非時香果(ときじくのかくのこのみ)/(4)【黑限】 秋の空は高く透明に晴れ渡り、穏やかな陽射しが心地良い。
龍游の中心部であるこの場所は、買い物に困らない。6車線の道路に沿って大型のショッピングセンターや百貨店、オフィスビル、ホテルが建ち並び、街路樹の法国梧桐(プラタナス)が色づくゆったりと広い歩道に平日でも人が多く行き交う。ホテルまでは車窓から眺めていた街を興味深げな様子で見回す無限が、時折居心地悪げに臀を揺すっているのは気づいていた。
「小黒」
ついに意を決したような呼びかけを受けても、歩みは止めない。
「やっぱり下ろしてくれ。自分で歩く」
「だから、迷子になったら困るだろ。俺タッパあるから手繋ぐの大変だし、抱っこの方が絶対間違いないよ」
一緒に買い物に行くと言い張ったが鳩老からの電話に呼び戻された若水とホテルのロビーで別れるなりに、「街は人が多いから」と無限を抱き上げた。迷子になったところで気を辿って簡単に探し出せるが、それは伏せておく。守るなら、こうして腕に抱えておくのが最も確実だ。
「でもみんな見てる。私は抱っこされるような歳じゃない」
俺に抱っこされるの好きだったじゃんとひっそり胸中に嘯いて、真面目な顔で無限に向き合った。
「違うって、みんなが見てるのは無限がかわっ、きれっ……顔立ちがすごく整ってるからだよ。人攫いに攫われたら困る」
白磁の人形のような無限は、ホテルのロビーですでに多くの視線を――自身へのものには無頓着ながら、小黒もまた――集めていた。超高級ホテルの内ならいざ知らず、あらゆる種類の人間が集まる一千万都市ではさすがに自由に歩かせられない。小黒なら造作もなく助けられるとはいえ、無限にわずかなりとも怖い思いをさせるのは本意ではない。
「大丈夫だ、母さまに武術を習っているから。並の大人なら負けない」
「えっ、母さま? お母さん?」
「うん」
『そういえば』
修行の旅をしていた頃に、「剣は母から習った」と無限から聞いた。当時は人間の家族の概念をぼんやりとしか認識できなかったこともあってそのまま忘れていた。
『なるほどな』
この幼い無限の身ごなしが武術を身に着けた人間のそれであると気づいてはいたが、若返ったとはいえ身体自体は無限のままであるなら、そうでもあろうと思っていたばかりだ。
「お母さんに習ってんの?」
「母さまと、時々乳母やにも。乳母やは母さまの剣のお師匠さまなんだ」
「へえ??? 人間の女の人なのに?」
妖精ならば性別は関係ないが、性で役割の分かれていた時代の人間の女性としては、無限の母も乳母も相当な女傑だ。456才の無限の知らぬところで7才の無限から勝手に肉親の話を聞いていいものか躊躇われたが、これまで無限がほとんど過去を語らなかったのは「小黒が訊かないから」程度の理由で、自分では話したつもりでいる可能性すらある。こうして話を続ければ、下ろせとの要求をはぐらかしてもいられる。
「だって昔の女の人って纏足ってのやってたんだろ? それで武術できるの?」
「纏足はされてない。母さまは」
しかし、言いさす途中で無限が口を噤んだ。
「いいから、下ろしてくれ。下りてから話をする」
「うーん、ごまかされないかあ。じゃあごめん、下ろさない」
「小黒」
「無限がこの世界に慣れたら考える。今は俺のいうこときいてほしい。俺は無限に責任があるから」
「……その言い方は、ずるい」
微かに眉を寄せた表情が、年齢に似合わず大人びて見える。稚い美貌に愁いが加わり、すれ違う通行人たちの幾人(いくたり)かは、何かに衝かれたような表情で無限を見上げてきた。
『ほんと、この人』
何歳(いくつ)であろうと、さすがは無限だ。上背のある小黒が抱き上げていることで逆に目立たせているようにも思うが、ホテルへの移動の車の中で「この街は都なのか?」と尋ねてきた、雑踏を歩き慣れていない様子の無限を下ろして歩かせるのはどうにも不安だ。
「ふう」
子供らしからぬ溜息を吐いて、無限が小黒の肩へもたれてきた。
「どしたの?」
頑なに下ろさないことで無限の機嫌を損ねたかと思いつつも、動揺は見せずに何気ない調子で訊く。
「ひとが、多くて、建物も大きくて、少し、目が回ってしまって」
「はい? そんなんで下ろせって言ってたの?」
「上から見てるからだ。下りて歩けば直る」
「屁理屈~~~~~~~~~」
「ちがう」
だが、言葉を交わしながらふと思いつく。
スマートフォンを取り出して、時間を確かめた。
11時まで、10分足らず。
いずれにせよ1時間余りで無限が寝てしまう可能性があり、今日はまだ半日残っている。買い物はそうまで急ぐ必要もない。
「じゃあさ、買い物は後にしてちょっと休めそうなとこ行く? お腹はどう? 減らない」
「空いた」
間髪入れずに答えた目が輝いている。
「じゃあなんか軽いもん食べようか。もっと静かなとこ行こ。もうちょっと我慢できる?」
「我慢はしてない」
「あー、はい」
丸くなったというべきか雑になったというべきか、長い歳月を生きて柳のごとく靱やかに強かな仙人ではなく、剥き出しのままの無限を見ているようで面白い。小黒の顔を見て、無限がまたわずかに眉を顰めた。
「どうしてニヤニヤしてるんだ?」
「ニヤニヤ? してる?」
「してる」
「そっか、気のせい」
「嘘だ」
「はは」
勝手に盗み見しているような若干の後ろめたさもないではないが、まさか幼い無限と交流できるなど思いもしなかった。
『若い師父とも』
400年以上昔に跳ばされた時に出会った、二十代半ばだっただろう無限の俤が過ぎる。わずかな言葉を交わしたばかりだが、仙の無限の持つ落ち着きと同時に溌剌とした若さを感じた。妖精の世界と人間の世界を行き来して育ち、妖精界(こちら)ではどんな不思議も起こりうると知っているが、430才も年上の恋人の若かりし日の姿と幼い姿、そのどちらとも出会えるなどとは望外だ。
「じゃあ、地下鉄って乗り物に乗って移動するよ。入り口はここ」
巨大なショッピングセンター前の、長いエスカレーターが地下深くまで続いている地下鉄の入り口を指差した。
「乗り物が地の下にあるのか?」
「そう。じゃあ地下に下ります」
無限を抱いたままで、長いエスカレーターに乗る。人間ならば危険だろうが、小黒には容易い。小黒の長衫の胸元を握りしめて、無限がエスカレーターを興味深げに見つめている。
「階段(きざはし)が動いてる」
「エスカレーターっていうんだ」
無限の肩に乗って歩いた街を無限を抱いて歩き、無限に連れられて初めて乗った地下鉄に無限を連れて乗る。
『変なの』
どこか浮き立つような気分と捉えどころの無い不安感が、交互に訪れて入り混じる。
「無限、ちょっと降りてて。友だちに連絡するから。俺とちゃんと手繋いでね」
初めて龍游を訪れたあの日とは逆に、無限を連れてトークンを買い、セキュリティを通ってホームへ並んだ。滑りこんできた地下鉄の車両へ乗り込み、降車側とは反対のドアに寄って無限を下ろす。自身の大きな身体で子供を隠し、スマートフォンでメッセージを打ち始めた。言われた通りに小黒と手を繋ぐ無限は、車窓を流れていく地下の暗闇を黙って眺めている。
「ごめん、お待たせ」
メッセージを送信するとスマートフォンをスウェットのポケットへ落とし、頭の上から無限へ声をかける。
「外、面白い? なんにも見えないだろ?」
「うん。でもこんなに深い地の底にこんなに長い隧道があるなんてすごい。この乗り物はどうやって入れたんだ? どこかで外に出るの?」
「そうそう。外を走ってるとこもあるよ。2駅しか乗らないからこの区間にはないけど」
無限の聡さに舌を巻くのと同時に、初めての2人での旅をまた思い出す。
あれから、20年近い月日が流れた。
あの1日は常に記憶と心の底に在って小黒の礎の一部になっているとはいえ、第二のホームグラウンドのようなこの街を歩こうが地下鉄に乗ろうが、表層まで浮上してくることはほとんどない。こんなにも思い出すのは、立ち位置の逆転した自分たちが、あの日の自分たちを辿り直すようだからだろうか。
『行き先も』
目的としていた2つ目の駅で降りて、地上へ上っていく。車両を降りるなりに抱き上げた無限の横顔は不満そうだ。
「あっ」
しかし、地上を歩き始めて数分。無限が驚きと喜びの混じった歓声を上げて、身を乗り出す。
「小さい森」
「そう、公園。あれはね、小さい森じゃなくて巨っきい樹。俺の友だちも居るから紹介するね」
「あれが、樹? あんなに大きな?」
「すごいよね」
答えながら、身体の真ん中でちりちりと火花が爆ぜる。ささやかだが、確かな痛み。普段は意識することもないが、小黒の中から永遠に消えることはない。
軽い物を食べようとは言ったが、予想通りであれば無限の電池切れのリミットまでは30分ほどだ。地上出口のすぐ目の前にあったコンビニで、天然果汁で作られたフルーツ味のクマの形のグミを買って、無限に渡す。
「これは?」
「お菓子。甜くて美味しいよ」
子供の頃の小黒に、ジャンクフードであろうが無限は一切制限せずになんでも食べさせてくれた。そうはいえ、450年近く古い時代の子供に、砂糖たっぷりのチョコや着色料でカラフルに色づけした菓子は、どことなく抵抗がある。子供の短い指で赤いクマをつまみ、慎重に口に入れた無限の顔が輝いた。
「甜い。美味しい」
「そっか良かった。全部食べていいよ」
「ひとりで?」
「もちろん」
今までの不満げな様子はどこへか嬉しげにグミを食べている無限を抱いたまま、広い風息公園を囲む鉄柵と木立に沿って歩道を進んだ。西側の入り口から入って、アスファルトから石畳に変わった散策の路に歩を進める。
噴水と噴水を四角く囲む美しい人工のせせらぎの広場を中央に、広い敷地には遊具やサッカーコートもあれば短い並木道もあり、あるいは石の橋のかかる石造りの水路もある。親子連れや学生、日向ぼっこや散歩を楽しむ年配の人々や、仕事の息抜きに来たと思しいサラリーマンまで、あらゆる年齢層の人々が思い思いに寛いでいる。風に散らされた黄金(きん)や紅の葉が地に降っては絶えず鈴の音を鳴らし、合間に小鳥が愛らしく囀る。都会の真ん中に居ることを忘れる、静かで穏やかな場所だ。その一角にある温室めいた建物の前で、小黒は足を止めた。壁面はガラス張りだが花と葉に覆われた屋根があり、芝生の植えられた敷地にはハーブや観葉植物と鉢花、瑞々しい切り花のフラワースタンドが並ぶ。小さいがセンスのいいそのフラワーショップの入り口に、40代そこそこといった年頃の品の良いエプロン姿の女性が笑顔で立っていた。
「いらっしゃい」
「待っててくれたの?」
「2人の気を感じたから、出てきただけ」
小黒にとっては20年来の付き合いになる花の妖精・紫羅蘭だ。過ぎた年月に合わせて外見を変化させてはいるが変わらず愛らしく、だが平静を装う視線が小黒の抱く無限に釘付けになっている。白い目の縁が赤く匂っているのは、若水同様に地団駄踏み出したいのを堪えているのだろう。
「俺の友だちだよ、無限」
無限を下ろすと同時に、同じく旧知であり、執行人仲間でもある洛竹が紫羅蘭の後ろから顔を出した。やはり変化で外見に20年の歳月を加えてはいるが、朗らかに若々しい。
「洛竹。ごめん、仕事中に」
「なに水臭いこと言ってんだよ。その子か? 連絡くれた」
「うん。俺が450年前から連れてきちゃった子。無限ていうんだ」
「そっか、大変だな」
小柄とはいえ子供の無限よりはるかに上背のある洛竹が、目線が合うように腰を屈める。人好きのする、爛漫な笑顔を見せた。
「大丈夫、小黒がきっと戻してくれるから心配するなよ。俺は洛竹。よろしく」
「私は紫羅蘭。私たち、小黒とはお友達なの。よろしくね」
2人には、地下鉄の中から取り急ぎ『詳しくは会ってから話すけど、子供に戻った師父を連れてく。記憶もないから話合わせて』としか送っていないが、執行人である洛竹はともかく、紫羅蘭も的確に話を合わせてくれている。
2人からの挨拶を受けて、無限が拱手した。
「您好(はじめまして)。無限です、よろしくお願いします」
「おお。礼儀正しいな」
「ほんとね。じゃあこれは、お近づきに」
微笑んだ紫羅蘭が、何も持っていなかったはずの右手で可憐な黄色い花の一枝を差し出す。
「謝謝您(ありがとうございます)」
小黒の友人として、2人を妖精と認識しているのだろう。無限はそのまま素直に花を受け取った。スマートフォンでさりげなく確認した残り時間は、すでに20分もない。
「無限に一回り公園見せてくる。30分くらいしたら戻ってくるよ」
「いってらっしゃい。じゃあまた後でね」
「おう、後でな」
「行こ、無限」
洛竹に軽く目配せをして、無限を促した。来た道からの道なりに噴水の広場を回り込み、柵で囲われた木造の四阿や野点の席が設えられた一隅を通り過ぎて、鉄筋のビルを呑み尽くそうとしている巨樹の前に出る。
「すごい」
錦繍の彩りのなかに蒼く聳える大いなる樹を高く見上げて、無限が改めて感嘆した。
ビルを突き破っていた枝や幹は20年の歳月でさらに成長し、金属やコンクリートを木肌のうちに融合しつつある。隆起した土を固めて均して整備した小道を上って、風息の樹に近づいた。幹の本体は抱え込んだ数棟の建物のちょうど真ん中にあるが、それ自体が大樹の太さの一枝が目の前にある。無限が、周囲を見回しながら手を伸ばした。
「樹が、金属(かね)や岩を覆ってる。痛くないのかな」
「みんなが痛くないように、危なくないように隠してくれてるんじゃないかな」
猛禽類を含む鳥たちや小動物が風息の樹を拠り所として塒を作り、人間もまたこの巨大な樹を遊び場とする。この数年で、ふわふわと不確かな形の精霊たちが漂う姿さえ時折見かけるようになった。
「……この樹……妖精……?」
厚くごつごつとした樹皮を撫で、無限が髪を揺らして首を傾げる。
「わかるの?」
「なんとなく」
呟いたその指先が、ゆっくりと離れていく。
「でも、なんだか」
「ん?」
「……」
答えないまま、一歩後ろへ下がった。
「行こう」
「この建物の中に入ったり、樹に登ったりして遊べるよ? ほら、遊んでる声聞こえるだろ」
「うん、でもいい」
「そっか。じゃあ俺の友だちのとこ戻ろうか」
理由を訊いたことはないが、無限は今も風息の樹には近寄らない。子供の無限も、どこかがそれを覚えているのだろうか。無理強いをする必要もない。
「美味しい小吃の屋台が新しくできたって言ってたから、そこ教えてもらおう」
「小吃」
一番関心のある単語を鸚鵡返しにしてきた無限に笑い、登ってきた道を下って石畳の通路へ戻る。紫羅蘭のフラワーショップへと引き返しながら、説明をする。
「ずっと歩いてくとあっちに水路があって、橋渡って向こうに行くと芝生の広場がある。噴水のあっち側は砂場と遊具があるんだけど」
どちらも、この落ち着いて大人びた子供には子供っぽいだろう。
「あとはこの木立のあっちに噴水とちっちゃい川があって、夏は水遊びもできるんだ。ベンチもあるけど、もう昼休みだから近所の会社のリーマンなんかが昼食べに来るかな」
正午までは、もう間もない。つまり、無限の電池切れの時間も近づいている。
「無限、人がいっぱい来るから抱っこしよ」
「大丈夫だ」
「もうすぐそこだし」
「すぐそこなら自分で歩く」
「ごめん、無限には選択の余地なしなんだ」
多少抵抗されたところで小黒には苦でもないが、不満そうな顔つきながらも素直に抱き上げられた。
「好きな小吃、なんでも買ってあげるよ」
「食べ物にはつられない」
「へえ。本当に?
「本当だ」
歩き出した2人の目の前を、コンビニのレジ袋を下げたサラリーマンが横切った。昼休みのサラリーマン、つまり時刻は12時を回っている。
『そろそろか』
急に寝てしまうと無限に伝えるべきか否か、しかし変に身構えさせてしまうかもしれない。
「おっと」
考えている矢先に、無限が頭の重みに引かれてふらりと後ろへ倒れそうになった。咄嗟に支えて自分の肩にもたれさせ、改めてしっかりと抱き直す。
『やっぱ2時間か』
思い思いのランチを携えたサラリーマンやOLたちが公園へ入ってくる、その間を縫っていく。
「おかえりなさい」
「お、小黒ちょうどいい。昼買いに行くけど、お前らの分もなんか買ってこようか」
「ありがと、俺たちはいいよ。師父が緊張しちゃうと思うから、別に食べる。でもちょっと話できるかな」
「あら? 無限さま寝ちゃったの?」
「うん。小っちゃくなった副作用」
「副作用って?」
「それ、説明したいんだ。いい?」
「「もちろん」」
二つの声が重なり、紫羅蘭と洛竹が目を見交わして笑い合う。
「じゃあ、奥どうぞ。洛竹、札返しちゃって」
「おう」
紫羅蘭に広い作業台へ通されている間に、洛竹がドアにぶら下げた小さなプレートを「休憩中」に返した。
「ごめん、昼だったのに」
「後でしっかり食うから気にすんな。それで? なんで無限大人が子供になってるんだ?」
小柄な紫羅蘭と洛竹は苦も無く、小黒は作業台に膝がぶつかる長い脚を持てあますように座った。膝の上には、もちろん無限をしっかりと抱えている。
「は~。実はさ」
まるで何ヶ月も以前に起きたかのように遠く思い出しながら、2人へ今朝からの顛末を語った。朝になって目を覚ますと、無限がこの姿になっていたこと。恐らく日本の神々から賜った霊果が原因であり、元に戻す方法を探しに諦聽が遣いに立ってくれていること。館には置いておけずに人間(じんかん)へ連れてきたこと、幼い身体に元の霊力がそのまま残っているために2時間で電池切れが起きて唐突に眠りだし、今がまさにその状態であること。
「事情知ってるみんなと近いから、龍游に居ようと思って。洛竹が一番近くに居る執行人だし、もしなにかあったら力借りるかもしれない。迷惑かけてごめんね」
「首席大人不在なんて普通に一大事だし、頼ってもらえて嬉しいよ。トップシークレットだろ」
「うん、そう。まさか師父の食いしんぼのせいでこんなことになるとかね」
「小黒は大丈夫? 心配でしょ……?」
軽口で苦笑したが、2人からは案じる視線を向けられる。
頭上で交わされている会話など知らず、無限は健やかに眠ったままだ。
「心配は心配だけどさ、きっとなんとかなる。みんなも老君も居るし、なんたってこの人、師父だし。いつだってどんなことだってなんとかしてきたんだから」
「そっか……そうだな。しょぼくれてたって始まんないしな」
「うん」
人間(じんかん)に長く暮らす紫羅蘭と洛竹は、機微も人に近い。人である無限に人間(じんかん)で育てられた小黒にとっては、友人以上に慕わしく感じる存在だ。妖精に血縁はないが、人ならば姉や兄のようなものだろうか。協力の要請ばかりではなく、2人の顔を見て話を聞いてほしかったのだと気づく。
スマートフォンで時間を確かめ、無限を抱え直した。
「そろそろ起きると思うから、そしたら俺たち行くよ。前に言ってた美味い屋台、教えてくんない?」
「俺たちの昼飯も買いに行くし、無限大人が起きたら一緒に行くか?」
「うん。そうだ、あとさ。覗き見しないから黑咻置いていってもいいかな? なんかの時のために」
「いいよ、もちろん! 嬉しい、可愛くて好きなの。でも小黒の分身だからちょうだいって言えないし」
するりと出した長い尻尾をしならせ、朗らかに笑う紫羅蘭の掌に黑咻を乗せる。
「黑咻ちゃん、なに食べるの?」
「なんでも。食べなくても平気だけど、食べるの好きだから時々おやつあげてくれると喜ぶよ」
「そうなんだ。じゃあ時々じゃなくて好きなだけあげるね」
「良かったな、黑咻。……あ」
膝に乗せている無限が身動ぎし、瞼が眩しげに持ち上がっていく。
「起きた?」
声をかけた小黒を不思議そうに碧い目が見つめ、幾ばくかの間の後に起き上がった。
「……寝てた……?」
「うん。疲れた?」
「小黒が抱っこしてくれてるし……疲れては……」
どこか呆然と呟きながら身を起す。その腹が、小さな音を立てて鳴った。
「はは、ごめん。なにか食べようって言ったのにね。洛竹が連れて行ってくれるから屋台行こうか」
「ん」
咽喉を鳴らすように答え、しかしどこか心ここにあらずの様子だ。気にはなるが、無限を抱いて立ち上がる。
「じゃあ、また来る。黑咻よろしくね」
「うん。またね、小黒。むげ、ん」
無限を呼び捨てる紫羅蘭の声が詰まり、目の縁が薄く匂った。心情を察して込み上げる笑いは噛み殺す。
紫羅蘭に別れを告げてフラワーショップを離れ、洛竹と共に風息公園の裏手の路地に広がる屋台街へ回った。生鮮食品や雑貨を並べる屋台もあるが、大半は飲食を商っている。そこかしこから漂う食欲をそそる香りに、無限が興味津々の顔つきで左右を見回す。ちょうど昼時とあって混雑しているが、不躾なものからさりげないそれまで、小黒に抱かれてすれ違う無限に雑踏を構成する人々が視線を投げていく。路地を三分の一ほども入ったところで、ひときわ混み合っている黄色いパラソルの屋台を洛竹が指差した。
「あそこだよ、美味い小吃屋。混んでるけど回転いいし、大体みんな带走(テイクアウト)だからすぐに座れる。俺は向こうで買って、戻って食べるから」
「うん、謝謝。じゃあまた。紫羅蘭によろしくね」
「おう。じゃあな、2人とも」
軽く手を上げて、洛竹が来た道を戻っていく。
「あそこだって」
「うん」
教えられた屋台に並び、路上に並べられた簡易なテーブルと椅子で食事を取った。小吃だけでは当然足らず、他の屋台で麺や料理を追加する。それでも、滞在時間は30分ほどだったろうか。
「疲れた?」
そこだけが別の空間のようだった喧噪とあらゆる匂いに満ちた屋台の通りを出て、静かなオフィス街から再び地下鉄に乗った。屋台街では旺盛な好奇心と食欲を発揮していた無限は、またどこかぼんやりとした風情で暗い窓の外を眺めている。
「よくわからない」
自らの状態を自らで把握できない7才児の言葉として額面通りに受け取ればいいのか、それともいずれはあの無限に育つ子供の言葉として哲学的な解釈が必要か。直感で前者を選び、買い物は後回しとしてホテルへ戻る。部屋へ帰り着く前に無限は眠ってしまったが、どうやらこの眠りは2時間ごとの眠りとはまた別の、単純な身体の疲れから来ているらしい。
広いスイートを横切ってベッドルームへ入り、無限が寝ていたベッドへ運んで丁重に横たえた。