恋を編む【オル相】 目覚まし代わりのスマホのアラームを止め、ついでに触れた紙を掴む。読まないで二度寝を決め込みたい眠気と戦いながらよろよろと体を起こして壁に背を預けた。遮光カーテンの隙間から差し込む陽の光はまだ弱く、いつもより起床時間は二十分早い。
こんな日が何日続いたか、視線をずらしたテーブルの上に重ねられた封筒の数を数えようとしてやめた。
まずは今日の手紙の内容を確認する必要がある。
宛名のない無地の封筒は差出人の特徴を想像させる余地もない。念の為裏面を見、そこにもなんの記載もないことを確認する。ないとわかっていながら確かめる時間のなんと無駄なことか。
欠伸の代わりの溜息に肩を落とし、それでも手は糊付けのされていない封筒を開け一枚の便箋を取り出した。
相澤は先日、個性事故に巻き込まれた。
個性名は恋文〈ラブレター〉という、時と相手を選べば少女漫画の題材になりそうなものだ。特定の誰かの恋心が無記名の恋文となって相澤の枕元に、毎朝一通届く。他人と他人の恋愛事情に全く興味がないというのに、この個性はこの手紙が誰が誰に宛てたものかを突き止めない限り永遠に解除されないのだという。
「ったく、勘弁して欲しいんだがな……」
唯一の救いは、恋心の抽出が差出人も宛先もどちらも必ず相澤が知る人物からピックアップされている、という点だろう。こんな個性で見知らぬ存在の名を当てろというのはどう考えても無理ゲーであるし、最悪可能性のある人間の名前を片っ端からぶち込めばいいのだと強引な解決方法も最後には控えている。
しかし、下手な鉄砲だって撃てる数には限りがある。だからこそ少しでもターゲットを絞り込みたいと思っているのだが。
『今日も君が幸せであるように祈っている』
最後にそれだけが記された文面を見下ろして、相澤は手紙を畳んで封筒に戻した。
(恐ろしいほどにヒントがねえ)
困り果てて頭を抱える程である。
「……」
そのまま数秒眠りこけ、はっと目を覚まして相澤は頬をぴたぴたと叩いて体に朝を教え込む。
仕事以外での睡眠不足は御免被る。相澤は今夜、この不毛な時間を終わらせるため総当たり戦を挑もうと決意して届きたての封筒を恋文タワーの最上段にぽふりと乗せた。
「どうしたの相澤くん、すごく眠そうだね」
「はあ、そう見えますか」
「お茶、濃いめにしておいたよ。どうぞ」
眠いのはいつものことだが、ここ最近の睡眠不足はもっぱら恋文のせいだ。なんせ、毎日一枚律儀に届くくせに中身はせいぜい一行か二行。文面から垣間見えるのは差出人はおそらく男で、『私の最後の恋』だの『私の人生の最後を彩ってくれてありがとう』などという書き方からおそらく告白する気はないタイプで、最後の恋なんて書くからには年齢は上の方だと推測される。
今日も今日とてオールマイトの手作り弁当をもぐもぐ咀嚼しながら相澤は不審な目つきにならないようにテーブルを挟んでソファに座り、食後のお茶を美味しそうに飲んでいるオールマイトを観察した。
(俺の周りにいる男で年齢が高め、ってなると校長かこの人かなんだよな)
個性の有効範囲がどこまでと定義付けているかにもよるが、調べないと本名が出て来ない距離感の知り合いはまず除外して考えないとキリが無くなる。
(一人称『私』だし、一番可能性が高いのはこの人だけど)
その質問はさすがにプライベートに踏み込み過ぎる。
濃い茶を啜り、しかし背に腹は変えられず数秒だけ迷って結局相澤は素直に尋ねてみることにした。
「不躾な質問で申し訳ないんですが」
「ん?」
オールマイトは微笑みを浮かべたまま相澤の問いを聞く体勢をとった。
「今、恋ってしてますか」
相澤の声が聞こえなかったはずがないけれど、オールマイトはぴたりと彫刻のように動きを止めてしまう。見つめ合うこと数拍。ぱちり、と瞬きを一度して、オールマイトは問い返した。
「どうしてそんなことを聞くの?」
「理由はあるんですが説明はちょっと。俺個人の好奇心じゃないってことは付け加えておきます」
「……君がそういうことに興味があるタイプだとは思わなかったけど、答えなくてもいい?」
「構いません。不快にさせてすみませんでした」
「いや。君が私に問うことに理由があるのだろ」
答えないのではなく、答えられないのだとわかる。
そうでなければ、オールマイトならば笑って恋なんかしてないよ、と答えるだろう。それができないのは恋をしているからに他ならない。
オールマイトは嘘を吐かない。
だから、敢えて答えない。
差出人に確信を得た満足感と引き換えに相澤はどうしようもない喪失感も手にした。
相澤に言い当てられても顔色ひとつ変えず日常を続けるオールマイトが、相澤の知る誰かにあんなにも静かにしかし熱烈に想いを募らせている。
その事実が、喉の奥に飲み下せない何かを生む。
それに気付かぬふりをして、オールマイトが入れてくれた茶を最後の一滴まで飲み干した。
「お先に失礼します」
「あらイレイザー今日は随分と早いのね。デート?」
「そういうミッドナイトさんはデートのご予定がないようですね」
「今日は、ね!」
相澤の意趣返しに意地を張り返したミッドナイトとのやりとりをマイクが自席から怪訝そうに見ているのを感じ取ったが、それを無視して相澤は早足でさっさと寮に帰ることにした。
まだ誰も帰って来ていない寮のエントランスをスピードを落とさず自室まで辿り着く。冷蔵庫を開けてゼリー飲料を取り出し十秒で夕食を済ませると、部屋のテーブルの上に積み上がっている封筒から一枚ずつ手紙を抜き出して仕分けをする。
学校の机の引き出しから消しゴムとシャープペンも持参して準備は万端だ。
差出人の空欄に八木俊典、とオールマイトの本名を書き入れる。
文字はじわりと縁がインクで滲んだように変容し、文面と馴染む色合いと筆跡に変わった。
初めからそこにその名が在ったように。
「……正解、か」
重ねた手紙を捲ってみてもその全ての最後の行に八木俊典と記されている。これはやはり、オールマイトの恋文なのだ。
問題はここからだった。
相澤は恋愛感情などというものに殆ど縁がないままこの歳までやって来た。だから、生徒同士の恋愛関係についても把握しきれていないというのにオールマイトが懸想するような異性などわかるはずもない。
流石に違うだろうなと思いながら宛先に書き込んだ文字は香山睡。ミッドナイトの本名だ。
そうあってくれるなよと願いながら書き込んだ名前は、先程の八木俊典と書き込んだ時のような反応は一切起こらず、相澤の筆跡のままそこにある。
「違う、のか」
どこかホッとした気持ちで香山の名を消しゴムで消した。
となると、他に誰がいるだろうか。
13号。リカバリーガール。
書いては消し、書いては消す。
雄英関係者の名を思いつく限り片っ端から五十音順に閃いたままに書き殴る。それでも正解は現れない。
何度も何度も読み返すたびに相澤の心に見えない傷が刻まれているようだった。今日の文面はこうだ。
『私が恋慕う相手は、この先もきっとずっと君ただひとり。今日も君が幸せであるように祈っている』
(──知りたくなんかねえんだよ俺は)
オールマイトが誰を好きかなんて相澤の知ったことではない。寧ろ、彼に想い人がいるということからして知りたくなかった。
オールマイトは告白する気がない。
オールマイトは彼女だけを愛している。
言い換えるのなら、オールマイトは他の誰にも余所見をしない。心に決めた相手だけを諦めることなくきっと一生想いを告げることなくただ慕う。
初めから諦めているのだ。
ここにある手紙に、相手に自分を売り込もうとする文章はひとつもなかった。ただ好きだ、幸せであってくれと願う言葉ばかり。
そうして女性名という弾を撃ち終えて、机の上の消しカスを手のひらにまとめゴミ箱に捨てる。
「……告白したら誰だってオーケーするだろ。自分を誰だと思ってんだ。オールマイトだぞ」
半ば投げやりな気持ちで相澤は机の上に上体を投げ出した。
わからない。お手上げだ。
こんなにも恋慕っている相手に振り向いてもらいたいとすら思わないのだろうか。
彷徨わせた手がスマホに触れる。持ち上げて画面をスクロールし、親友の名前を呼び出した。
「デートは?」
開口一番早帰りの理由を問われて相澤は不機嫌に答える。
「してねえよ」
「姐さんの地雷踏むなよ、おかげでこれからホールで飲みだぜ」
「シラフで良かった。聞きたいことがある」
ミッドナイトの地雷がなんなのかはこの際どうでもいい。きっとナンパした男がろくでもなかったとかそういう類の話に違いないのだから。
「オールマイトさんに好きな人がいるってお前知ってるか」
沈黙は何よりも雄弁だ。口から生まれて来た親友ならなおのこと。
「自分で考えろ」
それだけ言って切られた電話をしばし耳に当てたまま相澤はぼんやりと横になったままの視界を眺めた。
換気のために開け放した窓から入り込む風に微かにカーテンが揺れている。
山田は相手を知っていた。
「俺が知らないだけでオールマイトさんの片想いって有名なのか……?」
山田と自分の共通の知り合いならますます限られるはずだ。見落とした名前があるだろうか。
相澤はひとやすみのために立ち上がり缶コーヒーを持って来る。今ホットコーヒーを淹れるために共有キッチンに行こうものなら相澤に地雷を踏まれたミッドナイトの狂宴に巻き込まれかねない。
原点に立ち返り、片手でタブを起こした缶コーヒーを啜りながら相澤はもう一度重ねた手紙を一枚ずつ繰った。
相手に関する記載はない。好きだ、幸せに、私の最後の恋、君以外好きにならない。言葉を変えニュアンスを変え、しかし結局はそればかりが記されているオールマイトの恋文。
「しかし付き合って欲しいとか、思わないもんかね」
相手の幸せだけを願う清廉潔白で純粋な恋慕には、一毫も邪な気持ちは入り込まないのだろうか。
読み込めば読み込むほど相澤の心は冷えていく。
好きな人に好きな人がいるなんて、何の題材にもならないよくある話だ。
「……俺にしとけよ」
言ったところで何のイメージも浮かびやしない。
それどこから相澤が身のうちに抱えているものと似て非なる崇高な想いに僻みすら浮かんで来る。
相澤は告白する気がない。
相澤はオールマイトだけを愛している。
言い換えるのなら、相澤は他の誰にも余所見をしない。オールマイトだけを諦めることなくきっと一生想いを告げることなくただ慕う。
初めから諦めているのだ。
どこまでも同じだ。
ただ、触れてみたいという欲だけが違っている。
これは何かの呪いや、罰なのではないかとすら思う。
そもそも相澤自身この個性にかかり他人の恋文を覗き見る立場になるまで自分のこのオールマイトに対する想いに恋愛感情という名前がつくことすら思い至らなかったのだ。
自覚した途端に失恋確定。
しかも、誰を好きなのか突き止めなければ永遠にオールマイトの恋心は相澤の枕元に毎朝届き続ける。
「どんな地獄だよ……」
いっそ無視して捨てたって構わない。しかし好きな人の恋心をゴミ箱に捨て続ける未来も荷が重い。
書き記す名前の当てもなくなって、相澤はとうとう性別に関わらず職員室の座席順にひとりひとり名前を書き入れては消し始めた。ブラド。セメントス。ハウンドドッグ。
近しい人達の恋愛模様は知っているだけで気を遣わざるを得ないから本当ならば知りたくはない。炭素がインクに変容しないよう祈りながら正解を求めて相澤の手は名前を書き入れ続ける。
消しすぎて毛羽立ち心なしか薄くなった便箋の表面を指先でひとつ撫でて、それでも書かねば終わらない。
山田ひざし。
変わらぬ筆跡に、相澤は机に額から落ちた。
「誰なんだよ」
あと誰がいる。
オールマイトが恋をする相手。相澤の想い人に想いを寄せられる、羨ましい相手は。
ポン、と通知音が鳴る。
山田からのメッセージには姐さんがお呼びだぞとだけ記してあった。
(知るか)
こっちだって失恋の真っ最中だ。そもそもお前が答えを教えてくれれば自分はこんなに悩まなくて済んだんだと腹を立て、相澤は自暴自棄になって自分の名前を書き入れた。
絶対にそんなことにはないとわかっていても、そうあればいいと願わずにはいられなかった。書き入れた瞬間に相澤消太様という字面が目に入り我に返って消しゴムで字を擦った。何度も何度も手元も見ずに擦り続け白いカスが量産される。
「……?」
眉を顰め手を止めた。カスを払い、消えない文字がそこにある。
自分の筆跡とは違う、紙に馴染んだ自分の名前。
「…………嘘だろ」
『相澤消太様 私が恋慕う相手は、この先もきっとずっと君ただひとり。今日も君が幸せであるように祈っている。 八木俊典』
ドッキリ番組もびっくりの手紙が完成した。
してしまった。
びゅうと突然風が吹く。開け放していた窓から、そんな気配も感じさせずに部屋の中に舞い込んだ風は便箋だけを巻き上げた。落ちる途中で便箋は一枚ずつ、役目を終えたとばかりに音もなく消えて行く。
あんなにあったオールマイトの恋心がついに一枚の片鱗もなく消え失せるのを呆然と見つめたままの相澤はぎこちなく首を巡らせ、テーブルの上にあった封筒の山も無くなっているのを見た。
残されたのは大量の消しカスとシャープペン、そして知ってしまった信じられない恋心。
この後に及んでまだ、自分は後ろ向きなことを考えている。
オールマイトの想い人が自分だった。
だけどオールマイトは、恋情を告げることを望んではいないのだと。
「明日からどんな顔して……」
相澤が知り得たことをオールマイトは知らない。
素知らぬ顔で、気付かぬふりで、今日を繰り返すのは容易いことではない。聡いオールマイトが相澤が何かに気付いたと察するのは時間の問題だろう。
腹の底から溜息が吐いても吐いても湧いて来る。
どうするべきか答えの出ない問いを、ぐるぐると落ち着きなく部屋の中を歩き回りながら考えた。
散らかったままのシャープペンと消しゴムを片付けようと手を伸ばしペン立てに戻そうとしたところで、ふと、以前生徒に貰った紺色のペンがそこに刺さっていることに気がついた。
インクは黒だがよく見ると微かに濃紺混じりのそのペンを彼女は確かこう言って自分に押し付けた。
「せんせー好きな人できたらこれでラブレター書くといいよ!」
一生使う機会がないからいらないと返そうとしたのをけらけら笑って受け取らなかったのだ。経営科だった彼女は、卒業後関西のヒーロー事務所に就職し経理を担当していると聞いた。
「……インク、出るか?」
ノックして適当な紙にくるくると輪を書くと、最初は詰まって紙を引っ掻くだけだった先端からぬるりとインクが滑り出す。黒インクは確かに光の加減で濃紺にも見えた。
事務用の便箋と封筒は引き出しにある。仕事柄、礼儀として一筆添えねばならないこともあり常備しているそれを引っ張り出して相澤はさっきまでの位置に座り直した。
口で言った方が早いけれど、手紙に縁を貰ったのだから手紙で締めるのが収まりがよかろう。
品のいいものや彩りの良いペンを持っているだろうオールマイトの手元に届くには遊びのないものだけれど、少しは飾りになってくれるといい。
相澤は白紙の便箋に向き合う。
『八木俊典様』
そこまで書いて、無意識に呼吸を止めている自分に気がついた。柄にもなく緊張している。
既に汗を掻いて滑るペンを握り直し、行を変えた。
『明日もあなたが幸せであるように、祈っています』
多分それだけで通じるはずだ。
相澤くん?!と手紙を持ったオールマイトが血相を変えて部屋まで駆けて来たら、覚えてしまった連日の恋文を朗読して披露してもいい。
手紙の最後に名前を書き、封筒に入れて糊で留める。
見守るだけの恋から一歩踏み出してみよう。
相澤は封筒を手に部屋を出て玄関脇の集合ポストに向かおうと廊下を歩いた。階段に差し掛かったところで疲れた顔をしたオールマイトがぽてぽてと登ってくる。
跳ね上がった心臓を鎮めて相澤は大人の対応を余儀無くされた。
「……お疲れ様です」
「お疲れ様。下に行くの?今はやめといた方がいいよ。ミッドナイトくんが本領発揮しちゃってて」
「……そ、うですか」
出鼻を完全に挫かれた。
「それは?」
声を掛けられハッとした。封筒の表面には八木俊典様と馬鹿正直に宛先が書いてある。
ポストに投函するつもりだったのに、まさかこんな辱めに遭うとは。
「あ、ええと……」
しかしまあ、手間が省けたと言い換えることもできる。相澤はひとつ深呼吸をし、両手でそれをオールマイトに差し出した。
「読んで頂けますか」
「えっ、なんだい改まって。まさかラブレターかな?なーんてね、アハハ」
受け取ったオールマイトは軽口を叩き、答えずにただ顔を赤らめて俯く相澤の態度に笑みを凍りつかせ急いでその場で手紙の封を切った。
「…………相澤くん」
「はい」
「私の部屋で、少しお話をしないかい」
「……はい」
オールマイトは頷いた相澤の手を取った。少し前を歩きながら、見上げた後ろ姿の耳が赤い。
必死に握り込む手の強さに、触れたい欲はあるのだなとわかり、嬉しくなった。
返事はいらない。それはもう数多の言葉で織り込まれ、相澤の胸の中に在る。