薄力粉バター砂糖チョコレートそしてひとつまみの愛【オル相】 急がなくちゃ。急がなくちゃ。
そんな独り言を言いながらオールマイトがバタバタと退勤して行ったのは一時間程前のことだ。外はとっぷりと日が暮れていて、いつもならば相澤はまだまだ山積みの仕事を片付けるために机に向かう時間だが、今日は有無を言わさず引きずられて寮へ戻される。
何故ならば、今日の相澤は主賓だから。
嫌がっても何をしても逆らうだけ時間の無駄だ。そう教え込まされた過去の経験が相澤から抵抗という選択肢を奪い、今日という日くらいは大人しくされるがままになるべきだ、という結果に辿り着いている。
寮の共用スペースのテーブルにはランチラッシュの手料理とケーキが並び、誰かの誕生日のたびに天井から吊るされるハッピーバースデーと書かれたガーランドが本日もエアコンの風に軽く揺れている。
どこからか香ばしいバターの匂いがして相澤は鼻をひくつかせるが、テーブルに並べられた皿のどれとも違う気がして相澤はもう一度空気を吸い込んだ。
仕事のキリが良くなったもの達も続々と帰路につき、豪勢な料理とこれも使い回される『本日の主役』と書かれたタスキをかけて特等席に座らされている真顔の相澤を笑って眺めながら適当な席に腰掛けた。
やがて、マイクの掛け声と共にクラッカーが鳴り響き、ケーキには一本だけ蝋燭が立った。ハッピーバースデーの歌を面映い気持ちで聞きながらなんとか耐え、最後に火を吹き消す。
拍手に包まれた会場に、焦った様子のオールマイトが階段を駆け降りて来た。
「私が間に合わなかった!」
「遅いっすよ〜。連絡したじゃないっすか」
「ごめん、携帯をベッドの上に置いていたらバイブに気付かなくて」
蝋燭が消え、既に切り分けられる段になったケーキが相澤の目の前から少しずつ消えて行く。オールマイトはどことなく汗ばんだ顔をハンカチで拭きながら相澤から遠く離れた端の席に腰を下ろした。
大人にしてみれば、誕生日パーティーという名目は即ち飲み会と同義であると捉えているものが多い。相澤の誕生日パーティーもまた、小一時間の後には酒が飛び交い、あちこちで酔っ払い達が羽目を外し始めていた。
次第にミッドナイトの本領が発揮され始めた頃を見計らい、最低限の義理は果たしたぞ、と相澤はタスキを取って席を立つ。残した仕事は部屋で出来る。酒もまあ正気を失わせるほど盛られたわけでもない。静かに逃亡を図る主賓を逃すまいとミッドナイトが声を荒げるが実力行使をする気配がないのを良いことに相澤はさっさと階段へと逃げ込んだ。
「相澤くん」
呼び止めたのはオールマイトだった。
「お疲れ様です。遅くまで付き合わせてすみません」
「いや。間に合わなくてすまなかったね」
「いいんですよ、歌ってくれても」
茶化すような言葉が出た。酔っていないと思い込んでいた自分がやはり少しは酔っているのだろうかと思い直す。オールマイトは相澤の三段ほど下できょとんとし、それから少しだけ笑った。
「部屋に戻るんだろう?その前に少しだけ私の部屋に寄ってくれない?」
「……はあ」
特に断る理由はないのでオールマイトの言葉に従い、部屋に向かう。玄関のドアを開けたところでそのまま入って、と言われたので、何かと思いながら一度も入ったことのないオールマイトの部屋へ足を踏み入れた。整理整頓された部屋には大きなベッドがある。オールマイトの体がきちんと入るサイズとなると当然特注で、かなり部屋を圧迫していたがオールマイトはベッドを見つめる相澤の横に立ち、乳白色の小ぶりなケースを差し出して来た。
蓋の上に手が乗せられていて中身がわからない。どういうことかわからずに相澤が顔を上げると、オールマイトは小さな声でハッピーバースデーソングを口ずさみ始めた。
予期せぬ低く甘い声に頭を横から殴られたような衝撃が走る。顔が赤くなる。こんな風に真正面から心を込めてフルコーラスを歌われるなんてことは経験がなく、反応に困りながらも紛うことなき善意にストップの声もかけ難い。
結局オールマイトは最後まで歌い切って、相澤の前で謎のケースの蓋を開けた。
ふわ、と漂った香りにパーティー前の謎が解ける。
「君のお誕生日だって知らなくて、プレゼントを買いに行く時間もなくてさっき急いで焼いたんだ。ランチラッシュのケーキには敵わないし、こんなもので申し訳ないけどどうしても今日、君に何かあげたくて」
ケースの中に入っていたのはクッキーだった。ところどころマーブル模様なのはチョコレート味だろう。じっとクッキーを見つめたままの相澤にオールマイトが慌てた。
「ごめん。気に入らなかった、かな」
「……いえ。嬉しいです。ありがとうございます。これから仕事するつもりだったんで夜食に頂きます」
相澤が手のひらを見せて差し出すと、オールマイトは蓋を閉めてケースごと手のひらの上に乗せた。
「あまり根を詰め過ぎないでくれよ」
「これ、美味しくなかったら文句言いに来て良いんですか?」
相澤が問う。オールマイトは瞬きをして、食らった防備な答えを返した。
「砂糖の代わりに塩を入れればよかったかな」
「は?」
「そうしたら君に今夜もう一度会えたかもしれないってことだろ」
相澤の頭はオールマイトの発言の意図を掴みきれず右から左へ発言を受け流した。
「有り難く頂きます」
「改めておめでとう。おやすみ」
「おやすみなさい」
そう言って相澤が部屋に戻ってから一時間程が経った頃。寝る支度をしていたオールマイトの部屋のチャイムが鳴った。
こんな時間に誰だろう?とろくに誰何もせずドアを開け、そこに立っていた人物にオールマイトは息を飲む。
「相澤くん?」
良く見れば相澤の手にはさっき持たせたクッキーの入れ物が握られていた。中身は空のようだったが。
「どう、したの?」
そこまで問い掛けてオールマイトはハッと過去の記憶を反芻する。まさか本当に砂糖と塩を間違えていて文句を言いに来たのかもしれないと恐れ慄くオールマイトに相澤はケースを突っ返す。
「入れ物返しに来ました」
「明日でも、良かったのに……えっ、本当に美味しくなかった?」
相澤は下唇を突き出して不機嫌さを交え拗ねたように呟く
「美味かった、です」
(それ美味かったって言う顔じゃないよ)
オールマイトは相澤の真意を読み取りあぐねる。しかしながら不機嫌そうな相澤の、オールマイトと視線を合わそうとせず伏せてよそを見る顔がほんのりと赤らんでいるのを見た。
有り合わせのもので急いで作ったものだけれど、相澤が本当に喜んでくれたらしい気配は感じ取れて、もう一度オールマイトが感情の赴くままにお誕生日おめでとう相澤くん、と言う。
「日付変わったんで俺の誕生日は終わりましたよ」
素っ気無く言い捨てて帰ろうとする相澤の背にオールマイトがおやすみ、と声をかける。
「おやすみなさいオールマイトさん」
それから時々、相澤はクッキーが食べたいです、と言うようになった。