愛に時間を このところ、遊作は鴻上了見と不定期に顔を合わせている。
「了見。俺にイグニス・アルゴリズムを教えて欲しい」
そう頼み込むと、通信越しの了見はたっぷり3分は沈黙した上で、「――よかろう」と一言だけ返事を絞り出した。なぜ必要とするのか、遊作が何に使うのかさえ、彼は問いたださなかった。遊作はそのことに、静かな衝撃を受けていた。
(中略)
「ところで、なぜここだったんだ?」
「食事には不自由していないが、長期間海に出ていると、新鮮な野菜が食べたくなってな」
お前も好きに食べるといい、会計は私が持つ。
こともなげにそう言い放った了見は、会話が途切れると再び食事を再開した。ぱりぱり、しゃくしゃくと軽快な音を立てながら、こんもりと盛られていた色鮮やかな野菜が一定のペースで消えていく。
遊作は、先日ニュースで見たハッカー集団の大規模な摘発を思い出していた。おそらく、いや確実に、この男も腕を振るったのだろう。ハノイで最大の実力者は、リーダーである了見自身だ。
遊作もフォークを手に取るが、普段食べないような野菜が多すぎて目移りしてしまう。適当なドレッシングをかけて口に運ぶと、つん、と鼻に抜ける強烈な香辛料の感覚に、遊作は軽くむせた。
「どうした」
「ちょっとワサビがきつかっただけだ」
「カフェナギのマスタードは平気でもワサビは苦手か。フ、お前にも意外な弱点があったものだな」
愉快そうな言葉とは裏腹に、ピッチャーから水を注いでくれる了見の眼差しは柔らかく、遊作はまじまじとその表情に見入ってしまった。
「本当にどうした」
「いや、・・・お前の苦手なものはなんだろうか、と」
「そんなものに興味があるのか・・・」
「ある」
了見とは得難い縁で繋がっていると言っていいが、そういった他愛もない話は今までする余裕などなかった。
「俺はお前のことなら何だって知りたいと思う」
「・・・・・・生憎だが、自分から教える趣味はない。貴様が自分で見つけ出すがいい」
(中略)
「・・・了見。お前は俺に教えて、後悔していないか」
「なんだ、藪から棒に」
「お前にこの件を頼み込んだ時・・・思ったんだ。オレはまた、お前に選ばせてしまったと」
イグニス・アルゴリズム。イグニスたちの言語とも呼ぶべきアルゴリズムであり、それを全て理解して読み解ける者は、最後のイグニスであるAiが去った今、ほぼ絶えた。――リンクセンスを持ち、鴻上聖の研究資料を所有し、ハノイのリーダーとしてイグニスを追い続けてきた、鴻上了見を除いては。彼の中には、その言語を墓場まで持っていく選択肢も、確かにあったはずだった。
世界でたったひとりが知る言語なら、今度こそ完全に滅ぼしてしまえる。けれど、それを知る者が増えたなら。
「随分と今更な話だ」
フン、と鼻を鳴らす了見は、動じた様子もなく、遊作に反論を突きつける。
「私が教えなければ、貴様は独力でそれを解析しようとしたのではないのか」
「・・・・・・その通りだ」
遊作とて、Aiと一緒に生活していた。あのイグニスは主だった痕跡こそきっちり消していったが、落書きのような他愛無い足跡たちは、少し潜ればすぐに拾うことができた。了見に断られていたなら、遊作は不完全でもそれらから習得を試みていただろう。
「私が了承したのが意外か?」
「そうだな。おそらくお前は・・・イグニスの痕跡を増やすことを、望まないと思っていた」
「頼んだのがお前でなければ、断っていただろうな」
了見は遠回しに遊作の言葉を認め、だが、と続けた。
「お前はまだ諦めていないのだろう」
「もちろんだ」
「お前の目指す可能性がどこに辿り着くのだとしても、私はそれを見届ける。必要ならば、手も下す。それなら、少しでもましな可能性である方が良いと判断しただけだ」
「俺が教わる理由を話さなくても、か?」
「想像はつく。――お前が、Aiにだけ届く言葉としてこのアルゴリズムを使いたいと言うのなら、私に止める理由はない」
やはり彼は俺の運命なのだ、と遊作は思った。
断られるかもしれないと思いながら彼に連絡したのは、自分の道行きを監視者である了見に知っておいてもらいたいと思ったからだ。それが彼に痛みを齎すとしても、嘘をつきたくない思いが、遊作の中にある。
「・・・すまない。俺の望みで、お前がつらい思いをするのは本意じゃない」
「殊勝なことだな。・・・つらくないと言えば、嘘になる。だが・・・」
整った了見のかんばせが、ほんのわずか、花開くように綻んだ。
「運命に背を向ける方がつらいということを、私はもう知っている」