非時香果(ときじくのかくのこのみ)/(1)【黑限】 規則正しく刻む命の音の中で、優しく暖かい闇に揺蕩う。交歓の疲れはいつも、気怠くも快い。
『あ~、朝……』
絹と紗の帳で外界から切り離された秘密の空間に陽光は射し込まないが、小黒の体内の時計が時間を教えてくれる。現在時刻は6:00少し前で間違いない。
『早飯(あさごはん)……頼まなきゃ……』
傍らに眠る、情人(こいびと)にして果てなき敬愛を捧げる師のために、可能ならば自らの手で料理したいところだが、会館に滞在中とあってはそうもいかない。
闇(くらがり)の中で手探りして、巨大な架子牀(天蓋付きベッド)のどこかに放ったままのスマートフォンを探す。
『あった』
ようやく指先に触れた硬く薄い物体を引き寄せて、液晶画面に触れた。呼び出す先は、厨房だ。
「喂」
ワンコールで、若い男性の声が出る。
「早(おはよ)、小黒だけど。早飯(あさごはん)よろしく」
「您早(おはようございます)、小黒大人(さま)。承知しました。何時にお持ちしますか?」
「なる早だとどのくらい?」
「支度は調っておりますので、15分もあれば」
健啖の無限と小黒に、厨房の面々もとうに慣れっこだ。
「そっか、んー……じゃあ30分後に持ってきてくれるかな」
「承知しました」
「よろしく」
通話を切ってスマートフォンを敷布に放りだし、隣を手探りした。肌掛け越しに触れた体温を、そのまま抱き寄せる。秋半ばの爽やかな朝に、温もりが心地良い。
「師父、早(おはよ)。起きて」
頭頂の丸みに懐き、髪の間に唇を落とした。
「早飯、30分で来るからさ。それまでに起き抜けの一発」
言いさして、違和感に言葉を切る。
『ん?』
羽毛と絹の肌掛けの下に潜り込んでいる姿は見えないが、気配は無限に間違いない。しかし、抱えた小黒の長い腕がずいぶんと余る。
「んん?」
疑問を音にして、肌掛けに手をかけた。ごく慎重に、端からゆっくりとめくり上げていく。
現れる、絹より艶やかな藍(あお)い髪と頭頂の丸み。
『ん?』
違和感に、眉間の皺を一段深くする。
さらに現れる、蛋殻磁もかくやの薄く白く精巧な耳。
「っ」
口を衝きそうになった声を呑んで、なお掌で強く自らの唇を塞ぐ。肌掛けを肩までめくって、違和感の原因ははっきりとした。
『うわうわうわうわうわうわうわうわ、なにこれなにこれなにこれなにこれなにこれっ』
尻尾が垂直に立ち上がって小刻みに震えだし、眠る情人を瞬きも惜しい気分で凝視する。
『うわ~~~~~~~~~~~~~』
血が上って顔は熱く、肌掛けの下から現れた無限の姿に地団駄を踏みたい気分だ。
小黒の師であり情人でもある無限は齢456の仙にして、その容姿(すがたかたち)は二十代の美しい青年だ。
しかし、今は違う。
『えっ、えっ、これ何才くらいっ!? 10才もいってないくらいじゃね!?』
上質な絹の長衫に埋もれている、小さく華奢な身体。艶やかな絹糸の髪は、せいぜい顎の先ほどの長さだ。丸い頬に小造りな鼻、小さな顎、今は薄い瞼に閉ざされている目ばかりが大きさを予感させる。
つまり、幼い子供の姿をした無限。
『うわっ、可愛いっ、可愛いっっっっっ!!! 師父って変化できたんだ!?』
出会って19年の年月をほぼ離れず過ごしてきたが、無限の変化を見たことはなく、元は人間(ひと)の身である仙人が変化できると聞いたこともない。だが永く首席執行人として立ち、妖精界のバワーバランスの一角を担うほどの霊力の持ち主である無限だ。変化が出来ても少しも不思議ではない。
『えっ、え、でもなんでちっちゃくなったんだろ』
霊力や体力を著しく消耗した状況において、幼体を取ってそれ以上の疲弊を防ぐ方法があるのは知っている。
『……夕べ激しすぎたかな』
昨夜の交歓の記憶にだらしなく伸びた鼻の下は、無自覚だ。
『あっ』
猫の目とはいえ、この稀な姿を闇で見るのはもったいない。もう一度肌掛けで頭の先まで覆い隠し、無限を起こさないように気遣いながら、天蓋の帳へ手を掛ける。まずは足元の側から、そして頭側の帳を引き開けて、紫檀の柱へ絹糸の紐で括りつけた。
四肢を突いたしなやかな猫の身ごなしで無限の元まで戻り、肌掛けの端へ手を掛ける。
『さっきの、夢だったりして』
静かにめくっていく肌掛けの影に再度現れる、絹糸より艶やかな藍(あお)い髪。小さく丸い頭、蛋殻磁の耳、どこよりも太陽に近い場所で注ぐ朝の黄金(きん)の陽射しに白い肌膚が透けて、小造りな鼻の先に、密に繊細な睫毛に、ふんわりと丸い頬に光の欠片が滑る。ふっくらと無防備な唇は、朝露を乗せた葩(はなびら)の風情だ。
「っ………………!!!!!!!!!」
真っ直ぐと天に向かって立ち上がったままの尻尾が、言葉にならない感嘆と共に再び小刻みに震えだした。
『ヤバいヤバいヤバい!!!!!!!!!! 可愛いすぎだろってっっっっっっっっっっっっ』
瞼を閉ざしたままでも確かに無限の俤を感じる、絶世の美少年――と言いたいところだが、稚さ特有の華奢な線は、甘い顔立ちとあいまって少女とも見える危うさだ。
「ス、スマホ」
声に出し、無限から目を逸らさずに敷布の上を手探りする。指先に触れた薄い長方形の精密機器を引き寄せ、視界の端で操作する。起きる気配は見えないが、まずは角度を変えた全身のショットを数カット、そして音を気にしながら、同じく顔を接写する。耳につく連写のシャッター音にも、無限の穏やかな寝息は少しも乱れない。
『やっぱ疲れてる?』
そう思うと起すのも躊躇われるが、じきに早飯も来る。
遠慮がちに、小さく薄い肩に触れた。
「師父。起きて、師父」
「……ん」
無限が微かに眉を寄せて零した一音は、たったそれだけで悶絶するほどに愛らしい。
「しーふ。起きてよ、早飯来るよ」
艶やかな髪を撫で、目元へ唇を落とした。
『匂いも』
春の森を思わせる清冽さの奥に満開の花園の蜜の甘さを含んだ、いつもの無限のそれとは違う。ふんわりと温かにやわらかな子供の香り。
「ぅん」
きゅっと顔をしかめ、しかめ面のままで無限の瞼が眩しげに持ち上がっていく。
『うわ』
立ち上がったままの尻尾が、再び小刻みに震えだした。
現れる、大きな巴旦杏の形。澄明にして底の見えない深い泉の碧を湛える眸が、真っ直ぐに小黒へ向けられた。
「……」
言葉もなく稚い外見の無限を見つめ、見つめられる。枕の上に広がる髪の藍(あお)を額縁に、磁器の肌膚(はだえ)の白が映える。
『こんな、ちっちゃいのに』
二十代の頃の蓮のごとき玲瓏とも、現在(いま)の牡丹のごとき絢爛とも違う。触れただけで毀たれてしまいそうに儚げな、雲間から零れた月の光が地で凝って芽吹いた天上の花だ。
稚さにも関わらぬ圧倒的な美貌に気を呑まれて、目が離せない。
しかし不思議そうに見上げてくる無限の表情に、ふと我に返った。後ろめたいわけでもないが、そそくさとスマートフォンを枕元に置く。
「あ……早(おはよ)、師父。なんかちっちゃくなってるけど平気? もうすぐご飯来るし、こっち居てよ。揃ったら呼ぶから」
食事を運んでくる厨房のスタッフがこの姿を見れば、大騒ぎになるだろう。しかし無限は頷くでもなく、無言のままだ。
「師父?」
大きく瞠った碧い目が、呼びかけにも応えずにひたと見つめてくる。不意打ちでの想い人の稚い姿に浮かれていたが、今さらながら体調が大いに不安になってきた。牀(しんだい)に懐いたままの無限を、上から覗きこむ。
「やっぱりどっか悪い? 疲れてる? 休んでた方が」
何気ない仕草で無限の頬に触れようとした手を、小さな子供の手にさらりと払われた。
『え』
幼い頃も今もその途上でも、無限に拒絶されたことは一度もない。師と弟子として、あるいはそれ以上の家族にも似た親密さと親愛をもって過ごし、小黒が18になった歳にその関係に情人が加わってスキンシップの意味も変化したが、互いの体温は互いにとって常に当たり前のものだ。
しかも、振り払われただけではない。
怪訝そうに眉を寄せた無限が、上体を起しながら牀の上を後ずさって小黒と距離を取ろうとする。突如として自分の牀に現れた、不審な赤の他人に対するようだ。
「なんで、どうしたの」
戸惑いながら尋ねる手元で、スマートフォンが鳴る。
「あ」
頼んでいた早飯の到着を告げる、房間の前まで来ている厨房のスタッフからの着信だ。
「ここで待ってて」
改めて無限に言い置き、手早く着込んだスウェットとTシャツの上に立て襟の長衫を羽織りながら臥房を出た。紐釦を留めながら客庁を横切って、控えの間で立ち止まる。絹の帯を締めて襟元と長衫の長い裾を改め、師に仕えるために房間を訪ねた弟子に見えるよう身支度を調えてから、門扇を開けた。
「您早、小黒大人。お食事をお持ちしました」
人間の若い女性の姿の鶺鴒の妖精が、宙に浮かぶたっぷりと深く大きな粥の器と大量の蒸籠と炒め物の大皿を背後に従えて笑顔で立っている。
「謝謝(ありがと)。入って」
「はい。失礼いたします」
「給仕はいらないから。適当に並べてってよ」
「はい」
天板に精緻華麗な唐草文様の透かし彫りが施された大ぶりの卓子に、鶺鴒の妖精の手の一振りで美しく早飯が並べられていく。背を向けて臥房へ戻り、開いている側の帳から牀を覗いた。
「師父。早飯来たよ。食べるよね?」
大きすぎる長衫に包まって膝を抱えている無限が、小黒の呼びかけに半歩後ずさる。表情は無いが、見知らぬ者へ対するような警戒が見え隠れしている。
「あ~……あのさ……えっと、どうしちゃったの、かな? 俺、わかるよね……?」
460才に近い仙に対して、見た目のままの幼子へするように語りかけてみる。しかし言葉は戻らず、無限がなおも後ろへ下がっただけだ。
『ええ~~~~~~~?????? なんでっ!?』
無限の態度の意味するところがわからずに混乱する。まさか、内面まで見かけ通りの年齢に戻ったわけでもあるまい。
「小黒大人。お食事の仕度は調えました。これにて下がります」
「うん、謝謝」
門扇の精巧な組格子の向こうから鶺鴒の妖精の声が聞こえ、足音が遠ざかって房間から出て行くまでを猫の耳で聞き取った。
「ほら、ね? あっちに早飯の支度、できてるって。食べよ?」
無限がふと顔を上げたのは小黒に反応したのではなく、房間から漂ってくる食事の匂いに気を惹かれたらしい。きゅるる、と愛らしく腹が鳴って、白い頬へ血の色が上がる。
「わかった、じゃあ、待ってて」
牀を降りあぐねている風情の無限に言い置き、客庁へ戻った。
『師父どうしちゃったのかな。俺のこと、他人でも見るみたいに』
困惑を深めながらも皿に肉包と菜包を山に盛って、小さな椀に豆腐脳を取り分け、油条を添える。
「はい。お腹空いてるでしょ」
牀から降りようとしない無限に皿と椀を差し出しても、食事と小黒の顔を交互に見やるばかりだ。
「大丈夫だよ、毒なんか入ってないし美味いよ」
努めて笑顔で語りかけながらも、指の先が冷えて背筋に汗が流れる。やはり、無限の様子が尋常ではない。最強と謳われる首席執行人の身に、何が起きているのだろうか。
『逸風居るかな、師父がご飯食べてる間に来てもらって――時間が経てば戻るかもしんないけど一応診てもらわないとな。あとは鳩老……館長の方がいいか』
容姿(すがたかたち)よりも、今の無限は中身に問題が生じているように思える。おそらく、人間そのものの見た目をとっている潘靖の方が適役だろう。
しばらく躊躇していたが、再び鳴った腹の音に促されるように、ようやく無限が小黒の差し出す肉包を手に取った。鼻を近づけて匂いを嗅ぎ、小さな手に余るほどの肉包を食べやすく割る。まだ湯気の立つ小さな片方を口に運んで、無限の顔がわかりやすく輝く。
「はは。そう。美味いだろ」
思わず笑って語りかける口調が子供に対するそれになってもいれば、無限も館の包子を初めて食べたような反応だ。
「残り、ここ置くよ。食べて」
手甲で作った小ぶりな卓子に皿と椀を並べ、客庁で逸風をコールする。
「喂」
「逸風? 俺。小黒。あのさ、師父が体調悪いっぽくて、ちょっと診てもらえないかな」
「無限さまが? 珍しいね。もちろん行くよ。どんな感じ?」
「うーん……疲れてんのかなって……思うんだけど」
「わかった。すぐに行って大丈夫?」
「うん。黑咻行かせるから、一緒に来て」
「わかった。じゃあ後で」
「ごめん、よろしく」
通話を切り、続けて潘靖への直通の番号をコールした。誰でも知っているわけではない、首席執行人の愛弟子の特権だ。
「喂」
「館長? 俺です、小黒。ちょっと相談があって」
「珍しいな、無限さまになにかあったのか?」
軽い笑いを含んだ察しの良い返答は、さすがだ。
「うん、そう。大したことないかも知んないんだけど、ちょっと……体調悪いっぽくて」
「私まで呼ぶならちょっとじゃないだろう? 逸風はもう行ってるか?」
「今から来てもらうとこ。来てくれるの、館長」
「ああ、すぐに。黑咻は二人分よこしてくれ」
「謝謝您(ありがとうございます)」
通話しながら長い尾を振って3体の黑咻を呼び出し、それぞれ逸風と潘靖の元へ向かわせる。通話を切る前に、潘靖、冠萱、逸風の3人が黑咻と共に客庁へ転送されてきた。
「ありがと、みんな」
心強い顔ぶれに安堵し、思いのほか自分が不安を感じていたことに気づかされる。
「無限さまのお加減は?」
口を開いたのは潘靖だ。
「多分元気。ご飯もモリモリ食べてるし」
「ん?」
「なんだけど、朝起きたら、師父がちっちゃくなってた」
「ちっちゃく?」
「そう。サイズじゃなくて、若返っちゃったんだ。見た感じ、6才か7才くらいかな。師父って変化できないよね?」
「人間だからな、あの方は」
潘靖が答え、左右の二人が頷く。
「やっばそうだよね。あと、見た目だけじゃなくてさ。喋んないからよくわかんないけど、俺のことも……他人見るみたいっていうか、なんかすごい警戒されてて」
「ふむ。夕べ変わったことは?」
「特に、なにも」
美味い食事を大量に平らげた後は早々に牀へなだれ込み、現と微睡みを行き来しながら朝まで抱き合っていたが、特別ではない日々の営みだ。
「ひとまず診てみましょうか。無限さまは向こう?」
「うん。ご飯食べてる」
一晩中の情事の後の牀を見られることに若干の躊躇を覚えないではないが、そうも言っていられない。
「いいかな、入って」
「うん」
苦笑いで訊いてくれた逸風に頷いて、先に立って臥房へ入った。潘靖と冠萱が続く。
「師父? ご飯食べた? ごめん、ちょっといいかな」
大人の一食分以上の量があった包子と豆腐脳は思ったとおりきれいに平らげられて、相変わらず無言ではあれ無限の態度も落ち着いてみえる。牀の縁に腰を下ろして、低い位置から穏やかに話しかけた。
「逸風に来てもらったんだ。診せてもらっていい?」
目顔で呼んだ逸風が、無限へ拱手する。
「您早(おはようございます)、無限さま。失礼して、拝見してもよろしいでしょうか」
幼い姿の無限にどんな感情を持ったのか、表面的には一切の動揺を見せない逸風が笑顔で許可を求めた。
「……※●≫△☆♪# ?」
「え?」
少年の外見の逸風に警戒を緩めたのかようやく無限が声を出したが、聞き取れずに尋ね返す。
「※●≫△☆♪# ?」
「ごめん、師父。なに?」
「※●≫△☆♪# ?」
小鳥が囀るように高く愛らしく音楽的な、しかし理解できない言葉。10才で人間の学校に入るまでは無限と大陸中を旅していたお陰で、普通話だけでなく東方・南方・西方のいずれの言葉も片言程度なら話せるが、そのどれでもない。思わず見上げた逸風も、小さく首を振っている。
「小黒。私が変わろう」
少し離れて成り行きを見ていた潘靖に声をかけられ、場所を変わった。微かに眉を顰めた無限の周囲の空気がわずかに緊張するが、大人しく座したままだ。牀の縁へ腰を下ろした潘靖が、柔和な笑みを浮かべる。
「&+<□▲* ?」
問いかけに、無限は潘靖の顔を凝視した後で小さく頷いた。
『館長、言葉わかんの。っていうか、なんか』
「□○+¥▼☆*±◎&■=△ ?」
「≪※∀@」
「▲☆♪×◇ ?」
『これって』
二人のやり取りを聞きながら、十数年前の記憶が喚起される。たった一度だけ聞いた、あの遠い世界の言葉に似ている気がする。
「◆*▽◎⊿……○<■☆♭+△¥※ ?」
「≠×$☆▲◇±∀♪。+¥▼☆*±◎&■□○+¥∀。☆*±◎&◆≫」
無限へ何事か言い置いて立ち上がった潘靖に頷きかけられ、促されるままに皆で客庁へ戻った。
「館長」
気が急いて、門扇を締めるなりに潘靖へ問いかけようとしたが、笑みの消えた顔を向けられて口を噤む。
「小黒。夕べは本当になにも変わったことはなかったか?」
「ないよ。任務から戻って風呂入って、出してもらった晩ご飯食べて、寝ただけ」
「寝た」の部分を馬鹿正直には言い難いが、眠ったとは言っていないので嘘ではない。無限と小黒の関係を知っている潘靖も、そこは察しただろう。
「……ふむ」
考え込む表情で眉を寄せ、潘靖が顎に手を添える。
「あのさ、館長。もしかして師父……中身も子供に戻ってる……?」
「察しがいいな」
「やっぱり。さっき喋ってたの、昔の言葉だよね? 俺、前に聞いたことある。400年前に飛ばされた時」
「ああ。大変だったな、あの時は」
執行人の見習いですらなかった10年以上も以前に無理を言って無限の任務に同行した挙げ句、自ら戦闘の中に割って入って術に巻き込まれ、420年ほど昔へ飛ばされたことがあった。無限や会館の皆の尽力で戻ってこられたが、忘れられない苦い――同時に、甘い――思い出だ。目の前の年長者3人に同時に苦笑いされて頬に熱が上がってきたが、今はそれどころではない。
「さっきは、無限さまに私たちは妖精なのかと訊かれた。私からはお名前とお歳を訊いたんだ。名は無限、歳は8才と仰っていたから、君の言っていた通り生まれてから6年か7年といったところか。任務でもなにもなかったんだな?」
「もちろん。館長知ってるじゃん、昨日は『衆生の門』で任務だったんだからイレギュラーなんて起こりっこない。その前に、向こうが術出す暇なんかやらなかったし」
未だ妖精と人間の二つの世界の自由な交流は成し遂げられていないが、妖精たちも様々なアバターで「衆生の門」に参加し、徐々に人間との交流を図っている。その中で、融和を認めない人間嫌いの妖精たちや、あるいは人間の無法者による犯罪も増えてきた。警吏のジョブもあれば自警団を組織しているギルドもあるが、目に余る時は執行人が派遣される。昨日は高ステータスの大人数の武装集団に、見かけ上は低ステータスの無限と小黒が臨んだ。自由度が高いとはいえ、設計されたバーチャル空間において小黒がかつて巻き込まれたような術のバグは起こりえない。それ以前に、低ステータスがたった二人と見くびった相手を、反撃させる隙も与えずに一瞬で壊滅させている。
「昨日ずっと一緒に居た君に心当たりがないでは、原因の突き止めようがないな。逸風、ひとまず無限さまを診てくれ」
「はい」
「冠萱。無限さまに普通話をインプットは出来るか?」
「もちろんです」
「そっか、そんなやり方、あるんだ」
「私の知っている言葉の範囲だけどね。無限さまは私よりはるかに語彙の豊かな方だから、完全に元通りとはいかないよ」
「そんなの。意思疎通ができれば充分だし」
いずれにせよ、あの年齢では語彙などたかが知れている。
「しかし、原因がわからぬでは対処も元に戻るかどうかもわからないな。老君のところへお連れするしかないか」
独り言のように呟いた潘靖の横顔は、冷静でありながらも深刻だ。掌に喰い込む爪の痛みに、自分が拳を固く握りしめていたと知る。
「まずは出来ることからだな。冠萱、逸風」
「はい」
3人と共に共に臥房へ入ろうとして、小黒のスマートフォンが鳴った。液晶に表示された発信元は、厨房だ。無視しようとして、このタイミングであることがふと気にかかる。
「喂」
「あっ、小黒大人! あの、昨夜お持ちした食事ですが、デザートの橘子(みかん)は召し上がりましたか?」
人間ならば中年程度の男性の声が、小黒が出るなりに慌てた早口でまくし立てた。
「橘子? 俺は一房分けてもらっただけで、師父が全部食べたよ」
昨夜は龍鬚糖や何種かの酥や餅、蒸し菓子の他に、小ぶりだが瑞々しい橘子が10顆ほど山の形に盛られて供された。先に一つ食べた柑橘好きの無限が美味いとあまりに絶賛したため残りも全て譲ったが、美味いから味を見ろと一房だけ口に入れられた。確かに、かつて食したこともない美味さではあったが、あの橘子がどうかしたのだろうか。
「小黒大人、お身体になにか変わりはないですか?」
「いや、別に」
厨師の問いに、嫌な予感が過ぎる。
「無限大人は?」
「師父も別に。いつも通りだよ。あの橘子になにかあんの?」
「あ……、はい、あの」
言い淀み、逡巡の気配の後で言葉を継いだ。
「直接ご説明します。今から房間(おへや)へうかがってもよろしいでしょうか?」
「え? いいよ、そんなのわざわざ。あの橘子がなに?」
「その……あの橘子が、日本からいただいた霊果だったんです」
「うん? それで?」
「食べた者を不老不死とする実です。人間(ひと)ならば一顆で充分のようですが、二枝分をひとつも残らず召し上がっていらしたと聞きまして……仙と妖精のお二方なのでおそらく問題ないかとは思ったのですが、念のために」
「ああ、そうなんだ……あのさ、その話ゆっくり聞かせてほしいんだけど。やっぱり房間まで来てくんない?」
「っ、はっ!? はい、ただいまっ」
「黑咻行かせるから。一緒にすぐ来てよ」
「はいっ!」
苛立ちをなるべく声に出さないように務めながらも、剣呑さは隠しきれない。いささか荒っぽく尾を振り、分身である愛らしい毛玉を呼び出す。
「ショッ!」
小黒と感情を共有する黑咻が、丸い目を三角にして宙に消えた。