夜の海(仮題)暗がりにいた。
エリオスタワーにも一応消灯時間みたいなものはあって、いつもは賑やかで煌々と明るい談話室も深夜を過ぎてほどなくすると深い闇に沈んでいく。
そんな時間にも関わらず、暗い談話室でスマートフォンを片手にソファへと体を沈めていた。
しばらくするとフェイス・ビームスがふらふらとやってきてつい笑ってしまう。まるで夢遊病みたい、と言えばムッとして顔を背けられた。顔良し、スタイル良しの、均整のとれた男が近付いてきて、目の前の椅子に腰掛ける。以前は隣に座ってきていたけれど、どうしてか最近はそれをしない。
僕ちん何かしたっけ?と首を傾げるけれど、心当たりは大いにある。とはいえ指摘するほどのことでもなし。
話したいことがある日も、特別何か用事がない日でも、DJはここ最近ずっと深夜に談話室へと現れる。今日は特に何もないみたいで、ただじっと黙り込んでこっちを見ているだけ。そんなに見られたら照れちゃうヨ。
時々何かを言おうとしては口を閉ざす彼を、オイラは申し訳ない気持ちで見ている。きっと眉毛は下がりきってて、情けない顔になってるはず。
分かってる、言いたいことは知ってる。でもそれを口にしちゃうのは怖いよね。オレっちも、そう。
もう数日も、この暗い場所にひとりでいる。
ずっとずっと、ここにいる。
多分サブスタンスの影響だと思うんだけど、DJ以外と会ってないから何が起きたのかは分からない。
DJの様子からするに、何が起きているのかは彼の方が理解しているんだろうな。でも、それを話せないって結構大変な事態なんだろうな。
でも、そろそろ聞かなきゃ。
「DJ、そんなに言いづらいことがあるの?」
「……」
そう聞けば、DJはぎゅっと眉間に皺を寄せて、震える唇でこう言った。
「きみは、もういないんだって」
「え?」
「死んだって、言われた、」
くちびると同じように喉を震わせながら、DJはそう言った。
なんだ、なるほど。それならナットクだ。
でも最期にお父さんに会えなかったのがザンネンだったな。オイラはなぜかここから出られないし。
「そうだったんだ」
DJは黙ったまま俯いて、コクリと頷いた。小さく肩が揺れていることには気付かないフリをする。
中途半端に会えてしまう結果になった今の方が、きっと辛いだろうな。オレがDJの中でどれくらいの割合を占めていたかは分かんないけど、泣いてくれるくらいには大事に思われていたのなら嬉しい。不謹慎かもだけどね。
深い闇がずっとずっと、沈み込むように談話室を染めている。まるで深海へと下りていくような暗いあおの中で、彼が溺れてしまわないようにと手を伸ばした。
その手は彼をすり抜けてしまうだけだったけれど。
◇◇
月の明るい晩のことだった。
何となく眠れない日々が続いていたフェイスは、スマホで時間を確認し部屋を出る。明日は朝からトレーニングがあるから早々に眠ってしまいたい。そう思ってタワー内を少しだけ散歩するかと出てきたのだ。
まだ日付が変わってそれほど経ってはいない。三十分程度ふらふらして、自販機でホットショコラでも買って帰ろうとそう考えたのだ。
自販機の傍には談話室がある。ホットショコラを買って、もうすっかり暗くなったそこに足を踏み入れれば、見慣れた人影が目に入る。
ビリーだ、とほんの少しの面倒さと嬉しさが湧き上がって、気軽に声を掛けた。ビリーもフェイスに気付いていたようで「どうしたのDJ」と明るく声をかけてくる。消灯されているとはいえ、月の明るい夜なのにひどく暗く見えるのは気のせいだろうか。
「眠れないから軽く散歩してたとこ」
「なるほど」
「ビリーは何してるの?」
「似たような感じかな、多分」
「多分って、なにそれ」
笑いながら、フェイスはビリーに近付いていく。いつものようにここでお喋りするのもいいけれど、何せ明日は朝から用事があるのだ。ヒーローになりたての頃ならば気にもせず平気で夜更かしをしていたが、ここ最近はなるべくヒーローという仕事に力を入れるようにしている。
なかなか座らないフェイスを不思議に思ったのか、ビリーは小首を傾げながら「座らないの?」と訊ねてきた。
「今日はもう戻るよ。明日早いんだ」
「ンッフフ、真面目になっちゃって」
「うるさいな。ビリーこそ、早く戻りなよ。グレイたちが心配するんじゃない?」
「ソウダネ。もうちょっとしたら戻るよ」
「おやすみDJ」と手を振られる。何だか急かされているような気がして、ちょっとだけ不審に思ったけれど、しつこく絡まれるよりは余程いい。フェイスは少しだけ間を空けてから「おやすみ、ビリー」と返した。
やっぱり月は明るいのに、どうしてかそこだけ暗く感じてしまう。訳の分からない違和感に薄ら寒い恐怖を覚えたのは気のせいだと思いたい。
翌朝のことだ。思いのほかよく眠れたらしく、スマホの目覚ましも通り越して同室のジュニアに叩き起された。
なぜだか鳴らなかった目覚ましを不思議に思いながら、支度を済ませる。共有スペースへと向かえば、キースとディノが深刻そうな顔をして二人を出迎えた。
「あ、フェイス……」
こちらが声をかける前に、ディノが気まずそうにフェイスを呼ぶ。どうかしたのだろうか。朝の挨拶もすっ飛ばすなんで珍しいことだ。言いかけた言葉はキースに止められて、二人はフェイスとジュニアに朝のトレーニングが中止になったと告げる。
「中止?なんでだよ」
「いや、まぁ。なんつーか……とりあえずブリーフィングルームで、話があるから。行くぞ」
「何か緊急事態?それにしては何の通信も入ってないけど」
フェイスは言いながらジュニアにも視線を向ける。ジュニアも「さぁ?」とばかりに肩をすくめるだけだ。
「行けばわかる」
それしか言わないキースと、やけにフェイスを気遣うそぶりを見せるディノに疑問は募るばかりだ。
そうして着いたブリーフィングルームには、各セクターの研修チームが揃っていた。
――イーストセクターの面々、以外は。
「揃ったか」
メンターリーダーであるブラッドの声が響く。各チームが何かしら良くない気配を察知しているらしい。あのアキラですら静かに耳を傾けている。いや、もしかしてもう既に何事かを聞いているのかもしれない。
「結論から言おう。昨日、ビリーが殉職した。原因は、サブスタンスだ」
「……え?」
思わず声が出た。誰よりも先に。メンターたちは聞かされていたようで、悲しそうな、人によってはバツの悪そうな表情を浮かべているが、ルーキーたちは信じられないという顔で、ただただ絶句していた。
けれどもフェイスは解せない。なぜならフェイスは昨晩、殉職したというビリー・ワイズに出会っている。深夜、いつもの談話室で。
「それって昨日のいつ……」
「昼過ぎだ。パトロール中の事故だったと聞いている。あまり、詳しいことは現時点では言えない。友人だったお前には辛い話だが……」
かつてそうせざるを得なかったディノのことを考えているのかもしれない。悲痛そうな表情のブラッドを珍しいと思う余裕はフェイスにはなかった。
黙っているフェイスに、ブラッドは「すまない」と誰が悪いわけでもないのに謝った。
いや、そんな事を言ってほしいわけではないのだ。今の段階では、フェイスの頭はそういう話にまでたどり着いていないのである。
「そんなはずないでしょ……」
「お、おい、フェイス?」
ぽつりと零れたのは否定の言葉だ。キースが困惑して名前を呼ぶ。だが、そんなキースにフェイスはもう一度言った。
「そんなはずはない」のだと。
「だって俺、昨日の夜にビリーに会ったよ。談話室で」
ビクッと肩を跳ねさせたのは誰だったか。隣にいる金髪の少年かもしれない。
「眠れなくて、少し散歩をしてて。談話室に行ったら居たんだ。いつも通り元気に俺の事呼んで、話もした。やけに暗いなとは思ったけど、確かにあれはビリーだった」
それぞれが顔を見合せて、ざわざわと空気が波打ち始める。どういうことなのか、ユウレイでも見たというのか。
それでもブラッドはため息ひとつでその空気を払った。
ビリーの遺体は回収され、タワー内に安置されていると。
サブスタンスの影響であるから今はその原因を調べているところであると。
そして、確かに身体の活動が停止していることを確認している、と。
「人間の定義では死亡で間違いない」
「そんなわけ……」
「興味深いです。少々お話を伺っても?」
「ヴィクター!」
割り込んできたヴィクターに、マリオンが制止の声を掛ける。だが、ヴィクターは構わずに続けた。
「確かにビリーは死亡した、というのが正しい。けれど何のサブスタンスであるかはまだハッキリとしていないのです。もしかしたら蘇生、あるいは――」
「出来るか分からないことを言うのはやめろ!」
「……失礼。確かにその通りです。すみません、私が浅慮でした」
サブスタンスへの興味と、死んだ人間とその周囲の人々への配慮。かつて大事な人を失ったことのあるヴィクターは、その両方を持ち合わせている。今は少し精神のバランスが取れていないのだろう。マリオンに言われて素直にフェイスへと頭を下げた様子に、けれどもフェイスはどういうことかと食い下がった。
「その話、どういう、」
「話はここまでだ。朝の忙しい時間に集まってもらってすまなかった。まだ気持ちの整理がつかないだろうが、できるだけ日常に戻れるよう努めてくれ」
解散、という言葉を放って、ブラッドは追求するなとばかりに足早く部屋を出ていく。その後を一歩遅れてアキラが追いかけて行ったから、恐らく問いつめに行くのだろう。
フェイスはただその場で呆然と立っているだけだった。まさかそんなはずはないと、信じられない気持ちしかない。
部屋を出る際に、誰もがフェイスを気遣ってそして去っていく。促されても、足が思うように動かない。とうとう部屋にひとり残されて、フェイスはその場にへたりこんだ。
きっとイーストはビリーの遺体と対面しているのだろう。あとで、話を聞きに行こう。実際に会えば、信じられるかもしれない。信じたくは、ないけれど。
相変わらず明るい月の晩だった。
フェイスは昨夜と同じ時間に、再び談話室へと向かう。
いる。
ひやり、と心臓が冷えるような心地がした。怖いわけではない。いや、やけに暗いそこに浮かび上がる人影は怖いかもしれない。けれど確かにそれはビリーだった。
「DJ!」
「やぁビリー。今日もいたんだ?」
「まぁね。ヒマすぎてェ~」
幽霊っぽさなんて微塵も感じさせない、いつも通りの明るい声だ。フェイスはいつもと違って、ビリーの目の前の椅子に腰を下ろす。不思議そうなビリーをよく見れば、座っているのにソファの沈みがない。
やはり、実体は無いのだろう。フェイスは心が苦しくなったことに驚いて、立ち上がった。「明日も早いから」と言いおいて。
「そう、おやすみDJ」
「うん、おやすみビリー」
声は震えていなかっただろうか。
いつも通りに振る舞えていただろうか。
もしビリーが気付いていないのなら、教えてあげなければならない。
いつまでもここにいてはいけないだろう。
けれどもし、教えてしまったら。気付いてしまったら。ビリーはここからいなくなってしまうだろう。
そう思うと、とてもではないけれど言えそうになかった。
今は、まだ。
数日、そんな日が続いた。毎晩毎晩ふらふらと部屋を出ていくフェイスを不審に思わないわけがない。キースに「夢遊病みたいになってんぞ」と言われて、フェイスはあからさまに嫌な顔をした。キースだって、フェイスの心境はわかる。かつてディノが死んだと聞かされた時の自分のようで見ていられなかった。
それでもフェイスは談話室へと向かって、まるでそこにビリーがいるかのように話をしている。
誰もいない、その場所で。
心配になってあとをつけたキースの負けだった。自分には手に負えないと、そう思うほどに。
「なぁ、いつまでそうしてるつもりだよ。オレが言えたことじゃないかもしれねぇけど」
「そうだね」
「ビリーだって望んでないと思うぜ」
「ビリーも?」
ビリーの何がわかる、と跳ね除けるのは簡単だった。けれどフェイスだって分かっている。これは自分のエゴなのだと。
まだ、大事なトモダチに近くにいて欲しいだけなのだと、こどもじみた、それでも人間らしい願いなのだと。
「……分かってるよ、そんなこと」
「フェイス、」
言って、フェイスは部屋を出た。談話室へ向かえばビリーがいる。月明かりのほとんどない暗い夜だった。
確かにそこにいるビリーの目の前、指定席みたいになったそこに腰を下ろして、フェイスは言う。
「きみはもう、いないんだって、」
今まで詰まっていたものが溢れ出すかのように、声が水に溺れた。
短い呼吸を、ビリーに聞こえないように繰り返す。
まるで深海にいるようだ。ふかくくらい闇のなかで、瞳に張った水の膜がゆらゆらと視界を海へと変える。
少し顔を上げれば、心配したビリーの手がフェイスに向かって伸ばされるのが見えた。けれどその手はフェイスに触れることはない。
ああ、そうか。
――オレは今、深い海の底で溺れるように呼吸をしている。