賢者が元にいた世界の風習は、変わったものが多い。
魔法がない世界など、生活するにも生活のしようがない気もするが、それが当たり前なのだと、彼は少しだけ寂しそうに笑っていた。
それが、元の世界への望郷の念か、憐れみかはわからない。けれど、憂いの込められたものであることは間違いなかった。
賢者が部屋を訪ねて来たのは、夜半過ぎのことだ。眠るわけでもなく、かと言って外に出る気分にもなれずにいたところに、ちょうど良い暇潰しが自分からやって来たのだ。
「今日はバレンタインなので……」
そう言って差し出されたのは、艶やかな光沢を持つ茶色の紙に包まれた小さな小箱。丁寧にリボンまで結って一端にプレゼントであると気取った顔をしているようだった。
「なんでこんな時間にわざわざ持って来たんだよ」
バレンタインという行事があることは、前の賢者が話していたと聞いたことがある。それを魔法舎でもやろうと誰が言い出したのか、魔法使いたちは余所者の賢者が機嫌を損ねないよう異文化を積極的に取り入れるきらいがある。
どの道この世界にいる以上は務めを果たす義務があるのだから、必要な時だけ持ち上げればよいものの、主に退屈を持て余した老人たちがこぞってやりたがるから始末が悪い。
そんな理由でよくわからない催しの参加を強制されるのは窮屈で仕方がない。チョコレートだけあればそれで十分だ。
それだというのに、この男は夜更けにわざわざ部屋を訪ねてくるというのもおかしな話ではあるけれど、暇潰しにはちょうどいい。適当に遊んで明日渡すように用意している物も全部いただいてしまおう。
差し出された物を受け取らないことを不安に思ったのか、おずおずと向けられる視線から感じ取って、そのまま部屋の中に招き入れた。
「あ、いや……そこまでではないんですけど……」
一度部屋に入ると長くなるとわかっているのか、体裁だけの断りを入れてくる。それでも、断り切れないのがこの男の扱いやすいところだ。
「暇だったんだよ。遊んであげる」
これから玩具にすると宣言したところで、顔色一つ変えなくなったのはいつからか、慣れだとは言われたくないけれど、これは確実に慣れがそうさせているに違いない。
「明日は朝から準備があるので、そこそこでお願いします」
畏まって頭を下げることもないだろうに、余程機嫌を損ねたくないのか、幾分慎重にも見える。
「それで、わざわざ持って来たってことは、明日に用意してるのとは別なんだろ?」
「あなただけ特別、なんて言えませんしね」
肩を竦めて言うのは、他の魔法使いたちのことを思い浮かべているからだろう。どうしてこうも他人を慮ることしか出来ないのだろうか。
「言ったら? あいつら、賢者様が誰を特別扱いしたってきっと何も言わないよ」
「それは、そうかもしれませんけど……オーエンは嫌じゃないですか?」
それは、暗に自分が賢者の特別であることを知られるということを示していた。ついさっきまで、ここにいない他人を慮っていると感じたばかりだったのに、そうではないと答えを出されてしまったようだ。
「……別に。僕はおまえのこと、特別だなんて思ってないから」
「それならいいんです。でも、それは一人で食べてくださいね」
「そんなくだらないこと、僕に指図するな」
「お願いですよ。特別に用意したんですから」
その声色は、穏やかで、優しくて、自分とは真逆の情に寒気がした。人の気持ちや好意なんてものは、独りよがりのエゴと同じだ。
けれど、ここまで言うのだから、きっと物は悪くないのだろう。深くソファに身を預けるようにして腰を掛けると、リボンと包装紙に息を吹きかけるようにして飛ばして見せれば、幼い子供のように瞳を輝かせて食いついてきた。
「いまのも魔法ですか? ちゃんと包装してあったのに、綺麗に取れるんですね」
「破くのが面倒だったんだよ。中身だけでいいのに」
「特別なんですから、そのままってわけにはいきませんよ」
床に落ちたリボンと包装紙を拾いながら、それが当たり前のことだと丁寧に折りたたんでいた。
「さっきから聞いてれば特別、特別って、それしか言うことないの?」
どれだけ好意を無下にしても、嫌味が通じていないのか、やれやれと構われている気さえする。ただの人間にそんな態度を取られるのは癪だけれど、一粒口の中に放り込んだチョコの甘さに、いまは許してやろうと思ってしまうのだから呆れたものだ。
「ねえ。これ、どこで買ってきたの?」
「それは秘密です」
そういって得意げに笑う顔は、何故か無邪気で、ついからかってしまいたくなる。
「賢者様も食べる? すごく甘いよ」
「えっ、でも一つ減っちゃいますよ」
せっかく分けてやると言っているのに、受け取る気がないらしい。
「ほら、あーん」
とびきり甘く誘うように、一粒摘まんで唇に押し当ててやれば、冗談か本気か困惑した様子で、迷いと疑いの目でこちらを見ているのがわかった。
「食べないの? ほら、早く。溶けちゃう」
遠慮がちに開いた口の中にチョコを押し込んで、口の中で溶けていく様を想像して笑みが零れる。きっと、口の中は火傷するほど甘いに違いない。
「美味しい?」
訊ねながらチョコを押し込んだ唇に口付けてやる。きっと甘いだろうと思っていた口の中は、思った通りいつも以上に甘ったるくて、考えることをやめてしまいそうになる。
「いつも、これくらい甘かったらいいのに」
「今日は、そういうつもりで来たわけじゃなかったんですけど……」
「そういうこと言うの、野暮だと思わない?」
せっかくいい雰囲気にしてやったのに、これでは甘いチョコも台無しだ。
「毎回こういうことをするのもどうなのかな、と考えてしまって……」
「僕とこういうことするの嫌?」
葛藤がないと言えば噓になる。けれど、自分でも不思議なほど、賢者と情事を重ねることに躊躇いがなくなっているのも事実だ。
「でも、嫌じゃないです。嫌なら、部屋に入ったりしないです」
「なんだ、賢者様だって期待してたんじゃない」
「オーエンも、期待してたんですか?」
言葉尻を捕らえられて、思わず言葉に詰まる。期待していたなんて、そんなことあるはずがないのに。
「うるさい。からかっただけ、本気にするなよ」
「じゃあ、今日は戻りますね」
去り際、挨拶代わりに口付けられて、自分だけが焦がれているのが腹立たしくなる。理性的で、人が良くて、その割に強引で、こんな気持ちにさせておいて、一人にするなんて、無責任にも程がある。
「あの、どうしました?」
気付けば、去ろうとする袖口を掴んでいたようで、後に引けなくなってしまった。頭で考えるよりも体が動くなんて、言い訳のしようがない。
「明日のチョコは、もっと甘いのにして」
「すみません。明日のは、皆さんに合わせてるので、これよりも甘くなくて」
その場に膝をついた賢者は、目線を合わせて誠実に詫びてくれている。いま欲しいものが、誠実さでないことはわかっているはずなのに。
「じゃあ、まだここにいて」
首元に腕を回して強請ってみせると、その瞳に映る自分の姿がやけに必死で、幻でも見ているようだ。けれど、ここまでしたら後に引くことは出来ない。
「シュガー、たくさんあげるから」
引き寄せて耳元で囁くと、明らかに動揺してあともう一押しで引き留められる。そんな気がした。どれだけ理性的であっても、甘い誘惑には勝てない。それが動物の本能だ。
「えっと、甘いのはちょっと……」
「あげるって言ってるんだよ」
さすがにじれったくなって凄めば、観念したのか、小さく息を吐いてからやれやれと笑って、頬を撫でてくる。
「なら、甘さひかえめでお願いします」
「約束は出来ないな、僕は魔法使いだから」
甘い唇が近付いて、躊躇なく重ねられる。その気になればちゃんと出来るのだから、初めからそうすればいいものを、嫌味の一つでも言ってやりたかった。けれど、差し込まれた舌が焼けるほど熱くて、チョコレートみたいにドロドロに溶かして美味しく頂いてからでもそれは遅くないだろう。
「賢者様、もっと食べさせて」
「ん、どうぞ」
舌の上に乗せてそのままキスをねだる。舌の上で溶け始めたチョコレートが口の中で混ざり合ってドロドロに溶けていく。甘くて、甘くて、最高の気分。
これだけ甘いなら、いくらでも貰ってあげる。だからずっと、甘いままでいて。