ぴたり。
前を行く千空の足が止まって、思わず身構える。不安を余所に、千空からはクク、と押し殺した笑声がこぼれた。
「 ……なるほどこりゃあ、おありがてぇ。ご親切なこった 」
怪訝に思って一歩踏み出すと、即座に言葉の意味を知る。
── 何か、電流のようなものが足元から脳裏に駆け抜けた。それをきっかけに、膨大な情報が流れ込んでくる。
一歩進むごと、天地の成り立ち、国の成り立ち、制度の成り立ち。歴史、天子の責務と役割、宰相の責務と役割。天の定めた規範。
── 太綱の一に曰く、王は仁道を以って国を治むるべし。
蓬蘆宮の書庫でも目にした一節だ。
民は慈しまねばならぬ。虐げてはならぬ。民を売り買いしてはならぬ。奢侈暴虐に耽ってはならぬ。税を重くし、令を重くしてはならぬ。公地を蓄えてはならぬ。それを売り買いしてはならぬ。国政を蔑ろにしてはならぬ。徒らに戦を嗜んではならぬ。仁道と礼を以って国を治めよ。
王として、台輔としてなすべきこと。なすべからざること。仁道とは何か。礼とは何か。
目まぐるしい量の情報が、恐ろしいスピードで脳に直接書き込まれていく。
憑かれたように階を登り、気がつくと滄海が眼下に広がっていた。
雲の、海。
「 ……雲海 」
「 あ"ぁ、こりゃ絶景だな 」
遠くを見はるかしながら、いつの間にか隣に立っていた千空が感嘆の声を漏らす。
式典を終えた王と麒麟は、これから廟に入り、天帝と西王母に進香を行い、そこで千空が道を守り民に徳を施すと誓いを立てる。
そうすると、北方を司る聖獣である玄武が現れ、その背に主従を乗せてこの雲海を渡り、生国……実際に彼らが生まれたのは蓬萊だが、魂の在処という意味でそう呼ぶそうだ……へ降る。
つまり───────
ここまでの流れが即位の儀のすべてで、何某かの罰が下されると覚悟していた式典は、何の罰も妨害もなくあっさりと完了してしまったのだ。
それが、彼の王に天意があったゆえか、それともこの先に何か恐ろしいことが起こるのか、今の彼には判断がつかなかった。
けれど、階で刻まれた無数の情報……あまりに重い、王の責務。この世界の王は、彼が元いた世界とは異なり、国を統治するだけではなく、王の存在そのものが国を守る要となる。すでに、千空に救われた折、彼が目にした通りだ。
王は一国の陰陽を調え、八卦を律する。
つまるところ、王とは国なのだ。
その存在そのものが国家を鎮護し、百姓を安寧せしめる。国が国として機能するために欠くことのできないメインシステム。
……では、もしこの即位が天意に背いていたとしたなら、この国はどうなってしまうのか。
天意により選ばれた王に永く国を守らせるため、王と麒麟、その側近や州侯は即位、着任と共に神籍あるいは仙籍に叙される。
加齢も、それと共に止まる。老いも病もなく、丈夫で傷にも強く、滅多なことで死ぬようなことはない。所謂不老不死となるのだ。
けれどただひとつ。
王が天意に背いた時にだけ、麒麟は病に罹る。この病を、失道と言う。
王が前非を悔い、民に徳を施せば、病は去り、また王としての責務を果たすことを許される。しかし、それでも王が非を改めぬ場合は、麒麟が死に、王が死に、国が死ぬ。
この期に及んでも、選定を後悔はしていない。彼にとっての王は、千空ひとりだった。出会った日から今まで、それは間違いない。
だが、それが天にとって間違いだったなら。何が起こるのだろう。
王と麒麟として、主従の命は繋がってしまった。彼に罰が降り、もし万が一命を落とすようなことがあれば、ゲンは自分自身のみならず、彼の王と民を殺すことになる。
その事実の重みに、身震いがした。
……絶対に、それだけは阻止しなければならない。
千空は冷静で視野が広く、柔軟で、根気強く、情け深い王だ。
生半なことで天綱に触れることはないだろう。
彼は人の話を能く聴き、思考し、最適解を手繰り寄せ、それを周囲に納得させるだけの知識と見識、行動力がある。
実際に、登極当初、先進的な王に諸官は反発や戸惑いを示していたが、今ではすっかり打ち解け、国は上手く機能し始めていた。
妖魔、妖獣の出没する国境や港の防衛の強化、官庫から民への食糧の供出や水利、田畑の整備、春に向けた穀物の種を天帝より賜り、官民を挙げて植え付けを行ったりもした。
同時に、先帝の遺した華美豪奢な建造物の数々を解体し、当面の輸入物資確保の財源とした。
この国は海に面した北国であるため、農耕には今ひとつ不向きであったが、それを補う資源として豊富な玉泉があった。
玉泉とは文字通り、鉱石、宝石が湧き出る泉であり、種となる石を植えておくことで自動的に鉱石が生成される。悪評高い先帝はその恵みを独占し、己の権勢を示すために根こそぎ掘り尽くしたのだと言う。
そのために泉は枯れ、建築費用として民に重税が課された。これにより、天意を失った王は、己の宰輔をも失い、最期は失意のまま首を打たれた。……二〇年と少し前の話だ。
ほどなくして蓬山の捨身木に黄金色の卵果が実ったが、それも突如蓬山を襲った蝕により流され、その行方は杳として分からなくなってしまった。
この国を襲った一連の不運は最早災害と言ってよかった。民には、長く不遇が続いた。
それで、未だ新しい王に猜疑の目を向ける者もいる。事情を鑑みれば致し方のないこととはいえ、切なかった。
千空の治世に対する不安は彼にはない。
少なくとも、奢侈享楽に溺れ亡んだ先帝と同様の問題は発生しない。
けれど、まだ登極して間もない若き王に対して一枚岩になるには、時間が足りていないのも確かなのだろう。
新王がもたらす、未知の技術への漠然とした不安などもあるに違いない。
それを一つずつ、丁寧に拾い上げ、解消していくのが宰輔たる自分の仕事だ。
天網恢々、疎にして漏らさず。
蓬萊でも用いられていたその言葉の通り、天の網の目に不用意に絡め取られぬよう、彼はいつも目を光らせている必要があった。