無題その日の夜勤を無事に終え、報告と引き継ぎを済ませた原田は、そのまま大浴場へと向かった。
隊士達が日々使用している大浴場は、鍛練や勤務後にも入れるよう朝方から深夜まで利用できるようになっている。
いつもは他にも夜勤明けの隊士が居たりするのだが、今日は珍しく先客が一人居るだけだった。
「お疲れ、夜勤明け?」
そう言って笑ったのは監察筆頭山崎退。
原田とは同期のような物だ。
「おう。……お前はまた随分と早いな」
「俺はこれから仕事」
だろうな、と原田は思った。
基本山崎は屯所の浴場を使うとき、一番最後に入るようにしているようだった。
それは単にあちこち外に出回り、時には報告書を遅くまで作っていたりで、中々時間が取れないからというのも理由の一つだが、無防備な状態になる入浴中は出来るだけ一人になりたいらしい。一日中気を張り詰めているのだから、入浴中くらいリラックスしたいというのが山崎の本音だ。
そんな山崎がこんな風に早朝に湯を使うときは大抵密偵としての仕事の前だ。
それを知ったのは随分と前の事だったように思う。
理由は、無駄な匂いを全て落とし、己の痕跡を出来るだけ残さないようにするためだと、昔山崎が言っていたのを思い出す。
だから山崎は煙草を吸わない。匂いが着くからだ。
他にも、匂いの強い薬や香水なども身につけない。
自分では気づかない匂いで命を落とすかもしれないことを考えれば当然だった。
「今回は、どんな仕事だよ?」
「んー、まあ、潜入?」
寝巻きの浴衣を脱ぎ、髪を束ねていた紐を解くと、山崎の髪は少し長くなっていた。
「髪、伸ばしたのか?」
「そ、今回の潜入の為にね。早く終わらせて切りたいよ」
「今回はどのくらいになりそうなんだ?」
「長くても、二週間くらいにしたいかな……。出来たら、だけど」
苦笑する山崎が先に浴室へと入っていく。原田も隊服を乱暴に脱いで、その後に続いた。
山崎の身体は華奢だった。
自分のような男が隣に居れば尚の事、必要最低限の肉しかついていないように思う。
「お前、飯はちゃんと食ってるのか?」
思わずそう訪ねると、キョトンとした山崎がこちらを見ていた。
「なんだよ?」
「いやぁ、気づかないかと思ってたから」
「は?」
気づかないとはどういう事だ。怪訝に思って問うてみれば、減量したのだと言われた。
「減量する必要あるか?」
「あるんだよ、今回は」
「減量して髪伸ばして、か?」
「ま、いつものことさ」
何でもないように言ってのけるが、身体を酷使し過ぎではないだろうか。
山崎が潜入捜査で居ないことはままあるが、今回のような下準備が必要な場所は限られてくる。
「……過酷過ぎだろ」
「はは、何を今更」
軽く笑い飛ばした男の身体は、どこもかしこも傷だらけだった。
特に目立つのは胸と背中を貫通して出来た刀傷。
致命傷を負ってよくぞ生き延びたと、原田は思う。
他にも細かい切り傷、刺し傷が沢山あり、見るに絶えず原田は視線を逸らした。
「難しい顔してどうしたの?」
「別に」
「何、原田。怒ってる?」
覗き込んで来た顔はやはりキョトンとしていて、どこか幼い。
これがなぁ、化けやがるんだからなぁ……。
と、原田は思った。
「怒ってねえよ、ただ……」
「ただ?」
「……なんでもねえ」
言っても聞かねえし。
と原田は内心毒づいて、さっさと湯船に浸かった。
「なーんか変じゃね?お前」
山崎も湯船に入ると、のそのそと近づいてきた。
むすっとしたままで居ると、バシャッと勢いよく湯をかけられた。
「何すんじゃい」
「原田こわいー」
微塵もそう思っていない声が湯けむりの中木霊する。
急に馬鹿馬鹿しくなって、お返しとばかりに湯に沈めてやると、山崎は大袈裟にもがいた。
「人殺し~たすけておまわりさん!」
「お前だろ」
「お前もな!」
ぎゃわぎゃわ騒ぎ立てた所で、山崎は一足先に立ち上がる。
「行くのか」
「うん、そろそろね」
「……あんま無茶すんなよ」
じっと背中の傷を睨み付けるように言えば、くるんと振り返った口がへらりと笑った。
「ありがと」
善処するよ。
そう心の中で返して、山崎は浴室を後にした。