リトの戦士の話エピローグ◇
あれから。嵐を乗りこなす一夜を明かしてから。
謹慎明けの最初の朝、テバが行ったのは探し物だった。神獣にぶつからない程度に高く飛んで、上から順に蟻の子一匹見逃さない視線の鋭さで、空を射抜いて落ちた筈の矢を探した。流石に龍の角を切り出し特別に誂えた矢とはいえ、見つかったのは欠片だけだった。
その欠片が今は、テバの白い羽毛に紛れるように首元で揺れている。
普段、装飾に無頓着なテバがアクセサリーを作れと言ったものだから、ハーツにも防具屋のネックにも、やれ熱があるのか、やれ明日は槍が降るだの大層な口振りだった。長い付き合いでも失礼すぎるというもの。
その後、始終を話したサキにまで「嵐の時に、誰か別の人と入れ替わったんじゃありませんよね」と言われたテバがこれからはもう少し身なりに拘りを持とう、とチクチク痛む胸に決意を固めるのは、また別の話である。
嵐が管を巻いていたのが嘘のように、爽やかな風が踊るリトの村は、今日も人々の営みで賑わっている。対するように飛行訓練場は以前の通り、しんしんと降り積もる雪が静寂を歌っている。口やかましい青い鳥を見かけることはなくなった。
テバはと言うと、広場の片隅を見ては、青い影を探してしまったり、弓の鍛練の合間、一息吐いたときの静けさに寂しさを覚えたりしながら日々を過ごした。
奇跡か偶然か、一度きりの出会いは後になって思い返せば、どうしてもっとチャンスを活かした行動ができなかったのかと悔やまれるばかりだ。
──だが、それでいいんだろうな。
死んだものと生きているもの。
交わるはずのない道が交わって、憧れたあの人の目に、自分の存在を焼きつけた。
あの人にとっての無念を少しでも晴らす手伝いができた。それだけで、テバは満足するべきなのだ。
頭を青い英雄が掠める度に、かの言葉を思い出す。力が抜けているのに背筋がぴんと張っている。そんな、春を前にしたようなむずがゆい気持ちを抱えて家に帰ると、じゃれついてくる息子の頭の向こうにここ数日見かけなかった青い姿があった。
「あぁ……?」
しばしばと目を瞬かせ、ぎゅっと目蓋を閉じてからそろそろと薄目を開けると変わらずに青い姿がある。とうとう幻覚をみるほど耄碌してしまったのだろうか。これでは生意気な嘴にからかわれた言葉に反論できない体たらくだ。
テバは自分の目を疑いながら、首を振って気分を切り替えた。いやいやそんなまさか、まだ俺は若いくくりの筈なのだ───もしかすると疲れているのかもしれない、きっとそうだ。落ち着いて、深呼吸でもしようじゃないか。
「……おかえり」
「……げほっ!」
息を吸った反動で、テバは大きくむせた。
テバの不自然な挙動の内心がすべて見えているぞと言わんばかりに、不機嫌を隠さないむっつりとした声は呼吸を阻害する魔法の言葉を放ったのだった。
翡翠色と金色と黒色と、視線に色がついていたら実にカラフルだろう現状、湖に飛び込みたい。
「……なんだよ」
「まさか、なんで……いや……」
入り口に突っ立ったままぶつぶつと呟いている様子に、妻や息子が不審な眼差しを向けてくるのも忘れて片手で顔を覆う。
同時に思い出した。嵐の折りに面倒を見てやる、とは言ったが。そんなまさか。
「先に言ったのはあんただろ?」
「……“あんた”?」
「ッ!」
青い鳥はそっぽを向いた。興味を無くした息子は玩具を弄んでいる。怪訝そうな顔をした妻は料理を再開した。サーモンムニエルが焼ける香ばしい臭いがする。
「……ねえ、おい。何か僕に言うことがあるだろ」
「はあ、」
何をだろうか。声に出して言いそうになって、鋭い視線に嘴をつぐむ。
一睨みの後、またそっぽを向いた青い鳥はぼそりと呟いた。
「僕は言ってやったのに、」
「……なんだ?」
「……まだ、僕は返事をしてないんだよ」
「返事って、何を……あ、」
尋ね返そうとして、テバの頭に一つの言葉がひらめいた。
いやしかし、そんな。
自分が言うにはおこがましいような言葉を打ち消す思いと裏腹に、この数日の青い影に振り回された記憶が脳裏を駆け巡る。
──「下手くそだな!」これが始まりだった。初対面で、あの野郎は言ってのけたんだ。俺はあまり気が長いほうではないのだから黙っていられるはずもなく。輝かしく短く過ぎ去った夏の朝露のような時間の始まりは、どう好意的に見てもケンカのご挨拶だった。
──夜の空を駆けた。鳥目では、右も左も闇に染まった空を、星明かりを束ねる青い影を追って、龍と対峙した。あくまで偉そうに自分を称えた青色は、口振りに違わず、そりゃあ見事に飛んでいた。
──英雄をこの目で見た。小さな頃に描いた理想とは、きっと程遠かったのだろう。でも、確かに自分が憧れた英雄だった。万に一つも間違いの無い、リトの誇る英雄と自分は会いまみえた。
あのとき、俺が言ったことは。
あのとき、俺が聞かなかったことは。
「……おかえり、」
帰る場所が、ここだと言ってやれたなら。
瞬きの寸前に、翡翠が笑った気がした。
「ただいま」
穏やかに、青い鳥がこちらを見据えた。翡翠の目に映る自分は所在なさげに眉が下がって情けなかった。
───どうやら、ひとり、大きな息子が増えるらしい。などと。
(……幽霊は、飯を食うのだろうか)
妙な気恥ずかしさをごまかして、テバは他人から見れば雑然と、テバ自身としては思い出深く物を突っ込んである引き出しを開けた。
憧れの人物が目の前にいる。前からいたけれども、間抜けにも気付いていなかったのだからノーカンだ。後悔したこと数知れず、そして取り戻せる機会が巡ってきたのなら、掴まないではいられない。
探り当てたのは何度も何度も読み古した冊子。タイトルはもちろん言うまでもない。
それを両手で持って、きょとんとした顔の前に突きつけた。
「──とりあえず、サインください」