Schirm 理人・ライゼは天気雨の空を仰ぐ。
「――」
光をたたえながらも空は雫を落とす。理人の髪や服は体に張りついて、肌まで濡れると周囲に誰もいないことが際立った。
暁ナハト亡き今、TPA組織は混乱していた。平常業務はどうにか進めることができて街の治安は守られてはいるものの、各所の業務は滞りを見せている。先ほども理人が『例の一件』の報告書を出しに行ったところ、事後処理が完了していない関係でまだ受け取れないと突き返されてしまった。一時間ほど待てば受け取りができると事務員に言われ、理人はこうしてTPA本部の中庭で時間を潰しているのだ。
「――」
こうして無為な時間を過ごしていると、ナハトがどれだけ優秀だったかを思い知らされる。
優秀だったナハト。最強の誉れを得たナハト。変わってしまったナハト。
(自分がこの手で撃った――)
彼の姿が頭の中で瞬いては消える。
バディとして隣にいられた日々を思えば、今でも胸の奥は温かい。しかしその記憶の先にあるナハトを想えば心臓は冷える。どちらが自分の気持ちなのか、理人には区別がつかなかった。
雨粒が理人の身を削るものなら、理人の体は骨まで削れて消えてしまうかもしれない。
それでも雨粒は理人を消すことはなく、だからこそ、傘を片手に姿を見せた真白ノイはすぐに理人に気づくことができた。
「何やってんの、こんなとこで」
顔に落ちる雫を、ノイの持つ傘が代わりに受け止めた。雨粒が弾ける音は思った以上に力強く、それでようやく理人は雨の勢いを思い知る。
「……ノイ」
「そこで知り合いと会って、理人さんがここにいるって聞いたから来たんですけど」
伸べられた腕が理人に傘を差し出している。理人とノイが着る制服は同じ色のはずなのに理人の制服は雨水を含んで色が濃い。雨粒はノイの肩から背中にかけても降り注ぎ、ノイの色は少しずつ理人に近づいていた。
「風邪引きますよ」
「……この程度で風邪を引いたことはない」
振り払うことはない、ささやかな拒絶。
理人が顔を背けると、顔に張りついた髪を伝う水流はあごから落ち、頬の線を何重にも描く雫のせいで理人の表情は分かりにくい。
「傘、ちゃんと入ってください。――次こそは引くかもしれないし」
「……」
ノイの言葉に、理人が緩慢に踏み出す。傘の中に全身を収めた理人とノイの距離はほど近く、濡れた肌の香りすら感じられそうだった。
「――傘は、あの二人に渡した物しか持っていなかった」
「予備は?」
吐息の震えが、ノイに伝わる。
未来からの来訪者、バレットとトリガー。そういえば別れ際に傘を渡していたと思い起こすノイの隣で、理人は傘に遮られた空に目を向ける。
曇天は光を覆い隠し、傘の陰りのせいで二人の場所だけがいやに暗い。降り続ける雨のせいで寒いのに互いの気配だけは熱を帯び、そのせいで微かに震えていた理人の唇が動き出す。
「贈られた物だったから」
「…………」
沈黙の中で、ノイの脳裏には一人の男の姿が浮かぶ。
いつ/どんな事情で/なんで――浮かぶ疑問に答えは欲しくなかった。バレットとトリガーと別れた際の彼らの表情や交わした言葉は克明なのに、理人が差し出した傘にはさほど気を払っていなかったせいで記憶は朧げだ。頭をかきむしってどこかにあるはずの記憶を引きずり出したい衝動をこらえたせいでノイの顔は斜めに歪み、不自然に震える表情を目の当たりにして理人は無言で目を瞠った。
「……、じゃあ明日、傘買いに行きましょう」
たくさんの言葉を押し込めて告げれば、理人の口から声が漏れる。
「一緒に来るのか?」
「特別手当出てるんで、傘一本くらい買ってあげますよ」
記憶をいくら引っ張り出そうとしても、ノイは理人が彼らに差し出した傘を思い出せなかった。
だから。
「黄色とか青とかの変な模様入りの傘、探すんで」
「……自分が差すのか?」
「当然」
「…………」
思い出そうとした傘の記憶を塗りつぶすように、ノイは頭の中でいくつも傘を想像する。
色も形も模様も、このバディには似合わないような奇天烈なものがいい。
店の片隅にあるくせに存在感を放つような、悪目立ちするくらいの傘がいい。
「そういう傘なら――」
曇天の中にいても目立つような――沈んだ顔がひとつも似合わないような傘なら。
「――見るたび、僕のこと思い出すでしょ?」