8/22 画家人魚バドエン本冒頭その部屋はおおよそ人間の暮らしていける環境であるとは思えないほど、そこかしこにゴミや脱ぎ捨てられた衣服が散乱し、切れかかった電球がチカチカと明滅を繰り返しているような酷いありさまだった。
例えある程度色々な事に大雑把で、多少はずぼらな人物であったとしてもきっと、この部屋に一歩足を踏み入れる事には躊躇うであろう。
部屋と呼ぶより獣の巣穴とでも形容すべき場所。
……そんな様相の部屋の隅、白髪交じりの髪を乱雑に括り、あちこちに絵の具が飛び散った、皺だらけのシャツを身にまとった老人がひとりでぽつんと座っていた。
年の割には若く見える、優しげな顔立ちには似つかわしくないほど厳めしい表情を浮かべて、老人は一心不乱に絵筆を握っている。
老人のすぐ目の前に置かれた木製のイーゼル。立てかけられているものは、今まさに彼が描いている最中の油彩画だ。
描きかけでありながら既に写真と見まごうほどに写実的なタッチで描かれたその絵には、狭いバスタブに身を沈めた若い男がひとり描かれている。
男?……否。それは決して人間の男などではなく、おとぎ話の世界の人魚とでも呼ぶべき形をしていた。
もっともその人魚は癖のある長髪を無造作に伸ばし、中途半端な無精ひげを蓄えて、おまけに大きな金色の瞳だけはらんらんと輝いているような、とても”人魚姫”とは程遠い姿ではあったが。
そう。老人はもう何年も何十年もの間、この地獄のような部屋に閉じこもったまま、一心不乱にたった一枚の絵を描いては破り捨て続けている。
……どれだけ時間が経っただろうか。ほんの一秒たりとも止まることのなかった老人の絵筆を握る腕がはたと止まった。
その直後だった。不意に老人は大きく咳き込み、絵筆を取り落とし、その場にどさりと音を立てて崩れ落ちる。
げほ、げほ、ごほ、かひゅ。乾いた咳と気管支を逆流する呼吸が埃っぽい部屋にこだまする。もがきながらゴミだらけの床を引っ掻く老人は、けれど立ち上がることすらできないまま、少しずつ確かにその動きを弱めていく。
やがてなけなしの体力を使い切ったのか、老人はパタリと手を落としたまま動かなくなった。
「いぞうさん」
それは絞り出すような、小さな声だった。
掠れ果て枯れ切った声で老人は誰かの名前を呟いた。何度も呟いた。
けれどその呼びかけに答える相手はこの部屋にはおらず、虚しく暗がりに吸い込まれては消えていくだけだ。
「いぞうさん、いぞうさん、いぞうさん……」
声は徐々に小さく、聞き取れなくなっていく。同時に、老人の瞳に宿る光も薄く、弱々しいものに変わっていく。
やがて老人の瞳から完全に光が消え、その声も聞こえなくなる。
老人は最早動かない抜け殻と化していた。痩せ細ったその手だけは、何かを掴もうとするように真っ直ぐ前へと伸ばされていたが。
──老人のなきがらの前には、人魚の描かれた一枚の絵画があった。
*
男は、死にたかった。
希死念慮と呼ぶには少しばかり漠然とした感情ではあるが、彼は確かに自らの死を何より第一に願っていることに違いはない。
原因となるものは多分、あまりにも多いだろう。
例えば。酷いスランプに陥っていて、自らの存在意義とも言える絵をもう数ヶ月もまともに描けていないとか、その引き金となった精神病が一向に解放の兆しすら見せず、悪化の一途を辿っているとか、もっともらしい理由は思い浮かぶだけで数え切れないほどだ。
──もっとも、そんなものは今の彼に撮って些細なことでしかなく。どれもどうでもいい事柄に過ぎなかった。
現に彼は今、電灯も無いような暗い夜の浜辺でその人生を終えようとしている最中なのだから。
それでもやはり人間である以上は恐怖が勝るのか、波に揉まれては立ち尽くしてを繰り返しながら、男は何を言うでもなく、躊躇いながらも一歩一歩と暗い渚にその身を沈めていこうとしていた。
腹が、胸が、首元が、少しずつでも確かに冷たい水へと呑み込まれていく感覚に、ぞわりと背筋を粟立てながら。男はゆっくりとその双眸を閉じ、己のけして長くはなかった人生を最後に振り返ろうと……
………した、その時だった。
殆ど閉じかけていたその視界に、ほんの一瞬人影のようなものが写り込んだのを彼は見逃さなかった。
それはぷかぷかと水に浮きながら力なく海面を漂ってはいるが、紛れもなく人の形をしていたのだ。
「た、大変だ!」
自分がつい先程まで死のうとしていたことなど、とうに男の頭からは抜け落ちてしまっていた。
ざぱざぱと無我夢中で波を掻いて、できる限りの速度でその人影へと泳いでいく。
「大丈夫ですか!?しっかりしてください!!」
やがてその人影にたどり着き、脱力して人形のようにただ波間を揺れるその体を間近で見た途端、彼は息を飲んだ。
そこにいたのは人間などではなく、ましてや精巧に作られた人形ですらなく。
衣服一つ身につけていない上半身こそ、男とそう年の変わらない男性の姿ではあれど。
彼の腰から下をびっしり覆い尽くすてらてらと輝く鈍い色の鱗が、それを“人魚”以外の何かに形容することを許さなかった。
……そしてその人魚は、人魚に関する知識などかけらも持ち得ない男からして一目見て分かるほどには深傷を負い、放っておけば今すぐにでも死んでしまいそうな有り様であった。
「と、とりあえず連れて帰って、手当をしないと……。」
男には見ず知らずの人魚を助ける義理はない。だがこのまま見殺しにすればきっと、人魚は海の藻屑になる事は想像にかたくない。
自分は死にに来ただけだというのに、一体なぜこのような事になってしまったのだろうかとやけに冷静になった頭のまま、男は人魚を抱えて岸へと泳いでいくのであった。
──じゃばじゃばと響く流水の音が耳を擽る。その身を包み込む深い微睡の淵から、彼は意識を浮上させた。
やけにぼやける視界を凝らせば、水で満たされてはいるものの、先程まで自分が居たはずの海とはとても比べ物にならないほどに狭く窮屈な箱に下半身を押し込まれているではないか。
彼が驚いて尾びれをもたげると、ズキリと鋭く刺すような痛みが腹部に走り、思わずその身を庇うように蹲った。
そうして自然と視線が下りれば、今もなおじくじくと痛みをもたらす己の腹に、白い布切れがぐるぐる巻にされている事に気づいた。
一体これは誰がやったんだと、その布切れに手をかけようとした時だった。
何者かが人魚を制止する声が狭い室内に響き渡る。
「ダメだよ、まだ薬を塗ったばかりなんだ。傷が開くかもしれないから下手に触らない方がいい。」
「……薬じゃと?」
怪訝な表情を浮かべた人魚が声の主に目をやれば、そこにいたのは見覚えのない一人の人間だった。
よかった、意識は回復したみたいだね。と心底安心したような顔でため息をつくと、男はゆっくりと人魚へと歩み寄ってくる。そのあまりにも自然な動作に一瞬警戒が遅れたものの、人魚ははっとして男を睨みつけ、歯をむき出しにし、精一杯の威嚇をしてみせた。
そんな様子の人魚を前にして男は困ったように肩をすくめた。
「参ったなあ、そんなに警戒しないでくれないかい。君の包帯を取り替えたいだけなんだよ。」
「……この布切れのことかえ、薬を塗った上に何でそこまでするんじゃ、わしとおまんは赤の他人ぜよ。」
人魚には男の行動が理解ができない。
父も母も仲間も皆、人間は恐ろしいものだ、捕まったら最後喰われるか殺されるかのどちらかしかないと幼い頃から何度も教えられて育っている。
だが目の前にいるこの男は、今も自分に無理に近づこうとはせず立ち止まったまま、ただ困ったような顔を浮かべてこちらを見ているだけである。
おまけにひどい傷を負っていたらしい自分を手当てしたのだと言ってのけるものだから、人魚はひどく困惑していた。
……お互い一歩も動かないまま睨み合いのような膠着状態がしばらく続いた後、先に口を開いたのは人魚の方だった。
「……おまん、何がしたいんじゃ。」
その言葉に男は面食らったような顔をした。
「何って……君を助けたいだけだよ。流石に目の前で死にそうになっている人を見捨てる訳にもいかないでしょ。」
ああ、めぼしい容器がバスタブしかなかったから、狭いかと思うけど我慢してね。とついでのように男は言った。
……そんななにげない返答に人魚はますます反応に困ってしまった。自分の知っている人間と、この男があまりにも違いすぎてこの状況への理解が全くと言っていいほどに追いついていない。
文句のひとつも浮かばなくなってしまった人魚は、ただ数回ぱくぱくと唇を動かしたかと思えば、縮こまるようにしてバスタブに己の口元を沈めてしまった。
確かに自分は(認めたくはないが)珍しくヘマをして見覚えのない大型の魚に襲われ、命からがら逃げはしたものの傷の痛みで徐々に意識を失い、一時は死を覚悟した身であることははっきりと覚えている。
だからといってこの状況が受け入れられるかと言えば話は別だ。それに今まで海の中だけで暮らしてきた人魚にとって、人間がなぜ違う生き物である人魚を助けたのか、その意図が掴めないのが本当に恐ろしくて仕方がなかった。
一体どんな見返りを求められるのか。助けたふりをして、食べるつもりなのではなかろうか。
「兎に角そろそろ薬が流れちゃってる頃だと思うから、薬と包帯だけ変えさせてくれないかな。それだけしたらすぐいなくなるよ。」
そんな人魚の不安を見透かしたように、男は人魚と距離をとったままゆっくりと床に腰を下ろし、まっすぐに人魚を見つめた。
そのまま手にした軟膏の蓋を開け、軽く手招きをしてみせる。
「妙な真似しよったら、喉笛食いちぎっちゃるきの。」
「何もしないよ、信じて欲しいな。」
男の指が包帯に触れ、結び目をゆっくりと引く。水を含んだ包帯は体に張り付き簡単に解けるというわけにはいかないのか、男は人魚に体をくるくると回すように言った。
不服げな顔をしながらも大人しく従う人魚は、男の手を借りながらも少しずつ己に巻かれた包帯を脱ぎ捨てていく。
すっかり裸になった彼を見て満足そうに頷くと、男は指先で掬い取ったクリーム状の軟膏を、とても優しい手つきで傷口へと塗りつけていった。
それでもやはり多少は痛むのか顔を顰めながら、けれど啖呵を切ったように男の喉笛に食らいつくようなことはせず、人魚は大人しく男にその身を委ねている。
「すごい、あれだけざっくり裂けていたのにもう殆ど血が止まってるや……。」
「当たり前じゃ、あがぁなもん擦り傷やきの。」
「強がらないの、死にかけてたでしょ。」
得意げに言う人魚を軽くたしなめながらも、確かに男はその異様な回復力に驚いていた。
まだまだ裂けた肉と皮膚がくっつくほどの治癒こそしてはいないものの、これだけ回復が早いのであれば、きっと比較的すぐに海に帰してやれるだろうと安堵しながら、男は人魚の体に真新しい包帯を巻きつける。
「ところで、君の名前は何て言うの?」
男のその言葉に、人魚の金色の瞳がじろりと彼を睨んだ。
「おん?人に名前を聞く時はおまんから名乗りや。」
「……これは失礼。僕は坂本龍馬、龍馬でいいよ。……それで、君の名前は?」
「誰も名乗るらぁて言っちゃぁせんわ。こんべこ。」
ヒヒヒと品のない笑い声をあげて、人魚はさも楽しそうに手を叩く。そのたびにぱちゃぱちゃと跳ねる水が、男──龍馬の服を少しばかり湿らせていった。
名前は教えてくれなかったが、どうやら少しは警戒を解いてくれたらしいと、龍馬は小さく肩をすくめる。
「ほら、傷に響くといけないからあまり動かないでね。」
この人魚は自分とそう変わらない歳の頃に見えるのに、不機嫌になったと思えばふざけて笑ったり、まるで手のかかる子供のようだ。
そんな本人が聞けば怒り出しそうな考えを頭の隅に押しやって、龍馬はしっかりと巻き終わった包帯の端を解けないように止めてやる。
いったい何が面白いのか人魚はまだしばらくの間ケラケラと笑い続けていたが、ようやく落ち着いたらしく、ゆっくりとその両目で龍馬のことを見つめた。
(うわ、凄い……月みたいだ。)
意識して見るそれはまるで夜空に浮かぶ満月にも似ていて、煌々と輝く様が人間のそれとは明らかに違ったものに見える。
どこか怪しくも神秘的なそれについじいっと見つめていると、互いに見つめ合うような格好になるが、先に目を逸らしたのは人魚の方だった。
「えずい。そないめっそう見なや。」
「……それはお互い様じゃないかな?ねえ、ところでどうかしたのかい?何か気になることでもあった?」
「何ちゃあない。へごな顔じゃと思っただけちや。」
「うわひどいな!?命の恩人だよ、一応!」
思いの外毒舌な人魚の言葉に、流石に少し傷ついたのか。龍馬は思わず背後に置かれた姿見を振り返り、己の顔を確認する。
そんなに変な顔はしていないよな、などと思った彼の背中をぱしゃりと水鉄砲が濡らし、思わず龍馬は素っ頓狂な声をあげる。
龍馬が人魚に抗議するよりも早く、するりと伸びた両腕が彼の体に絡み付いた。そうしてそのまま、龍馬は背中から人魚の居るバスタブの中へと落ちていった。
「……わしの名前は、以蔵ち言う。」
ずぶ濡れになった龍馬へとぴっとりと密着するような姿勢のまま、以蔵と名乗ったその人魚は、先程までとは別人のように落ち着いた声で囁く。
「人間っちゅーもんはげにまっことこわいもんかと思うちょったき。悪かったちや。」
おんしゃあええ奴じゃのと照れ臭そうに笑う、そのどこかあどけなさすら感じさせる笑顔に龍馬は言葉を発することも忘れて、ただずっと見入っていた。
*
──人間よりも治癒の速度が早いとはいえ、以蔵は未だ手負いの身である。
二人の世界はお世辞にも広いとは言えないような窮屈なバスルームの中だけであったが、外に出ることのできない以蔵が退屈をしないようにと、龍馬は生活の殆どをその中で過ごすようになっていった。
だからこそと言うべきか。以蔵が龍馬のことを友と慕うようになることにそう長い時間は要さなかった。
そうして当の龍馬自身も、自らに懐いて話を聞きたがったり、いたずらをしかけてくるこの奇妙な居候を憎からず想うようになっていく。
元々絵描きを生業としている龍馬が以蔵のことを絵に残そうと思い立つのは、ある意味当然のことであった。
「ねえ、以蔵さん。」
熱心に読書に耽る以蔵へ声をかける。読書といっても、陸の文字など何一つとしてわからない以蔵にとって、読めるものはせいぜい赤ん坊や幼児へ読み聞かせるような絵本くらいのものであったが。
なんじゃ、と読んでいた絵本から視線を自身へと移した以蔵へ龍馬は続ける。
「君をモデルに絵を描きたいんだ。良いかな?」
その言葉に以蔵はひどく面食らったような顔をして、手にした絵本と龍馬を交互に見つめた。
「もでる?わしを描きっちゅうんか?別にえいけんど、本気で言うちょるんかえ?」
「本気だよ。以蔵さんは格好いいから、是非とも絵に描いて残しておきたくてね。」
格好いいという言葉に気を良くしたのか、先程までの困惑したような表情をコロリと笑顔に変えて、以蔵はバスタブから身を乗り出した。
「ほうかほうか!まあ確かにわしは海ん中でもまっこと色男じゃち言われよったきにのう!龍馬、男前に描かんと許さんぜよ!」
「あはは、善処するよ。」
龍馬も嬉しそうな以蔵につられるようにして、気付けば笑みをこぼしていた。
そういえば病を患ってから久しく、笑うという行為をしていなかった気がするとふと思う。
心が重く辛く、まるで目の前にあるすべてのものが色彩を失ったように感じられ、大好きであった絵を描くことすらある日を境にできなくなってしまっていた。
そうして追い詰められた果てについには自死すら選ぼうとした己の心の隙間を、以蔵という存在が少しずつ埋めていっていることを龍馬は確かに感じていた。
それじゃあ早速と、龍馬はバスルームに持ち込んだ一冊のクロッキー帳を広げる。
わずかに褐色味を帯びたその紙を、以蔵は珍しいものでも見るようにまじまじと覗き込んだ。
「海には紙はないのかい?」
「そがなもん聞いたこともなか。絵本ちゅーのも、陸ん来て初めて見ちゅうがぜ。」
「そっか。それじゃあ以蔵さんが海に帰ってもしっかり覚えていられるように、とびっきり格好よく描かないとね。」
絵を描くのは本当に久しぶりだから緊張するよと笑い、龍馬は手にした鉛筆を紙面へと走らせる。
さらさらと黒い線が、大まかな人体の形を取った記号のようなものを描いたかと思えば、瞬く間にその上から肉をつけつようにして、人魚の姿を描きあげていく。
以蔵は感心したようにほうとため息をついて、龍馬が己を描きあげていくさまをじっと見つめていた。
──やがて、ものの一時間もしないうちにクロッキー帳の一面は以蔵の姿で埋め尽くされていく。
最後の一人を描き切ると、龍馬はしばらくそれを見つめた後、徐に以蔵へとクロッキー帳を手渡した。
「もう描き上がったんかえ、早いのう。」
「いいや、まだまだこれからだよ。これはあくまでラフだから、この中で一番以蔵さんが格好いいと思ったヤツを選んでほしいんだ。それをもとに、時間をかけてちゃんとした絵を描くんだよ。」
「まだ描くがか!?」
以蔵の声が思わず裏返る。これだけたくさん描いたのだからもう完成だろうと思ったのに、まだまだ完成には程遠いと言うのだから、一体どれだけすごいものをこの男は描こうとしているのかと、思わず気が遠くなった。
「ね、どれがいい?」
そんな以蔵の考えなどつゆも知らず、龍馬はまるでおもちゃを差し出された子供のように嬉しそうな顔で以蔵を見るものだから、以蔵はしばらくクロッキー帳と睨み合いを続けてようやく一つの構図を指さして見せた。
「……これじゃ、これがえい。いっとう男前に見える。」