きれいでやわらかくていいにおい 眩い満月光が植栽の樹冠を透かして注ぐ夜の庭に、ひとり佇む。
目の前には、小黒よりも頭2つほども背の高い植物が、細長い緑の葉を野放図と見えるほど健やかに繁らせている。幾枝ものうねった茎が葉から直に伸び、各々の先には小黒の手では収まらない大きさの蕾が一輪、薄紅のしなやかな萼をまとって果実の如くたわわだ。そして微かに、香気が甘く鼻先に漂っている。師である無限は旅のうちに多くの花の名を教えてくれたが、美しくも奇妙にも見えるこの植物には、一度も出会ったことはない。
『あ』
つややかな紅と薄緑に包まれる蕾の一つが、見えない手に促されるようにゆっくりと先端から綻びはじめた。閉じ込められていた芳りが一息に溢れだして、夜気が官能に充たされる。開いていく様は佳人が紗(うすぎぬ)の下から顔貌(かんばせ)を顕すにも似て、眩さは月の光のためか、圧倒的に純粋な、その白ゆえか。
「わ」
透けるほど薄い葩が幾重にも重なりあう、繊細にして精妙なその造形を誇示するでもなく、満開になった花が小黒に対峙する。あるいは飾り羽根を広げた白孔雀か、馥郁たる馨りと共に圧倒的に華麗な存在感を持ちながら、端正にしてどこか儚げだ。
『なんか』
我知らず、こくりと咽喉が鳴る。
練り絹色の花弁が描く、柔らかな曲線。しなやかに瑞々しく、生命が滴りそうな。
「キレイだな」
呟きを落として、陶然と手を差し伸べた。玲瓏の大輪に歯を立てたなら、花弁はどれほどの弾力を持って、抗うのだろう。あるいは簡単に食い破り、好きに荒らして蹂躙してしまえるのだろうか。
そうして、その味は。
芳りそのままに甘いのか、苦く拒むのか、全てを秘めて無味なのか。
「は」
漏れた息は、うわずって熱い。
この花に似たなにかを、誰かを知っている。
きれいで、やわらかくて、いいにおいで、いとおしく、なつかしく。
未だ幼い掌に、自身の顔ほどもある花を包んで引き寄せる。ひときわ濃く、芳香に包まれる。体温が上り、長い尾が立ち上がる。大きく口を開け、発達した犬歯がはなびらを喰い破る、その感触を思う──。
口いっぱいに広がった、鉄の味と匂いに目を見開いた。
「っ」
頭の上から聞こえた、微かな呻きに振りあおぐ。
「ふぁ」
間の抜けた声を漏らして、慌てて跳ね起きた。ベッドサイドに置かれているLEDのセンサーライトが、動きに感じて暖色の灯りを点す。
『そうだ』
淡く照らされた部屋の中は、異世界ではなく無限と暮す山深くの杣家だ。それなら、己はなにを噛んだのか。
「あ」
小さく声に出して、傍らを見下ろした。一緒に眠っていた無限が、肘を突いて半身を起こしている。その古風な交領衫の夜着の肩口には小黒の犬歯で小さな穴が開き、夢の花と同じ色の絹地に子供の歯形の血が滲む。
息を呑んだ一瞬で、全身が冷たくなった。
「……ご……ごめ、なさっ、ごめんなさい、師父!」
慌てて謝り、ベッドから飛び降りる。慌てすぎていて自身の能力すら思い出せず、居間へ走ってティッシュの箱を取ってきた。
「血、血出てる。痛い? ぼく、ごめん」
ベッドに胡座をかく無限の顔も見られずに、数枚のティッシュをまとめて丸め、噛み傷に圧し当てた。
「大丈夫だ」
慰めてくれる温かな掌が頭に置かれ、穏やかに笑う無限が、小黒に代わって自ら傷口を押さえる。
「どうした、美味い物の夢でも見たか」
軽口に紛らそうとしてくれるが、空いた手を所在なく膝へ置き、師に怪我を負わせた自己嫌悪で項垂れた。
「違くて、花の夢、見てた」
「花?」
「うん。あっちの世界で、見た花。ゲッカビジンて言ってた」
無限と引き離されて小白と阿根と一緒に飛ばされた、この時空ではない異世界を思い出す。世界は荒んでいたが出会った人々はみな親切で優しく、多寡はあれ獣の形質を備えた種族ばかりの中で、耳も尻尾もそのままに暮らした。
『でも』
夜毎日毎に無限を想い、心が引き裂かれそうだったあの日々を、再会の時の無限の表情を、抱きしめられた息も止まるほどの強さを、これからの永い生の中にも忘れはしないだろう。
「月下美人か。食える花だな」
無限の言葉に引き戻されて、その意外な内容に顔を上げた。
「えっ、そうなの」
「食わせたことはなかったか。そんなに気になるなら、今度麓へ食べに行こう」
「あっ……、うん」
「味はその時のお楽しみだ」
「うん」
神妙に頷きながら、胸の真ん中にわだかまっていた得体の知れないモヤが晴れた気がする。
『そっか、食べられる花なんだ。だからあんな夢、見たんだ。でも』
闇にほの白く浮かぶ、月の光を織り上げたように気高い花。
初めて食べてみたのは、誰なのだろう。なぜ食べてみたのだろう。
『あんなにキレイなのに』
否、それだからこそ。
手折るばかりでは飽き足らず、その味までも知ってみたいと思う──。
『え』
瞼裏に残る花の姿に、どうしてなのか無限が重なる。それとも、目の前の無限に、艶やかに馨る花の姿が。
「あっ」
「うん?」
自分でも理解のできない小さな叫びが勝手に咽喉を衝いて、咄嗟に猫の姿へ戻った。
「喵」
「どうした、急に」
微笑む無限の肩へ飛び乗り、傷を押さえている手の甲を舐める。どうにか声を張ろうとするが、どうにも情けない声しか出ない。
「明日逸風に治してもらお。僕、電話する」
「必要ない、すぐに治る」
「猫の噛み傷はほっておくと酷くなるんだよ」
「お前は猫じゃないだろ」
「そうだけど」
それでも、萎れる小黒の意を汲んだのだろう。
「でもそうだな、一応引っ越しのことも皆に伝えておくか」
「そうだよ」
「わかった。さあもう血も止まった。寝よう」
「……ん」
先に無限が横になり、開けてくれた布団の胸元へ潜り込む。くるくると回って落ち着きのいい場所を見つけ、厚みのある胸へ寄り添った。馴染んだ温もりと、その肌膚(はだ)の匂いに包まれる。
『いいにおい』
日頃から、猫と人の容(かたち)を自在に行き来している。無限も、小黒が猫へ戻った理由など考えもしないだろう。
『なんだろ』
師と花と二つの姿が重なった途端に、無限の匂いを強く感じた。萌える春の森と満開の花園と、清々しさと甘さが絡み合いながら高く低く、あるいは裏になり表になり、時には同時に鼻腔を満たす、さながら極上の緑茗の香か。
不意に下腹がむずついて、自身の身体の変化に戸惑う前に反射的に猫へ戻ってしまった。
『変なの』
下腹ばかりか気持ちまでがむずがゆく、持てあますままに無限の胸元へ頭突きする。
「うん、いい子だ」
あの世界から戻ってから、以前以上に甘えるようになった自覚はある。今も、そう思われたのだろう。
笑う無限に、ふわりと抱きしめられた。
了.