きみの部屋へ 長義が暮らす単身用マンションはいわゆる借り上げ社宅で、希望すれば破格の家賃で住むことができる。とてもお得な福利厚生だと思うのだけど、当然住人は同じ会社の面々になるわけで、プライベートでまで会社の匂いを嗅ぎたくない人にはわりと敬遠されるとかなんとか。
ちなみに長義にとってそんなことはどうでもいいので、快適な借り上げ社宅ライフを送っていた。
「いた」のだ。過去形。
はあ、と、小さく息を吐く。入社以来数年過ごしたマンションは駅から徒歩八分で、立地条件はよし。でも、オートロックなんてハイスペックは、ない。
いつものように、エントランスの集合ポストで郵便の確認をして、そのまま階段で二階まであがろうとしたとき、隅に見慣れない人物がいることに気づいた。
「……?」
「――ね、長義。あの人、怪しくない?」
「ひいっ」
人影を気にしていたからか、背後の気配はまったくのノーマークだった。
突然耳元で囁かれて、とんでもない声が出る。案の定、長義のとんでもない声に、見慣れない人影もこちらをちらりと見た。
「長義、声、おっきいよ」
「き、き、清麿、だって、びっくりするだろ、突然」
「突然じゃないよ、さっきからずっといたよ」
「……」
あ、そうなの……。
長義よりやや低い目線の清麿を、半身で振り返った。相変わらず華やかないでたちの彼は、普段のほんわりとした表情をすいとひっこめて、指先を唇に充てる。
彼は入社以来この借り上げ社宅(の隣部屋)で共に暮らしている唯一の同期なのだ。
「それにしても、久しぶりだね、清麿。いつこっちに戻ってきたのかな」
「先週」
短く答えながらも、清光は目線を見慣れない人物から離さない。
「そうなんだ。相変わらず忙しくしているんだね」
「長義こそ。訊いたよ。O支社に転勤なんだって? いつから?」
「来月かな」
「そっか。ついに引っ越しちゃうんだね。寂しくなるなあ。引っ越し屋さんはどこに頼むの? 会社で?」
長義と清麿が勤める会社は全国展開をしている。所帯をもたない若年層は簡単に転勤辞令が出る古風な体制なのだが、引っ越し費用一式は会社が負担してくれる。
もちろん、自分のこだわりで引っ越しスタイルを好きに選んでもいいけれど、その場合補助金は出ない。
「うん。いつものところに頼むつもり。で、今日、見積りに来てくれるはずなんだけど……」
「え。じゃあ、まさかあの人」
長義の背後にやや身をかがめつつ、清麿はエントランスに佇む人物を目で示す。長義もさっきからうっすら感じていたのだ。もしかすると、あの人が、
「――あの、すんません、オワリサン、っすか」
「……」
「オレ、一文字運送の南泉ですけど、見積りに伺いました」
「やっぱり!」
叫んだのは長義ではなく清磨だった。それから、
「長義、大丈夫? どう見てもヤンキーの兄ちゃんなんだけど」
などと長義の耳元で囁く。
「……」
「僕もいっしょに立ち合おうか?」
そして瞬きをするたびに音がしそうなほど長いまつ毛を伏せて、天然ほんのりピンクの目元を揺らせた。そんな儚い表情を浮かべながら、手にしていたコンビニの袋をがさがさと探る。
「さっきコンビニで牛乳買ってきたし、あんなひょろこいヤンキーなら、これくらいでやれると思う」
けれど、ふるふるの唇を震わせて囁く言葉は、これ以上ないくらい物騒だった。
「……いや、ありがとう。俺だけで大丈夫……」
やれる、って何だ。やれる、って。
■■■■
「長義、わりぃ、遅くなった」
「ううん。俺もさっき来たところ」
長義の会社があるターミナル駅からJRで一駅離れた、新幹線の発着駅の改札で、今日は南泉と待ち合わせだ。
転勤シーズンの到来で、南泉はかつて長義にしてくれたように、各地を巡って引っ越しの見積りを提示し歩いているらしい。
そのぶん普段の発送業務はウエイトが軽くなるらしく、今日も
「十九時半には戻ってくるから! めし、いこ!」
と、事前に約束をしていたのだ。
「新幹線でビール飲んだの?」
「まさかあ! 一応、業務中だぜぇ。……あっ、やべ、お頭に業務終了ラインしとかないと。ちょっと待ってな、長義」
「うん」
人通りを避けて壁際に寄る。南泉がちまちまとスマホを弄るのを見るとはなしに眺めていたら、ふと、新幹線の改札から吐き出される人並みに見覚えのある人影が視界に入った。
「――?」
人影もふとこちらを見る。視線がばっちり絡んで、互いの名前を叫んだのはほぼ同時だった。
「長義!?」
「清麿?」
この距離でもわかるほど長いまつ毛をしばたたかせてから、清麿はふわりと目元を緩ませる。やっぱり変わらないかわいい笑顔を惜しみなく晒して、それから、
「――どうして、あのときのヤンキーが長義のとなりにいるの? これで、やる?」
手に提げていたコンビニ袋から五百ミリのペットボトルを朗らかに取り出したのだった。
「――にゃ?」
やらない! やらなくていいから! と、長義が慌ててペットボトルを清麿の手から奪う。
最後に彼に連絡をしたのはいつだったか……。年賀のときかもしれない。どちらにしろ、ひさしぶり、とか、元気にしてるかい、とか、そんな挨拶もなく鈍器(代わり)を取り出すなんて、偶然、予想外の場所で遭遇した友人との会話のテンプレートはどこに、と、いいたい。
(もしかしてこれがテンプレなのかもしれないけど……)
そして、後で南泉と食べようと思って買っていた、隣県特産品のショコラバーを清麿の手に握らせる。ドライフルーツやナッツがいっぱい入ってるやつ。ピスタチオはまだ食べたことのないフレーバーだったし、新幹線発着駅にしか売っていないから、待ち合わせをする前に買おうって楽しみにしてたやつ! でもまた後で買う!
「清麿、これ、よかったら食べて。あと、こっちは、南泉っていって、その、あの、……」
そして、ごにょごにょと続ける。なんだかショコラバーが賄賂みたいになった? ごめんショコラバー、そんなつもりはなかった。でも、察せ、清麿!
「知ってるよ。一文字運送の南泉くんだよね。二年前の引っ越しのときに見積もりに来てた」
「あ……、うん、それで……」
「んもう、長義、べつに後ろめたいことなんてないんだから、いいじゃない。――ねえ?」
最後のセリフは南泉に向けられたものだ。南泉はスマホを手に、ぽかんと成り行きを見ているままだ。止まっている親指は、ちゃんと上司へ業務報告を完了させたのだろうか、なんて、どうでもいい心配などしてしまう。
「へえ、まさかねえ、長義が、あのときのヤンキーのお兄ちゃんとねえ」
「う……っ」
ニヤニヤと笑う清麿の視線から目を逸らす。違う、俺だって、あのときはこんな展開になるとは!
……いや待てよ、今、俺と南泉ってただ並んで立ってただけだよな? そういう関係じゃなくても並んで立ったりするよな?
どうして俺、訊かれもしていないのに自爆しているんだろう……。
やや呆然と立ち尽くす長義をよそに、清麿はさらに南泉に続ける。
「でも、もし、きみが長義のことを大事にしないなら、こうするよ」
「えっ」
そして、ばきん、ばりん、と、これぞ破壊音、と、いう小気味いい音を立てながら、清麿は片手で箱ごとショコラバーをばりばりと砕いた。ていうか、チョコが……!
「はい。長義。返すね。食べたくて買ったんだろ。きみ、甘いもの好きじゃん」
「あ、ああ……」
そして長義の手にぼろぼろになったチョコを乗せると、素早くペットボトルを奪う。
「また連絡するね。今日は僕、急いでるから」
にっこり笑って、それから、あっという間に在来線の乗り換え口へと去っていってしまった。
ふんわりと瑞々しい香りが残るのは、彼の残り香だろう。新しい香水に変えたんだ……。いやそれより……。
恐る恐る南泉を見る。さすがの彼も気を悪くしたかもしれない。違う、悪いやつじゃないんだ、ただ、ちょっと、その……。
「すげえやつだな……」
「……なんか、悪いね……。ていうか南泉、覚えてない? きみ、清麿に会うの二度目なんだけど」
「あいつ清麿っつうの。ふーん。知らねえよ。えー、あんなやつに会ったら覚えてそうだけどにゃあ。いつ会ったっけ?」
「俺のマンションに見積りに来てくれたときだよ」
「え。覚えてねえ」
え。そうなの。……そうか……。考えてみれば、あのときはまだ長義と南泉はこんな関係でもなかったし、ましてや、こんな関係になるなんて想像もしてなかったし!
(たしかに、清麿の言う通りなんだな……)
南泉と初めて出会ったのは以前住んでいたマンションだった。けれど、それって南泉にとっては仕事の一環だったわけで。長義の部屋に来たのも、今日、南泉が行ったみたいに、奔走する見積り案件のひとつだったわけで。
(わかってる。知ってるけど、俺だけいつまでも覚えてるのって、なんだか……)
ちょうどバレンタインの時期だったから、この時期が来ると南泉と初めて会ったときのことを思い出してしまうのだ。
(べつにあのとき南泉に一目惚れしたわけじゃないけど!)
ライトノベルみたいな言い訳を胸中で唱えたら、長義の手からぼろぼろになったチョコレートがすっと引き抜かれる。
「あっ」
「スゲー……粉々……。あいつめっちゃきれいな顔してんのに物騒すぎね? さすが長義の知り合い」
「どういう意味?」
「一筋縄ではいかないってこと、にゃ」
南泉はにんまりと笑って、そして空になった長義の手を自身の手でぎゅっと握る。ただ、手をつないだだけなのに、ふいうちすぎて、かあっと頬が熱くなる。南泉の手は暖かくて、固くて、柔い。
「見積りんときは、お前のことしか、覚えてねーよ。めっちゃ顔のきれいなやつって思った。それが今は、オレのもんだもんな」
「……」
そして、耳元でそんなことを言われる。暖かいのは手だけじゃなくて、たぶん、南泉は体温も高い。だって近づかれると、どこでだって、長義の肌は熱くなるから。
「でも、すげー性格だなとも思ったけど」
「南泉っ」
ははは、と、南泉は笑って、長義の手を引いて歩き出した。さっき清磨が消えていった、乗り換え口のほうへ歩き始めて、あ、と、呟く。
「チョコレート、買いなおす?」
これ。と、緑色のパッケージをはたはたと揺らす。
「いい。どうせ食べるときに砕くから。それより」
「――ん」
早く、南泉のマンションに、行こう。
end
(2022.02.20)