Spatial, 胡蝶のメイクはいつも念入りだ。特に、下地と肌色を念入りに、埋めるように塗り込んでいる。話でしか聞いたことはないが、胡蝶は、以前機体を墜としたらしい。
隊の記録にしっかりと残っているのだから、墜としたことは確実であるのだが、俺は直接墜落現場を見たことがないため、らしい、という感想にとどまっている。
記録文書によれば、それは雪の日。
離陸後、雲中における上昇旋回の最中で胡蝶空尉はバーディゴ状態に陥り、本人の判断で緊急脱出。管制塔には非常事態宣言にあたるスコーク七七〇〇を本人が発信し、ナビゲートを宇髄が担当。「脱出します」の一言を残して、それきり胡蝶の機体から通信が飛ぶことはなかった。
原因は機体の整備不良。アクロバティックでクセのある胡蝶の機体には、特別なチューンナップが必要となる。現実を一〇〇パーセント理解しないチューンナップだったゆえのバーディゴ、ゆえの墜落事故であった……と、冨岡は見ている。
ナビゲートを担当した航空管制官の宇髄によれば、胡蝶自身はいくばくかの打撲と、頬の擦り傷で、後遺症のある外傷は無かった。しかしそれを切欠に、胡蝶は空を飛ばなくなったという。
その際にできた傷を埋めるように、今日も胡蝶は下地を塗る。
あれからだいぶ月日が経過し、脱出の際にこすった頬の傷は、ほぼわからないくらいに薄くなっている。しかし、心の傷はしっかりと残っているようだ。いつになれば薄まるだろうか。そもそも、化粧に無駄な時間を割くべきではないのでは、などと。冨岡は無神経なことを考える。ぱたぱたと白粉を叩く胡蝶をちらりと見て、視線を手元に戻した。
手に馴染んだメカニックグローブをはめ直す。指の股まできゅうと引いて、感触を確かめる。指を一本づつ動かす。親指、人差し指、中指、薬指、小指。ぎちぎちと動くグローブは、三日前に下ろしたばかりだ。以前のグローブはやんごとなき事情で殉職した。そいつは冨岡なりに手厚く葬ったが、あれでよかったのだろうか。グローブを葬るのは久しぶりだった。
「先に出るぞ」
わかりました。胡蝶が視線だけで会話をつなぐ。メイク中は返事ができないらしい。どういう理屈かわからないが、胡蝶がそう言うのだからそうなんだろう。
無言のあいさつをして、部屋を出る。
出勤時間はずらすことにしている。下手な噂を立てられたくないからだ。
風紀の乱れは油断につながる。油断があれば、人が死ぬ。
ここはそういう職場だ。
念入りにメイクをする。目立たなくなったとはいえ、汚点を見せるのは本意ではない。完璧なパイロットであるために、私はいつもそうしている。
過去のことは忘れない。けれど、ときたま思い出してしまう。特にこんな曇天の日には、胸に雲がかかってくる。
空を見上げる。重い雲が天を覆っていた。すきまなく敷き詰められた水滴のカタマリをぼんやりと見上げて、胡蝶の心はずしりと重くなった。
実際、こんな天気の時は体が重い。
すでにあくびの出なくなった生活習慣を見直すことはない。無機質に身支度をして、出勤する。こんな天気の日は嫌いだ。あのときを思い出すから。
あれからしばらくして、信頼できるメカニックと出会い、胡蝶は再び空に戻った。空に戻れた日を思い出す。あのときは、胸の奥まで見透かされるような青空だった。
ハイネックを纏った首筋をそっと撫でる。この下の傷跡は、誰も知らない。
「……よし」
真珠のような肌。これから空を飛ぶというのに、海のものに例えるのはどうなのだろうと思いながら、真珠のように仕上げた肌を一撫でする。
今でこそアクロバット飛行を行えるまで回復したが、一時期私はどうしようもないほど、この曇天を憎んでいた。何なら、今だって憎んでいるかもしれない。
ずしりと重くのしかかる気圧の変動を振り払うように、髪を結う。きゅうと纏めてピンでとめれば、胡蝶空尉のできあがりだ。そうすれば、私はもう何も怖くない。
今日も完璧。完璧な肌の胡蝶しのぶは、荷物をまとめて先に出て行った冨岡を追った。
「おはようございます」
喫煙所でタバコを吸った仏頂面に声をかける。整備士の上着には胡蝶と同じエンブレム。空色の蝶をあしらったシンボルが、整備士・冨岡空曹の動きに合わせてのそりと歪む。
「、ああ」
相変わらず反応は鈍い。胡蝶は額を押さえて溜息を吐いた。冨岡空曹はいつもこうだ。こと対人にかけては、とてつもなく反応が鈍い。それが、思考を巡らせすぎた結果だということはつい最近知った。
ぽつぽつと雨が降り始めている。嫌な天気だ。雪にならないといいが。
・・・、---、・・・
(――く、ッ!!)
舌をかまないように口を閉じる。脳の奥がくらりとして、上下の感覚がどこかへ行きそうになる。なんとか感覚を戻す、もどれ、もどる、もどせ。いま、わたしは「上」か「下」か。認識を改めることが難しい。
どうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう
(どうにか、する)
深く呼吸をして、意識に一区切りをつけた。自分の状態を正しくはっきりと認識する。
管制官へ通信。いや、その前に脱出か。なんだ、これは。わからない。
わからない。全力で考えて、何もわからない。ぐわんぐわんと体が振り回されている。身体と意識が振り落とされる。だめだ、戻れ戻れ。私は生きて管制に帰るのだ。
(いき、て……?)
ふと、今までの人生が脳裏をよぎる。生まれて、保育園、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学を経て入隊、地獄のような訓練を潜り抜けてなんとかウイングマークを取得、落ちていった同期たちの笑顔が流れる。先輩たちから聞いた多種多様の航空事故。
不適切な修理・空中分解・急減圧・シーフィット・エンジントラブル・衝突事故・いや、ちがう、どれでもない。
(――!! バーディゴ!!)
管制官へ通信を試みる。その前に、スコークを七七〇〇にセット。
「メイデイ・メイデイ・メイデイ!」「どうした胡蝶ォ」「宇髄さん、抜けます」「……はァ?」「このままだと堕ちます。誘導してください」
「……! マジだな。失調の自覚アリか。近くで人のいない平地……いや、飛行場がある。狭霧山だ。わかるか」「いいえ、なにも」
「クッソ退屈な業務が派手になったなァ! 胡蝶、俺様の指示に従え。譜面通り導いてやる! 機体の保証はしねェが、テメェの命は保証してやる!」
これほど頼りになる通信はない。おそらく、彼の言うとおりにすれば、私は確実に助かる。そして、空は乱れない。胸の鼓動を落ち着けて、胡蝶はゆっくりと操縦桿を握る。深呼吸を数度。広がった空は、雲まみれで何もわからなかった。
「Wilco.」
その日、狭霧山飛行場に戦闘機がひとつ堕ちた。
煌々と燃え上がる機体からベイルアウトした胡蝶は、それを茫然と見つめていた。
「胡蝶空尉!」
「……、」
ぽかんと口を開けて、呼吸をいくつかして、喉を震わせるのに時間がかかった。霜のついたまぶたとまつげをしぱしぱと瞬かせる。皮膚のつれる感触がして、まぶたが熱くなった。
じわり。遅れた涙膜がひとみを覆う。生ぬるい涙が頬をつたった。
「胡蝶! 飛行場の受け入れは万端だ、いつでも出ろ!」
どういう飛行状況になっているのかわからない。わからないまま、私は管制塔を信じた。
事故の原因はブラックボックスが証明してくれる。私はこの空間識失調を経て、何を得るのだろう。また、空を飛べるのだろうか。
漠然とした不安を抱きながら、胡蝶は緊急脱出の操作を行った。ばちん、ばちん、各機構が段階的に剥がれる音を聞く。
(、ごめんなさい)
座席が機体から離れる刹那、一瞬祈って、握っていた操縦桿を撫でた。そのあとの記憶はあまりない。射出後、身体にものすごいGがかかって(内臓が押しつぶされそうだ)パラシュートは幸運にもうまく開いて、運悪くコンクリートにたたきつけられた。
頬から血液がにじんだまま、少し前に墜落した愛機を茫然と眺めている。
声が出ない。喉がやられている。あふれた涙が、頬に滲んでひどく痛い。
『――……、こ、胡蝶、無事か! 胡蝶!』
管制塔、宇髄さんの声だ。ああそうか。私を心配してくれている。
「、ッ、あ。ハ、イ。ブジデス」
『あのパラシュートがお前だな。今看護スタッフを向かわせる。そのままでいろ。絶対ェ動くなよ』
ブツ。途切れた無線をそのままに、胡蝶はもう一度。燃え盛る炎に包まれた愛機を見た。
焼け落ちる機体は、今も目の奥に灼きついている。轟音にまかれた黒い煙が、空に吸い込まれている。鈍色の空から、しんしんと雪が降り積もっていた。
・-- ・・・・ ・- - / ・・・・ ・- - ・・・・ / --・ --- -・・ / ・-- ・-・ --- ・・- --・ ・・・・ -
「What hath God wrought……」
ぶつぶつと呟きながら、シュミレータ内でトン・ツーの二パターンから成る信号をカタカタと打つ。
「モールスか」「ええ。今は別の手段が発達したとはいえ、古式ゆかしい方法も学んでおかなくては、いざという時役に立ちませんから」
パイロットは飛ぶだけではない。ありとあらゆる知識を詰め込み、それを実証しながら空を飛ぶ。機体から発信する信号も、ボタンをどの程度押していればトンになるか、ツーになるか。すべてを最短距離で行わなくてはならない。
コックピットのシュミレータに大きな手が伸びる。太い指先が、胡蝶の言う「最短距離で」「適切な信号」を打った。
-・・・- --・-・ -・ ・・ ---・ ・・
(メ、シ……ダ……? ゾ?)
気の抜けた暗号だ。時計を見ればすでに十二時をまわって、昼休憩になっている。直接言えばいいじゃないですか。その単語を飲み込んで、シュミレータから顔を上げる。
「どこかで食べますか」
「……ん」
無表情な瞳の両手が伸びて、シュミレータに何事かをカタカタと打ち込んでいる。小柄な胡蝶を、後ろから椅子ごと抱きこむように、腕が二つ。ふと我に返って、実機に近い視界を再現したディスプレイに視線を戻す。
いつの間にかシミュレータが起動し、飛行を開始していた。冨岡は胡蝶の後ろから操縦桿を握り、疑似的に投影された青空を何度も旋回し、流麗な飛行を見せてきれいに着地する。
見惚れていた。この男が飛ぶ空に。胡蝶が我に返ったとき、冨岡の腕が引かれるところだった。無意識にその腕を掴む。あの指先はなんだったのだ。
「あなた、本当はミイロタテハに成れるんじゃないんですか」
半ばイヤミのように口をついて出た言葉を一瞬悔いる。ミイロタテハ。筋肉のよく発達した胴により、早い飛翔を可能とする中南米の蝶。訂正の言葉を投げようか逡巡すれば、腕を掴んだ手を振り払われた。
「……知らん。俺は約束を果たすだけだ」
深い溜息の音。寡黙な彼からは煙草の香りが流れている。グローブを外した手は、真冬なのに汗ばんでいた。
午前中に雪を降らせた雲はどこかに行ってしまった。からりとした冬晴れと乾燥した空気が、外に広がっている。