空は青くて雲は白い。空は青いし雲は白い。
山は緑で花は柔らかく、のどかな光が視界に満ちる。
「勘右衛門」と呼ぶ声は穏やかで、それでいて優しい。ゆったりとした気候にふと意識を預けそうになって、また名を呼ばれた。どうやら何かしらの用事があるらしい。視線を向ければそいつは少し困ったような、けれどどこか訝しげな顔でこちらを見ていた。
――ああ、ごめん。少しばかり眠くてさ。
だってせっかくこんな暖かな良い天気の日に、わざわざ書き物しなくたっていいじゃない。
「お前な、」
呆れたように指先で額を弾かれる。
何だお前、おれの心を読んだとでも言うのかこの助平。
ひとしきり心の中で文句を言って、尾浜は深く息を吐き出した。おはよう。笑って口だけでそう告げる。どうやらそれがお気に召したらしい彼は、口端を僅かに上げて頭を撫でてきた。音のない声は、彼の気に入るところらしい。
「起きろ勘右衛門、学園長が外出なさるそうだから、私たちも出るぞ」
「うええせっかくこんなに心地好いのに……」
「まぁそう言うな。他の委員会より優遇されているんだから、これくらい」
やって当然とばかりに笑うその顔には「面倒臭い」と書かれている。それに尾浜は笑ってゆっくりと立ち上がった。よっこら、なんて親父臭い掛け声を付ければ、ぎゅっと鉢屋の眉が寄る。いいじゃないか、掛け声くらい。先輩方の口癖よりマシだと思ってほしい。
くあ、と欠伸をして尾浜は鉢屋の後についた。まだ眠気は拭えないが、忍たるものいつでもしっかり頭を起こしておかねばなるまい。例えばそれが睡眠中であったとしても、だ。
「そんなに遠出はされないようだから、最低限の荷物だけで足りるだろう」
「鉢屋、木の上で団子」
「三本まで」
「よっしゃ」
言うなり、尾浜は委員会をしていた部屋の戸棚を開いて団子の袋を取り出した。今日の集まりで食べようと買ってきていたらしいそれは、最近お気に入りだという近くの村の小さな団子屋のものらしかった。
「お団子にはお茶だよなー。鉢屋、学園長室に行く前に、食堂のおばちゃんにお茶貰いに行こ」
「遠足じゃないんだぞ」
「わーかってる!」
とたとたと軽い足音を立てて、廊下を小走りで移動する。少しばかり暑いだろうか。何せさっきまで半分寝ていたものだから、体温が上がっているのも仕方のないことである。
いつもより動きが鈍いのを訝しがって、鉢屋は尾浜の額に手を当てた。熱があるかないかを確かめたいのだろうが、それ大して判断つかないだろ。と苦笑する。触れるなら頬と首筋だ。
「寝てたから体温上がってるだけ」
そう先回りして言ってやれば、鉢屋は納得顔で頷いた。
――全然平気だから、早く出かけて、そしてお団子デートをしよう。そういう寸法。たぶん、おれの中でだけだけど。
ほんの少しの本音を誰に聞かせるでもなく心中で呟いて、そっと仕舞う。食堂で水筒を貰うと、ふたりは今度こそ学園長の庵へと向かった。
行き先は裏山の中腹。小川の流れるそこで、学園長は旧友と落ち合うらしい。少しばかり話すだけだというので、ふたりもその場に待機することになるのだろう。
良い天気に良い気候、更には森の緑と木漏れ日に、小鳥の声と葉のざわめきや小川のせせらぎ。そんなの、眠気眼の尾浜にとってはトドメでしかない。鉢屋は不安げにしながらも、上機嫌で学園を出る学園長の後を尾浜と共に追うのだった。
◆
――甲斐がない、というのは言い過ぎだろうか。
尾浜勘右衛門は食べ物の好みがコロコロ変わる。
少し前までどこそこの饅頭がうまい、と口いっぱいに頬張っていたのに、今日様子を見れば今度は別の店の飴が最高だと部屋で広げていた。わざわざ例の饅頭を買ってきてやったというのに、これでは出すのも憚られる。鉢屋はこっそりため息を吐くと、にこにこ笑顔の尾浜から特別だぞ?と手渡された飴をひとつ口に放り込んだ。くそ、可愛い。
飴は甘いが、心はどうにも苦かった。
あれで、兵助のような豆腐への一途さがあれば、と思わなくもないがそれはとてもややこしいので、三割くらいの拘りがあればな、と思い直した。
――扱いづらい、というのはあんまりだろうか。
鉢屋三郎は物への執着が気まぐれに変わる。
ついこないだ新しく始めたと言っていた三味線も、三日坊主で放り出し今はまた別の趣味へと転じている。ようく聞けば、三味線は難しかったからもういい、とのこと。尾浜もそこでやり遂げろよとは言えなかった。自分に構ってくれる時間が減るのは惜しいから。
あれで、雷蔵のような物事への誠実さがあれば、と思わなくもないがそれはとても面倒臭いので、三割くらいの真面目さがあればな、と思い直した。
「という話を三郎から聞いた」
「という話を勘右衛門から聞いた」
「つまり、似た者同士というわけか」
話があるんだけど、と両側から腕を引かれた昼時。竹谷八左ヱ門は腕を引いた二人を見やって「ええ……」と露骨に顔を歪めた。同級生の久々知兵助と不破雷蔵だ。あれよあれよと連行された一室で、二人からそんな話を聞かされ溜息を吐く。要するにお互いへの惚気じゃないか。
「で、そのふたりは?」
「学園長が外出されてるから、その護衛」
「そっかー」
学級委員長委員会も大変だな、と心にもないことを口走って頭の片隅では別のことを考える。
今日は虫たちは脱走していないだろうか。そう言えばそろそろ小屋の掃除をしてやらないと。ああ、あの卵は孵っただろうか。
そんなことを考えていれば、横からスパァンと頭を叩かれる。小気味良い音がしたが、できたら発生源は自分の頭以外がよかった。
「いってー!」と大袈裟に騒げば、また「うるさい」と叩かれた。
「つまり何が言いたいんだよお前らは」
「何ってただの愚痴」
「僕は愚痴っていうより、相談?かな」
久々知はあっけらかんとしたものだが、不破の方は何というかハッキリしない。相談も何も大した話ではないし、鉢屋が気まぐれなのも尾浜の移り気も今に始まったことではないのだ。
というか似た者同士だろ、どう考えても。
「俺は勘ちゃんが心配。三郎の気まぐれで弄ばれてたりしないか不安」
「いや勘右衛門も大概だろ。あとどっちかっていうと三郎の方が弄ばれてる感じするぞ」
「僕は三郎が心配だよ。三郎、飽き性だから……飽きた後が面倒臭くて。ウザ絡みしてこられるとほんと面倒で」
「三郎それ心配されてないよな? 三郎の面倒を見るのが嫌なだけだよな? 雷蔵それ自分の心配だよな?」
どっちも面倒臭ぇ、と溜め息を吐く。
けれど、と竹谷はふと思い出すように視線を斜め上へと逸らした。
竹谷は知っている。
鉢屋の気まぐれが、尾浜に寄り添っていること。
尾浜の移り気が、鉢屋を飽きさせないことを。
あれで何だかんだと成り立っているのだ。飴だって、それなりに鉢屋は嬉しそうに食べていたし、何なら新しい菓子を探して「今度はこれにハマらせてやる」なんてことも言っていた。
尾浜だって、鉢屋の趣味を横でじいっと見ているだけの余裕がある。たまにからかって、そして菓子を食べて触れたり触れなかったりの絶妙な距離を保っている。
いやいや案外……というか、どう考えても大丈夫な気しかしない。とは大した証拠もないので黙っておくが。
「勘ちゃん泣かせたらぶん殴る」なんて久々知が低く呟いたのに、竹谷は苦笑を漏らした。
逆パターンの可能性の方が絶対に高い。
ああでも、鉢屋が泣いたら多分指さして笑うわ、俺。
◆
猫は親猫に甘える時、声を出さずに鳴くらしい。
というのは、物識りな先輩に聞いた話だ。本当かどうかは知らないが。
「はちや、ねむい」
「知ってる」
「むり、もう起きてらんない」
「起きてなくていいから目は開けてろ」
「なにそれむり。いくらおれでもできない」
「出来たら凄いわ」
今は学園長の護衛中である。だが別に危険な気配もなく、ただ緩やかな昼下がりが続いている。
ぐだぐだという効果音が似合いそうなこの気だるい空間に、何かひとつでもいいから清涼剤がほしい、なんていうのは尾浜の心の中でのみ発せられた言葉だ。
そう、例えば何かこう、カキーンと目が覚めるような、何か。
「んあ」
「間抜け面」
「うるさい」
……例えば、突然このおとこに腕を掴まれて。名を呼ばれ、口吸いとかされたりしたら。
「勘右衛門」
「ん、なに」
がしりと掴まれた腕が僅かに痛い。鉢屋の顔が近付いてくる。おや、おやおやおや。
これは、少しばかり、おかしい。
「はち、」
そうして尾浜の口は見事なまでにこのおとこに喰われてしまった。
なんなの、本当になんなのこいつ。それともおれの心が筒抜けなだけなの。
あ、やばい。もしそうならとてもまずい。よろしくない。何だか不安になってきた。
バシンと掴まれた腕を手荒く払って「こら」と口を尖らせる。
「なにすんだ」
「なにって、強請られたような気がしたから」
「いやお前の言ってる意味おれわかんない」
「親猫は子猫の声に敏感なんだよ」
「お前はおれのなんなの」
「親ではないわ」
「知ってる」
そんなことを言っている間に、学園長たちの一際大きな笑い声が聞こえてきた。一瞬やりとりを聞かれていたのかとヒヤリとしたが、当人は全くこちらのことなど気にしていないようで安堵する。
様子を窺ってみればそろそろ帰るのだろう、別れの挨拶をしているのがわかる。
辺りはほんのり薄暗く、空はいつの間にか橙色へと変わっていた。
「やっとか」
「はー……もー寝ちゃいそうだったー」
「半分寝てたろ」
「半分は起きてた!」
「屁理屈」
そう言って笑う鉢屋はいつもより何倍も柔らかい。尾浜はそんな鉢屋がいっとう好きだった。学園長からの合図を受けて、ふたりも顔を見合わせる。
「じゃあ帰ろうか」
「うん帰ろっか、はちや」
すると鉢屋は満足そうに頷いて、尾浜の手を引いた。
きっと鉢屋には聞こえているのだろう。親などでは決してないが、音にはしない名が聞こえているに違いなかった。
尾浜は鉢屋を名では呼ばない。
いつか「呼んで」と懇願されたりしたならば、呼んでやってもいいかもしれない。けれど鉢屋が飽きない限りはこのままでいいとも思っている。
いや、きっとそんな日は来ないだろう。
いつだって同じものなんてすぐ飽きられてしまうけれど、お互いそうでは無いはずだ。
「鉢屋」
「何だ」
「何でも」
「……別に構わないが、時々は呼んでくれないか?」
「……やだ」
だっていつも甘えていたいじゃない。
空は青くて雲は白い。
けれど今みたいな夕暮れがあって、黒い夜と白い朝があって、そして鈍色の雨空がある。
不破と久々知は飽きっぽくて移り気なふたりを不安に思っているようだが、まぁ空は青くて雲は白いということで。
「こんなに空は移り気なのに、それに飽きる奴なんかいないだろ」
不安がるふたりが鉢屋と尾浜を迎えに行く後ろ姿を見送って、竹谷はふたりの懸念を笑い飛ばすのだった。