日常 チチチッ、と小鳥のさえずりが聞こえる。時刻は朝の六時前、窓から覗く外にはまだ歩く人などほぼおらず、ランニングをする人や、犬の散歩をする人がたまに見えるくらいだ。毛布の擦れる音が微かに聞こえたかと思うと、ゆっくりと誰かが起きた。元創務の猫柳八重だ。八重が辞める際、八重の部下であった希水凪も八重について行く形で辞めることになり、これからの事を考えた結果、一緒に住み、何でも屋───創務に頼まれないような"依頼"を受け入れることにしたのだ。この時間には慣れているのだろうか、ベッドから起き上がると、部屋を出て洗面所へと行く。顔を洗ったり、歯を磨いたり、部屋に戻り着替えを済ます。この流れは、八重のいつも通りのルーティンでもあった。時刻は六時半を過ぎようとしている、凪は起きてくる様子はない。凪は比較的朝は弱いと八重は知っており、七時まで様子を見て起こすのもいつもの事であった。
七時、やはり起きる気配はない。八重は流し見していたテレビから目を離し、凪の部屋へと行く。ノックをするが、返事はない。
「凪くーん、入るよ」
八重が一言言った後、ドアノブを回す。薄暗い部屋へと入った、カーテンから薄く陽の光が入り、机の上に置かれていた原稿用紙は、何かを書いた後、ぐちゃぐちゃに書き潰した後が沢山あり、内容は全く読めなかった。彼が体験したあの一件以来、全く何も書けなくなったと前から知っていた、今でも、凪が作品を書きたい気持ちがあったのかは八重には分からなかった。
原稿用紙から目を離し、ベッドを見る。ベッドには凪が寝ていた。八重が入ってきたというのに、起きる気配がない。これが没だったり、敵だったらすぐ起きるのを八重は知っていた。油断している証拠なのか、寝息を立てて寝ていた。以前まで小さめな一本結びにしていた髪から、少しだけ短くなった髪型、顔半分隠す位の長い前髪は変わらなかったが、少しだけ顔が動いた拍子に、はらり、と髪が落ちた。落ちた髪の隙間から、痛々しい目の周りの傷が見えた。部屋の中が薄暗いため、はっきりとは見えていないが。
相変わらず起きる気配はない、八重はベッドの端にそっと座ると、凪の前髪を少し触る。サラサラした触り心地だった。
「本当にこっちに来るもんな……」
そう八重が呟いた後、凪の体を揺らした。
「凪くん、起きて〜」
「………ん、んー……」
凪がギュッと目をつぶった後、ゆっくり目を開ける。ぼんやりと八重の顔を見た後、体を起こした。
「んあ……。……八重さん……おはようございます……」
「顔洗ってきな、朝ごはん作ってくるから」
「はい……」
毛先がぴょん、ぴょん、と跳ねている凪の頭をぽんぽん、と撫でたあと八重は部屋を出ていった。凪は八重の背中を見送ったあと、カーテンで閉められている窓を見つめる。
「……だって八重さんについて行くって決めてたし、あの日から」
本当は少し前から起きていた、起きようとしていたが、まさか八重が先程の事を言うとは思っておらず、起きるタイミングを失っていた。何もかも失ったあの日から、八重にずっとついて行こうと決めていた。八重が何も言わずに辞めるとは思わなかったが、それでも無理やり着いてきた。八重の信念も見つけ出さないといけない、それと同時に、創務の時では出来なかったことを、何でも屋という立場でしてみせる。そろそろ部屋から出ないと八重が心配するかもしれない、凪は急ぐように部屋を出た。部屋を出たと同時に、原稿用紙が落ちる。
八重が作った朝食を食べ、身支度をする。寝癖がついた髪を整えるのに時間がかかってしまったが、無事に時間には間に合った。
「依頼来ますかねー」
「来るんじゃない? まぁのんびりしましょうよ? 希水くん」
八重がからかうように凪にそう言う。創務の時と違うのか分からないが、何でも屋をする時は凪が上司ポジションにいつの間にかなっていた。凪はそういうのは八重がするのでは、と言ったのだが、
『僕は凪くんについて行くよ』
の一言で何も言い返せず、一応、凪が何でも屋の責任者となった。なお、依頼してきた相手は大抵、八重が凪の用心棒ではなど思われていたが。
「えー。凪くんでいいんですよー、猫柳さん」
「……何だか凪くんが猫柳さんって言うの新鮮だねぇ」
「希水くんも大概ですよ」
そう言うと、二人して笑った。