夜をおわれない たとえば、手首を標本みたいに縫いとめたら。
蝶の羽を握ってぼろぼろにまき散らしたみたいな彼女の髪の端に、茶色くて短い毛並みが絡んでいて、興が冷めたようにシルヴァンはため息をついた。
黒くてつぶらなふたつの目玉が、月明かりしかない夜の中で、見張っているぞと言わんばかりに光っている。
「どうしたの」
シルヴァンの懐からベレスが同じような目をして彼を見上げていた。やっぱり、苦手だ。
「こんなクマの人形、先生の部屋にありましたっけ」
「……ああ、ジェラルトがくれたんだ」
「ジェラルト殿が?」
「落とし物を見つけたらくれた」
なんだってそんな、小さな子どもにあげるようなものを、とシルヴァンは思ったけれども口にはしなかった。ジェラルトが、ベレスのことを本当に大切にしていることは、まなざしでわかっていた。そしてまた、ベレス自身も、誰よりジェラルトのことを信頼していることも。
シルヴァンはベレスの両手首をつかんでいた腕を伸ばして、クマの人形をうつぶせに転がした。それから、手近にあった手巾を、布団のようにかぶせてやった。
「何をしているの?」
「先生には、見られたい趣味でもあるんですか?」
「?……よくわからない」
「先生がそうだってんなら、俺もやぶさかじゃない……と言って差し上げたいところですが、今日のところは先に休んでおいてもらいますね」
何を聞かれて何を答えさせられたのかわからない様子でいるベレスに、「先生はわからなくていいですよ」となだめるようにベレスの鼻先に自分の鼻をすり寄せて、シルヴァンは安心したようなようすで抱き寄せた。
もう三日、顔も見ていない。食事さえ摂っていないのか、合わせる顔がなくて時間帯をずらしているのか、食堂にも現れない。授業は代行してマヌエラやハンネマンが行っているから、おそらく教職員にはきちんと話をしているのだろう。しかし、一介の生徒に過ぎないシルヴァンには何も告げられることはなく、級長であるディミトリにそれとなく聞いても、知ったうえで隠しているのか、あるいは状況から慮っているにすぎないのか、らしくないあいまいな表情をされるばかりだった。
どうして知らされないのか、シルヴァンは珍しくいら立ちを隠せないでいた。担任であるベレスが少し休んでいるということは、青獅子の学級の生徒たちにも少なくない影響を与えていたが、ほかの生徒たちが感じている感情と、シルヴァンが感じていることは違うという自覚が、彼にはあった。
シルヴァンには、ベレスとはほかの生徒よりは親しい自信がある。……主に、身体的なつながりがあるという点において。
きっかけは夏の、嵐の夜だった。コナン塔からの帰りに宿泊した部屋の扉を控えめに叩いたのはベレスのほうだった(から、ベレスのせいだということに彼の中ではなっている)。雨音に紛れてしまうのではないかというようなか細い声で名前を呼ばれて、眠れずにいたシルヴァンは扉を開いた。
「落ち着くと思う」
そう言って差し出されたマグカップからは、優しいカミツレの花の香りがした。穏やかな夜をいざなうかのような、その香りと、彼女のつむじのにおいとを感じると、なんだか涙が出てしまいそうになって、「それだけだから」とつれなく帰ろうとしているベレスのゆるい夜着の袖の裾を掴んでしまった。裾に探るような視線をやったベレスが、挑むような目でシルヴァンを見上げた。
それ以来、ふたりは誰にも言えない関係にはまり込んでいた。大概はシルヴァンの方が、質問だのなんだのと理由をつけてベレスの部屋を訪問していたが、ごくまれに、ベレスのほうが彼の部屋を訪れることもあったから、無理やり手籠めにしたのではない、とシルヴァンは自分を納得させた。恋人、ではどう考えてもないけれど、ふたりの間には特別ななにかがあるのだと信じて疑わなかった。
だから、なぜこのときに限って、時折彼女がするように部屋の扉を叩いてくれないのかがわからなかった。
「先生、入りますよ」
シルヴァンは扉の取っ手に手をかけた。
室内は灯りもともされず、月明かりだけがぼんやりと室内に差し込んでいた。いつも修道院内で忙しそうに翻る外套の裾が、しどけなく広がっている。寝台に膝を抱えて小さく座っていたベレスがふと、面差しを上げた。夜色の髪はどこかしんなりとしていて、肌が白いのをさらに青白くまでさせている。シルヴァンは後ろ手に扉を閉めて、脅かさないようになるべくゆっくりと室内に歩を進めた。何も持たないでいるのも手持無沙汰だろうと持ってきた茶器のポットから細く立ち上る湯気が、彼の動きに合わせてゆらゆらと揺れた。ベレスは何も言わないで近づいてくる彼をぼうっと見ていたが、泣きはらした眦が痛々しく赤く、気まずそうに目を伏せた。
「きみに心配されるのは、なんだかむず痒いね」
「心配くらい、します」
「でも土足で乗り上がってくるんだね」
「あんたも、俺に対して同じでしょうが」
「……そうかな」
「そうですね、あんたは知らなかったでしょうけど」
シルヴァンは寝台の脇に突っ立って、ベレスの胸と膝の間に鎮座しているクマの人形に目をやった。なんだか、すごくいい位置にいるな、人形の分際で、と思ったけれど、彼女が父親からもらったその人形を少女がするように大切にしていたことを知っていたので、それについては口にする気も起きなかった。
「忘れたいですか」
代わりに出たのは、脊椎反射みたいな言葉だった。あまりにも彼女の肩が細かったから。
ベレスは何を言っているのかわからないという表情でシルヴァンのほうを見上げた。ぱちぱちと瞬きを繰り返すと、まつ毛の先にとどまっていた涙のしずくがはじけていった。シルヴァンは無表情を貼り付けて、「……簡単なことです」と低くつぶやいた。
「先生」
シルヴァンが片膝を乗り上げた寝台が、苦しい悲鳴をあげる。シルヴァンのきれいな顔が寄せられると、そっとベレスは胸に抱いていたクマの人形で彼の胸を押し返して左右にかぶりを振った。
「……今日は、無理だ」
「どうして?」
「気分になれない」
「どうしても?」
「わかるでしょう」
強がって見上げたベレスのまるい目が腫れぼったくなっていてかわいそうだった。
「俺が兄上を殺した日に、俺の部屋に来たのはあんたでしょう」
ベレスによって胸に押し付けられていたクマの人形をひょいと取って、「あっ、」とベレスが言うより早く、脇机に転がしておく。本物の熊みたいに獰猛な気持ちで、今度こそシルヴァンはベレスの寝台に乗り上げた。折りたたまれた脚の間に身体をねじ込んで、彼女を膝の上にのせて強引に唇を重ねる。
(もう少し、おとうさんのむすめでいたかった)
かたく閉じたベレスの目の端から、細く涙が零れ落ちた。