住民の好意で用意してもらった宿屋の一室で、今日あったことを振り返りながらうとうととしていたとき、静かに揺り起こすようなドアを叩く音で現実に引き戻される。
「賢者様、いる?」
「……ん、オーエン、ですか?」
部屋に訪ねてきたのは、このバカンスのためにとクロエが用意してくれた衣装に身を包んだオーエンだった。
「へえ、部屋にいたんだ」
ベッドの上でくつろいでいる姿を見るなり、意味深めに目を細めて音もなく近付いてくる。
「部屋じゃなかったらどこにいるんですか」
「さっき、飯屋で女たちに囲まれてただろ。満更でもない顔してた」
今日の夕飯は賑やかなものだったけれど、この地に来てからほとんど一人で過ごしていたオーエンはあの場にはいなかったはずだ。けれど、にやにやと語る姿を見るに、どこからから見ていたのだろうということは容易に想像が出来た。
「そういったことはありましたけど。あの場だけですよ」
「誘われてただろ。どうして行かなかったの?」
飯屋で囲まれていたところを再現するかのように、蠱惑的な笑みを浮かべて身を寄せてくるオーエンを避けながら、ベッドの上に座り直すと、チャリ、と音を立てて飾りが揺れる音がした。
「……ただのリップサービスです」
この世界に来て、賢者と呼ばれるようになってから、そうしてもてはやされることは珍しいことではなかった。自分では偉くなったつもりがなくても、こういったことがある度に、権力のある者に媚びるという習性はこちらの世界にもあるのだと感心するほどだ。
「何それ。自慢? それとも、賢者って肩書きがなかったら見向きもされないってわかってるとでも言いたいわけ?」
「何に怒ってるんですか?」
オーエンは、元から棘のある言い方をする人だけれど、薄明りに照らされたその表情は明らかに苛立っていて、振り払われるとわかっていても、その頬に触れずにはいられなかった。
「別に。おまえが物分かりの良いことしか言わないからムカついてるだけだよ」
振り払われるかと思った手は、予想とは裏腹に振り払われることはなく、手首を掴まれて静かに降ろされるだけだった。
「もしかして……嫉妬、しました……?」
苛立った表情と逸らされた瞳に浮かんだ一つの疑念は、口に出すことがおこがましいと思えるものだったけれど、気が付けば音となり零れ落ちていた。
「は? なに言って……」
ついさっきまで蠱惑的な笑みを浮かべていた口元は、同じものとは思えないくらいきつく結ばれて、わずかに震えていた。
不安から苛立ちを覚えることは、オーエンなら珍しくないことだ。それを言葉にすることはおろか、気付くことだって上手くはないこの人に、自分がしてあげられることは、せいぜいそれに気付いて寄り添うことくらいだろう。
気の利いた言葉の一つくらい言えたらもっと良かったけれど、気難しいオーエンの機嫌を損ねずに寄り添うというのは、想像以上に難しいことだ。
降ろされた手でその腕を掴んで引き寄せれば、薄明りの奥で色の異なる瞳が、星が落ちるように瞬く。
「……うん、そう。嫉妬したんだよ」
「そうですよね、嫉妬なんて……え?」
静かな夜に溶けてしまいそうなほど、柔らかく告げられた言葉に驚いて見れば、すり抜けるように解かれた腕から指を絡めてきゅっと握ってくる。
「ねえ、お優しい賢者様は、僕が嫉妬したって言ったら、どうやって慰めてくれるの?」
また、チャリ、と飾りが音を立ててしなだれかかるように体が寄せられる。人より少し冷たい肌の感触は、砂漠の地では心地が良い。
けれど、そうして見上げてくる瞳は、ついさっきのきらめき落ちるようなものではなく、人を惑わせる色をしていて、たちまち嬉しくなる。これはオーエンなりの甘え方なのだ。
「あなたが不安じゃなくなるまで、一緒にいます」
抱き寄せて背中を撫でれば、顎先から頬を撫で上げならオーエンは目を細める。
「誰が不安だって? そんな安っぽい口説き文句じゃ言い寄ってきた女たちも喜ばないよ」
キスをせがむような仕草にドキリとしたけれど、次いで出た言葉は、まったく違うものでますます甘やかしてしまいたくなる。
「まだそれ言うんですか……俺は一途なので、ワンナイトはしない主義なんです」
「……あっそう」
退屈そうに返された言葉とは裏腹に、頬を馴染ませるように胸元に寄せてオーエンは何も言わなくなってしまった。
魔法使いは言葉を大事にする。だからこそ、言葉を尽くして伝えたいと思うけれど、きっとそれだけではこの思いは伝えきれない。
目を合わせないように明後日の方向を向いているオーエンの顔のあちこちにキスをしていると、ぴた、と冷たい指がそこに押し当てられる。
「しつこい」
「キス、したいんですけど」
ベッドに置かれた分厚いクッションを枕にして横たわらせて尋ねれば、オーエンは逃げる素振りも見せずふかふかのそれに身を預けた。
「ワンナイトはしない主義なんじゃなかった?」
「オーエンとは何回もしてるじゃないですか」
「……忘れた」
押し倒すような格好で迫れば、オーエンは息を飲んで目を逸らす。本当に忘れているのだとしたら、もっと堂々と出来そうなものを、時折こうして見せるいじらしさに深みにはまっていくのだ。
「なら、今日のことは忘れないでくださいね」
顎先を持ち上げて口付ける瞬間、その唇が「ばか」と動いた気がしたけれど、隠すように引き寄せられてすぐに重ねられた。
「ん……ねぇ、キスだけでいいの?」
「その気にさせれば……しても、いいんですよね?」
一緒に過ごした夜のことは、一晩だって忘れていない。それを伝えるにはじゅうぶんすぎる言葉に、オーエンは装飾の付いた服を見せつけて、追いかけっこをする子供みたいに舌を出して笑った。
「これ、脱がせられたらね」
「これは確かに難しそうですね……」
チャリ、と音を立てる飾りを手に取って、財宝の奥で眠る秘宝の機嫌を損なわないように、手の甲に口付けて探索を始めることを告げた。
長くて短い、二人だけの夜が始まる。