変瞼 暦を意識していたわけではない。
本人は苦とするどころか楽しそうなばかりだが、まだ8才の幼い弟子をたまには暖かな布団で寝かせてやろうと、岩穴を寝床に修行していた山奥から昼過ぎに下りてきた。跨年の当日と気づいたのは、村の様子からだ。雪深い山中とは違い、きれいに除雪された道を忙しげに行き交う人々の顔は楽しげで、「新年快楽!」や双喜そのほかの吉祥文様の赤と金の聯、あるいは提灯や飾り物が、積もる雪に覆われた白い小さな村に彩りを添えている。
昔ながらの石壁の建物が並ぶ道筋を手を繋いで歩きながら、小黒がニット帽の下の大きな耳を小さく動かした。人間である無限の耳にも微かに聞こえる囃子の音色が、猫の小黒の耳に聞こえないはずもない。
「ねえねえねえ、師父。なんかにぎやかだね」
「うん」
きょろきょろと周囲を見回す小黒の手を左手で握ったまま、古装の懐から取り出したスマートフォンを右手で操作した。液晶に表示された日付は、12月31日。
「今日は跨年だな。ここは祝う習慣なんだろう」
広い大陸には、各々に独自の風習を持つ町や村が無数にある。春節も当然祝うだろうが、あるいは長い冬を越えるための一助として、新暦の年越しを賑やかに祝う習慣が定着したのかもしれない。
「コネンってなに?」
「お前と去年お祝いしただろ。今年と来年の境目の日だ、新暦の」
「師父とチューした日だ! 今年もするの?」
「そうだな」
笑って、聡い弟子の頭を撫でた。
「宿を探そうか。泊まれる場所はあるかな」
再び小黒の手を引いて歩き出し、しかし白い息を吐きながら左右を眺め回していた子供はすぐに足を止めた。
「ねえ師父、これなに?」
「ん?」
小黒が指差す先に、背景に敷かれた茉莉花紅と金のグラデーションも艶やかな、一枚のポスター。生活雑貨を商う個人商店の軒に、雨ざらしで掲示されている。字は読めずとも、芝居の扮装やアクロバティックなポーズの人物が配されたデザインに興味を惹かれたのだろう。請われるまま、読んでやる。
「今日の夜、7時から道観で演し物があるみたいだな」
「ふーん」
「観に行くか」
「えっ!? ぼくは、別に」
もごもごと口の中で呟いて、ぷいと顔を背ける。無限と共に人間(じんかん)での旅を始めて、1年はとうに過ぎ去った。それでも、小黒は今も「争うつもりはないけど人間は好きじゃない」のスタンスは崩さない。だが賢く好奇心に溢れた弟子のお望みは、無限には手に取るようだ。もう一度ニット帽の上から弟子の頭を撫で、手を繋いだままで歩き出す。
「今のは訊いたんじゃない。師父が観に行きたいんだ」
「じゃあしょうがないな、付き合ったげる。ぼっちじゃかわいそうだもんね」
「そうか、ありがとう」
「どういたしまして」
澄ました横顔に笑い出しそうだが、ご機嫌を損ねないようにと堪えた。
『なんだろうな』
感情の些細な揺らぎとは、長く無縁に過ごしてきた。この小さな子供と出会ってから、その一挙手一投足に、あるいは無邪気でありあるいは賢しげな言葉に、心と表情がごく自然に動くのを感じる。微かな途惑いもあるが、不快ではない。自身の眠っていた内面の動きはどこか新鮮で、浮き立つ心地さえ感じる。
「師父、たのしい?」
見上げてくる小黒に訊かれて、己の唇がごく緩やかな弧を描いていると知った。
「うん、楽しい」
「えへへ」
無限の返答を受けて、自らの喜びのように笑うのは何故なのだろう。
自分たちの間に、こうして日々に紡がれていく、なにか。
手を繋ぐ時、小黒はどんなに寒くとも手袋を外す。
子供らしい高い体温は、無限に快い。
宿などあるのかと思った小さな村は、先刻まで修行していた山や、村を挟んで反対側にある湖、近くに湧いている温泉への観光客で夏は大いに賑わうらしい。苦もなく、小綺麗なビジネスホテルが見つかった。
「ここは跨年を祝うんです。周りの村からも人が来て、夕方からもっと賑やかになりますよ」
愛想の良いフロントマンが、ロビーに貼られた件のポスターを指差して教えてくれた。すでに、無限たちが村へ入った時よりも道行く人の数が目に見えて増えている。
「師父! ご飯! お祭り!」
『ぼくは、別に』と嘯いていた割りには、部屋に落ち着いた途端に長い衣の裾を引かれた。幼さに比すれば長すぎる時間を独りで彷徨っていた子供の自尊心を、揶揄って傷付ける真似はしない。
「わかった。夜は冷えるからもっと着て」
「もういっぱい着てる」
「駄目だ」
床に出入り口を作り、渋る小黒を連れて霊域へ入った。
タートルネックニットと毛皮の縁取りのある古装風の綿入りショートジャケットに、厚手のタイツに綿入りのボトムを重ねて、さらに足首が冷えないようにショートブーツの中へ裾を入れ込んである。その上に、毛皮の裏打ちのある古装風のコートを着せた。高い襟を咽喉元の紐釦で留め、先の広がっている袖は小黒の手をすっぽりと覆い隠してまだ余る。仕上げにマフラーを巻いた。
「あっつい」
「霊域(この)中だからな。外は冷える」
「う~」
ご不満そうな小黒を抱き上げて、再びホテルの部屋へと戻った。充分にエアコンの効いた室内もまた、上着もいらないほどに暖かい。
「あっついから早く行こ」
せがむ小黒が先になって、オートロックのドアを出る。3階から1階まで、待ちきれないように階段を駆け下りていく後ろをゆったりと付いていった。
「行ってらっしゃいませ」
フロントマンに見送られて、狭いロビーから外へ出る。
チェックインの際はまだ充分に明るかったが、夕暮れを目にする間もなく夜の帳が落ちてきている。村の空に巡らされた赤い提灯に灯りが入り、祭の気分が盛り上がっていた。
「雪」
小黒が指した空から、儚げな六弁の氷の花が落ちてくる。
「寒くないか?」
「さむいわけないだろ」
もこもこと着膨れた小黒が、動きにくそうに両腕を上下に振った。周囲を親に手を引かれた子供たちが歩いて行くが、みな同じように丸く着膨れている。
「ぼくは妖精だから平気なのに」
「私がお前に着てほしいんだよ」
修行の時には動いてすぐに暑くもなれば、それもまた修行の一環として薄着だが、それ以外の場面でわざわざ寒い服装でいる必要はない。
「冷えは身体によくないからな」
「もうそれ百回きいた」
小黒は、動きを制限されるようでお気に召さないらしい。
「先に夕飯にするか。なにが食べたい?」
機嫌の直し方なら心得ている。そう問うた途端に、小黒の翠緑の目がなお明るく耀きだした。
小黒が「一番いいにおいがする」と選んだ地元の住人たちで賑わう餐館で腹を満たし、再び通りへ出る。
フロントマンが言っていた通り、小さな村の目抜き通りは両側に屋台が並んで、過年の正月かと思うほどの人出だ。
「ちゃんとお寺行ける? 迷子にならないでね」
はぐれないように肩車した小黒に頭の上から声をかけられたが、人の流れに沿って歩けば道を間違いようもない。なにより、賑やかなお囃子が雄弁に道観の位置を示してくれる。
楽しげな人の波に揉まれながら境内へ入り、仮設としては立派に設えられた舞台の方角へと足を進めた。
「もう芝居は始まってるか?」
肩の上から身を乗り出し、目を凝らす小黒に尋ねる。
「んー、人はいるけど、あれってお芝居?」
「どれ」
小柄ではないが、決して長身でもない。この人混みならば分かるまいと、5cmほど浮き上がって人の頭の上から舞台をうかがう。
舞台の中央に、小柄な人影。
全面に刺繍(ぬいと)りの施された黄色の衣装に同色の帽子、煌びやかな刺繍りも鮮やかな、黄色い裏地の紫のマント。頭上で典雅に揺れる、冠の左右の頭頂に取り付けられた二本の長い雉の尾羽。体つきを見れば女性だが、その顔はマントと同じ鮮やかな紫の大扇に隠されている。一見すれば芝居の衣装での演し物は、しかし芝居ではない。
「変瞼か。お前は見たことがなかったな」
「へんめん?」
「見ててごらん」
「ん~?」
演者の足下に設置されたスピーカーから、男声の歌唱による定番の曲が軽快に流れ始めた。変瞼師がゆっくりと扇を下ろし、緑をベースに白や赤や黄色の派手な隈取りが施された顔が現れる。大仰な身振りで観客にアピールし、ステージを大きく使いながらキレのいい動きで舞い始めた。実際には、舞踏よりも芝居の身振りに近い。扇とマントを巧みに使いながら回転し、見得を切ってぴたりと片脚で止まる。顔を隠した扇の陰から目だけを覗かせ、くるりと一回転して前を向くと、緑に塗られていた顔は赤塗りの隈取りに変わっていた。
「え!?」
頭の上で、小黒が身を乗り出す。変瞼師がくるくると舞いながら舞台の中央へ出て、真横へ向いた顔を正面へ戻した一瞬に黒塗りの妖魔の面に変わる。大きく蹴り上げた足が地へ着く前に、茶色く塗られた猿の面に変じる。顔を隠した扇の陰で面が変わる振りも多いが、振り付けは単なる振り付けであって、実際には扇で隠す必要もない早業だ。仕掛けを知っている無限でも、変瞼の瞬間はとても目で追えない。
「ふわあ~~~~~~」
頭上の、胆を抜かれたような声。
変瞼師が拍手を求める仕草で観客を煽ると、周囲の観客と共に拍手した小黒が、途端に目が覚めた顔つきになって無限を揺すった。
「師父! 師父、ねえ、あの人妖精!?」
「ん」
「あれって変化術でしょ!?」
「ああ」
確かに、小黒がそう思うのも無理はない。
「いや、人間だ」
「人間にあんなことできるの!?」
「できるさ。誰でもじゃないが」
「師父もできる?」
「私はできないな」
「ふう~ん」
それきりおとなしくなって、熱心に舞台を見ている。変瞼も見事だが、ごてごてとした衣装を着込んで頭上よりも高く上がる脚、片脚立ちでぴたりとポーズを決める、その柔軟さとバランス感覚と体幹の強さ。
耳慣れた曲が終盤に近づき、舞台の終わりもまた近いと、誰しも知っている。その最後でおおっ、と観客から一斉に嘆声が上がったのは、赤・黒・白に塗り分けられた面の変瞼師が後方へトンボを切ったからだ。続けて、側転。さらに、前方へトンボを切る。そのたびに、くるくると面が変化していく。こんな振り付けは、長く生きてきて見たこともない。驚異的な身体能力に、我知らず無限の口からさえ短い感嘆が漏れた。
踵を揃えて軽やかに着地し、両手に長い羽根をつまんですらりとポーズを決めた変瞼師は、素顔。
愛らしい、若い女性だ。
息一つ、乱してはいない。
わっと、場内が沸き上がる。
次に始まる芝居が霞むのではないかと思うほどの喝采に混じって、小黒も夢中で手を打っている。同じく、無限も心からの称讃を送った。
「ねえ師父、すごいね! 面白かった!」
「ああ、凄かった。今までたくさん見てきたが、ずいぶん上手だ」
「あはは」
無邪気な笑い声に、無限の口角がつられて上がる。たまには布団で寝かせようと下りてきたばかりの、偶然麓に在ったばかりの町。楽しい経験をさせてやれたなら、これもこの町との縁だろう。
「ふわ~ぁ、あ」
続けての芝居も見せてやるつもりでいたが、頭上から大きな欠伸が聞こえてきた。昼まではいつも通りに深い雪の中で修練をして、町へ下りてきてからは昼寝もせずに日頃と違う刺激の中にいる。神経は冴えているかもしれないが、身体は疲れているだろう。
「帰るか?」
「いい、へいき。おしばいも、みる。あとさ、新年快楽(おめでと)って言ってしふとチューする……」
戻ってくる声がすでに半分眠っている。
「わかった」
眠ったなら、連れて帰ればいい。それまでは、小さな弟子の気の済むように。
眠り込んだ小黒を肩に乗せたままでホテルへの短い帰路についたのは、わずかに10分後だった。
新年早々、ベッドにむくりと起き上がった弟子の顔が不機嫌そうにむくれている。
「新年快楽。どうした?」
習慣通りに早く起きて昨夜の道観まで散歩し、道すがらに朝餐を食べる店の目星をつけて戻ってきた。フロントで借りてきた新聞を広げ、ロビーで無料で提供されているコーヒーを啜っていたところだ。
「……なんで起こしてくんなかったの」
「ん?」
「新年快楽って、師父とチューするって言った!」
「ああ」
帰ってきてから一度起きてパジャマに着替えているが、それも覚えていないようだ。声を出して笑いそうになるが、辛うじて堪える。
「今だっていいだろ。おいで」
「ちがう、3(サン)、2(アル)、1(イー)ってかぞえて、師父とチューしたかったの。前みたいに」
不満を述べながらも、素直にベッドから下りてくる。
「じゃあ今師父に挨拶して。小黒」
「んー」
膝に抱き上げた小黒の尻尾の先から黑咻がふたり分離して、無限の肩と小黒の頭の上に乗った。修行の日々を経てもふわふわしたままの小さな掌に、頬を挟まれる。早くも不機嫌は影を潜めて、満面の笑顔だ。
「新年快楽、師父」
「新年快楽、小黒」
ちゅ、と、音を立てて唇同士で触れ合うキス。無限にとっては不快さなど少しもなく、微笑ましくも可愛いと思うばかりだが、いずれこの行為の意味に気づく小黒はその時にどう思うのだろうか。
ふと頬に、柔らかな感触。
「あっ、黑咻」
真似たつもりだろうか。肩の黑咻が、無限の頬にキス──体当たりと見えなくもないが──してくれたらしい。
「ふ」
思わず笑ったところへ、小黒の頭の上の黑咻が跳ね下りた。
「ハイン」
跳ね上がりながら優しく囀り、無限の唇にふんわり触れる。
「もうー! ぼくの師父なのに!」
小黒が、両手で黑咻たちを回収した。
「お前の分身だろ」
「でも黑咻は黑咻なの!」
「ふふ」
「ほら、もどって」
尻尾を振り上げて、黑咻たちを収めてしまう。
「支度して。朝食を食べに行こう」
「うん!」
顔を洗いに、小黒がバスルームへ入っていく。
弟子の着替えを出すために、床へ霊域の入り口を作った。
昨夜よりは幾分落ち着いて見えるものの、新年を迎えた村の中は華やかな賑わいに満ちている。一晩で山へ戻るつもりだったが、温泉もあるのなら数日滞在しても悪くないかもしれない。
夜更けよりは弛んでいるとはいえ湖と山に挟まれた地の寒さは厳しく、朝餐の店でのたっぷりの朝食は身体を優しく温めてくれた。
「寒くないか?」
「へーき!」
手を繋いでホテルへ戻る道の途中で、ふと小黒が足を止めた。
「師父、あの人」
道の反対側をこちらへ向かって歩いてくる、ニットキャップに黒髪ショートカットの若い女性を指差す。
「ああ」
私服姿だが、昨晩の変瞼師だ。繋いでいた手をほどいて、小黒が女性へ向かって駆けだした。ゆったりと、無限もその後ろへ従う。
「你好!」
小黒に呼びかけられて、女性が足を止めた。仕事柄慣れているのか、不審がる様子も見せずににこりと笑い、小黒と目の高さが合うように腰を屈める。昨晩の衣装姿とはうって変わったダウンとデニムにスノーブーツの、こうしていればごく普通の若い女性だ。
「你好。どうしたの?」
「あのね、ぼく、夜に見た! お姉さんの顔がどんどん変わってすごかった!」
「見てくれたの、ありがと。ぼくに褒めてもらえて嬉しいな」
「師父もすごいなって! 上手だって言ってたよ」
「師父?」
小首を傾げて、女性が顔を上げた。小黒に追いついた無限を見上げて、白い頬が赤らむ。
「あ……えっと、ぼくの、お父さん?」
「ちがうよ、師父は」
説明しようとする小黒を、後ろから抱き上げた。
「突然すみません、この子の父です。この子が、夕べあなたの素晴らしい変瞼に夢中になっていて。見事でした」
「あっ、いえ」
あれだけの芸を持っていれば褒め言葉にも慣れていようものだが、女性の頬がなおも赤みを増した。
「あの、ぼくが気に入ってくれて嬉しいな。えっと」
きょろきょろと左右を見回し、「ちょっと」っと、石壁の商店の壁際へ連れていかれた。
「褒めてくれたから、お礼」
指を揃えた片手を横にして、女性が自身の顔を隠す。
さっと手を下げた一瞬で、その顔が昨夜見た緑の面に変わっていた。
「ふわあ」
無限に抱かれた小黒が、感嘆の声を上げる。
顔の前を横切る形で、女性がさっと手を上げる。
現れたのは、緑の顎髭をたくわえた金色の面。
また手を下げ、赤塗りの面が現れる。
繰り返して、5回ほどだろうか。
女性の手の動きにつれて次々に面が入れ替わり、目の前で演じられる変瞼に小黒の目が輝いた。
「お粗末さま」
最後は素顔に戻って、目の大きな愛らしい顔がにっこりと微笑んだ。
「すごい!」
小黒は無邪気に手を叩いているが、無限はそうではない。
「君は妖精か?」
「えっ?」
「えっ」
同じ短い言葉が、違うニュアンスで小黒と女性の口から発せられた。女性の顔には、警戒の色。
昨夜の境内で見た変瞼は、確かに布の面の仕掛けを用いていた。しかし、間近で見た今の変瞼は布の面ではない。目の前の女性の顔そのものが変化していた。普通の人間ならば一瞬の変化に目が追いつかず、仮に不審に思ったとしてもまさか顔そのものが変化しているなどと考えもしないだろう。だが、見ていたのは無限だ。
「……誰、あなたたち」
「驚かせたな、すまない。この子は妖精だ」
問うように見上げてきた小黒に、軽く頷いてみせる。それで、意図は充分に伝わった。
「ぼく、小黒。猫の妖精だよ。これ、耳。この人はぼくの師父」
ニット帽の中で、猫の耳の先を小さく動かした。
「私は妖精じゃないが、君たちの世界で生きてる。ただの執行人だ。無限という」
「は……無限大人!?」
女性が薄く口を開け、大きく息を呑んだ。一歩下がって踵を揃え、拱手して頭を下げる。
「お顔を存じ上げず、ご無礼を。私(わたくし)は徐粲と申します。人間(じんかん)に身を置いて久しく、以前友が貴方に助けられ、今は館のお世話になっております」
「免礼。ただの執行人だよ。変化術に長けているのに変瞼師なのか。面白いな」
穏やかな無限の語りかけに徐粲から緊張が抜け、顔を上げた。
「はい、人が工夫を凝らす芸に魅せられてしまって。自分でも時々、可笑しくなってしまうんですけど」
「もう長く?」
「100年ほど。この国の変瞼師の誰よりも長く芸を磨いております」
悪戯っぽく、笑った。
「芸だけじゃなくて、みんなが楽しんで喜んでいる顔を見るのが好きなんです。この国は広いし、こうやって独りで流れているから、長く人間(じんかん)にいても少しも怪しまれません」
「好(そうか)。好い生き方だな」
「お姉さん、妖精だったんだ。ほら、ぼくが言った通りじゃん」
「お前は変瞼を知らなかっただけだろ」
「師父、ドヤ顔で『人間だ』って言ってた」
「ドヤ顔はしてない」
二人のやり取りに、徐粲が笑う。
「無限大人、友人から聞いていた通りの方ですね。とてもお優しいと言ってました」
「私が?」
「ダメ!!」
どうしたものか、突然小黒が無限にしがみついた。
「ぼくの師父だからね!」
「小黒、こら」
「あはは、ごめんね。君の師父を褒めただけだよ。では、大人。お目にかかれてよかった」
「息災で」
「ありがとうございます。小黒も。またどこかでね」
「うん、バイバイ」
「バイバイ」
手を振り、軽やかな足取りで新年の人出の中へ消えていく。
「私たちも行くか」
「うん」
小黒を下ろして、手を繋ぐ。
「あのお姉さん、人間が好きなんだね」
「そうだな。お前は?」
「ぼくが好きな人間は師父だけだってば」
ぷいと横を向くが、こうして人間(じんかん)で過ごすことも、数多の人間(ひと)や妖精と出会うことも、小黒を豊かに育ててくれるだろう。
「そうか。さて、なにをしようか。温泉でも行くか?」
「修行は?」
「正月だし、休みだ」
「ぼく、修行したい」
「ん?」
視線を下へ向けると、思いがけないほど真剣な眼差しが無限へ向けられていた。
「早く執行人になりたいの。そんで師父より強くなる」
「なるほど」
笑って、もう一度弟子を抱き上げる。
「ご要望なら修練もいいが、先は長いからな。息抜きも必要だ」
「……休むのも修行ってこと?」
「そんなとこだ。やっぱりお前は賢い」
「ふーん」
どこか、照れくさそうな声。
「じゃあ師父のお休みに付き合ってあげてもいい」
「うん、ありがとう」
「どういたしまして」
胸を張って威張った後に、なにをか思いついた顔つきになった。
「ねえ師父、見て見て」
「ん?」
「ぼくもヘンメン」
「は」
小黒が、両手を使って自分の顔を変形させる。目尻を引っぱり、鼻の頭を押し上げ、口角を引っぱり、頬を左右から潰し、愛らしい顔を捏ね回しての百面相だ。さすがに、笑いが堪えきれない。
「ふ、ははっ。それじゃ変瞼じゃなくて変顔だ」
「あはは、師父笑った」
自分も満面の笑顔で、無限の首へしがみついてきた。
「本当に変な顔になるぞ」
「へへ。面白かった?」
「うん、面白かった」
「あは、あのお姉さんの気持ちわかった!」
「みんなが楽しんで喜んでいる顔を見るのが好き」と言っていた、そのことだろうか。自分に引き寄せて、理解しようと試みる。もちろん、無限を楽しませたい気持ちにも偽りはあるまい。
「本当にお前は、良い弟子だ」
「なに?」
呟いた言葉は聞こえなかったようだが、それでいい。
「いや。今年もよろしくな、小黒」
「うん。今年もよろしくね、師父」
凧を抱えた子供たちが、歓声をあげて二人の横を駆け抜けていった。
了.