恋心を忘れる魔法薬を飲んで7年分の記憶を失うジェイドの話7 結論から言えば、ジェイドの記憶は戻らなかった。
翌朝アズールが目を覚ました時には双子はすでに起きていて、無理矢理にでも起こされなかったのはおそらくそういうことだったのだなと妙に納得しているアズールがいた。
上手くいくかは元々半信半疑であったので、これで元に戻ったら運がよすぎるくらいだったのだ。
落胆の表情は浮かべなかったはずだ、多分。
アズールは少しでも動揺していると思われないように、「それでは別の方法を考えてみましょう」と静かに言った。
そしてジェイドも「そうですね」と穏やかな笑みを浮かべたけれど、その時ジェイドが何を考えていたかアズールには分からない。
思い出せなかった自分自身に失望していたか、それとも本当に前向きな気持ちで頷いたのか。しかしどちらにせよ、アズールのする事はひとつだ。
一度の失敗で挫けてはいられない。
三人一致でジェイドの記憶を取り戻すことに決めたのだから、アズールは何としてもその方法見つけなければならないのだ。
アズールが作った「恋心を忘れる魔法薬」は、魔法薬の調合に長けたアズールの祖母がずいぶん昔に作ったレシピを元にしてアズールがアレンジを加え完成させたものだ。
魔法薬の調合はとてもデリケートなものであり、その時の温度や湿度なども重要な要素になりうる。
つまり海と陸では根本的な作り方も違えば適した素材も違う。共通して使用できる素材もあるが海では有効で陸では無効なものもあるし、その逆もある。
そんな訳で、海で使われていた祖母のレシピを陸用にアレンジしたのがアズールのレシピというわけだ。
長い間使われてきて効果が実証されている祖母のレシピに問題があるとは思えない。
アズールがアレンジしたとは言っても、長い魔法薬学の歴史で既にその効果が証明されている代用素材に書き換えたに過ぎないので根本的には何も変わっていないのだ。
だとしたら変身薬との飲み合わせの問題かと、素材ごとに起こりうる副反応を細かに調べ上げたがどれも当てはまるものはなかった。
ではやはり、なんらかの理由で薬が変質してしまったか、ジェイドにだけ突然変異的に副反応が起こってしまったのか。
どんな薬にも完璧はない。
例え一万人に同じ効果があっても、10001人目に重篤な副反応が起こってしまう可能性はなくせないのだ。
しかし当然ながら、アズールの薬に対してそれを判断できるだけの十分な数のサンプルはない。
はじめにその薬の依頼を受けた時に過去の契約違反者を対象に(半強制的に)有志を募って治験はしたが、その結果は全て良好で追跡調査の経過も順調だ。
それなのにジェイドだけが、恋心以外の記憶をすっぽりと忘れ去ってしまった。
学業と仕事と解除薬の手がかり探しに明け暮れ、さまざまな資料の山に埋もれながらアズールは頭を抱えていた。
図書館に通い詰めてもインターネットを漁っても何一つ欲しい情報に辿り着けない。
特定の感情や一定期間の記憶を忘れる魔法薬は歴史的にもずっと存在しているが、現実にその症例をまとめた書籍などはとても少なかった。
そもそも記憶操作系の魔法薬は禁術クラスで一般には出回らない上、当の本人が記憶を失っているわけだから服用した本人が何を忘れ何を覚えているかを検証するのはとても困難なのだ。
結果、忘却薬に関する副反応や解除薬に関する手がかりもほとんどない。
「どうアズール、なんか分かった?」
その声にふと顔を上げれば、ラウンジで仕事中のはずのフロイドがすぐ横に立っていた。
「……いえ、忘却薬に関する文献を片っ端から漁ってはいますが今のところめぼしいものはありませんね」
「そっかぁ。オレも色々探してはみてるけど、ジェイドみたいな症例が全然見つかんないんだよね」
やはりフロイドの方もダメかとアズールがさらに眉間の皺を深くすると、机の上に広げられた様々な文献を見下ろしながらフロイドがぽつりとこぼす。
「てか本当に魔法薬のせいなのかなぁ~」
きっとなんの気なしに、言ったフロイドの言葉がやけにアズールの耳に引っかかる。
魔法薬を飲んだ後に記憶を失ったのだからそれは当然薬による反応だと思っていたが、そうでない可能性の事をアズールは考えたこともなかった。
「薬とは関係なく記憶を失ったということですか……?」
「その可能性もなくはなくない?」
「そんな事ありうるのか……?」
あるとしたらどうして?
記憶喪失になる可能性があるパターンとして、強いストレスやトラウマ、事故などによる脳の損傷があげられるが、薬を飲んだあとフロイドと同じ部屋で眠っていたジェイドが、脳に損傷を受けるような事態に陥ったとは考え難い。
だとしたら、強いストレス……は思い当たる節しかないし、「気待ち悪い」と言ったアズールの言葉が、ジェイドに記憶を失わせるほどのトラウマを植え付けた可能性は非常に高い。
「もしかしなくても僕のせいか……?」
「あはは、かもね」
「笑い事か!いやでももし本当にそうだったとしたらどうすれば……」
「さぁ?カウンセリングとか?」
「カウンセリング……」
あのジェイドが素直にそんなものを受けるだろうか。
疑り深いあいつの事だから、素直に胸の内を話すどころか逆にカウンセラーの腹をさぐってユニーク魔法でもかけかねない。
間違いなく薬が原因であれば解除薬のレシピを模索することもできるというのに、本当に心因性のものであるとしたら素人のアズールの出番ではない。
まだ「その可能性もある」という段階ではあるが、可能性がある以上このまま放っておくわけにはいかなかった。
「はぁ〜………」と、アズールは深くため息を吐いてまた頭を抱える。
一体どこから手をつけていいやら。
解除薬を飲んで目覚めても記憶が戻っていなかったあの日から、ジェイドは本当にいつも通りだ。
規則正しく寝て起きて、授業を受けてラウンジで働いて。
以前ほど頻繁に遊びに出かける事は無くなったが、時々は他寮の生徒とも交流しているらしい。
副寮長としても副支配人としても仕事ぶりになんの問題もなく、ジェイドの日常は滞りなく進んでいる。
一度不満をさらけ出してスッキリしたのかフロイドもすっかり元通りで、これまで通り気分が乗ったり乗らなかったり。
ジェイドにはもちろん元に戻っては欲しいけれど、変に気負う事もなくフロイドのペースでのんびりとやっている。
そしてジェイドが言った通り、「最後のお願い」以降ジェイドからアズールへそういった感情を向ける事はなくなった。
「すきです」と言葉にして伝える事はもちろん、熱を込めた瞳でアズールを見つめる事もない。
アズールへの感情が突然失くなるはずもなく、ジェイドが意識してそうしているのは明らかで、むしろアズールの方がついついジェイドを目で追ってしまう。
無理をしているんじゃないだろうか、また自分を責めてはいないだろうか、自分が役立たずだなんて思い込んではいないだろうか。
でもそうしてアズールが気に掛ければ気にかけるほど、また更にジェイドに気を使わせてしまう。
アズールの見える範囲では気丈に振る舞っているけれど、本当のジェイドはどんな気持ちでいるのか。
「……フロイド、部屋にいる時のジェイドはどんな様子ですか」
フロイドがソファに寝転がって堂々とサボり始めた事には目を瞑り、アズールは寛いでいるフロイドに声をかけた。
「え?相変わらずだよ。テラリウム作ったりなんか山の写真とか植物の図鑑とか見たり。あれ何がおもしれぇんだろ」
「そうですか……」
記憶を失くしたばかりの頃こそ自分が山やキノコに興味を持っていた事を不思議がっていたのに、ほんの短い間でジェイドはすっかりまたその世界に魅了されてしまったらしい。
アズールやフロイドからすれば全くもって何が楽しいか分からないが、そういったものを好む性質は生まれ持ったものなんだろうかと考えて、アズールはふと思い出す。
「そう言えば、あいつ海にいた頃からよく陸の植物の図鑑なんかを見てましたよね」
「そうだっけ」
「そうですよ。あいつ時々『僕はもう読みましたので』とか言って薬草の本をくれたりして。陸でしか手に入らない貴重なものもあって僕も助かりましたけど、考えてみれば昔から山や野草なんかには興味があったんでしょうね」
「そうだっけ……?」
「そうですって」
アズールの記憶には熱心に陸の本を読むジェイドの姿が確かにあるのだが、フロイドはあまり覚えがないようで「うーん」と首を捻る。
海にいた頃、フロイドはジェイドから山だの草だのに興味があるなんて話を聞いた事がない。
むしろジェイドは陸に憧れる人魚の気持ちが全然分からないなんて言っていたのに。
「うーん……、そう言えばジェイドが誕生日に陸の本をねだってたことがあった気もするけど……」
「ほら、誕生日プレゼントにねだるくらい興味があったという事でしょう?」
子供が誕生日プレゼントに本をねだるなんてよっぽどだ。
相当に興味があって好きでなければ一年に一度のプレゼントに本を、しかも陸の植物の本なんかを選んだりはしない。
フロイドはそれもそうだよなと納得しつつ、なんでジェイドは陸の本なんか欲しがったんだっけと記憶を探る。
そしてよくよく考えて、ある事を思い出したフロイドはぶはっと吹き出した。
「うわ、急になんだ汚いな!」
「いやごめ……っ、あははっ、ヤバ、今思い出したわ」
「は……?」
フロイドは相変わらずひーひー言いながら腹を抱えて笑って、アズールは訳もわからず笑い転げるフロイドをただ見ているしかない。
「あっは……、アズール、ジェイドが陸の本読み始めたのって、アズールが陸の学校に行きたいっていう話を聞いてからだよ」
ようやく笑いが止まったフロイドが何を言い出すかと思えば、やっぱり訳がわからなくてアズールは「は?」と眉を顰める。
「しかもそれジェイドが興味あったからじゃなくて、アズールともっと話したかったから」
「はぁ?」
「ジェイドがそういう本読んでたのってアズールの蛸壺に居る時とかでしょ?うちでは全然読んでなかったもん」
聞けば聞くほど意味が分からない。
確かにジェイドはアズールの蛸壺でよく本を読んでいた。
用もないのにしょっちゅう遊びに来るジェイドに邪魔だと言ったら、僕は本でも読んでいますからお気になさらずと勝手に居座っていたのだ。
「しかも、誕生日に買ってもらった本はアズールが欲しがってたやつ。陸でしか買えないから中々手が出ないって言ってたのをわざわざ親父に取り寄せてもらって」
そう言えばジェイドにそんな話をしたかもしれないとアズールも遠い昔の記憶を探る。
「でも新品をすぐあげたらアズールが不審に思うじゃん?だから自分でたくさん読み込んで、いかにも『飽きたから』みたいな感じでさぁ、あいつほんとバカだよねぇ」
そう言いながらフロイドはケラケラと笑っていたけれど、アズールは全く笑えなかった。
ジェイドに譲ってもらった陸の本はどれも読み込まれていて、それを見ただけでもジェイドはずいぶん陸の魔法や薬草に興味があるんだなと思ったのだ。
「高い図鑑とかは親父にねだってたけど、それ以外はちょこちょこママの手伝いして自分のこづかいで買ったり、全然忘れてたんだけどジェイドちょー健気じゃん」
「健気……?」
「陸の本たくさん読んでおけばアズールの役にも立てるし魔法薬の知識も自然とつくじゃん。あの頃のジェイド、アズールと話したくて必死だったんだよ」
アズールは段々、フロイドが外国語でも話しているかのような気分になっていた。
フロイドの言う意味が全く分からない。
ジェイドが陸に興味を持ったのは自分が陸の学校に行きたいと言ったからで、ジェイドが読み古した本を譲ってくれていたのは本当は僕のためで、しかも自分の誕生日にねだったりわざわざ手伝いで貯めた小遣いまで使って買っていた?
それもぜんぶ、僕と話したいが為に?
は?
意味が分からない。
あいつ本当にバカなのか?
「まーきっかけはアズールだったんだけどそのままハマったんだろうね。ジェイド凝り性だし、突き詰めると止まんねぇんだろうなー」
アズールの中に、ふつふつと訳の分からない怒りが湧いてくる。
なにをやってるんだジェイド。
お前ならもっと他にする事があっただろう。
僕になんて構わず、お前はお前の、したいことをすれば良かったんだ。
それなのに僕なんかのために、なんでそこまで。
そんなことを頼んだ覚えもないのに、勝手に「健気に」尽くしていたらしいジェイドに腹が立つ。
そんなことしてくれなくて良かった。
僕が望んだ訳でもないのに、何も知らずに施しを受けていた自分がバカみたいだ。
何も気付かなかった愚かな自分に腹が立って悔しくて、でも、その怒りが怒りであったのはほんのすこしの間だけだった。
その感情はどんどん別の形に姿を変えていく。
でもその感情がなんなのかはアズールにもよくわからない。
嬉しいのか悲しいのか、虚しいのか誇らしいのか。
ジェイドが向けてくれたひたむきな思いを、受け止める感情をアズールは知らない。
「そう考えるとさー、今のジェイドってほとんどアズールでできてんだね」
何気なくそう言って、フロイドは自身の言葉に何か引っかかったように首を傾げた。
そしてその小さな引っかかりは、フロイドの頭の中で急速に音を立ててパチパチとピースをはめていく。
「あ………」
全てのピースがはまった時、フロイドは気付いてしまった。
「あーーーーー!!」
「なんだうるさいな!」
「オレ分かったかも!」
「なにが!」
「ジェイドがごっそり記憶を失くした理由!」
すこしセンチメンタルになっていた所でフロイドが急に大声をだして、イラっとして声を荒げたのも束の間、アズールは目をまん丸にしてポカンと口を開けた。
「アズールの存在に気づいてからのジェイドってさ、アズールに構ってもらう事ばっか考えてたんだよね」
なんだまた外国の話か。
アズールは思考を放棄した。
「どうしたらアズールがもっと話してくれるかとか自分に興味持ってくれるかとか、一緒にいる時もいない時もアズールのことばっか考えてたの。多分だけど」
「多分て……」
「いやでもそうだよ。最初は本人も自覚してなかったし、いつから好きだったかのかはハッキリわかんねーけど、それが多分10歳くらいに始まったわけ」
「本人も気付いてなかったのになんでそんな事分かるんだ」
結局全部お前の憶測じゃないかとアズールが訝しげな視線を送れば、フロイドは「だって最初に気付いたのオレだもん」と自信満々に言い切った。
「は……っ?」
「だってそれまでのジェイドってオレ以外に全く関心なかったのに急に一人でどっか行くようになってさぁ、オレもフラフラしてたから最初は気付かなかったけど、いっつも同じタコちゃんのとこ通ってるのもなんか変だなって思ってたんだよね。そんでやたらうれしそうにアズールの話ばっかするし、ジェイドそのタコちゃんのことすきなのって聞いたらすんげービックリして」
「それは普通にすきじゃなかったからだろ……」
「ちげーの。ジェイド、オレに言われてその時初めて自覚したみたい」
「は…っ、はぁ!?あいつは…っほんと……っ!」
まさか兄弟に指摘されて初めて自分の気持ちを知るなんて間抜けにも程がある。
あの頃、アズールからはとても大人で知的に見えていたジェイドに、まさかそんな一面があったなんて。
「あはは!あん時のジェイドすげーかわいかったなー。オレでも見たことない顔してたもん。あのジェイドがパニックになって超面白かったし」
「おやそんなにですか……」
フロイドも見たことのない顔でパニックになるジェイドなんて、それは少し見たかったなとソワッとしつつ、いや今はそれよりも本題に戻らなくてはとアズールは顔を引き締める。
「それで、どうしてジェイドが記憶を失くしたって言うんです」
「そうそうそんでさ、アズールが陸に行きたいって言ったから陸の本たくさん読んだり、アズールがいっぱい魔法の勉強してるからジェイドも魔法の勉強頑張ったし、周りの雑魚共じゃアズールの話についてもいけなかったけどジェイドとは話せたでしょ?アズールの特別になりたくてジェイド超がんばったんだよ」
「は……、あいつそんな事ひとことも…」
「言うわけねぇじゃん。ジェイドのやつアズールの前ではなんでも出来るかっこいいオスでいたいらしいし。努力する姿とか見せたくないんでしょ」
フロイドはそこまで言って少し言葉を区切り、記憶の中のジェイドを見ていたフロイドの瞳が今度は目の前のアズールを見つめる。
「アズールの努力はいっつも褒めてたのにね」
そう言ってフロイドがふわりと笑う。
自分の努力する姿は格好悪いと思っているくせに、アズールが懸命に足掻く姿をジェイドはいつも嬉しそうに見ていた。
そしてその姿は、アズールの記憶にもはっきりと刻まれている。
「つまり、ジェイド自身とアズールの記憶は切り離せねぇんだよ。ジェイドは恋心『だけ』忘れることなんてできなかった。だって今のジェイドのほとんどはアズールのぜんぶの記憶と一緒にあるから。アズールに恋しなきゃジェイドは陸に興味なんて持たなかったし一生懸命魔法の勉強もしなかった。だから陸の学校なんて絶対来てなかったと思うよ。アズールと一緒じゃなきゃ意味ねぇもん」
アズールはフロイドの言うことをまだ上手く飲み込めなかった。
アズールのよく知る17歳のジェイド。
エレメンタリースクールの時に初めて声を掛けてくれて、自分を一番最初に褒めてくれた人魚。
強く逞しく、そして美しいジェイドが、自分と一緒にいる為だけに密かに努力をしていたなんてとても信じられない。
グズでノロマだった幼いアズールの憧れだったジェイドが、自分をそんな風に見ていたなんて信じられるはずがなかった。
しかしそのジェイドを自分よりもずっと近くで見ていたはずの片割れが、淡々と、しかし確かな意志を持って言葉を紡ぐ。
「だからジェイドから恋の記憶を消そうと思ったら、アズールとの思い出を全部消すしかなかった。ジェイドが失くした七年間は、アズールがいなきゃ成立しないから」
それはこっちのセリフだと言ってやりたかった。
お前がいなければ、僕の七年間だって全く違うものだった。
「ジェイドにとってはアズールが全部だったの。アズールと一緒にいた七年間が、17歳のジェイドを作ってたんだよ。……仮説だけど、多分そう」
「なんでだよ……」
なんだそれ。
僕が全部って、そんなわけないだろ。
「……あいつはバカなのか?」
「そう、救いようのねーバカなの」
全力で肯定しながらフロイドはへらりと笑う。
「バカすぎておもしれーからだいすき。アズールは?」
「……僕は、一発殴らなきゃ気が済みません」
「アハッ!タコちゃんこわぁ」
そう言って茶化すフロイドに、アズールがツカツカと歩み寄ってその襟元を掴み上げる。
「あいつの七年間、僕が全部なんて事はないだろ」
「……だってそうだもん。実際に、」
「違う!お前もずっと一緒だっただろ!!」
ものすごい剣幕で睨みつけるアズールに、今度はフロイドが目を丸める番だった。
何言ってんのアズール、そこに怒ってんの。
「全く…!フロイドの言う通りですよ!なに勝手に一人で忘れてんだあいつ!絶対許さないからな!死んでも元に戻してやる!それでお前も気が済むまで殴りなさい」
「……あっは!さすがアズールさいこー。やっぱオレアズールすきだなー」
「それはどうも。僕もお前がすきですよフロイド、もちろんジェイドも」
「本人に言ってやってよソレ」
「えぇもちろん、あいつの記憶が戻ったらいくらでも」
「ぜってーだかんね」
「はいはい。それより……結局手がかりがないまま振り出しに戻ってしまいましたね」
まだ憶測の域を出ないとは言え、フロイドの推論はそれなりに信頼がおける気がした。
根拠はなんだと言われれば根拠などない。
ただそれがフロイドの思いつきであるというだけで、アズールが信頼するに十分なのだ。
だがしかし、ストレスやトラウマによる心因性の健忘である可能性も消えた訳ではないのでそちらも探らなくてはならない。
アズールが調べ上げた限り、薬の飲み合わせの問題である可能性は限りなく低いが、そちらもまだ絶対にないとも言い切れない状態だ。
細かな可能性を考え出したらキリがなく、その一つひとつを検証していくには膨大な時間がかかってしまう。
とにかく、やる事が多すぎる。
そうでなくともアズールの日常は多忙を極めているというのに、さすがのアズールも身内だけで抱え込むのは限界だった。
認めたくはないが、今のアズールには助けが必要だ。
「誰か……、薬学や医学にも詳しい人に相談を…」
そう思ってアズールが最初に思い浮かべたのはリドルだった。
彼なら一連の出来事も知っているし、陸の薬学に対する知識だけならアズールよりも豊富かもしれない。
それに魔法医術士の家系ということもあって医学にも関心があるようだし、何か自分達が知らないことを教えてくれるかも……、とすぐ様連絡を取ってみれば、残念ながらキミ達が求めているような情報は無いよとすげなく断られてしまった。
その上キミ達で解決できないのなら素直に教師に相談すべきだとまで言われる始末。
教師、例えば魔法薬学のクルーウェルに相談する事はアズールもちらりと考えはしたが、正直なところ現段階でそれは得策ではない。
これがもしもジェイドの命に関わるような事であればすぐさま相談に行くことも辞さないが、当の本人に問題がない限り出来るだけ自分達で解決したかった。
依頼者から相談を受けるのはあくまでもポイントカードを貯めた対価であり、直接的には金銭が発生していないとは言え禁術クラスの魔法薬を生徒間で取引するのは非常にまずい。
その上それが原因で重大な問題が発生したとなれば、いくら問題のもみ消しに余念がない学園長とてアズールを処分せざるを得ないだろう。
良くて停学か寮長の座の剥奪、悪くて退学。
ジェイドの健康に最悪の事態が起こる可能性があるのならそれも甘んじて受けるけれど、今はまだその決断をするのは早い。
出来ることなら教師以外で自分よりも魔法薬に詳しい誰か、若しくは自分の考えつかないようなヒントをくれそうな生徒はいないだろうか。
そして更に口が硬く信頼の置ける人物でなくてはならない。
できれば弱みを握っている相手から見つけたかったけれど、アズールを凌ぐ程の知識を持っていながらアズールに易々と弱みを握らせるような間抜けはいない。
問題は山積みで、いくら働いてもアズールの仕事は増えるばかりで減っている気がしなかった。
しかもクソ忙しいのに明日は定例の寮長会議がある。
今月は大きなイベントもなく特に重要な議題もないと言うのに、「定例だから」と行われる会議の忌々しさにアズールはチッと舌打ちをした。
そしてうんざりしながら明日の会議資料に目を通し、アズールはハッと気付く。
どうしてすぐに気付かなかったんだろう。
忙し過ぎて頭がどうにかしていたのかもしれない。
どう考えても、これ以上なく適任な人物がいるではないか。
魔法薬、とりわけ毒薬の調合に長けた美しき女王。
彼ならアズールの知らない薬草や調合を知っていてもおかしくないし、様々な魔法薬に対する副反応の症例にも詳しいかもしれない。
それに自身のプライドにかけて無益な情報などよこさないだろうし、何より信頼して相談して来た後輩のプライベートをむやみに言いふらしたりはしない。
対価は高く付くだろうが相談する価値は十分にある。
「フロイド、ラウンジは落ち着いてますか?」
「すげ~空いてるよ」
「ぐぬ……、そうですか。ではお前が抜けても問題ありませんね」
「ジェイドがいるから大丈夫だと思うけど……、え、何おつかい?」
「いえ、僕と一緒に来て下さい。ヴィルさんに会いに行きますよ」
「ベタちゃん先輩に?なんで?」
「いいから黙ってついて来なさい」
そう言って立ち上がり寮服の上にコートを羽織ると、アズールはヴィルに「相談があるので今から伺いたい」という旨の短いメールを打った。
アポイントもなく突然訪れても対応してくれるかは分からないが、返事が来るまで待っているなんてとてもできない。
一度こうと決めてしまえばすぐに行動を起こさなくてはいられないのがアズールだ。
普段であれば慎重に下調べをして根回しをした上で囲い込むのが常套手段ではあるが、それを得意とするとジェイドに今それを任せるわけにはいかない。
それに相手が相手だけに、下手に回りくどい事をするよりもストレートに申し出た方がかえって事は上手く運ぶかもしれないとアズールは判断した。
ジェイドを連れて行けば無駄に警戒心を煽るかもしれないが、フロイドならばむしろ相手の隙もできやすい。
ジェイドに少し空けますとだけ告げて、アズールはフロイドを連れ鏡舎へ向かった。
そしてオクタヴィネルから鏡を抜けたところで、丁度ヴィルからの返信が届く。
こちらも短い言葉で了承の意だけが伝えられ、アズールはしたり顔でポムフィオーレへ繋がる鏡へと足を踏み入れた。
こちらからの相談などあちらにとって厄介ごとに違いないが、無視するのもそれはそれで厄介だとヴィルも心得ている。
その上でとりあえず聞くだけは聞いてやる、その結果がどうなるかはそちら次第だが、というところだろう。
アズールにしては非常に珍しく、策はない。
それがとんでもなく愚かしい事と分かってはいるが、なり振り構ってはいられなかった。
自分にも他人にも厳しいが、案外と情に厚いヴィルは自分を頼ってきた者を無下にしないかもしれない。
話を聞いてくれた所で有力な情報が得られるとは限らないけれど、今はとにかく、考えうる全ての可能性に縋ってみるしかなかった。
「あきれた」
そう言って、ヴィルの美しくも冷たい、凍えるような視線がアズールを突き刺した。
大抵の事には動じないアズールも、冬の珊瑚の海を覆い尽くす氷よりも更に冷ややかなその視線にはゾッと背筋が凍る。
身のすくむような居心地の悪さに、アズールが逃げ出したくなる様な気分になったのはいつぶりのことだろう。
ポムフィオーレ寮に着いた瞬間、あまりにもタイミングよく現れたルークに案内されてアズールとフロイドはヴィルの部屋へ通された。
そして時間がもったいないから早く要件を言ってちょうだいと言うヴィルに掻い摘んで事情を話し、助言を求めた所でその一言だ。
「教師にバレたくないからこのアタシを頼るなんて、あんた本当にいい度胸ね」
そこは上手く伏せたつもりだったのだが、そんな浅はかな考えがヴィルに通用するはずもない。
「……面目ございません。頼れる方があなたしかおらず」
「ウチの生徒で一番魔法薬学が得意なのってベタちゃん先輩なんでしょ?おねがぁい、アズールにわかんねぇならベタちゃん先輩にしか聞けねぇもん」
「下手なおべっかはやめてちょうだい。アンタ達にそんな事言われても裏しか感じないのよ」
「えーでもさぁ、人に借りを作るのが死ぬほど嫌いなアズールが自分からお願いしてんの超面白くね?ベタちゃん先輩アズールの弱み握るチャンスじゃん」
フロイドには何も説明しないまま連れてきてしまったが、ここまでの流れでフロイドは自分の仕事をよく心得ている。
とは言っても、ジェイドのように注意深く誘導して口八丁に丸め込むのではなく、ただいつもの様に自由に、その場の思いつきで場を展開させるのがフロイドの仕事だ。
それが分かっていても尚、ヴィルはフロイドの奔放さについ口元を緩めてしまう。
「ふ…っ、確かにそうね。アズールに恩を売っておくのも悪くないわ」
「でしょでしょー!だからおねが~い。なんか手がかりになりそうな事があったら教えてくんない?対価はアズールがきっちり払うからさ。ね、アズール」
どう考えてもこちらが下手に出なければならない不利な状況で、既に明らかな不興を買っているというのにフロイドのこの態度、自分ならとても無理だと思うと同時に、やはりフロイドを連れてきて良かったとアズールは思う。
「えぇもちろんです。もしヴィルさんにご協力頂けるなら、この僕が必ず相応の対価をお支払い致します」
そう断言したアズールに、ヴィルは無言のままじっと強い眼差しを向ける。
怖いほどに美しいその冷徹な瞳に射すくめられても、ここで動じる訳にはいかなかった。
恥を忍んで自ら頭を下げた以上、なんの収穫もなくすごすごと引き下がるわけにはいかない。
アズールは何としてもここで情報を得て、それに見合うだけの対価を叩きつけて帰らなければ。
無言の圧力に屈する事なく、むしろ真っ直ぐに視線を返してくるアズールに先に口を開いたのはヴィルだった。
「ずいぶん必死ね」
熱のない冷やかな視線はそのまま、ヴィルの口元だけが愉しげに少し口角を上げる。
「アンタが人の為に頭を下げるなんて珍しいじゃない。それも手酷く振った相手の為に、一体どういうつもり?それこそ何か裏があるのかしら」
どう答えれば女王のお気に召すのか。
答えを間違わないようにしなければと考えながら、頭がその答えを弾き出すより先にアズールは口を開いていた。
「いえ、裏なんてありません。ただあまりにも腹が立ったので正気に戻して一発殴ってやろうかと」
その答えは余りにも予想外だったのか、ヴィルは演技じみた冷笑を浮かべることも忘れて目を開く。
「あの冷静なジェイドが魔法薬に頼って自ら記憶を失くそうだなんてどう考えたって正気じゃないんですよ。僕の記憶がある限りあいつだけ忘れたって根本的な問題が解決するわけではないのに勝手すぎると思いませんか。僕に迷惑をかけたくないからだなんて殊勝な事を言った所で結局自分だけ忘れて楽になりたかっただけなんですよあいつは。ただ、」
アズールは、はじめてジェイドの気持ちを知ったあの日のことを思い出す。
あの冷静沈着なジェイドが、アズールにはいつも完璧な姿しか見せず胡散臭い薄ら笑いを崩さないジェイドが、その顔を真っ赤に染めて視線を合わせることも出来ず硬直していた。
自分の辛辣な言葉に嫌味ひとつ返さず、ネチネチと小言を言うこともせずただいつものように「かしこまりました」と言ったジェイド。
その時のアズールは、無表情にそう言ったジェイドの気持ちをなにひとつ推し量ることなどできなかった。
「あいつがそんな風に正気を失うようにさせたのは僕なので、自分でした事の責任を自分で取りたいだけです。だから僕は何としてもジェイドの記憶を戻す方法を見つけなければなりません。他人に縋って大嫌いな借りを作ってでも、僕は絶対にジェイドの記憶を戻してやらなければならないんです」
ジェイドが自分で薬を作ってそれを飲んだのはジェイドの自己責任だ。
けれどその原因を作ったのは間違いなくアズールで、その結果起こってしまった事をジェイドだけのせいにはできない。
そしてジェイドが離れていくかもしれないと思ってから初めて知った喪失感を、アズールは現実のものにしたくなかった。
結局は、ジェイドの為なんかじゃなくジェイドを手放したくない僕のエゴかもしれない。
出来る事ならこれから先もずっと、一緒に同じ時間を過ごしてきたジェイドに隣に立っていて欲しい。
「なによりも、僕がそうしたいので」
ヴィルを説得すると言うよりも、決意表明のようにそう言ったアズールにヴィルはほんの少しだけ頬を緩めた。
「……で、教師に頼る前の悪あがきにアタシに縋ったってわけね」
「そ…っ、それは……、おっしゃる通りです」
「あらずいぶんしおらしいのね」
ヴィルはわざとらしく眉を下げ、意地悪くくすくすと笑う。
揶揄われていると分かってはいながら反論の余地がないアズールは、それを甘んじて受けながら尚も女王のご機嫌を伺うしかない。
「……ヴィルさん、どうかお力添え頂けませんか」
「ベタちゃん先輩おねがぁい」
普段は悪徳三人衆だの指定暴力団だのと恐れられ、元々素行のよろしくないNRCの中でも特に悪名を轟かせているオクタヴィルのトップふたりが、揃ってへりくだっている姿を見るのは悪くない。
このふたりのこんな姿は早々見られないだろうと、ヴィルはその美しい顔を愉悦に綻ばせた。
「フフ、まぁいいわ。珍しいアンタも見れたし、アタシにわかる範囲の事は教えてあげる」
「本当ですか……!ありがとうございますヴィルさん!」
「やったー!ベタちゃん先輩ありがと!」
「早速ですが何か手がかりになりそうな事があれば……!」
ヴィルが了承してくれた事に安堵し、パッと顔を輝かせて前のめりになったアズールとは反対に、愉しげに笑みを浮かべていたヴィルの表情がスッと引き締まる。
「アズール、アタシを頼ってきたのは正解だったわね」
「ヴィルさん…!もしかして解除薬の作り方を……」
「残念ながらそれは分からない。でも、よく似た症例なら知ってる」
ついさっきまで意地悪くアズールを揶揄っていたヴィルが、そこで更に表情を曇らせる。
ありありと滲み出る嫌悪を隠そうともせず、ヴィルの美しいかんばせが苦々しく歪んだ。
「とても気分のいい話じゃないけど、それでも聞きたいかしら」
鋭く声色を変えたヴィルにアズールとフロイドは揃って息を飲み、しかし意志を持って頷いた。
「お願いしますヴィルさん。手がかりになるなら、どんな事でも」
「わかった。これはある十代の少女の話よ」
ヴィルが語ったある少女、彼女は画家の夫と医師の妻の間に長女として生まれ、歳の離れた弟と四人家族の裕福な家庭で育った。
医師として優秀だった母は多忙で家を空けがちであったが、画家の父は自宅にアトリエを持ち、家で仕事をする傍ら、積極的に家事や育児を担う良き夫であり良き父であった。
夫婦仲も良く家庭円満で、誰から見ても幸福な理想の家族。
家で過ごすことの多い父は子供たちをとても可愛がり、学校の行事や地域の交流にも積極的に参加し教師や地域住民からも信頼の厚い人物だった。
そんな理想の家族の幸福な生活が、ある日突然一変する。
きっかけは、その少女が通学中の電車で痴漢に遭った事だった。
中年の男にスカートの中に手を差し込まれ、下着に触れられて少女はパニックになった。
そこまで話すと、ヴィルは額に手を当てうんざりと頭を振った。
ヴィル自身が「気分のいい話じゃない」という通り、おそらく思い出すだけでも嫌気のする様な話なのだろうが、ここまで聞いていてもアズールとフロイドはその少女にジェイドとどんな関わりがあるのか全く分からない。
ヴィルが意味のない話をするとは思わないが、少女が痴漢に遭えばそれはパニックになるのも当然だろうと不思議に思う。
「あの……、それで痴漢に遭ったことでなぜ家族に問題が?」
「そうね……。それが、あまりにも異常なほどのパニックだったの」
少女がはじめて痴漢になど遭えば、反応に違いはあれどパニックになるのは当然だ。
恐怖で固まるか、悲鳴を上げるか、泣き出してしまうか、なにも考えられずただそれが終わるのを待つしかできないか。
しかし彼女は、悲鳴と言うよりも奇声を上げていた、と目撃者は言った。
汗を吹き出し目を見開いて奇声を上げ、そのうちに過呼吸になって苦しみ出した。
そのあまりに衝撃的な光景に怯んだ痴漢は周囲の乗客によって確保され、保護された少女は救急搬送された病院で落ち着きを取り戻したが、本当の問題はその先だった。
警察からの連絡を受けて、急いで駆けつけた父親を見るなり少女がまたパニックを起こしたのだ。
「え、なぜ」
アズールは思わず声を上げて話の腰を折ってしまった事を謝ったが、ヴィルは咎めなかった。
「その場にいた全員がそう思ったでしょうね。医師も看護師も警察も。きっと父親以外みんなが」
「父親……?」
「そう、これは彼女のカウンセリングをしていく上でゆくゆくわかった事だけど、彼女は幼い頃からずっと父親から性的暴行を受けていたの」
「はっ、まじ!?」
うげっと瞬時に嫌悪を示したフロイドの横でアズールは絶句していた。
当然話には聞いたことがあるが、現実に聞かされるとこうも胸くその悪い事なのかと、知りもしない少女の父親に怒りが込み上げる。
多忙な母親と子煩悩な父親。
妻は一度たりとも夫を疑った事などなく、しかし医師の妻が不在の家の中は夫のやりたい放題だった。
十歳下の弟が生まれるまでは時間など関係なく昼も夜も、生まれてからは、眠る弟のすぐ横で身体を弄られることもあった。
弟が少し大きくなって物心ついてからは、弟が眠ったあとが少女の地獄だった。
昼間好き勝手できなくなった分、母親が不在の夜は酷かった。
少女が嫌がれば弟に手を出すと脅された。
それにもし母親にバラしでもしたら、家族がどうなるか考えてみなさいと父親は囁いた。
母は父を心から信じて愛しているし、弟はたくさん遊んでくれる父親が大好きだ。
少女自身も母を大切に思っているし、弟はとても可愛い。
この幸せな家族をお前ひとりのわがままで壊すのかと、脅され続けて少女は何も言えなかった。
だから彼女は「幸せな家庭の娘」を演じ続けるしかなかった。
そんな風に、支配され続けていた少女の我慢は痴漢に遭ったことでついに決壊した。
痴漢が父親と同じくらいの背格好であったことで、少女は遂に父親が公衆の面前でまで行為を強制しようとしているのだと錯覚したのだ。
「……それで、彼女はどうなったんですか」
「まぁ……、ここからがアンタの知りたかった本題ね」
「え、」
すっかりと話に引き込まれ、少女の行く末を案じはじめていたアズールはそう言われてやっと本来の目的を思い出す。
「アズール、治療目的で用いられる記憶操作魔法のことは知ってるかしら」
「えぇ……、聞いたことはあります。強い精神的ショックなどから障害を負った患者の記憶から原因となるものだけを取り除くものですよね」
そこまで言ってアズールは「あ」と気付く。
患者の記憶から、障害の原因となったものだけを取り除く。
それは、自分の記憶の中から「恋心だけ」を消そうとしたジェイドと一致する。
アズールの鼓動が急激にスピードを上げ、背中に嫌な汗が滲む。
ヴィルがこんなにも表情を曇らせる理由。
やすみやすみに、うんざりと重々しく口を開く理由。
それを聞くのは余りに恐ろしく、しかし、聞かなければ前には進めない。
「そう、アンタの言う通りよ。……その後も彼女の経過は思わしくなく、彼女にもその治療が施される事になったの」
アズールはぎゅっと拳を握りしめた。
背中に滲んだ汗がサーっと冷えていくのを感じる。
「それで……、その結果は」
話しはじめて一番、ヴィルの顔が歪んだ。
「暴行の事実を忘れる事は成功したわ。ただし、」
ヴィルの苦渋の表情を見れば、結果は聞かなくてもわかってしまう。
フロイドの推論が正しければ、恋心とアズールの記憶が密接に結びつき過ぎていた為に七年間の全ての記憶を失ってしまったジェイド。
だとしたら彼女は、
「彼女は生まれてからの全ての記憶を失って、廃人のようになってしまったの」
想像していた通りの答えに、アズールは思わず息を止めた。
「その男は『いい父親』すぎたのよ」
実の娘にそんな卑劣な行為をしていた男が「いい父親」だなんてとても信じられない。
しかし、それが長い時間かけて男が周囲と娘自身に植え付けた印象なのだ。
「男が娘に暴行をし続けていたのは事実でも、娘が産まれたその時からずっと大切に育ててきたのも事実だった。家でも学校でも地域でも、男は娘の人生の全てに深く関わっていた。だからこそ、彼女から暴行の記憶だけを消す事なんてできなかった」
あぁ、僕はなんてことを。
それを聞いて初めて、アズールは自分が作り出した薬の危険性をはじめて正しく理解した。
ジェイドがアズールに恋をしたのが七年前だったからこそ十歳までの記憶は保てていたものの、もっともっと前に出会っていたらと思うとゾッとする。
聡いアズールが自分の言葉を正しく受け取ったことを理解して、ヴィルはアズールをじっと睨みつけた。
「アンタは確かに優秀だわ。知識も実力も魔力も兼ね備え、それに驕らず努力を続ける男だってことはアタシも評価してる。誰にでもできることじゃない。それはアンタが誇っていいことよ」
アズールを讃える言葉を淡々と語りながら、しかしヴィルの瞳は少しも笑っていない。
「でも、驕ったわねアズール」
今日一番、冷たい視線がアズールを突き刺した。
「記憶に干渉する魔法薬の調合が、どうして一般に禁止されているかを考えたことはある?」
「それは……」
「医療目的で使われる忘却魔法だって、認定されたごく一部の魔法医術士や専門家が検討に検討を重ねて複数の機関で承認を得なければ適用できないような厳重なものなのよ。それでもこういった事故は起こってしまう。過去にどれだけ有効な症例があってその効果が実証されていても、万に一つの可能性を完全に失くすことはできないの。それを、ちょっと人より優秀なくらいの一学生が勝手に作り出していいわけがないでしょう。禁止されている事には禁止されている理由があるの。海の常識がどうかは知らないけど、陸にいる限り陸の法に従いなさい。今回の事はアンタの軽率な行動が招いた結果だってことを重々噛み締めることね」
アズールは返す言葉もなかった。
全てヴィルの言う通りだ。
自分にできない事はないと思っていた。
どんなに難しくてもコツコツと調べ上げ知識を積み上げて、トライアンドエラーを繰り返しそしていつかは成功へと辿り着く。
今までずっとそうやってきたから、その先にある結果を軽視していた。
その結果がこれだ。
下手をすれば、アズールはジェイドの全てを壊すところだった。
「あらだいぶ堪えたみたいね」
「ベタちゃん先輩すげぇ容赦ねーじゃん」
「フン、当然でしょう。アタシは言うべき事を言っただけよ」
「まぁそうだよね。アズール生きてる?」
ヴィルの言葉を頭の中で反芻し、やや呆けていたアズールは名前を呼ばれてハッと顔を上げる。
こんな所で放心している場合ではない。
話の内容にショックは大きかったけれど、これは重要な手がかりなのだ。
「ヴィルさん、それでその方はその後どうなったのですか」
アズールの必死な様子にヴィルはくすりと笑って意地悪く目を細める。
「それで、どんな対価を用意してくれるのかしら?」
「アズール、フロイド、おかえりなさい」
「ただいまジェイド〜」
「……僕は事務処理に戻りますので、フロイドはホールに入ってください」
そう言うとアズールはふらふらとVIPルームに向かい、そのドアがパタリと閉まるのを見届けてからジェイドはフロイドを見た。
「何かあったのですか?ずいぶんお疲れのようですが」
「あはは大丈夫だよ。ちょっと混乱してるだけだから」
「混乱……。ところでふたりでどちらへ?」
「ポムフィオーレでベタちゃん先輩と話してた」
「ヴィルさんと?それは仕事の関係で?」
「んーん、ジェイドの解除薬のこと聞きに」
「そうでしたか。アズールの様子を見る限り収穫はなかったようですね」
「ん〜どうかなぁ……?オレは大収穫だと思うけど」
「おやそうなんですか?ではアズールはなぜあんなに元気がなかったのでしょう」
「なんか自分じゃ無理って思ってるっぽいけど、オレはアズールにしかできないと思うんだよねぇ」
「はぁ、それはどういう……?」
「あはっ、ジェイドはなんも心配しなくていいよ。全部話した方がうまく行かなそうな気がするからないしょ〜」
「おや僕だけ仲間はずれですか……かなしいです」
「んふふ、ジェイドも少しアズールのこと待っててあげて。オレは絶対大丈夫だと思うからさー。きっといいことあるよ」
「フフ、フロイドにそう言われると少し楽しみになってきました」
「でしょでしょ〜。オレもちょーたのしみ!……あ、でもベタちゃん先輩に対価払うのジェイドにも手伝ってもらうから」
「えぇ?それはもちろん」
「言ったな?今回はオレがぎ〜っちり絞ってやるかんな!覚悟しとけよジェイド」
しぼる?ときょとんと首を傾げたジェイドにフロイドがケラケラと笑っていた頃、VIPルームの自分の椅子に座っていたアズールは、両手の拳を机にダンッと叩きつけて「ふざけるな!!」と吐き出した。
ヴィルから話の続きを聞き終えた時、アズールは絶望的な気分だった。
ついにたどり着いた手がかり、これでやっと光明が見えるかもしれないと思ったのに、ヴィルが口にしたその言葉でアズールは再び絶望の淵に叩き落とされた。
遡ること十分、ヴィルはアズールへ対価の提示を求めた。
アズールが今なによりも欲しい解除薬の手がかりを得るために、アズールがヴィルに提供できるもの。
それならばとヴィルが応じてくれそうな、彼にとって価値のあるもの。
単純に、一番最初に浮かんだのは例の化粧水だった。
ヴィルはその効果に満足してくれたようであったし、興味は示してくれるだろう。
だがしかし、化粧水一本ではあの時と比べてこちらが得るものの比重が大きすぎる。
しかしものは試しである。
それでヴィルが頷いてくれれば儲けものだ。
「……以前、ご依頼で作らせて頂いた化粧水ではいかがでしょうか」
アズールがそう言うと、ヴィルが口を開くよりも先に隣に立っていたフロイドが「はぁ!?」と声を上げた。
「ふざけんなよおま…っ!アレ作んのどんだけ大変だと思ってんだよアズール!」
「お…っ、落ち着きなさいフロイド。今回はちゃんとジェイドにも協力させますから」
「……ぜってぇだろうな」
「えぇもちろん」
「それならいいけどぉ」とフロイドが渋々了承すると、その様子を黙って眺めていたヴィルが満足気に笑う。
「あら、アレを作るのってそんなに大変なのね。尚更原料が気になるところだけどあえて聞かないでおいてあげるわ」
「ありがとうございます。ではそれで手を打っ」
「で」
アズールが言い切るより前に、ヴィルが強い口調で言葉を挟む。
「それを何本用意してくれるのかしら」
「あの……、フロイドが申しました通りアレの原材料は大変貴重でして一度にたくさん作ることは難しく……」
「あらいいのよ、一度にたくさんなんていらないわ。そうね……、月に一本あれば十分かしら」
「はぁ!?毎月寄越せってこと?えげつな!ぜってぇ無理!オレは協力しねーからアズールが自分でなんとかして」
「フロイド……!お前の協力無しで毎月は無理です。兄弟のためと思って我慢しなさい!」
「はぁ〜?それが人にものを頼む言い方ぁ?無理無理他の方法考えて」
「く……っ、申し訳ありませんヴィルさん。アレは本当に精製が難しく……、せめて三ヶ月に一度なら提供できると思うのですが…」
「アズール!オレ絶対ヤダかんね!?」
「二ヶ月に一度、それをアタシの卒業まで。それ以上譲歩はできないわ」
交渉は欲しいものがある方が弱い。
相手がヴィルでさえなければ、あの手この手で丸め込んで確実に自分達が有利な方に持ち込むのに。
アズールはくっと唇を噛み、寮長の杖を一振りして契約書を発現させた。
「分かりました。それで契約しましょう」
「契約成立ね」
「あ〜あ……」と嘆くフロイドの横でヴィルは契約書に隅々まで目を通し、軽やかにペンを走らせ無事契約は締結した。
「ではヴィルさん、続きを話して頂けますか」
「いいわ。でもその前にひとつ訂正しておく事があるの」
無事契約も終えた所で何を言い出すのかとアズールは「はっ!?」と目を見開く。
「さっきの話にはひとつだけ嘘があるわ」
「嘘!?」
まさかこの僕を騙していたのかと怒り心頭のアズールの横で、フロイドはなにそれおもしれぇと笑い出す。
「なになにどこが嘘だったの??」
「チ…ッ、はしゃぐんじゃないフロイド!どういうことなんですかヴィルさん。きちんと説明してください」
「フッ、そんなに怒ると皺が増えるわよアズール。少し落ち着きなさい、話の大筋は全部本当よ」
あなたが怒らせたんでしょうがとムムッと顔を顰めつつ、ここで取り乱すのは自分らしくないとアズールは精一杯平静を作って見せる。
「……ではどこに嘘が」
「彼女が全ての記憶を失った理由」
「は……っ!?一番大事な所じゃないですか!」
「そうよ。彼女が記憶を失ったのは忘却魔法が原因ではなかったの」
「はぁ……?」
アズールの頭は混乱を極めていた。
彼女の精神的ショックは極めて重症であり、医療的な処置として記憶操作が適切であると判断された。
そしてそれを実行したにも関わらず、全ての記憶を失ってしまったのが忘却魔法のせいでないとしたら何故なのか。
「では……、なぜ彼女は記憶を……」
「それは、呪いよ」
「「呪い!?」」とアズールとフロイドの声がシンクロする。
呪いは魔法と同じようにこの世界に当たり前に存在するし、目の前のヴィルその人の最も得意とする所でもある。
だからその存在自体を疑いはしないが、なぜよりによって少女をにその呪いが降りかかったのか。
「彼女とジェイドに共通する事は、二人とも魔法士養成学校に通う生徒だったという事」
「えっ、その子も魔法使えたの」
「そう。それから、深刻なトラウマを抱えた患者に忘却魔法を使用する際、最も重要な事は何か分かる?」
「えぇ……、なんでしょう……主治医の判断…?」
「えぇ、それはもちろんだけど、最も重要なのは本人の意思よ」
「本人の意思?」
「そう。治療にいくらそれが有効だと判断されても本人が記憶を失うことを望まなければ忘却魔法が使用される事は絶対にない。未成年であるかどうかは関係なくね。いくら親が望もうと主治医が勧めようと、何よりも優先されるべきは本人がその記憶を忘れたいかどうかということ。そして彼女は当然、それを忘れることを強く望んだ。ジェイドもきっとそうだったんでしょうね」
「それはつまり……」
「自分で自分に記憶を失くす呪いをかけたってこと!?」
「その通りよフロイド。その少女は優秀な魔法士であったが故に強い願望に呪いがこもってしまい、本来の忘却魔法以上の効果が発動した。その結果、元々の効果を超えて記憶を失うことになったということよ」
アズールとフロイドは呆気に取られて言葉を失い、しかし少ししてフロイドは「あれ」と気付く。
「でもその子廃人になっちゃったんでしょ?それなのになんでそれが呪いのせいだって分かったの?」
生まれてから全ての記憶を失って、自分が誰なのかも分からなくなってしまった少女は自らに起きた悲劇を語る事はできなかったはずだ。
少女に携わっていた医師たちだって、今の自分達と同様何故その様な結果になってしまったか分からなかったに違いない。
それなのになぜ、それが忘却魔法のせいではなく呪いによって引き起こされたものだと判明したのか。
考えうる可能性はひとつ。
つまり、その呪いは解かれたのだ。
正解に近付きつつあるフロイドにヴィルはにっこりと笑う。
「単純に考えてみなさい。いつの時代も呪いを解くものはなに?」
呪いを解くもの。
魔法の世界のおとぎ話になくてはならないそれ。
それはいつも
「あ、」
「分かったみたいねフロイド」
「『真実の愛のキス』」
「ご名答」
更に口角を上げて美しく微笑んだヴィルとは反対に、アズールは拳を握りしめてぷるぷると震えていた。
「……ふざけないでください。そんなものあるわけが無い!あなたともあろう方がそんなおとぎ話のような話を信じてらっしゃるんですか!」
「あら、アタシはおとぎ話じゃなくて現実の話をしてるのよ」
ヴィルはなんの躊躇もなくしれっとそう言い切って更に話し続ける。
「その少女には、同じ学校に通う魔法士の恋人がいたの」
父親に全てを支配される中で、学校に通っている時間だけが唯一少女の救いだった。
その間だけは勉学に励み友人と会話を楽しみ、そして恋をした。
しかし当然父親との関係を打ち明けられるはずもなく、少女は大きな秘密を胸に隠したまま、学校にいる間だけ恋人と小さな愛を育んだ。
授業が終わればすぐに帰宅しなければならなかった少女が学校の外で恋人に会う事はなく、そしてある日突然、少女の登校がぷつりと途絶えてしまう。
友人達も何も知らず教師達は何も教えてくれない。
住所を頼りに家を訪れてみても返事が返ってくる事はなかった。
そうして途方に暮れたまま数ヶ月が経った後、恋人の弟から電話があった。
聞けば姉の携帯電話の履歴から自分を見つけてかけてきたのだと言う。
その頃まだ幼かった弟は何も聞かされておらず、両親が突然離婚したかと思うと姉が入院したきり一度も会わせてもらえていないと言う。
その上母親は精神的に弱っていて様子がおかしく、自分がなんとかしなければと藁にも縋るような思いで恋人を頼ったのだ。
それを知った恋人は慌てて病院へ向かったが当然会わせてもらえるはずもなく、何度も何度も彼女の家へ足を運びどうか会わせてほしいと母親に懇願し続けた。
そんな姿に遂に折れた母親は、娘の恋人に真実を話して聞かせた。
それを知ればきっと彼は絶望するだろう。
そしてもう二度と、娘に会いたいなどと言わないだろうと。
しかし、彼の反応は違った。
真実を全て知った上で、それでも会いたいと彼は言った。
そして彼女の母親と共に会いに行ったその日、奇跡が起きた。
「……作り話じゃないんですか」
「事実よ。しかもそれがはじめてのキスだったんですって」
「そんな情報別にいりません」
「そんで結局記憶はどうなったの?」
「全部戻ったわよ。父親の事も含めて」
「うぇっまじ?それ結局良かったの?」
「結局、彼女は忘れずに生きていく事に決めたみたいよ。彼が全て受け入れるって言ってくれたから」
「やっぱりおとぎ話じゃないんですか?」
「アズール、アンタだってよく分かってるでしょう。魔法も呪いも当たり前に存在するこの世界では、呪いを解く方法だって当然存在する。そしてそれは、魔法を使えない人間からすればいつだっておとぎ話みたいなものなのよ」
魔法が存在するこのツイステッドワンダーランドに置いても、魔力を持つ者はごく一部に限られている。
名門魔法士養成学校であるナイトレイブンカレッジに在学する者は、現在ただ一人を除いて全員が魔力を有する魔法士の卵だ。
そんな環境にあれば魔法はごくごく当たり前のものとして扱われているけれど、世界的に見れば魔法士の知人が一人もいないという人間は山ほどいる。
「でもアタシ達は魔法士でしょう」
呪いを解く真実の愛のキス。
魔力を持たない普通の人間達からすればおとぎ話でしかないそれも、アズール達魔法士にとっては現実なのだ。
「論文読むなら教えるわよ」
「……一応メールしてください」
「ふふ、いいわよ。しっかり目を通すことね」
ここまで来てヴィルの話が作り話だとは思わない。
それにヴィルのプライドにかけて、正式に契約を結んで提供した情報が嘘であるはずもない。
しかしそれでも、まだ信じられずアズールはぐっと拳を握り込む。
呪いってなんだ。
ジェイドは自分に呪いをかけてしまうくらい、僕への気持ちを忘れたかったのか。
そう思うとどうしようもなくズキズキと胸が痛んだ。
やっぱり、ジェイドにとってその感情は思い出さない方がいいものなのかもしれない。
そんなにも忘れたかったものを蒸し返して突きつけて、僕はどうしようって言うんだ。
「ねーアズール、また余計なこと考えてんでしょ」
また深く沈みかけていた思考に、突然フロイドの声が響いてアズールは「え?」と顔を上げた。
すると不満気に頬を膨らませたフロイドがアズールの瞳を覗き込む。
「ひとりでぐだぐだ悩むのやめって言ったじゃん。三人一致で決めたんだからもうぐちゃぐちゃ考えないで」
「フロイド……」
「ふふっ、相変わらず仲のいいこと。早く帰ってやらなきゃもう一人がいじけるんじゃない?」
「あ、そうだった。ありがとねベタちゃん先輩。アズールかえろ」
そう言ってフロイドが脱力したアズールの腕を掴み、引きずるようにしながらドアに向かって歩き出したかと思えばふと立ち止まる。
「あっ!」
「なによ」
「結局さぁ、アズールの魔法薬が直接の原因で記憶喪失になったんじゃないって事だよね」
「そうね」
「え……っ、あんなに僕を軽率だとか色々言っておきながら…!」
「ふふ、いい薬になったでしょ。アンタがしてる事はそれくらいのリスクを含んでるってことよ。これに懲りたら禁止されている魔法薬には手を出さないことね」
「く……っ」
「あはは!正論すぎて言い返せないねアズール」
ついさっき自分はなんて取り返しのつかない事をしてしまったんだと猛省したと言うのに、それはヴィルのついた嘘だった。
ジェイドが七年もの記憶を失ってしまったのが薬の誤作用ではなくジェイド自身がかけた呪いのせいであったのならば、アズールの薬自体はなんの問題もなかったということだ。
しかしヴィルの言う通り、自分の作った薬が原因でいつ何時その様な事態が起こってもおかしくないという事は肝に銘じておかなければならない。
ヴィルに指摘された通り、アズールは自分の能力を過信して驕っていた事を痛感した。
「……本当にありがとうございましたヴィルさん。対価は後日しっかりとお届けさせて頂きます」
「期待してるわアズール。前回より品質を落としたりしたら承知しないわよ」
「フフ、ご期待に添えるように善処致します。それでは」
とそんな調子でポムフィオーレを切り上げ、VIPルームで一人になったアズールは、叩きつけた拳をそのままに机に突っ伏した。
「最悪だ………」
ジェイドの記憶喪失の原因が本当に呪いだとして、それを解く方法が真実の愛のキスしかないのなら、自分は永遠にそれを解くことができない。
恋も愛もわからないのにどうやって真実の愛のキスをしろと言うのだ。
というかそもそも真実の愛のキスってなんだ。
親子愛や兄弟愛ならどうなんだ?
兄弟愛でいいならフロイドがすればそれで間違いなく呪いは解けるはずじゃないか。あいつならキスくらい平気でするだろう。
というか誰がそれを判定するんだ?
設定ガバガバすぎないか?
それにちょっと待てよ……?ジェイドが記憶を取り戻さないまま別の人に恋をして、その相手と真実の愛のキスをしたらどうなる。
まさか恋人と真実のキスを交わした瞬間僕への恋心を思い出すなんて、そんな地獄のような事が起こりうるんだろうか。
考えれば考えるほど、アズールは「真実の愛のキス」とは何かが分からなくなっていく。
「あぁもう嫌だ……、フロイドの奴なんであんな能天気なんだ……」
現状それしか手がかりがないと言うのに、その話を聞いてもフロイドはケラケラと楽しそうに笑っていた。
それどころか「アズールならできるって」などと無責任に言ってのける。
「あぁもうっ!できるわけないだろう!!」
真実の愛どころか普通のキスもしたことがない。
いや普通のキスってなんだ。
キスをしてみたいと思ったこともないのにいきなり真実の愛のキスなんてハードルが高すぎる。もう真実の愛のキスについて考えすぎてアズールの中の真実の愛のキスはゲシュタルト崩壊寸前だった。
愛だの恋だのキスだの真実だので、こんなにも頭を悩ませる日が来るなんてアズールは微塵も考えたことがなかった。
恋愛なんてくだらない。
そんなものは脳の誤作動だ。
だからジェイドだって、いつか自然とその気持ちが消えてなくなる日が来たはずなのに。
しかしそれを思うと、寂しさに胸がきゅうっと締め付けられる。
もしかして僕は、忘れてほしくなかったんだろうか。
受け入れられないのに好きでいてほしいなんて、そんな身勝手な事はないのに。
結局アズールの思考はいつまでも同じところをぐるぐると回ってしまう。
考えれば考えるほど何も分からない。
三人で話し合って方向は定まっていたはずなのに、アズールはここへ来て自分の気持ちまで分からなくなってしまった。