壁ドン(柱ドン?)が書きたくて書いた アリルほどではないが、その年のガルグ=マクはあまりにも太陽の恩恵を受けすぎていた。シルヴァンは、額を手で拭って、恨めしい思いで空を見上げた。陽はまだ中天にあり、強い光を地上に降り注いでいる。
「さぼるようなひとじゃねえんだけどな」
頼まれていた書類を持って執務室に行ったが、渡す相手の姿はなく、「大司教をどこにやったんだ……」と後ろに白きけものを背負ってセテスが言うものだから、ベレスを探し始めたのが十五分も前。シルヴァンは訓練場を出て、最近再開したばかりの士官学校の教室の方に歩を進めた。彼女はもう、教壇に立つことはないけれど気にはかけているようで、ときどきふらりと教室を覗いている。いつも魚釣りをしているため池、よく犬や猫と戯れている階段、ドゥドゥーからもらったダスカーの花を育てている温室、何も言わないでいてもいつも大盛にしてくれる食堂、……ガルグ=マクで彼女がよくいる場所をは大体まわりつくした。ひょいと、彼女がしているように扉から教室を覗いてみる。中では、生徒たちが活発に議論を行っているようだったが、ベレスの姿はなかった。
ほかに心当たりのあるところ、と考えを巡らせる。もしもまた、あのときのように、彼女が誰にも言えずにいなくなってしまうようなことがあったら――……。そう思うと、自然とシルヴァンの足は速くなる。
(いやいや、よくないことを考えてはだめだ)
日中に外を歩き回った熱を、木陰で冷ましながら、左手薬指の指輪を見た。銀色の台座にはまった複雑な色彩を帯びた石。言葉少なな彼女が、彼に与えた確かなかたちあるものだった。きゅっと手を握って、あたりを見回す。視界の端で、木々の緑とは違う翡翠色がきらめいたような気がして、じっと目を凝らす。足音をたてないように、足裏に神経を集中させた。白い柱と柱の間に、見間違えるはずのないひとの影。せんせい、の「せ」だけ発声して口を閉ざした。
午後の風が吹き抜ける回廊の、ひんやりとした白亜の柱にもたれて眠っていた。あらかた、ひとが少なく涼をとれる場所を求めてここに行きついたのだろう。いつもしている外套は外してしまってベレスが腰かけている欄干の縁にかけられてはためいている。裾の繊細な刺繍が、風の揺らぎに合わせて輝きを変える。彼女がまとっている長いスカートでも、長い脚のかたちはくっきりとしていて、教師だったころほどの露出はないうえに、さらにはふたりきりの場ではすべてをさらしているというのに、シルヴァンはまだ、恋を覚えたてのようにどぎまぎとしてしまう。
こんな誰もが通りそうな場所で無防備にして、と一瞬前に不埒な思いを抱いてしまったことをなかったかのように思って、ベレスが背を預けている柱に手をついて、顔を覗き込んだ。シルヴァンの背中が作る影で、ほの白い頬。このところ処理を急ぐ仕事が満載で、平素表情を崩さない彼女にでもさすがに疲労の色が見てとれた。
考えてみれば、生まれてこの方貴族で、その振る舞いも自然なものとなっているシルヴァンと違って、彼女は物心つく前には大修道院を離れて、地位だとか権力だとか、そういうものとは無縁に生きてきた。交渉事なんかは、すべて父親に任せてきていた、なんてことも本人から聞いたことがある。それを聞いた学生だったときは、羨望と嫉妬心から、ずいぶんとお気楽なことで、と思ってしまったものだけれど、こうして心を重ねてみれば、彼女は向き不向きも関係なく投げ込まれて、慣れないことにも必死で取り組んできてくれたのだな、と感じもして。いとおしい気持ちだとか、申し訳なさだとかがごちゃごちゃになってこみ上げる。じっと見つめていると、居心地が悪いのかわずかな身じろぎをした。ふわりと一房髪が頬にかかる。それを払いのけてあげようと手を伸べて、はたと止めた。いくら風が通るとはいえ、最も暑さの厳しい昼下がり、白い首筋に玉のような汗が浮かんでいた。
「……」
シルヴァンは息を殺して彼女の方に顔を伏せた。羽が触れたくらい、軽く。
「ん……?」
微細なまつ毛のゆらめきのあと、硝子玉のような目がうっとりと開かれる。焦点が合わないのか、何度か瞬きを繰り返して、
「しるばん……?」
まどろみのなかの舌足らずで名前を呼ばれた。
「おはようございます、せんせ」
目をこすろうともたげたベレスの手を止めるように握って、淡い桃色の爪先に、たしなめるように唇を寄せる。
「……どれくらい、眠ってた?」
「へ? いや、ちょこっとだと思いますよ。ほんの四半刻もたってないかと」
「そう」
ベレスはほっと息をついて、目を伏せた。まつ毛の先が頬に心許ない影を作る。もともと傭兵だったからか、彼女は野生の動物みたいだ。うまく不調を口にできないらしい。握った指先をゆるゆると振ってみた。賽子でもあるまいに、振ったところで何か続きが出てくるとは思えないけれども。
「大丈夫か?」
「え?」
「いつもあんた、なんてことないみたいな顔して、無理をしてるんじゃねえかって」
ベレスは目を見張った。心配そうにしている彼の鳶色のあまい目元に、強すぎる夏の光からベレスを覆っている彼の影に、急になつかしいもののおもかげがよみがえっているような気がした。
***
「……あーあ、もう、暑くってやってらんないですよ」
黙り込んだベレスの外套を、さりげない動作で追いやって、シルヴァンは隙間に滑り込むようにベレスの隣にぴったりと腰かけた。すかさず彼女の細い腰を抱き寄せる。
「ちょ……!」
ベレスは半ば飛び込むようにシルヴァンの懐にもたれかかった。
「ちょっときゅーけーしましょ、ね。あっ、それとも、寝室にします? 俺もお供しますよ……って、そんな冷たい目で見ないで」
「減点だ……」
口調はげんなりとしたような雰囲気なのに、それとは裏腹にベレスは彼の懐に身を寄せた。
「減点!? 点数制度あったんですか? 何の? でも、開始時点で何らかの点数があったのは嬉しい」
「いそがしいなあ、きみは」
「はい、あんたを見つめているのに」
「……」
落とし所がなくなったからおしまい