弱さという様式美【オル相】 大浴場の混雑具合は行ってみるまでわからない。とは言え、全員が一気に入るようなことがない限りは洗い場が足りなくなることもなければ脱衣所が埋まるようなこともない。
ゴールデンタイムをわざとずらして相澤が男湯の紺色の暖簾のかかった大浴場の引き戸を引くと、むわりと中から湿度の高い空気が顔と体を撫でた。脱衣籠は二つ使用中で、籠を覆うバスタオルの柄で一人はオールマイトだとわかる。もう一人はよくわからなくて、すりガラスの風呂場に視線を遣るも湯船に浸かっているのか姿ははっきりと見えない。
相澤はひとつ息を吐き、さっさと服を脱いで風呂場のドアを開けた。髪を適当に結い上げる。オールマイトはこちらに背を向けて頭を洗っていて、セメントスが湯船の中で頭にタオルを乗せて気持ちよさそうに目を閉じていた。湯桶で湯船から湯を掬い体に掛けてからそっと湯船に体を沈める。起きた波にセメントスが目を開けた。
「お疲れ様です」
同じ挨拶を返し、相澤は手のひらで顔に湯を掛ける。
長居は無用だなとさっさと洗って出ることにした。
「あれ?相澤くん?」
「こんばんは」
オールマイトとひとつ間を開けて相澤は髪を解きざまにシャワーヘッドを手に取った。備え付けのボディーシャンプーで全てを済まそうとする動作をオールマイトは風呂椅子に腰掛けたまま何か言いたそうに眺めている。
タオルは股間を隠してはおらず、薄い下生えの先の色の違う皮膚が相澤の位置からは良く見えてしまって急いで視線を逸らした。
「何か?」
「髪はシャンプーで洗った方がいいと思う」
至極真面目な声色でそんなことを言われ、相澤は濡らした頭にべっとりと付けたボディーシャンプーを無言で泡立てた。
「汚れが落ちりゃなんでもいいんで」
「指通りが悪くなるよ?」
「気にしません」
「相変わらずだなあ……」
オールマイトは説得を諦めた様子で使用した洗い場の後始末をして湯船に移動する。セメントスと何やら話し込んでいるようだったが、シャワーを浴びる相澤の耳には会話の内容までは聞こえては来なかった。
髪、顔、体の全てを洗い終えて後は上がるだけになったところでセメントスが洗い場に移動して来た。軽く振り返ればオールマイトが此方をじっと眺めている。
何やら嫌な予感はしたけれど、一応は恋人同士である。周囲にも秘密の交際とはいえどこか浮かれた気分があるのも本当で。どうせ部屋に帰ってまたパソコンを開くのだから、と相澤はほんの少しの休息を自分に許して何食わぬ顔でオールマイトの隣に節度を保った距離で腰を下ろした。
「ご飯食べた?」
「食べましたよ」
タイルの上に投げ出した手にオールマイトが触れてくる。握ったとも言えない緩い重なりに、相澤はじっとセメントスの背中を目で追った。
あの位置ならば鏡にも湯の底までは写らない。
オールマイトは相澤がセメントスを気にしているのを視線の向きで悟り、軽く微笑む。気取らせないようにするさと頼もしい様子に相澤はときめいて崩れそうになる表情を隠そうと慌てて鼻の下まで湯に潜った。
オールマイトが触れ合わせていた手をそっと離す。
僅かないちゃつきもおしまいかと相澤が姿勢を直そうとしたその時、軽く浮いた尻の下にオールマイトの手のひらがするりと差し込まれた。
「っ?!」
相澤がぐらりと揺らいで水面が一瞬だけ騒がしくなる。オールマイトはウインクひとつと唇に一本指を当て、しい、と声を出さずに驚いたままの相澤に沈黙を促した。
やめてくださいと反射的に出そうになった声も、セメントスに聞かれて何事かと怪しまれるのは避けたい。
オールマイトは何食わぬ顔で世間話を続けようとする。相澤はせめてもの不機嫌さを滲ませて、はあ、とかそうですか、と素っ気無い返答に終始した。
指が動く。
尻を揉むでもなく敷かれるだけだった手が傾き、オールマイトの人差し指が相澤の綺麗に洗った尻の割れ目のその奥へ忍んだ。
流石に冗談だろと思って信じられない顔で隣の男を見上げるも、指は深く入り込もうとはせずゆっくりと閉じた襞の上を何度も前後に行き来する。
今すぐに演技派の恋人の顔をぶん殴って出て行きたい気持ちが沸き起こる。しかし、確かに長期間それらしいことに無縁だった体はそんなほんの少しの愛撫すら、羞恥でも突き飛ばすことができなくて。
相澤は仕返しにとオールマイトの股間に手を伸ばして直接握り込んだ。数回上下に擦るだけで簡単に膨張を始める感触が手に伝わる。
まさか相澤に反撃されると思っていなかったオールマイトが目を丸くしたところでセメントスが椅子を引く。椅子の滑り止めのゴムがタイルと擦れて鈍い音を風呂場全体に響かせた。
オールマイトがそちらに気を取られた隙に相澤は一気に立ち上がり、欲しがる感情に蓋をして一目散に脱衣所に逃げた。
「上がりますね。ごゆっくり」
セメントスは相澤の猪突猛進に驚き、しかし然程気にしない感じで湯船に浸かったままのオールマイトにぺこりと頭を下げた。
「うん、お疲れ様」
からからと扉が閉まる。すりガラスの向こう側で相澤と思しき人影はバスタオルで素早く体を拭いてドライヤーもかけずに脱衣所から逃げ出す。それを眺めるしかなかったオールマイトはと言えば、相澤の悪戯で中途半端に育った自分が収まるまでは脱衣所にも行くことができず、のぼせそうになっていた。
頭の中でありとあらゆる罵詈雑言を並べ立てたところで、抑圧していたものがなくなるわけではない。
パソコンを開いても指は何ひとつキーボードを打たない。
溜息を吐きながらベッドの下に隠した箱をちらちらと見てしまう。ここまでムラムラしたのなら、さっさと抜いてから仕事にかかる方が効率がいい。わかっているし、こんな事態を招いた恋人の風呂場での所業にやはり腹を立て、しかし触れ合い自体が嬉しくなかったかと言われると全否定もできず、忙しいこの日々が、平和が程遠いのは自分達の弱さに起因するのだと大きな問題に辿り着いてしまう。
相澤が考えるのはやめようとパソコンから目を背けベッドの下の箱に手を伸ばしかけた時、チャイムが鳴った。
開けたら、何も言い訳ができなくなる。
約束を破る快感を覚えてしまったら自制が効かない。
「……はい」
鋼の意志なんてものは存在しない。ただ己の心に打ち克てるかどうかだけだ。
「遅くにごめんね、私だけど。いいかな?」
「ご用件は」
声だけでも揺らぐ。
顔を見たら更に揺らぐ。
二人きりにでもなられたら、多分。
「少しだけ、お話したくて」
「話だけですか?」
「どう答えたらいい?」
「俺は弱いので」
「……君が弱いなら、私は卑怯者さ」
相澤はとうとうドアを開けた。
守るべき誓いを掲げたままでオールマイトの手が相澤の視界を覆い隠す。イレギュラーにも柔軟な対応が必要さ、と囁く狡い大人の理論と共に。