昏い水の底から、ゆるやかに浮上していくような感覚があった。瞼の裏に光を感じて、エランはゆるゆると目を開けた。
「エランさん!目が覚めましたか?」
目を開けると、ノイズの走る満天の星空を背景に、黒いドレスを纏ったスレッタ・マーキュリーが、手をついて覆いかぶさるようにこちらを見下ろしていた。
「スレッ、タ?」
驚いて声を出そうとすると、体が鉛のように重かった。喉の渇きに咳き込むと、スレッタの腕が背中に差し込まれ、上体を抱き起こされる。何を、と問う暇もなく、顔が近づいてきて唇が重なった。
「…!」
エランは反射的に彼女を押し返そうとしたが、抗おうとしても腕一本動かせない現状に、しばらくして抵抗をあきらめた。エランが体の力を抜いて主導権を委ねると、スレッタは満足げに微笑んで、口に含んでいた水らしきものを彼に移し与えた。
その、見慣れない嫣然とした微笑みがあまりに別人じみていて、ざわりと肌が粟立つ。君は誰だ、という問いは、流し込まれる水と一緒に喉の奥へ消えていった。与えられた水が冷たく喉を潤すにつれて、少しずつ体が軽くなってゆくのを感じる。唇を離される頃には、エランもどうにか自分の力で身体を起こしていた。
「っ、は、ごほっ」
「大丈夫ですか?随分探したんですよ」
「どうして、君が……」
ここが現実の空間でないことは明らかだった。彼女の背後、星空に時折走るのは青いパーメットのノイズであり、さっきまで沈んでいた水は、複雑な色合いに揺らめく情報の海だった。
エランの記憶は暗い処分場で磔にされていたところで途切れていたが、服装も最後に着ていた検査着ではなく、アスティカシア学園の制服に置き換わっている。役を降りた今、エランがこの制服を纏うことは二度とない。スレッタの認識が影響しているのだろうか。
データストームの影響で肉体がまともな状態にないことは、自分が一番よく分かっている。だが、まともな状態でないからこそ分かることもある。スレッタが纏う黒のドレスはただの黒ではない。あらゆる色を呑み込んだ、彼女が取り込んだデータが蓄積してできた色だった。
「お母さんの言った通りでした。ここでなら、エランさんにまた会えるって」
スレッタの手が伸ばされ、エランの頬を蠱惑的な手つきで撫でていく。口調こそスレッタのものだが、その手に浮かぶ青いパーメットの輝きを認めて、エランは眉を顰めた。かつてエアリアルと接続した時には、パーメットは光らなかったはずだ。彼女も、あの後呪われてしまったのだろうか。
「ねえエランさん、私とずっと一緒にいましょう」
頬から滑り降りた手が首筋を辿り、心臓の上で止まる。指先から視線を上げて顔を見ると、スレッタは泣きそうな表情をしていた。
どうしてスレッタがそんな必死な顔をするのか、つい先ほど目覚めたばかりのエランにはちっともわからない。
エランの知る彼女には友達も家族もいて、やりたいこともあったはずだ。命を脅かされることなく、企業の暗部を見ることもなく、彼女は未来への期待に目を輝かせていた。
それがどうして、こんな場所に訪れてまで自分を追い求めているのか。返答次第では有無を言わさず引きずり込まれかねない危うさと禍々しさを振り撒く一方で、スレッタはまるで許しを請うような、縋るような手つきでエランに触れる。
「ここにいれば、もう傷つかずに済みます。全てを書き換えてしまえば……戦争がなくなれば、きっとみんな喜んでくれます」
彼女が言葉を重ねるごとに、エランの中でちりちりと違和感が増していく。
「――それが君の望みなの」
スレッタは知らず知らずのうちに、息を呑んだ。あらゆる情報を取り込んで膨れ上がったスレッタの前では、エランの人格データはちっぽけで儚いデータにすぎない。だが、なぜかスレッタは、この静かな瞳の前では強がることも、嘘をつくこともできないのだった。
「……ちがい、ます。でも、私にしかできないことで、みんなが喜んでくれるなら、いいんです」
「……少なくとも、僕には無用のものだ」
エランは目を伏せた。みんなとやらが誰を指すかは知らないが、学園から去った自分はその中に含まれていない。平和などという大層なものをスレッタに頼んだ覚えもなかった。相変わらず周囲のために戦わされているらしい彼女を不憫に思う一方で、胸中に遣る瀬無い怒りが湧く。
「エランさん……、なんだか怒ってますか?」
「怒ってるよ」
人の望みのために、すぐに自分を差し出す君に、怒ってるよ。
「そうやって自分を切り捨てて、君のやりたいことは、君の人生は一体どこへ行くの」
さっきからスレッタが話しているのは、他人のことばかりだった。彼女が他人の喜びを自分の喜びとしているのなら、それもいい。だが、それにしては彼女の表情との不一致がわかりやすく気になったのだ。
――今の君は、何のために生きている?
「スレッタ・マーキュリー。君自身はどうしたい。僕を降したその手で、何を掴み取ろうとしているの」
「……わかり、ません。私にはもう、何も残っていません」
スレッタは途方に暮れた表情でこちらを見ていた。エランが喜ばないことを、思ってもみなかったという顔だった。
「…私、本当はもう、いらないんです。みんなが求めているのは『スレッタ』じゃない。私の身体を使って、もっと上手くやってくれる人がいる」
「…………」
「でもその代わり、『みんな』が私の一部になって、一緒にいてくれる……それなのに…『みんな』が増えたはずなのに、いつまで経っても、すごく寂しいんです」
だから、エランさんにも、一緒にいてもらおうと思って、とスレッタはぎこちない笑顔で言った。
彼女の言う『みんな』が何を指すのかは曖昧だが、寂しいのなら、それは孤独を埋められる存在足り得ないのだろう。自分もそこに加えられるとして、それは果たして自分のままだろうか。この一面の水と同じように、どろどろに溶けて彼女の一部になるのだろうか。それは少し困るな、とエランは思う。
「エランさんは、私に会うの、嫌でしたか…?」
「……そんなことはない。嬉しいよ」
「だったら…!」
「でも、僕は一緒には行かない。君のものにはならない」
絶対に。
きっぱりとした拒絶を受けて、今度こそ、スレッタの顔にはっきりと怯えの色がよぎった。
「どうして、ですか……?」
「…君とひとつになったら、君との約束を果たせない」
仮にスレッタとひとつになれば、彼女が一方的に暴いて知ることはできても、以前にエランが約束した「自分のことを教える」機会は永遠に喪われる。自分のことを教えるという行為は、主観のやり取りがあってこそのものだからだ。静寂たる世界を完全に創り上げた時、彼女は永遠に孤独になる。境界線を失った世界では、誰も彼女に寄り添えない。彼女こそが死であり、世界を満たす羊水そのものとなってしまうからだ。
エランはそこに揺蕩うつもりはない。何より、この期に及んで誰かの付属品や、人形の真似事をしたいとは思えなかった。
――もしも、このまま君の手を取って溶けてしまえたら。
見ようによっては甘美な誘いだろう。悲しみも苦しみも、エランの世界にはありふれたものだった。
けれどそれは、自分自身を放棄することに他ならない。
たとえ君でも、君がくれた宝物を踏みにじるのは許さない。
残りの命が瞬きの間だとしても、僕は君と出会い、闘い、君が祝ってくれた僕のままでありたい。
「エランさん……待って、待ってください」
かつて寄り添おうとしてくれたスレッタに感謝しているからこそ、エランは拒絶することを躊躇わなかった。スレッタが無理やり取り込もうとするのなら、この場で自身の情報を消し去る気でいたが、ひとまず接続を切るだけで済みそうだ。
「スレッタ・マーキュリー」
まだ諦めてないよ、と伝えるように、エランは微笑む。
「君が生まれてきてよかった」
それでも、しばしのお別れを。僕の持てるものは少ないけれど、この手に残る祝福を君に、
――愛と決別を、君に贈る。