それから二日ほど経ったある日のことだった。相変わらず水面下で忙しく駆け回っている時に内殿から遣いがあって、礼服に着替えてくるように言われた。
来客や式典の予定は春官長から聞いていなかったが、敢えて礼装を求めるのであれば、急な……しかも重要な来客があったのだろう。
急ぎ礼服に改め、身形を整えると、内殿の指示された一画に向かった。
そこには千空の他にもう二人、見慣れない姿があった。
正面に座ったのは、千空と同年輩に見える男だった。おそらくこの男が主賓なのだろう。脇には、ゲンと同世代か、少し年長と思われる青年が控えている。
青年は薄い栗色の髪を短くまとめていたが、その輪郭を縁取るように、ごく淡く金色の光を纏っていた。──そう見えた。
その場の誰とも異なる、そして不思議と身に馴染む、際立った気配。
……ああそうか、彼は麒麟だ。
そう悟って、改めて二人の賓客に視線を向けた。麒麟を伴っているということは、主賓の威風堂々と構えた背の高い男はいずれかの国の王なのだろう。
──麒麟の気配は見えるようになったのに。
入り口で一礼し、ゲンは自らの王に視線を向ける。けれど、やはり千空からは王気と呼べるような、……先程目の前の麒麟に感じたような、際立った気配は感じられない。
今日も彼が健在であることに対する安堵以外は、何も。
入室して下座に控えたゲンに、千空は前に進むよう示して述べた。
「 ……龍王と、龍台輔だ 」
言葉に軽く目を瞠る。
……龍王。海を挟んだ隣国、隆の王と、その麒麟。
それで千空が一段下がったところに坐っているわけが理解できた。
隆は大国だ。大きな商業施設や開けた港、肥沃な大地を持ち、治世も安定している。
周囲の国からの信望も厚く、尊崇を得ていた。どう言った縁での来訪かは不明だが、この国から程近い、これから貿易相手になる可能性の高い国の国主だ。
万が一にも、非礼があってはならない。
ゲンは恭しく膝をついて、拱手の礼を取った。
「 ……お初にお目にかかります」
王に対しては最敬礼するのが礼典によって定められた決まりだった。膝をつき手をつき、額を地につけて叩頭するのがそれだが、麒麟だけは跪いて軽く会釈するだけでよい。
礼儀としてはそのように記憶しており、実際に蓬山で紐解いた書物にもそう記載されていた。しかし、いつまで経っても目の前の王からはなんの声もかからない。
……何か間違えたのだろうかとわずかに視線を動かすと、千空が小声で言った。
「 ……ゲン、叩頭礼を 」
「 ……え?」
驚いて、ゲンは千空を見返す。
麒麟が叩頭礼を義務付けられているのは、自らの王に対してだけだ。そんなことを、千空が知らないはずもない。
「 龍王は既に五百年、その御代を維持されている方。治世の長さにおいて、他の王と同様に扱って良い方ではない 」
これまで何があっても、どこにいても自らの語調を改めたことのない千空が、ここまでの敬意を示すほどの人物。
それだけで、目の前の男がいかに偉大であるかが伝わってくる。
視線を上げるが、その場の誰も千空の言葉を否定しない。……では、そういうことなのだ。
「 ……はい、主上。畏まりました 」
頷くと、床に手をつき、改めて頭を下げる。
深く頭を下げて額づこうとし、そして途中で動きを止めた。
「 ──どうした 」
そう問うたのは正面の龍王だった。
「 いえ 」
答えてもう一度頭を下げようとし、また途中で動きが止まる。
──できない。なんで?
自らの王以外に跪きたくない、などと言う感情面からではなく、物理的に。
どうしても身体が動かない。
「 ──どうした?この国の麒麟は、何か我が国に含むところでもあるのか? 」
「 いいえ 」
責めるような口調に弁明を返しながら、助けを求めるように千空に視線を向ける。
対して、千空の表情は冷ややかだ。
「 何をしている。無礼であろう。……私に恥をかかせるな 」
身体の芯に氷水を流し込まれたかのように、心臓が凍った。
なぜ、たかだか頭を下げるだけなのに。
蓬萊にいた頃は、誰かに頭を下げるくらい平気だったのに。
どうしてそれくらいのことが出来ないのか。
けれど、何度頭を下げようとしても、やはり途中で身体が止まる。
精いっぱい下げた額から床までは、床についた手から肘までの距離しかない。そのわずかな空間に何か硬いものでもあるかのように、どうあっても身体が動かない。
それ以上頭を下げることも、肘を曲げることも出来なかった。
「 ──フゥン、どうやら、本当に何か含むところがありそうだな 」
龍の声は冷え冷えとしている。慌てて、龍を見上げた。
「 いいえ……! 」
必死に反駁するゲンに、次に冷ややかな声を投げたのは龍台輔だった。
「 それとも礼儀をご存知ではないか。本来であれば、我が王自ら罷り越す謂れもないところを、隣国の縁でわざわざお運びいただいたと言うに、礼のひとつもないとはどう言うことか 」
それを受けて、龍は皮肉げな笑みを刷く。
「 これほどまでに新参の麒麟に軽んじられたのは初めてのことだ。貴公はよほど隆をお嫌いと見える。……それとも、王に命じられたか?他国に阿ることは許さんと 」
思いもかけぬ悪い方向へ、誤解が拡散されていく。早く。早くなんとかしないと。
この世界では他国への侵略、侵攻は大罪とは言え、交易や流通に強い発言権を持つ隆に睨まれては、復興途中のこの国などひとたまりもない。
「 決して!決してそのようなことは……!」
ようやく、それだけ絞り出した言葉に、龍は依然冷淡な態度を崩さない。
「 ──ならば理由を聴こう。理由もなく、礼も取れずと言うことであれば、御身と貴国は我が国に敵意ありと判断するが、良いか?」
「 ──ゲン 」
咎めるような主君の声音に、身体が竦む。
どうにかして礼を取ろうとするが、首が下がらない。なんとか床までの距離を詰めようとしても、どうしたわけか身体はまったく言うことを聞かなかった。
焦りではなく、苦痛の汗が浮かんで床に落ちた。吐き気がする。眩暈がする。頭が割れるように痛い。
業を煮やしたようで、龍が立ち上がり、近寄って来るのが視界の端に見えた。
「 ……どうした?礼を取るフリも出来んか? 」
声が上から降って来るや否や、髪を掴まれた。そのまま、凄まじい力で押さえられる。
「 そのまま頭を下げるだけだろうが 」
痛い。痛い。頸がみしりと軋んだ気がした。
それなのに、首が折れてしまいそうな荷重を加えられてもなお、身体はぴくりともその位置から動かない。
なぜその力に抵抗できたのかは、彼自身にもわからない。けれど全身全霊が、その行為を拒んでいることだけはわかった。
「 ……フゥン、強情だな 」
言葉と共に更なる負荷が加えられた時だった。ぱしんと軽い音がして、重圧が消えた。