3話その日の夜、ノアはストーリア王国に帰るため、荷物をまとめていた。必要最低限のものしか持っていなかったため、鞄に詰め込むのはさほど時間がかからなかった。
窓の外には夜の静寂が広がり、潮騒の音がかすかに響いている。ひとときの安寧を惜しむかのように、彼女は静かに荷造りを終えた。
飛行挺は早朝に出港する。風が夜の冷たさを運び込み、寝台のそばに置かれたランプの明かりがゆらゆらと揺れる。その時が近づく中、ノアは少し早く寝ようかと考えたが、ふと控えめなノックの音が扉を叩いた。
「入っていいか?」
「ネイキッド?」
扉を開けると、そこには軽鎧を身に纏ったネイキッドの姿があった。普段の軽やかな雰囲気とは違い、今夜の彼は少しだけ表情が硬く見えた。
「明日、ストーリアに帰るんだってな。」
「うん。いつまでもここにいるわけにはいかないからね。未練が残らないうちに、って思って」
その言葉に、ネイキッドの目が一瞬だけ揺れる。しかしすぐに、いつものようにニヤリと笑った。
「なぁ、外、行かないか?」
特に断る理由もなく、ノアは頷いた。
二人は並んで歩き、海が見渡せる岬へと向かった。夜風が潮の香りを運び、波の音が静かに響く。ネイキッドがよく訪れるというこの場所では、昼間はどこまでも青い海が広がり、夜は無数の星々が空に瞬いている。今夜も、星々は明滅し、天の広がりを讃えるかのように美しく輝いていた。
「お前さ、なんで聖騎士になろうと思ったんだ? ただ薦められただけでなろうと思ったわけじゃないだろ?」
ノアは少し考えた後、少し照れくさそうに笑った。
「うーん、ありがちだけど、小さい頃、父様がよく言っていたんだ。『強くなって、人を守れるようになれ』って。父が戦っている姿を見て、私はただ守るだけじゃなく、支えるために強くなるって決めたんだ。聖騎士って、ただ力を振るうだけじゃなくて、戦わなくてもできる形で人を守ることも大事でしょ? だから、私もいつか、大切な人たちを戦い以外でも守れるようになりたいって思ったんだ。」
ネイキッドはノアをじっと見つめた後、ふっと笑みを浮かべる。
「……じゃあ、早く守りたい王子サマのところに帰らないとな」
「え?」
「今度、そいつも連れて遊びに来いよ。好きなんだろ? いいデートスポット教えてやっから」
「ちがっ誰も殿下だなんて――!」
ノアが言いかけたその瞬間、ネイキッドは「俺には全部お見通しだぞ」と言わんばかりの自信満々な笑みを浮かべた。
「隠してるつもりかもしれないけど、バレバレだぞお前。前から王子の話してるとき、ミョーに生き生きしてたしな」
ノアは思わず顔をしかめ、考え込んだ。自分では意識していなかったことを指摘された気がして、どう返せばいいのかわからなかった。彼を睨みつけるものの、ネイキッドはその反応を楽しむように笑っていた。
「まあ、たまには遊びに来るね」
ノアがそう言うと、ネイキッドは一瞬だけ目を見開き、それから少しだけ寂しげに笑った。
「おう、期待してるぜ」
空気が心地よく流れ、波の音だけが耳に残る。月は高く昇り、海面に淡い光を映していた。その光が二人の影を長く伸ばしていた。
「さて、明日は早いし、そろそろ帰らなきゃ」
ノアが立ち上がろうとしたその瞬間――
ネイキッドが、そっとノアの腕を掴んだ。
振り返ると、彼は何かを言いたげに口を開きかけた。しかし、言葉が止まり、少し目を伏せた後――
「俺、さ……」
その言葉は、結局続かなかった。
ノアは彼を見つめる。ネイキッドは何かを言おうとしたものの、結局それを飲み込むようにして、腕を離した。
「……やっぱなんでもね」
そう言い捨てるように言うと、ネイキッドは「じゃーな!」とだけ言い残し、足早にその場を去った。
ノアは腕に残る温もりを感じながら、訳が分からずその場に立ち尽くす。
その問いには答えはなく、ノアはしばらくその場に留まった後、足を踏み出した。
部屋に戻ったノアは、寝台に腰を下ろし、ぼんやりと天井を見つめた。夜の静寂の中で、波の音だけが耳に届く。ネイキッドの最後の表情が頭に焼き付いて離れなかった。
あの掴まれた手の感触、言いかけた言葉。それらを思い返すたびに、胸の奥が妙にざわつく。彼の態度の変化に何か意味があったのか、あるいは気のせいなのか。答えの出ない問いを抱えながら、ノアはゆっくりと目を閉じた。
明日は早い。考えすぎても仕方がない。
静かな波の音が、遠い子守唄のように響いていた。
翌日、透き通るような青空の下、ノアは村人たちに見送られながら、桟橋近くにネイキッドの姿は見えなかった飛行挺に乗り込んだ。甲板から望む岸壁にイスズ神官長にいじられてるネイキッドの姿を見つけた。海風が吹き抜け、彼の金髪を揺らす。目が合うと、ネイキッドはニカッと笑った。
からかうような笑顔だが、その表情にわずかな寂しさが滲んでいた。
振動が大きくなり飛行挺が上昇し、エテルナ島の景色が遠ざかっていく。
海の青と空の青が溶け合い、果てしない旅路へと誘うようだった。
ノアは甲板の手すりに手を添えながら、遠ざかる島を見つめた。潮風が頬を撫でる。二年ぶりの帰郷。
ストーリア王国。幼い頃から育ち、騎士としての道を歩み始めた場所。懐かしさとともに、どこかほんの少し遠いものに感じるのは、ここで過ごした時間と、この島での時間が、それぞれ別の自分を形作ったからなのだろうか。
城の中庭、訓練場の砂埃、士官学校の寄宿舎、思い出は尽きない。けれど、あの頃の自分がいた場所に、そのまま戻れるわけではないということも、ノアは分かっていた。二年前と同じ風景が広がっていたとしても、自分の目に映るものは変わっているかもしれない。
――みんな、変わらずにいるかな……
レックスの優しく穏やかな笑顔が思い浮かぶ。王子でありながら何かと世話を焼いてくれた彼の姿。困ったように眉を下げながらも、最後には必ず微笑んでくれた幼なじみの顔を、ノアはふと懐かしく感じた。
そして――父の言葉を胸に、歩き出した自分は、誇れる自分になれているだろうか。
飛行挺の振動が、彼女をゆるやかに懐かしき地へと運んでいった。