使いたいと思ったタブレットが見当たらない。
そういえば、昨夜アレインが使っていたような。記憶を辿ったトラヴィスは、部屋の中を探したが、当てにしていたいくつかの場所は、全てハズレだった。
「なぁ、アレイ、ン。…………」
トラヴィスはアレインの部屋を訪ね、声をかけた。が、そこにいたアレインの姿を一目見て、すぐに口を噤んだ。
アレインは、筋トレをしていた。それだけならいつも通りだが、耳にはイヤホン。
トラヴィスの声は聞こえていないし、気配にも気付いていないようだ。
ふ、ふ、と規則正しい呼吸をしながら、もくもくとトレーニングメニューをこなしている。
ああ、これは。
トラヴィスはそっと部屋の扉を閉めた。
タブレットは、また今度でいい。
人たらし、王子様と言われ、常に優しさと強さを持って老若男女を懐柔し、その真面目さと優秀さで荒事を乗り越えているアレインとて、聖人君子でも、完璧超人でもない。
まだまだ波に揉まれている最中だ、荒波に翻弄される日があるのも、当然のこと。
そんなときは、取り敢えず身体を動かすのが良いというのが、アレインの持論だった。
普段から運動は日課じゃないか、と最初は思っていたが、長く共に過ごしてトラヴィスが気付いたのは、そのときは圧倒的に筋トレが多く、強い負荷をかけがちだということと、イヤホンで音楽を聞きながら…要は、他を丸きりシャットアウトすることだった。
何も考えないようにしているのか、その逆か。
「ふん」
トラヴィスはひとつ、ため息をついた。
アレインがシャワーを済ませてリビングへ入ると、トラヴィスはソファで本を読んでいた。
ハッとして時計を見ると、思っていたより遅い時間になっている。ずいぶん没頭していたらしい。
「先に食ったぞ。ほら、お前のも置いといたから」
「…呼んでくれて良かったのに」
「へたに声かけねー方がいいかと思って」
「気を遣わせてしまったのか…悪い」
「なんで謝んだよ。なんかあったんだろ?」
「……いや、自分で対処できる範囲だ」
トラヴィスは、また、呆れたようにため息をつく。
「抱え込んでんじゃねーっての」
ソファから立ち上がり、アレインの側まで来ると、不満そうな顔を作る。
「皆の優しいイケメン王子様を慰められるのは、この世で唯一、俺だけなんだぞ」
アレインは虚をつかれて目を丸くし、トラヴィスを見た。
トラヴィスは真面目な顔でアレインを見つめていたが、ふっと破顔して、「違うか?」と口角を上げてみせた。
「…ふはっ」
アレインも、つられて破顔した。
「ああ…その通りだな、トラヴィス」
「ほら、存分に甘えさせてやるから、来い」
手を広げるトラヴィスの胸に、アレインは素直に身を預ける。
トラヴィスの肩に額を付けて、顔を上げないアレインは、きっと、下手くそに泣こうとしているんだろう。
トラヴィスはアレインの背を撫ぜて、皆の優しいイケメン王子様をただのアレインに戻すため、しっかりと抱き締めた。
***
「………」
「………」
ダイニングテーブルの向かいに座るアレインは、終始無言だった。
チーズを、横に添えていたクレソンと共にフォークで重ねて刺し、作業のように口に運んでいる。
ちっとも美味そうじゃねえな。トラヴィスはこっそり思う。それ、イレニアさんが送ってくれた、そこそこ良いチーズなんだけどな。
雑に咀嚼したあと、ワインをぐっと煽って食事を終えたアレインは、小さくご馳走様をすると、「シャワー浴びてくる」と一言だけ言い残して、席を立った。
「おう」とその背に返すが、たぶん聞こえていないだろう。トラヴィスも食事を終えると、食器を下げて食洗機に突っ込んだ。
飲み残したワインのグラスを持ち、リビングのソファへ移動する。
トラヴィスは先にシャワーを済ませているので、あとは寝るまで余暇の時間だ。
いつもはゆっくり読書をするところだが、さて、今日は、どうやら大事な仕事があるようだな。
案の定、シャワーを終えて戻ってきたアレインは、無言のまま、トラヴィスの座るソファの、その足元に座り込んだ。
髪は濡れたまま。
トラヴィスは自然に、慣れた手つきで、その髪をタオルで拭った。
用意していたオイルを一滴、手のひらに落とす。もんで馴染ませると、良い香りが広がった。濡れた青髪を撫ぜ、ついでに首も軽く揉んでやる。
ドライヤーで、ブロックに分けて、地肌から温風をあてていく。ゆっくり、丁寧に。
そうして、すっかりサラサラになった髪を手櫛で軽く整えて、出来上がり。
トラヴィスはソファから尻を落とし、ソファとアレインの間にわり込んで座して、寂しげな背中にくっついた。
腹に手を回す。アレインの手が、そっと重ねられた。
最近は、無理な筋トレをする姿も、だいぶ少なくなった。
ようやく甘えてくれるようになった元王子様を、たくさん褒めてやらねば。
しばらく、背を抱いていたトラヴィスのことを、アレインはチラリと肩ごしに見た。
お、目を合わせる気になったか。
目尻が赤い。
身体を反転させたアレインは、トラヴィスを正面から抱き込む。サラリと頬に流れたアレインの髪からは、良い香りがする。
「……」
「うん」
「…あの狸」
「はは、うん」
「悔しい。許さない」
「うん」
「俺は負けない」
「うん」
「………」
「俺もいるぜ」
「…うん…」
抱き合ったまま、ズルズルと身体を倒したアレインは、巻き込まれて一緒に横になったトラヴィスを見た。
トラヴィスが、床に散らばるアレインの髪を撫ぜる。
「せっかくイケメンに整えてやったのに、台無しだ」
アレインが、力なく笑う。
トラヴィスは、うまく笑えていないその頬を手のひらで包んで、言った。
「まあ、でもいいよな。今のお前は、ただのアレインなんだから」
願わくば、彼の心が少しでも温まり、慰められますように。
トラヴィスはアレインの頭を寄せると、その髪をわしゃわしゃと、大きくかき混ぜてやった。