出久が選んできたお惣菜を食べて、出久が選んできた酒を飲んで。コンビニに行くかどうかふたりで悩んで。うだうだ言いながらダイニングテーブルからリビングのソファに移動して。ソファとローテーブルの距離が微妙と文句をつけたロディがラグに直接腰をおろして。じゃあ僕も、とその隣に出久も腰をおろして。座ってから、肩と肩が触れそうな距離なことに気づいて、鼓動がはやくなったりして――そんな、日常になったらいい非日常を笑いを絶やすことなく過ごした。
そうしてテーブルの上にあるせんべいを取ろうとして、ロディの指先と出久の指先が触れ合って、同時にピノがこちらに背を向け顔を隠したのは、ふたりとも随分酔いが回ったタイミングだった。まさに落雷。突然の出来事だった。そして出久はそのときにやっと自分たちが肩が触れそうな距離に横並びで座っていることに気づいた。近い。
頭の中でロディを家に呼ぶ前に読み込んだインターネットの記事がスクロールされていく。確か脈がない場合、物理的に距離がとられる、らしい。そして物理的にとっていた距離で触れるようなことがあれば、嫌悪感を抱かれる、らしい。すべて信憑性はないけれど、それでも出久はそりゃそうだろうなと思ったわけだ。そのそりゃそうだろうな、が今検証されるタイミングなのかもしれない。
ばくばくと音を立てて存在を主張する心臓がうるさい。ロディに触れた指先から一気に出久の体温が上昇する。手の動きを止めたままロディをばっとみると、ロディは目を丸くし
出久を見てから、目をわかりやすく泳がせた。あー、なんて言って。表情は変わらないけれど、彼の耳の淵が朱に染まっていることに気づき、出久の心臓が大きく跳ねた。
「ろ、ロディ」
「……もーらい!」
「あっ!?」
動きを出久と同じく止めていたはずのロディの手が動く。ひょいっとロディが出久のとろうとしていたせんべいを手に取り、そのまま白い歯でかじりついた。
「止まってんのがわるいんだろ」
ピノがいつのまにかどこかへ隠れていて、出久は通常の倍の速度と回数の瞬きを繰り出す。状況把握。状況把握が大切だ。
ロディの耳の淵は赤いままで、ピノはどこかに隠れてしまって。いまのふれあいと、妙な間については話題に出されなくて。普段のロディであれば、茶化してきそうなものなのに――ロディも、もしかしたら。というか、これはほぼ確実なんじゃなかろうか。
自身の服の胸元をぎゅっとつかむ。皺になるのも気にせず、出久は「ねえ、ロディ」とその名前を呼んだ。
「……なんだよ」
おそらく出久の頬は紅潮しているのだろう。下手したら目も血走っているかもしれない。もごりと口元を動かしたロディがにらみつけるように出久を見るが、全然怖くない。麻痺した出久の脳内には「ロディかわいい」が乱舞している。
押すなら、口説くなら、いまなんじゃないか。今しかないんじゃないか。
自分の血液が流れる音がごうごうと耳の中で響いている。口説く、口説く、口説く……口説く、とは。口説くって、なに? 頭の中で言葉がぐちゃぐちゃになって絡まっていく。迷宮入りしそうなタイミングで、訝しそうにしているのを隠しもしていないロディにずい、と顔を近づけられる。
「だから! なんだよ!」
ロディの頬もわずかに赤い。今だというのはわかっている、わかっているのだけれど。出久は胡坐をかいていた足を折りたたみ、正座する。そして勢いよく挙手して、ロディに叫ぶように告げた。
「タッ、タイムつかっていい!?」
「………………認める」
「ありがとう!」
たっぷりと間を開け、ロディが出久を観察するように鋭いまなざしで射抜きながら腕を組み、低い声で許可をくれた。と、同時。出久はスマートフォンを取り出し、検索エンジンですぐに検索をかける。なにを検索したって、そりゃ「口説く 意味」だ。
くど・く【口説く】
㋐こちらの意向を相手に承知してもらおうとして、熱心に説いたり頼んだりする。説得する。
㋑自分の愛情や恋心を受け入れるよう説得する。言い寄る。
Weblio辞書/デジタル大辞泉より引用
検索にヒットした「口説く」の意味を見て、出久はそのまま頭を抱えた。つむじにロディの視線が突き刺さる。なにも言ってこないのは出久の様子をうかがっているのだろうか。
出久はつまり、ロディに自分の気持ちを受け入れてもらえるように言い寄らないといけないわけだ。ええと、つまり。
「どうやって……? え、説得……? なにを……?」
「デク、お前さっきからなにひとりで百面相してんだよ」
「でもでも、気持ちを伝えるんだったら、お酒の勢いっていうのはよくないんじゃ……」
「なあ、デクってば」
「え、言い寄るって? 具体的に何を言えばいいんだろう」
「……ピノォ、出てきていいぞ」
「ピィ……」
「調べたら例文って出てくるかな。あ、ロディ、タイムは続行でお願いします」
「わかった、わかった。洗面台かりるからな。歯磨いてくる。そうだ、俺どこで寝りゃいいの」
「あ、このソファがベッドになるんだ。枕と掛け布団はもってくるよ。っていうか、もうこんな時間なんだね」
ロディが膝を立て、腰から体を持ち上げた。ラグに正座したままの出久が壁掛け時計を見やってからロディを見上げれば、腰に手を当てながらロディが質問を重ね続ける。
「ソファベッドなんだな、これ。デクはどこで寝んの?」
「僕は寝室がその扉の向こうに」
「へえ、1LDK? 儲かってるねえ、ヒーロー」
「いやいや! 築年数それなりにあるけど新しくセキュリティ設置されて、リノベーションもされてるから広くてきれいなんだ。家賃はそこまでなんだよ」
「へえ、お買い得物件ってことか」
歩き出したロディがリビングの端に置いていた自身の荷物から着替えと歯ブラシセットを取り出す。
「あ、シャワーは?」
「職場で浴びてきたから大丈夫」
「そっか。寝床用意しとくね」
「おー、頼んだ」
ロディが廊下に続く扉のノブに手をかけた。その背中を見つめていると、彼の肩に乗るピノがちらりと伺うように出久を見た。そしてほっとしたように、再び前を向いて、ロディと一緒に扉の向こうへ姿を消した。
「…………あれ!?」
そこでようやく気付いた出久である。完全に、いましかないというタイミングを、見事に逃したのである。
正座したまま額をラグに沈没させる。あ~~と呻けば、折り曲げた体の下で低く籠った音が耳に届いた。
恋愛偏差値四、緑谷出久。事前準備を怠った。まさかここまでいい感じの空気になるとは思っていなかった。さきほどのロディの表情を思い出す。あれは、同じ気持ちなのではないだろうか。嫌悪感は、おそらくないのではないだろうか。だから多分口説いても大丈夫、なのだが、どうやって口説けばいいのかわからなくて、そもそも口説くってなにと大混乱し、千載一遇のチャンスをきっと逃した。あとタイムが長すぎた。律儀にロディは待ってくれていたというのにやらかした。反省しかない。
ため息をつきながらのそりと起き上がり、ソファをベッドに変形させるべく背もたれを倒す。肩をしょんぼりと落としながら、寝室に入り、クローゼットの中から掛け布団と枕をとりだした。この部屋で過ごすようになってから初めて使う。母親が来たときに困らないようにと買ったが、出久が実家に帰る頻度が多いので出番がないのである。そもそも、この部屋に人を招いたのも初めてだった。そうして、またやっと気づく。今晩は一緒に寝るのだ。扉を一枚隔てただけの距離で、ロディと。約十年前に野宿して以来、気持ちを自覚して初めて、夜を一緒に過ごす。
意中の人間を部屋に招いた事実が今更出久を襲ってきて、出久は唇を口内に巻き込みながら、リビングに寝床を用意し、脳内にて素数を数え始めた。口説く。口説く。ちゃんと口説いて、ロディに出久の気持ちを理解してもらって、ロディも同じ気持ちなら、そうしたらきっと。いまはまだ。口説くといっても、何をどう言ったらいいのかすらわからないのだから。
着替え終わって戻ってきたロディと、その肩に乗るピノが眉間に皺を寄せながらベッドを作る出久に呆れたように笑った。それに気づいて、へらりと笑ってから出久も歯磨きに向かったのだった。
寝巻に着替えて、ドアの前でおやすみと言い合う。新鮮で、でも懐かしくて――そうして、寝室のベッドにもぐりこんだ出久は、東の空が白み始めるまでスマートフォンで「口説く 方法」「口説く 例文」「口説く どうやって」を調べ続けたのだった。
「デク、あくび多くね?」
「うん、ちょっと寝不足で……」
「酒飲みすぎて熟睡できなかったとか?」
「そういうことにしといて」
「なんだそれ」
クラフト紙でできた紙袋を抱えて、出久とロディとピノはマンションのエレベーターに乗り込んだ。出久の手にあるのは近所のパン屋の紙袋だ。中には今買ってきた総菜パンが入っている。
出久がリビングに出たら、すでにロディは寝巻から着替えていた。掛け布団も畳まれた状態で、もっとゆっくり起きてもよかったのになんて思いつつ、気が回るロディだし当たり前か、とも思う。朝食はどうするという話になって、出久がそういえば近くにおいしいパン屋があるよと言えば、んじゃそれでと軽くロディが返事をするものだから、朝から健康的に歩いてパン屋に行き、家で食べようかと色々買いこんで帰宅したわけだ。
ダイニングテーブルに買ってきたパンをロディが広げているうちに、コーヒーメーカーで淹れたホットコーヒーをマグカップに出久が用意する。ピノの出久の肩を掴む足の力が強くなったので、そちらに視線をやればコーヒーを興味深そうにのぞき込んでいた。微笑ましくなって、小さく笑いながらマグカップを両手に持ち振り返ると、ロディがこちらをみていた。
「コーヒー普段飲まない?」
「いや、飲むけど……ああ、ピノがそれ見てんのはオールマイトのマグカップが気になってんだろ。色がすげえもん」
「そういうことか! さすがピノ、これはブロンズエイジのコスチュームデザインでね。オールマイトらしくないってのが世論であまりグッズがないから結構レアなグッズなんだ。でも僕はブロンズエイジのシックなデザインはオールマイトの大人の男の魅力を引き立ててくれ、」
「デクどれ食うんだっけ」
「ロディ、僕の扱い慣れすぎじゃない?」
頬を膨らませながらダイニングチェアに腰かけたロディの前にマグカップをひとつ。白い湯気が立ち上るマグカップからコーヒーのにおいが漂う。
出久の言葉に肩を揺らしたロディが口をひらいた。
「まあデクって人間がどんなやつかってのはわりとわかってるんじゃねえ?」
大きな瞼を軽く伏せると、ロディの出久とは違う色のまつ毛がよく見えた。ロディの瞬きと一緒に揺れるまつ毛を思わず凝視した。
もうひとつのマグカップをロディの向かいの席にことりと置いて、出久はその場を離れた。向かうは寝室の鍵付きのチェスト。肩に乗っているピノが、ピッ!? ピッ!? と鳴きながら、目を丸くして動揺している。ダイニングテーブルに座ったままのロディもきっと同じ表情をしているのだろう。
チェストの鍵を開け、棚と引き出す。そこにあるきらりと光るものを握りしめ、出久は再び寝室を出た。
ぱちぱちと瞬きをしながら出久の突然の行動に驚いているロディの正面の椅子に、テーブルをはさんで腰を下ろす。ダイニングテーブルに置かれたたくさんの総菜パンと、湯気を立てるマグカップふたつ。その上に、握りしめていたままの手を出久は伸ばした。
「ロディ、これ、貰ってほしい」
「なんだ?」
首をかしげながらロディが素直に出久の作った拳の下に両手を差し出した。全面的に信頼されているロディの行動に心の奥に灯がともる。
「好きな時に使っていいよ」
ぱっと拳を開き、中のものを落とす。それはぽとりと、質量を伴い、ロディの手のひらに着地した。ロディが出久の手から自身の手に移ったものを見つめた。その瞳が、手のひらにあるものがなにか理解するにつれ、どんどん開かれていくのが面白かった。
「おい、これ」
「この部屋の合鍵」
「はあ!? なんで!?」
「毎回ホテルに戻るロディを見送るの寂しかったからさ、会った日は一緒に夜も過ごせたら楽しいかなって。昨日すごく楽しかったし、いまもこうやって朝一緒に過ごせるのも嬉しい。あ、もちろん僕が仕事の時にロディが仕事休みのときだってあると思うから、本当に好きに使ってくれて構わない。僕が帰ってくる前に部屋に先にきて寝てくれててもいいし、僕が家を出た後に好きなだけ過ごしてくれていい」
「待て待て、落ち着けデク! 一気にしゃべるな!」
「あ、ごめん」
ロディが鍵を持つ手とは逆の手をばっと開き、出久の顔の前に出してストップをかける。眉間に深い深い皺を作ったロディがぐう、と喉の奥から唸る。
「えっと、だから、まあ、この家にいっぱい来てくれたら嬉しいから、鍵をもらってほしいなって」
つらつらと一気にまくし立てた自分を反省しつつ、出久は話の要点を簡潔にまとめた。昨晩、出久がベッドのなかで出した答えは、自分に口説くという行為はまだ早いということだった。出久のロディを好きだという気持ちを受け入れてもらうように説得するなんて、恋愛偏差値四の出久には難しすぎる。だから代わりに、出久がロディに好意を抱いていることを伝えるにはどうしたらいいかを考えた。それが、この部屋の合鍵を渡すことだった。
手が空っぽになった出久はマグカップを持ち、ひとくちコーヒーをすする。そのあと、自分が選んだ総菜パンを手に取り、パンを包むビニール袋を破いた。ロディはというと、呆気にとられたような表情で、出久を見ている。形のいい口がぽかんと開かれている。かわいい。その顔を見ながら、出久はパンを頬張った。香ばしい小麦の香りが鼻孔を抜けていく。
ロディがもういちど難しい顔をしてぐう、と唸った。そうして、顔の中心に皺をつくりながら、一度唇をかみしめてから口を開いた。
「いやでも他のヒーローとかと鉢合ったら気まずいし」
鍵をのせた手のひらを出久の前にぐっと差し出してくるロディに、出久は「ん?」と首を傾げた。ロディの発言の意味がすぐにわからなかったのだ。
「他のヒーロー……?」
「事務所近いんだろ? なら、他のヒーローもよく、ここ使うんじゃねえのかよ」
布団も、あったし。そう続けたロディに、やっと出久は意味を理解し、ああ! と声をあげた。で、
「誰にでもこの鍵渡してるわけじゃないよ! 寝具があるのは、母親がくるとき寝具がなかったらダメだなって買ったんだ。母親だって僕が実家に帰るからこの部屋にくることないし……この部屋の鍵はいま、家主である僕しか使ってない。だから、鍵を使う人間の二人目に、ロディがなってくれたら嬉しいんだけど」
事実をただただ上げ連ねていく。ロディが面食らったように出久を見ていた。肩に乗ったままのピノからの視線も感じる。
「そもそもここに人を招き入れたのが初めてなんだ」
へへ、と思わず照れ笑いを浮かべてしまう自身に、格好がつかないなと内心で自嘲して、出久はパンをもう一口頬張った。パンの中にぎっしり詰め込まれたツナマヨがおいしい。
パンから視線を上げ、ロディを見ると、ほんのわずかに、目元をくしゃりとゆがめた。まるで泣き出す直前の子どもみたいな表情に動揺するその出久の一瞬の隙に、ロディはころりと表情を変え、片頬の筋肉を引き上げ、へらりと笑みを浮かべた。
「なんだ~? これ、もしかして俺、口説かれてたりすんの?」
俺なんか口説いてどうするよ、なんて続けたロディが肩をすくめた。
「デクがそんなに俺に持っててほしいんなら貰ってやるよ。悪用されたって文句言うなよ」
「言わないしロディはそんなことしないでしょ」
「こちとら元チンピラだぞ? 信用されるぎると気まずいっつーか」
ロディが首を横に振りながら、広げ続けていた手のひらを閉じる。ロディの手の中にしっかり握られた部屋の合鍵が嬉しくて、出久の口元がふにゃりと緩んで――そうして、ロディの言葉をやっと脳内で反芻した。
「ハッ! これ口説いてることになるの!? え、もっとちゃんと頑張ろうって思ってたんだけど、まってやりなおしていい!?」
「はあ!?」
間違っても、パンをもぐもぐとさせながらでは、決してない。だって、ロディに出久の好きを伝えて、理解してもらって、受け入れてもらうには、こんな形では無理なはずで。無理な、はずで。なのに口説かれているとロディが思ったということは、こんな感じでも、しっかり伝わっているということで――。
「ロ、ロディ!」
出久がわっと口を開くと、ロディがびくりと肩を揺らし、そして出久の顔を見るなり息をのんだ。すぐに出久が何をしようと、何を言おうとしているのか理解したらしい。瞬時に顔を朱色に染め上げたロディがくわっと口を開いた。耳障りのいい声が部屋に響く。
「タイム! タイムだ、デク!」
「や、やだよ! これ大丈夫なやつだよね!? 僕たち同じ気持ちだよね!?」
「バッカ、俺は昨日タイム認めてやっただろ! ヒーローのくせにフェアじゃねえぞ!」
「だって今じゃない!? 今だよね!?」
「今じゃねえ! これから先もねえ!」
「なんで!?」
窓からやわらかい朝の陽ざしがさしこみ、部屋を光で満たす。そんな穏やかな空気とは正反対で、ぎゃあぎゃあと言い合うふたりと、羽で顔を隠すピンク色の小鳥。この攻防戦はしばらく続き、とりあえずパンを食べようと食べ始め、結果なあなあになった。
昼前に出久の部屋を出ていくロディを見送ってから、出久は心に決めた。絶対に、ロディを口説いてみせる、と。だって多分、というか、ほぼ確実に、出久とロディは両想いだから。きっと交際にすぐたどり着くだろう。そうしたら、もっとロディと楽しく過ごせるんだろう、なんて浮足立つ出久はまだ知らない。
簡単な道のりに思われたそのゴールが、まだまだ遠くにあることを知らないのだ。