律の娘vol.1 今日は早めに相談所を閉めて、夕焼けに目を細めながらのんびりと家までの道を歩いていた。
すっかり人気もない住宅地を歩いていると、小さな公園の横を通り過ぎる。昼間であれば子供たちが賑やかに遊んでいるのだが、さすがにこんな日の沈みかけた時間では誰も居ないだろう。ブランコや、ジャングルジムを何となしに眺めて童心に返っているとふと視界に動く影を捉えた。驚いてその影をよく見ると、なんと公園の砂場で一人遊ぶ子供がいる。
幼稚園児くらいの女の子だろうか。何やら覚束無い手つきでスコップを使い、土を掘り返しているようだった。
しかし、昼間であれば微笑ましくもあったろうが、誰もいない公園でこんな時間に一人とは穏やかではない。厄介事はごめんだが、良識を捨てたつもりも無い。霊幻は出来るだけ怪しまれないように、その子供に近付いて行った。
そして、なあ、と声をかけようとした時、「ちょっと!」と大きな声がした。振り返ると、スーツ姿の若い男がこちらにずんずんと近寄ってくる。その険悪な雰囲気に、霊幻は最悪の勘違いをされていることに気付き始めた。
その男は子供の手を引いて霊幻から遠ざける。
「……うちの娘に何をしようとしてるんです」
「ご、誤解です! 私は、こんな時間に子供が一人なんて危ないと…………、あれ?」
霊幻はその若い父親の顔をまじまじと見た。薄暗くて気付くのが遅れたが、少し、いやかなり見覚えのある顔だ。すると向こうもこちらに気付いたようで、ハッとした顔になった。
「…………え? れ、霊幻さん……?」
「お前、もしかして律……?」
それから数秒間、お互いに呆然として顔を見合っていた。なにせ、霊幻が律にあったのは律の結婚式以来、約5年ぶりのことだったからだ。年賀状のやり取りは何とか続いてはいたが、遠方に引っ越した律の家庭とはかなり疎遠になっていた。それが、こんな家の近所でたまたま出くわすとは。
「……あー、えっと、久しぶりだな。元気だったか?」
「そちらこそ、まさか小児愛好者に成り果てているとは思いもしませんでしたが、元気そうでなによりです」
「だからそれは誤解だって言ってるだろ……。それより律、お前何でこんな所にいるんだ? 里帰りか?」
「いえ、違います」
「……へ?」
律は少し顔を伏せて、独り言のように「あなたには伝えてませんでしたね」と言った。
「……僕達、最近この辺りに住んでるんです。……離婚したんですよ」
「り……」
離婚!? と驚く声は何とか飲み込んだ。
結婚式の時に見た、律の横に立つ黒髪が綺麗な女性を霊幻は思い浮かべた。その時はとてもお似合いなカップルだと思ったものだったが、まさか別れることになったとは。ともかく、有り得ないことは無いだろうが。
「あーえっと……それは災難だったな」
自分でもかなり陳腐な返し方をしてしまったと思った。案の定、目の前の男は苦い笑みを浮かべた。
「過ぎたことですから」
話題を変えようと霊幻は視線をさまよわせ、律の足にしがみついてこちらを警戒する幼い視線に気が付いた。
「……えー……、じゃあその子は」
「ああ、はい。娘のすみれです。……すみれ、このおじさんはパパの知り合いなんだ。挨拶して」
律に促されて、すみれと呼ばれた女の子は霊幻に会釈してみせた。
「…………こんにちは」
「こんにちは。ちゃんと挨拶して偉いな。すみれちゃんは、いくつだ?」
「さんさい」
すみれは小さな指を三本立てて見せた。特別子供好きという訳では無い霊幻でも、その姿はなんとも愛らしく見える。知り合いの子供だからだろうか?
律は娘の頭にぽんと手を置くと、慈しむような視線を彼女に向けた。
「……来週で四歳になるんです」
「へえ〜、そうなのか。賢そうな子だな」
「それは、もちろん」
律は心なしか胸を張ったように見えた。
「パパ、おなかへった」
すみれは律のスーツの裾を掴んだ。気付けば、先程まで半分は見えていた夕陽もほとんど落ちかけ、あたりも暗くなり始めていた。
「うん、そうだね。……じゃあ霊幻さん、僕達帰ります。またどこかで」
律は娘の手を握って、「おじさんにお別れを言って」と言った。
すみれは、霊幻にぎこちなく手を振った。
「バイバイ」
霊幻もニッコリと笑って、去っていく親子に手を振った。