天涯(アンソロ没) この先に果てなどないとわかったとして、それでもなお、人は歩み続けるのだろうか。
「もしもォし。ンだよ蛇ちゃん? ンあ、メルメル? が、どうかし……あ?」
落ち着いて聞いてください、という前置きに続いて茨の口から語られた内容は、にわかには受け入れ難いものだった。
──〝HiMERUが何者かに刃物で刺され、救急搬送された〟。
指定された大学病院の待合室でプロデューサーと合流した燐音は、まだ信じられない心地で白い廊下を進んだ。表に名前の書かれていない個室の前で、彼女は立ち止まった。これから別の現場へ向かわねばならぬのだと言う。ESのアイドルがこんなことになってしまって、ショックを受けていないはずがないのに。燐音の目にはこの年下の少女の気丈さが時折痛々しく映る。
弟を持つ兄貴の顔をして「無理は禁物だぜ?」と伝えると、彼女はすまなそうに眉を下げたあと会釈をして去っていった。
「天城氏」
扉が細く開き、中から茨が顔を出した。
「おう。容態は?」
「安定しています。治療を終え、今はまだ麻酔が効いている状態です。発熱するかもしれませんが、医師が心配はいらないと」
「そうか。良かった」
「中へ入る前に。気になる点が、すこし」
レンズの奥の眸に、陰がさす。彼の肩越しに病室の様子を窺えば、ベッドのそばにはニキ、こはく、それから玲明学園の知己だという巽が黙したまま集っていた。
燐音を押し出す形で、茨も廊下へ出た。立て板に水にぺらぺらとよく回るはずの舌が、珍しく言い淀んでいた。
「言えよ。何か気づいてンだろ?」
「いえ、ええ……しかしあくまで自分の憶測という体で聞いていただきたい」
そこまで言いづらいことなのか、と燐音は僅かに目を瞠るが、無言で先を促した。
「天城氏には釈迦に説法でしょうが……我々はこういう仕事ですから、誰かから恨みを買うことは珍しくありません」
よくよくわかっている。恨みは勿論、妬み嫉み、行き過ぎた愛情だって場合によってはそれらと変わらない。強い負のエネルギーを煽り唆し人々を動かすことは、燐音の最も得意とするところだ──つまり、わかりきったことを敢えて口にするということは、今回に限っては前提が違うということになる。
「ファンによる逆恨みの線は薄い、ってことか」
「さすが理解がお早い。自分もはじめはその線で調べましたがそうではない、これは素人の犯行ではありません」
迷いのない口ぶりから、〝憶測〟というのは方便であろうと察した。この男は既に確信を得ている。それもここでは言えないようなことを、知っている。燐音はそう断じた。
「……わかった、ありがとな。またあとで」
彼は首肯して背を向け、そのまま病室へは戻らずに廊下の向こうへと姿を消した。
──まったく、プロデューサーの彼女もあの副所長も、これでは休むどころか目を瞑る暇すらないではないか。ふう、と何に対する感慨かもわからない嘆息を吐き、腹を括って扉を開いた。
「燐音はん」
眉間に深い皺を刻んだこはくがこちらへ顔を向けた。憔悴しきった巽と、その背を擦るニキも、視線だけを動かして燐音を見やる。
HiMERUはまだ眠っていた。肩口まで布団が掛けられているために、どこをどうやられたのかは確認できない。
「わりィ、遅くなった」
「ほんまやで。病院出たらしばいたるから覚悟せえよ」
へらりと笑って「勘弁しろよォ」と返すと、ぴんと張られていた緊張の糸がすこしばかり弛んだ。尋常でない様子の巽を除いて、であるが。
「……巽ちゃんダイジョブ?」
「なは、ダメかも」
苦笑いで応えたニキは、隣で俯く男の肩をポンと叩いて立ち上がった。腹が減ったから売店に行くのだと言う。
備え付けの丸椅子に座り、背中を丸めたまま動かない巽。足元に屈んだ燐音が顔を覗き込むまで、来客があったことにも気づかなかったらしく、名を呼んだことでようやく反応を示した。
「燐音、さん」
「お~、お見舞いアリガト。心配いらねェってよ。ンな思い詰めンなって」
「……ですが、俺、は」
「あン?」
しばしの逡巡ののち、やはり俯いて額を覆い、巽は言葉を紡ぐ。いつだって白百合のようにしゃっきりと背筋を正して立つ彼の、こんな姿を見るのは燐音もこはくも初めてだった。
「また俺は、みすみす、このひとを傷つけさせてしまって。後悔してばかりです。あの時だって……ああ、駄目ですな、怒りに……妄執に搦め取られそうになる」
玲明学園でかつて起きた惨事については、HiMERUの経歴を調べる過程で把握していた。まさにこの男が、その渦中にいたということも。
「誰がやったとて、一介のひとの子である俺に裁けようはずもないのに……そればかりを考えてしまいます」
「わしかて同じじゃ」
静かな焦燥を含んだこはくの声が、ぽとりと部屋に落ちる。
「犯人見つけ出して、HiMERUはんがされたんとおんなしことしたりたくてしゃあないわ。けどなぁ、裁くんはわしでもぬしはんでも、ましてや神はんでもないで。法じゃ。ぬしはんがいくら自分を責めたかて、こっからは司法の領分や」
床を睨み続ける巽の、関節が白く浮き出るほどに強く握られた手を一瞥し、それでもこはくは畳み掛ける。
「わしらの出る幕とちゃう。大人しゅう待っとき。あん副所長はんならなんとかしてくれるやろ」
「……だなァ」
巽の顔色がいくらか戻ったのを見て取り、燐音はほっと息をついた。このどんより湿ったお通夜ムードをどうしたもんかと思ったが、こはくのお陰で持ち直しそうだ。
「さ、もうおせェし、おめェらは帰った帰った。あとはオトナに任せな」
売店から戻ってきていたニキに促して皆を退室させ、自分はひとり、その場に残った。「またお見舞い持ってくるっすね」とニキが、「なんかわかったら教えてな」とこはくが、それぞれ言い残していった。巽はあれから口を開かず、最後に深々と頭を下げた。なんのお辞儀だろうか。〝HiMERUさんをよろしくお願いします〟のつもりなのだとしたら、あんたによろしくされる筋合いはねェなァ、などと燐音は思う。
きんと静謐な病院特有の空気に溶ける、薬品のにおい。特別病棟の個室はシックなブラウンのインテリアで纏められており、間接照明の淡いあかりも手伝って居心地は存外悪くなかった。
室内をぐるりと一周見渡し、壁に沿って置かれたベッドに戻ってくる。
夜に浮かぶ、月色の双眸、が。
まんじりともせず、燐音を見ていた。
「起きてたの」
「寝てました」
「聞いてた? 話」
「聞いてません。寝てましたから」
嘘ばっか。とは思っても口に出さないのがいい男だ。すなわち天城燐音はいい男である。だから、そういうことにしておいてやる。おまえと、風早巽のために。
「……、この一件、さ。俺に話せること?」
HiMERUははいともいいえとも答えなかった。ただふいと目線を明後日の方へ向けただけだった。
「あっ、そォ。ンじゃいーや、こっちで勝手に調べる」
「ご随意に」
成程、自分の口から話したくはないが知られたくないことでもないらしい。HiMERUがあえて口にしない機微を汲み取ることなど、燐音にとっては造作もない。
「仕事の方は副所長と俺っちでフォローしとくから。ちょっと長めの休暇だとでも思えよ。とにかく安静に、な?」
またHiMERUは、返事をしなかった。納得いっていないのは明らかだ。
燐音はベッドへ──恋人のもとへ歩み寄り、横たわったままの彼の顔のそばに手を着いた。特室の上等なマットは体重をかけたところですこしも沈まない。子どもをあやすみたいに額にくちびるを落とすと、声を低くして囁く。
「犯人は俺が見つけ出して消す。誓ってもいい」
おまえがここで休んでる間に、ぜんぶ終わらせといてやる。だから安心して寝とけ。
人懐っこい笑みを消して物騒なことをのたまう男に、HiMERUは複雑な表情を向けた。どうやら相当お怒りのようだ。先程まで行儀よく仕舞われていた殺意が今は開けっぴろげで、もし今看護師が訪れたら通報されてしまうのでは、と不安になる。
「──まったく。アイドルのしていい顔ではありませんよ」
「なァに心にもねェこと言ってンだ。嬉しいっしょ? おめェのために本気で怒ってくれる奴がいるンだぜ」
額どうしをすり合わせ、病院にはそぐわない睦言を吐き出した。
「それに、今はアイドルじゃねェ。おまえのもんだ」
──ひと目を避けるように病室をあとにした燐音の耳には届かなかった。
「今回ばかりは……消されるのは、あなたかもしれませんよ。天城」
そう、HiMERUが零した言葉は。
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