。椅子に座りながらおじさんの呼吸にあわせて動くお腹が暖かくて、その時ようやく体が冷えてたんだなと自覚した。
「……手続きは俺がしてくるから、今日は一緒に俺の家に帰ろう」
すぐに戻るから、そう言っておじいさんはもう一度ぎゅっと俺の肩を強く抱いて、頭を子供にする様に撫でて部屋を出た。俺はもう小さなちいさなブラッドリー坊やじゃないんだけどな。なんて思いながら、おじさんが帰ってくるまでそのまま目を開くことの無い母さんの顔をぼんやりと、なんで目が開かないんだろうななんて思いながらずっと見ていた。
父さんのときはあまり記憶がなかったけれど、こんなにも葬儀とは忙しなく怒涛の様に過ぎていくのだろか。参列者は多く、アイスおじさんはずっと傍にいてくれた。でも、たまに周囲を見回してみても探していた姿は見当たらず、母さんの棺が土の下へ隠れても参列者が姿を消しても、いてほしかった人は最後まで現れなかった。
アイスおじさんはそんな俺の様子を察してか、その人の名前を口にしなかった。ただ、一言『あの馬鹿野郎』と、眉間に皺を寄せて小さく呟いた。参列者は立ち去る時にみんな悲しそうに、寂しそうに棺を見ては俺にたいして『何かあれば……』そう言って帰っていった。
何か。これ以上の何かがあるのだろうか。そんな風に思ってしまう自分は情が無いのだろうか。父さんも母さんもいなくなってどこか壊れてしまったのだろうか。だって、哀しいと思っているはずなのに胸がからっぽで涙が出ない。なんだかテレビを見ているかのようにすべてが遠くて他人事の様に感じるのだ。
サラおばさんもずっと傍にいてくれて、アイスおじさんと何かを話した後に俺をぎゅっと抱きしめて帰っていった。アイスおじさんは今日も一緒に帰ろうと言ってくれたけど、俺はなんだか疲れてしまって、自分の家に帰りたい。そう一言伝えると、それ以上は何も言わずに玄関まで送ってくれて、俺が家の中の入るまでずっと見ててくれた。
一人になって、でも服を着替える元気もなくて。テレビの前に置いてあるソファに座ってモバイルを手に誰からのメッセージも無い画面を見つめていた。気が付くと家の中は真っ暗で、流石に電気をつけた方が良いかもと思ったけど、自分以外いない家で明かりを点けても注意をする人が居ないのだからそのままでもいいと、つけっぱなしにしていた興味の無いニュースを流すテレビの明かりだけが目に痛かった。
手に持っていたモバイルをゆっくりと操作して、電話をかける。呼び出し音が鳴り、それが途切れた瞬間相手に向かって口を開こうとしたその時
『ピート・ミッチェル。メッセージをどうぞ』
そう義務的な声が聞こえた。ビープ音が鳴り、応えの無い相手にメッセージを残した。
「マーヴ、母さんが死んじゃった」
一言だけ口にして俺は電話を切った。