山のおうち 険しい深山の道なき道を、飛ぶように行く。
冬枯れの木立にしがみつくように残る葉が寒々しく、吐く息は視界を奪うほどに白い。
寒さが足の裏から身体の芯に凍み入ってくる冬の山奥で、インナーにタートルネックのニットを着てはいるが、中綿すら入っていない裾と袖の長い綿の交領衫に簡素な綿の帯を結び、足下もまた綿の褲子に半長靴、荷物すら持たない軽装だ。その上にも、膝まで届く長い藍い髪に白皙の美貌。登山者に行き会おうものなら、相手は無限を人外と見て逃げ出すだろう。
「ねー、師父。こんな山の中だし飛んじゃえば」
胸元からひょっこりと顔を出した黒い仔猫が、そう言って顔を顰める。
「駄目だ。規則だからな。それにもうすぐ着く」
「ほんとにあるの? こんなとこに」
「ある。間違いない」
「すぐ着くって言ったじゃん」
「久しぶりなんだ。少し距離を見誤った」
「少し? 引き返せば良かったのに。風邪ひくよ」
「お前が居るから寒くないよ」
被毛に付いている雪虫をそっと指先で払い、仔猫の小さな頭を撫でる。
「……もー、しょうがないな。僕変化するから、乗れば?」
「ありがとう。でも登山者に会ったら騒ぎになる。寒いからお前は潜っておいで」
「こんなとこ登ってくる物好きなんていないんじゃない」
どこか照れたような声音で返し、小黒が再び無限の懐へ潜りこんだ。登仙への過程で暑さ寒さの感覚はコントロールできるようになっているが、懐の温もりは悪くない。衣服の上から抱えるように手を添えて、かつての道のかすかな痕跡を辿っていく。ついに雪が舞い始めた曇天の下に荒れ果てた家が見えたのは、なお30分も経ってからだ。
何故こんな場所にと思う山深くに数軒の崩れた基礎が点在し、どっしりとした伝統的な家屋の、屋根も壁も備えた廃屋がただ一軒佇んでいる。窓や扉の硝子も割れてこそいないが、透明なはずが白く曇って、窓枠には埃が厚く積もる。人の気配などは一切感じられず、手入れされないまま長年の風雪に耐えてきたのであれば、倒壊も朽ちもせずに建っているのが不思議なほどだ。
「着いた?」
「うん」
再び懐から顔を出した弟子に頷き、鍵のかかっていない扉を開ける。乾いた埃と黴の臭いが鼻腔に流れこみ、嗅覚の鋭敏な小黒が盛大にくしゃみをした。そのまま無限の懐を飛び出し、床に下りながら人身の少年に変化する。軽装の無限に対して、分厚く綿の入った毛皮の縁取りの外套でころころと丸く着膨れた姿だ。
「ふーん。思ってたよりマシ」
「そうか?」
「だって壁も屋根も窓もあるよ」
「違いない」
笑って、ふわふわと白い綿毛の髪に手を置いた。小黒の言った通りに壁は破れてこそいないが、ところどころ漆喰が剥げ落ちて、防寒と雪の重みへの対策だろう分厚い石積みが露出している。それでも、思っていたよりは荒れていない。
「ねねね、師父。僕、ここ好きかも」
首を巡らして周囲を見回す小黒に裾を引かれて、振り向いた。
「好き?」
「うん。ここ、僕のおうちだった森と似てる。あ、えっと、違くて、似てないんだけど」
「うん」
しゃがんで目の高さを合わせ、子どもが自らの言葉で自らの思いを綴れるまで、急かしはせずに黙って待つ。
「えーとね、景色はちょっと似てるとこもあるけどそんなに似てなくて、住んでるみんなも僕の森のみんなと似てたり、似てないみんなも居て、だから見た目とかが似てるんじゃなくて」
登ってくる途中で無限の懐から眺めた景色を思い出す顔で、言葉を継ぐ。
「でもなんか……なつかしい感じ……? あったかい感じ、するかも」
「そうか」
目を細めて、弟子に微笑みかけた。自身では感じられないこの場に残る想いを、小黒を通じて知る。佳きことであり、好きことであると思う。
「それはこの家と森を大好きだと思って、大切に住んできた人たちが居たからかも知れないな。お前がお前の森にそうだったように」
「住んでた人? 師父にお願いしてた人たち?」
「うん。この森は何百年も前に人が移り住んできたんだ。生まれた土地を戦に追われた人たち」
今はもう、はるかに遠い記憶を手繰る。戦火に追われ、しかし肥沃な平地にはすでに街や村が出来上がり、流れ流れて故地から遠く離れたこの山中に安住の地を見出した人々との、懐かしい記憶。
「獣や魚や森の物を獲ったり畑を作ったり、毛皮やここで焼いた炭を麓に売りに行って暮らしていた」
「ふーん?」
「森に感謝して謙虚に生きる人たちだった。彼らの旅路の終わりに道連れになって、ここを拓くのを手伝ったんだ。私は彼らが好きだったから、代が変わっても時々ここに来てたよ。お前の兄弟子も修行に連れてきた」
「……ふーん」
「何十年に一度でも代が変わっても、遊びに来ればいつも歓迎してくれたな。私も出来る範囲で困りごとを助けたりもしてた」
「でももう誰も居ないよ」
「うん。この家は、最後までここに残った人たちが暮らした家なんだ。時代が変わって誰も炭や毛皮を買わなくなって、この山奥に居てもただ不便でしかなくなった。訪れるたびに村人の数は少なくなっていって、それでもこの森が好きで離れられなかった人たちの家だ」
最後の住民だった老夫婦に偶然出会ったのは、山の麓からさらに400kmも西へ離れた街だった。村を拓いた人々の父祖の地であり、まだ親族も居るという。山を下りた彼らは、記憶も距離も遠いその地へと帰っていた。
『無限大人(さま)』
最後に出会った時は共に十代半ばだった2人が西の街中で偶然すれ違った無限に気づき、拝まんばかりにして呼び止めた。ささやかで美しい村が地上から消えてしまったのだと、彼らに出会って知った。
『様子を見に行きたくても、もう私たちにあの山は登れません。お近くにお寄りになることがあれば、どうかあの家を見てやってはいただけないでしょうか』
地に膝を突くように頼みこまれて、その足でここまでやってきた。交通の便の悪さもあって、転送門を使ってさえ丸1日がかりだ。
「あの人たち、泣きそうだったよね。そんなにここが好きなのに、『ふべん』なだけでおうちを捨てちゃったんだ。僕ならそんなことしない」
「良くも悪くも、現代(いま)は生まれた場所だけで生きてはいけないからな。自分たちは良くても、子や孫に不自由のないようにしてやりたかったのかもしれない。『不便』も程度によっては命にだって関わる。人間(かれら)は、お前や私とは違うよ」
出会ってから2年、2人で大陸を旅してきた。小黒の人間(にんげん)に対する理解は進んでいるが、それでも人の間に腰を据えて暮らすのとは違う。
「あ……あのさ、でも」
白い目の縁にふわりと血の色が匂い、厚い外套の裾をもじもじと指先で弄りながら、小黒が口を開く。
「僕、ここ、好きだよ。あったかい、やさしい感じするし。だから、なんで捨てちゃったのかなって、思っただけ」
「大丈夫、わかってる。お前を咎めてるんじゃない」
もう一度小黒の大きな耳と耳の間に手を置いて、立ち上がった。
「動画を送ってやろうか。お前の方が得意だろう? 師父の代わりに撮ってくれないか」
「もー、しょうがないなあ。いいよ!」
無限の差し出したスマートフォンを受け取り、扉へ走っていく。
「ねねね、ドア入ってくとこから撮ろ。着きましたーって」
「うん」
動画サイトで覚えたものか、小黒の提案に笑いながらも乗る。
2人で外へ出て、小黒の視点ではカメラが低すぎるだろうと抱き上げた。
「じゃあ撮るね。1(イー)、2(アル)、3(サン)」
録画ボタンを押すのに合わせて、歩き出す。
「おうちに着きました。玄関のドアです。中に入ります」
楽しげな小黒のナレーションに合わせて、扉を開けて室内に入る。
「えっとー、壁。ちょっとはがれてるけど、穴空いてないよ」
ぐるりと室内を撮影して、天井を向いた。
「あと、天井。屋根も穴空いてない。あそこ、蜘蛛の巣」
わざわざ、梁にかけられた蜘蛛の巣をズームアップする。大量の埃が、ふわりふわりと室内を舞っている。
「んーと、床。ホコリがいっぱい。死んでる虫いる。あと、動物のうんち? どっかから入ってきたのかも。テーブルと椅子もホコリいっぱい。でもまだ使えそうかな?」
最後の一言で無限を振り仰いだ。
「どうだろうな。後で調べてみよう」
「うん!」
応時は大家族で住んでいたのだろう、居間の他に4つの部屋と納戸を持つ平屋の中を10分ほどかけて撮影し、最後に一周外観を撮ってから小黒を下ろした。
屋根の瓦も落ちてこそいないが、ところどころ傾いた隙間から生えた雑草が枯れている。
「ここを出たのは10年と少し前と言っていたな。思ったよりも綺麗に残っているが、人の住まない家はいずれ朽ちる」
「ふーん」
2人で軒先にしゃがんで動画を確認しながら、小黒に聞かせるともなく呟く。
「かわいそうだね」
「そうだな。もうここに人が戻ってくることも」
言いさす途中で、ふと思いつく。顔を上げて、小黒の翠の目を見た。
「私たちが住むか?」
「え?」
「私とお前で、住もうか」
「えっ」
「住みたくない?」
「うっ、ううん!」
小黒が慌てて首を振る。無限からわずかに視線を逸らして、外套と同じく綿の入った褲子の膝を短い指で握りしめる。ゆらゆらと、惑う気持ちの表れのように長い尻尾が左右に揺れる。
「でも、僕、師父がいれば、いいし」
「そうだな、私も。でもお前と2人で『ただいま』って帰ってくる場所があるのは悪くない。2人で選んだ好きな物を置いて、毎日同じテーブルで食事をして、同じベッドで眠って、同じ窓から変わっていく景色を見る」
「ただいまって言う、おうち」
「ここが好き」だと、この家へ来てから何回口にしただろうか。闊達に奔放なようで、小黒が時折見せるしおらしさ。本当に欲しい物を差し出されると、不意に尻込みする。大切なものを失う、その淋しさと辛さを知っているためだろうか。
「修行だ。麓の町まで資材の買い出しに行って、ここまで運び上げて、2人で家を直す。術は使わない。どうだ?」
「しゅぎょう……」
「今から頑張れば、クリスマスに間に合うぞ」
「クリスマス」
異国の宗教の祭と、その本来の意味は理解しておらず、キレイなイルミネーションと美味しいご馳走とプレゼントをもらえる楽しい日と認識しているようだが、小黒にとって特別な意味合いを持つ行事の一つには違いない。
「イルミネーションもいいけど、ツリーやオーナメントで家の中を飾り付けて、ご馳走は町で買ってきて2人で――黑咻たちと一緒にパーティーも楽しいかもな」
「ふわ」
子供らしい丸い頬の赤みが増して、口が小さく開いた。
「でも、かってに住んでいいの?」
「はは、もっともだ。お前は本当に賢いな。動画を送って、訊いてみよう」
「……うん!」
「うん。じゃあちょっと待って」
裾を払って立ち上がり、動画送るために開いたメッセージで、交換したIDをリストから探す。
『今は仙人さまもスマホをお使いになるんですねえ』
老夫婦の感心した口ぶりを思い出して、唇を綻ばせた。
「なんで笑ってるの? おうち、住んでもいいって?」
足下からの声に、視線を落とす。頭の上の黑咻と共に、小黒が真剣な表情で無限を見上げている。その眼差しが、「おうち」への想いを語って雄弁だ。
「今訊くよ。待って」
笑いかけ、弟子の肩を抱き寄せた。
了.