時は金なり時々恋なり賑やかな中心街の大通りから、ひとつ、ふたつ路地を入った先。まばらな楡の木立の中に、その茶屋はあった。
名目上の店主は裏道だ。四季折々の菓子や茶を見繕い作るのは池照が、力仕事は兎原が、細々とした裏方は兄であるみつ夫が、飴色をしたアンティークのテーブルや椅子を置いた店内をくるくると給仕して回るのは詩乃が勤める、ちょっとちぐはぐで、不恰好で、なのになんとなくしっくりと廻って、日々寂しくないくらいの客入りのある、そんな茶屋だった。
はち太自身はというと、兄の後ろにくっついていって時折店に顔を覗かせては、みつ夫が担っている小麦や果物の仕入れを手伝ったり、その帳簿をつけたり、あるいは詩乃とともに給仕をしたり、池照の隣で助手のようなことをしたり。その時々で手のたりない仕事を少しずつ、そしてたまに失敗したりしながら手伝って過ごしていた。
本当は、父が書いてくれた手紙を持って大通りに程近い大きな大きな喫茶店に行き、父の古くからの知り合いだというその立派な店のコック見習いになったのだけれど、どうしてなかなかうまくいかなかったのだ。そうして、結局は兄にくっついてこの茶屋をあれこれくり回すのを微力ながら手伝っている次第である。
春、雪の降る故郷からひとり街に出てきたはち太は、夏の始まる頃から兄の後についてまわり、この小さな茶屋で過ごす時間が増えた。夏の盛りには、みんなと一緒に店を盛り上げてる気がして楽しくて。そして暑さが過ぎ去ってあちこちの葉が、紅に黄金に染まりだす頃、初めて彼にーー布隅に、出会ったのだ。
「これはまた…ずいぶん可愛らしい店員さんが、新しく増えたんだね」
秋色に染まる木立の中。そう声をかけてきた男の深紫の髪色が、まるで一足早い冬の夕暮れを伴っているように見えたことを、はち太は今でもよく覚えている。
看板を出している表構えと真反対の勝手口だ。裏手に回ってくる客はほぼいないから、一体全体誰なんだろう。傍らの井戸、きんと冷えた水で玄関扉の嵌め硝子を拭いたばかりの雑巾をすすいでいたはち太は、耳の先から爪先までその男を、おどおどと眺めるしかできなかった。
街では特に珍しくもないーー故郷の海の村では観光客がしているのしか見たことのないーー淡い色付きグラスの眼鏡の奥で、三日月型になるくらいに細めた双眸。朝と晩はもう息が白むくらい寒いのに、薄鼠色の着物を大胆に襟を抜いてはだけさせ、胸元には髪とよく似た色の墨で星が彫られている。その軽薄そうな表情と相俟って異質な…少なくとも、これまではち太の身の回りで見かけたことのない性質の持ち主であろうことが、伺えた。
「あ、あの…お店はまだ、やってないんです」
故郷の訛りが出ないようたどたどしく応じながら、はち太は雑巾をきゅうと握りしめ、店で1番背の高い池照と同じかそれ以上の上背がある彼の顔を、上目遣いに見ながら答える。兄のみつ夫やはち太と同じ漆黒、けれど自身の折れ気味の垂れ耳とは違うすらりと真っ直ぐ伸びた立ち耳が、傾いだ小首に合わせてひょろりと揺れた。
「ううん、大丈夫。お客じゃないんだ、裏道お兄さんいる?それか、木角」
「え、あ、2階に…き、昨日の夜から」
「!…ああ、ふぅん。じゃあまだ描き終わってないのか」
ああ見えて裏道は絵を描く…本人は本当に乗り気ではなくて嫌々描いているのだけれど。池照はそれを温かく見守ってるし、街の中心部で大きな商売をしている木角が悪態をつきながらもそれを買い取っていくのが、一つの季節のうちに一度か二度てんやわんやと繰り返されているのだ。
「あの、うらみちお兄さんの絵の…ファンの方、ですか?」
木角の名前と、木角に責め立てられて夜な夜な部屋に篭らされて筆を取る裏道のことを知っているらしい言葉に、はち太がそう尋ねるたけれど彼はくすりと笑うだけだった。
「違うよ、木角の同業者…みたいな?」
俺も絵を売ってるんだ、と続けて、彼は袂から立派な革の小物入れを出した。そして品のいい革小物の中からそれはそれはまた美しい、光沢のある墨色の紙片を差し出してくるものだから、はち太は条件反射のようにして受け取って視線を這わせる。
「が、…ぬ、…?」
「"画廊 布隅"ね」
街の北の方、静かな一等地に小さな画廊を構えているらしい彼は、布隅冬作と名乗って、にこりと笑う。
「絵だけじゃなくて、壺でも石でも水でも、いいなって思ったものはなんでも買うし、売る」
言って、布隅は腰を折るようにしてはち太の顔を覗き込んだ。秋の朝、肌寒さの勝る冴えた空気の中で、彼の纏う甘い香りがはち太の赤らんだ鼻先をふわりと掠める。
「君も高く売れそうだよ、どう?俺に買われない?」
眼鏡越しに間近に見えた三日月型の瞳が、殊更愉快そうだ。
「でも、あの、えっと」
鼻梁の先が触れそうなほど近く。つくりものじみた笑顔を貼り付けた布隅の冬の夕暮れみたいな色の髪や、きらきらと朝陽を反射する眼鏡の縁や、頬骨がはっきりとわかる引き締まった顔の形や、首にくるりと沿って刻まれた墨の色を、くるくると忙しなく瞳を瞬かせて眺めながら、はち太は。
「布隅、さん…の方がすごく綺麗だからきっと、高く、売れると思い、ます」
言ってから、なんだかとても失礼なことを口走ってしまったんじゃないかと。はっと口元を両手で隠そうとしたはち太を、布隅は細めていたはずの瞳を大きく丸めてそして。
「ふっ、あは!あはははッ」
木立にこだまするくらいの声で、笑ったのだ。
作りものめいた表情から一変して、くしゃりとした笑顔は真っさらで。だけどその声は、姿形と同じ、綺麗な音のままで。
そんな布隅を見ていると、不思議なくらい胸がどきどき脈打ち始めて、なんだかとんでもないことが始まりそうな気持ちになって、変わらず握ったままでいた布巾を、はち太はまた一層きゅうと握りしめたのだ。
どうしてだか分からないけど、はち太の一言で涙が出るほどに笑った布隅がやっと呼吸を整えてから、「ねえ、裏道お兄さんが降りてくるまで、待たせもらっていい?」と尋ねてきた。そういうことなら、と店の中、入口に程近いテーブルへと案内する。眩しげな顔で頬杖をついた布隅が、掃除に戻ろうとするはち太の割烹着の裾をちょい、と指先で摘んで引いた。
「店員さんの名前は?」
「へ?え、あ、はち太です。熊谷、はち太」
「ふぅん、はち太くんか。ねえ、はち太くんを買わせてよ」
「…えぇ?」
「言ったでしょ、俺はいいなって思ったらなんでも買うし、売るんだよ」
売るとか買うとか…繰り返される布隅のその言葉は本当なのだろうか。それとも別の意味があるのだろうか。布隅の纏う空気からは、真も嘘も分かりづらくて、なにか答えようとする声が口の中でつい、もごつく。布隅の人形めいた出立ちを、美しいと思う自分の気持ちは本当なのだけれど。
閉じたり開いたりする唇とともに、癖のようにして傾げた小首に合わせて黒色の耳がいつも以上に垂れおちる。はち太の揺れた耳の先を面白そうに眺めてから、布隅は頬杖をつき直して微笑んだ。
「はち太くんの時間を、俺に買わせてよ」
そんな、買ったところでどうするんだろう。ただ、兄の後にくっついて回るしかできない自分のことなんて。思ってけれど口には出さず、布隅の考えることもその言葉たちの意味も分からないままで、はち太は促されてすとんと向かいに腰掛けたのだ。
裏口から井戸へ向か雨たまに出て行った弟がいつまで経っても戻ってこないことを訝しんだみつ夫が、布隅を見つけるまでの間。彼はただただ、他愛もないことを、けれど街に来てようやく半年経つはち太にとってはとても面白おかしい話を、いくつも続けてくれて。
そしてこの朝の風景はいつの間にか、開店前のいつもの風景にまでなっていった。
ひょこりと店の裏手から顔を覗かせた布隅がはち太の肩をひょいと抱き、ある時は井戸の傍らで、ある時は扉のすぐ側で、ある時は客を入れる前の店内で。布隅はただはち太を、伴い、隣り合い、あるいは座らせて、話をするのだ。最後にはいつもきちんと、チップのようにして紙幣を一枚渡してくる。布隅の言う通り、これは"時間を買っている"からとのことだが、ただ楽しくおしゃべりしてるだけのはち太にとってそれはひどく受け取りづらかった。
一応名目上は木角の同業であり、裏道の作品の卸先にあたる布隅だけれど、はち太へ急激に接近したことを警戒し邪険にしはじめたみつ夫とは反対に、池照は2人の他愛もないおしゃべり姿をカウンターの中でのんびり開店準備をしながらにこにこと眺めていた。
そしてある時、布隅の話に一生懸命相槌を打つはち太を優しく呼びつけて、店で使うまあるい木目のお盆に、ティーポットと二客のティーカップを乗せて渡してくれたのだ。
「布隅さんに、どうぞお出ししてください。はち太くんの分はまかないということで」
「おい、池照…!」
店の様子に聞き耳を立てていた厨房のみつ夫から、すぐさま諌めるような声が飛ぶ。しまったという顔をしながらそれでも、えへへと誤魔化すようにして微笑み振り返った池照の顔を見て、兄はそれ以上口を開かなかった…むすっとした顔はしていたけれど。
渡された盆の上のティーポットと兄の顔とを見比べ、おどおどしていたはち太にすぐまた向き直った池照は安心させるようにしてにこ、と華やかな笑みを浮かべた。
「お茶をお出ししてお代をいただいてるって思えば、はち太くんも少し気が楽でしょう?」