「 …………あ」
月のきれいな夜だった。いつになく大きな、白い光に誘われるように辺りを逍遥して、帰り着いた玄関先で、ふと忘れ物に気づいた。
「あちゃ〜……コーラ買ってくるの忘れちゃった」
明日は久しぶりのオフで。
ゆっくりお風呂で寛いだあとのお楽しみに、買って帰ろうと思っていたのに。
今や売れっ子マジシャンである彼は、にも関わらず、コンビニでお手軽に買える、あのチープなカラメル色の液体が大好きだった。
いつでもどこでも手に入る自由さや、楽しげなイメージが好ましかったのかもしれない。
「う〜ん……まあちょっとそこまでだしね」
玄関で気づいてラッキーだったよね、とひとりごちて、今閉めたばかりのドアをくぐった。
オートロックを確認して、伊達眼鏡をかけ、帽子を目深にかぶる。
こんな時間にパパラッチもないと思うが、一応は有名人。用心に越したことはない。
エレベーターを降りると、大通りから煙が上がっているのが見えた。
「 ……やだ、事故かな?」
野次馬が群がっている場所を避けながら、様子を伺う。
「化け物だ!なんか白くてデカいやつが車の前を横切りやがったんだよ!」
炎上した車を運転していたらしき中年男性が、鼻白む周囲にそうがなりたてる。
空には皓々と輝く満月。確かに、月に惹かれて魑魅魍魎が迷い出た、なんて言われたら納得しそうなロケーションではあるけれど。
「 ……怪談にはまだちょっと早い時期じゃないかな〜」
ぽつりそう呟いて、踵を返すと裏道に回った。こちらからなら人目につかないし、近道だ。ただ、都会の大通りに面しているにしては、視界が悪く薄暗いのがネックではある。
ふいに、くんと足が後方に引っ張られた。
側溝に足を取られたのかと思い振り返ると、足首を掴む白い手が視界に映る。
大人の女性のものに見えるが、側溝の幅は細身の子供一人がようやく通れるほどしかない。
「えっなにこれバイヤー……嘘でしょ何かのドッキリかなんか ⁉︎ 」
この手はなに?どうやってこんな狭いところに入ってるの?なんで俺の足掴んでる?
混乱しながらも、じりじりと手を剥がそうともがくが、瞬間接着剤で貼り付いたかのようにぴくりとも動かない。逃れようとしているのを悟ったのか、腕の主はぐいぐいと足を引く手に力を込めた。
引きずり込む気のようだ。
「ちょ待!こんなとこ俺が通れるわけないでしょ!」
思わず叫ぶも、全く意に介した様子もなく。腕はそのままずるずると彼を側溝に引き摺り込んだ。明らかに物理法則を無視した力で、深く昏い空間に呑み込まれる。
ぶくり。口腔から泡が溢れて、どうやら水の中か、それに類似した空間であることを悟った。
何これ。俺、溺れてるの?わかんないわかんないわかんない。
わかるのは、ただ逃げなければということだけ。
だから、渾身の力を振り絞って、腕を振り解いた。白い腕が視界の端に消えて。
そして、ブラックアウト。
……死んじゃうのかなあ。まだ、コーラ飲んでなかったのになあ。
こんなことなら、コーラ買ってまっすぐ帰ればよかったなあ。
死ぬ前に考えるのがそれか、と思うとどうにも滑稽ではあったけれど。
案外そういうものなのかもしれない。
そんなことを意識の片隅で考えながら、目を閉じた。
……雨の音がする。
静かで、なんだか細波のようで。
心地よい音。
呼ばれたような気がして、重い瞼を持ち上げた。
目を開けた瞬間、視界に入ったのは見慣れたマンションではなく、ルームライトどころか蛍光灯すらない、石造りの白い天井。
「 ……ここは………… 」
驚いて身を起こすと、そこはどうやら建物の中のようで。木で作られた簡素な寝台に藁と布が敷かれ、その上に自分は横たえられていたようだった。
けれど、周りを見回してもそこがどこかはわからない。
第一、自分は買い物に出かける途中、何かに捕まって。……そう、あの時死んだのではなかったか。ということは、ここはいわゆるあの世、というところなのだろうか。
「 …………死後の世界って案外フツーなんだ」
思わずそんな言葉がこぼれた。
「 ……あ"ぁ、起きたのか。つか、まだ寝ぼけてやがるな」
なんだ、死後の世界って。
呆れたような声に、首筋まで一気に熱が上る。聴かれてた!
恥ずかしさと混乱であたまの中がぐちゃぐちゃになって、表情を取り繕うことすらできない。人がいて、寝床に横たえられていたのなら、声の主が助けてくれたのだろう。
どうしよう。ジーマーで第一印象最悪だ。
そんな混乱を知らぬげに、ん、と短い声と共に水が差し出された。
声の主は、……高校生くらいだろうか。薄いクリーム色の髪を逆立てた、利発そうな少年だった。くるんとはねた髪の先端だけが、ほんのり緑がかっている。
「まぁ混乱するわな。安心しまくれ、死後の世界とかじゃねぇわ。……戻る方法がねぇって意味ではそう変わらねぇが、生きてりゃ最低限何とかなんだろ」
そう言って、彼はわずかに柘榴色の目を細めた。口調はぶっきらぼうだが、どこか温かみを感じる声に、少し気持ちが落ち着いた。
……しかし。
今、彼は何かおかしな、そして聞き流せないことを言わなかっただろうか。
「 ……戻る方法が、ない?」
訊き返すと、面倒臭げに髪を掻き上げて。
彼は現在の状況を話し始めた。
「 見たところ、テメーもそう時間軸は離れてなさそうだが、テメーがいた時代は西暦何年だ? 」
ふいに問いを投げかけられて、記憶を手繰る。
「 えっ?……西暦?二〇一七年、だけど 」
「 ……あ"〜、じゃあほぼ同じか。俺がこっちに流されてきたのは二〇一六年九月だ。
同行してた海洋調査の船が時化にやられて、海に投げ出された。んで、目が覚めたらここに流れ着いてたってワケだ」
「 バイヤー……よく生きてたね…… 」
淡々と語られてはいるが、思った以上にヘビーな状況に、自然、そんな呟きが漏れた。
確かに、自分だってオバケに裏道の側溝に引き摺り込まれてこんなことになっているわけで。彼以上に正気を疑われそうな状況ではあるけれど。
「 ……あ。詳しい話の前に。名前聞いてもいい?俺はゲン。……浅霧幻」
「 石神千空だ。……ん?浅霧…………
あ"〜、テメーあれか、あさぎりゲンか。あのインチキマジシャン」
あんまりな言われように苦笑する。確かに、ウソを売るのがお仕事だけども。
けれど、そう言いながらも知ってくれていたことは素直にうれしい。
「 インチキはひどいなぁ〜、メンタリストって言ってよ 」
言葉をおざなりに流しながら、彼──千空は質問を続けた。