王たる者 5・
・
・
生きた心地がしない二週間が過ぎ、彼は僕の元へ戻ってきてくれた。……まだ夢のようだけれど、注射ではないちゃんとした食事を、美味しそうに頬張る司くんを見て、ようやく自分も生きているということを思い出したかのように、つられて腹の虫も鳴った。
「ロゼ! これおいしいな!」
……その笑顔が、また見れるとは。
空になった二人分の食器をメイドに下げてもらい、司くんをベッドへ座らせた。高く昇った朝日が寒かった空気を少しずつ温かくして、腹が膨れた彼はまた微睡みに誘われたのか、まぶたが今にも閉じてしまいそうだ。
「眠くなったら、寝て大丈夫ですよ」
「うむ……」
体が冷えないように布団を腰まで掛けてあげようと持ち上げたところ、彼は小さな手を僕の手袋に乗せてきた。
「るいも、いっしょにねるんだ」
「僕は、でも、ロゼの仕事が」
陛下に付けなおしてもらったこの青薔薇のブローチに恥じないように、僕は二週間放置した仕事をそろそろしなければ。それに、これからは彼の側近だけでなく、いつか婚約者として隣に立てるように、今までの二倍、……いいや、三倍、努力をしなければ。
「ロゼ」
「っ、はい」
「ちゃんとすいみんをとって、けんこーなからだでいるのも、だいじなしごとだぞ」
そう言って、彼は僕の目の下を温かい指で撫ぜた。その体温に触れて、緊張で強張っていた体がほぐされ、どっと疲れが波のように押し寄せた。
「……そう、ですね。気づきませんでした。お言葉に……あっ」
「む? まだなにかきになるのか?」
「その、風呂も着替えもしておりませんので、このままお邪魔するのやはり失礼かと……」
「さっきはオレにあんな『ぶれい』をしてくれたのにか?」
「っ、あれは、嬉しくて調子にのってしまったと言いますか……すみません」
そういえば既に一度、ベッドに上がっていたんだった……悪戯っぽくにっと笑って彼は僕の頬を両手でもみもみとこねて、温かくて更に眠気が沸いてきそうだ。
「じょーだんだ。なあ、オレのからだ、さっぱりしているのは、ロゼがふいてくれたからだろう? ふろはオレもながいあいだはいれていないから、おあいこだ。というか、ロゼにてつだってもらわねば、オレもふろにはいれないから、まずはちゃんとねるんだ」
小さな手は次に、僕の上着の襟を撫でた。
「だが、このままではタキシードにしわがつくな。ここでまっているから、きがえて……いや、きがえをもってこい」
「……では、お言葉に甘えて」
今までの添い寝の指示なら、隣の自室で着替えてから戻るのだけれど、流石に昼間から寝間着で廊下をうろついたりしたら、ロゼとしてはしたないだろう。僕を見守りながら座っている彼に何度か振り返り、一人で待たせても大丈夫だと判断し、僕は指示通り寝間着を取りに行った。
クロゼットから寝間着を取り出し、部屋を出ようとした所、入り口付近に置いた大きな形見を不意に見てみたら、想像以上に目の下にひどい隈ができていた。……これでは心配されるのも当然だろう。睡眠をとる以外何をしても意味がない隈は置いておいて、視線を遮っていた前髪を右耳へ掛け直し、部屋を出た。
ロゼ用の洋服のシャツとデザインはそう変わらないものの、皺になっても構わない柔らかい素材の寝間着に腕を通しただけで、だいぶ気が緩んだ。タキシードにシャツ一式を綺麗に畳み、サイドテーブルに置く。
「ほら、となりがあいているぞ」
いつの間に向こうへ移動したのか、人間一人分のスペースを空けてくれた司くんは、ベッドの奥のほうに座り、いつものようにぽん、ぽん、布団を叩いて促している。今までの添い寝なら、小さなランプ一つしかない薄暗い部屋の中、互いの輪郭がわかるかわからないかの具合で、彼の金色の耳や尻尾を頼りに対応していた。けれど今は、すべてが明るく、金糸と杏色の瞳が少しまぶしいぐらいで、目が眩んでしまいそうだ。
「? どうかしたか?」
「いや、っ、お邪魔するよ」
何回もしてきたやり取りなのに、何故だろう、心が少し落ち着かなくなるのは。彼の白くてきめ細かい肌がよく見えるからか。長いまつ毛が大きなアプリコットに美しい影を落としているからか。ベッドに上がり、布団に入ったのはいいが、ドキドキが収まらず、硬い姿勢で座ってしまった。本当に、右にいる子に意地悪をした先ほどの僕の勇気はどこへやら。
思えば僕達は、今までなら王と側近、もしくは親しい友人、もしくは片想いの相手同士だった。けれど、そのどれもがギリギリの一線を劃していた。しかし今は晴れて両想い、もとい恋人同士だ。この関係での「添い寝」は、もしかしたら、今までと違う意味になってしまうのではないか。
ドキ、
手を拳に握ってなければ、少し震えているのが気づかれてしまいそうだ。
ドキ。
窓の外で小鳥が朝を謳歌していなければ、僕のうるさい心音が彼に聞かれてしまいそうだ。
「……るい、たいへんだ」
「っえ?」
治まらないドキドキを何とか抑えながら声の方向へ向いたら、春色に染まった頬が視界に入った。
「あ、あらためてならんでベッドにすわっていると、ふーふ、みたいで、きんちょう、するな」
金糸に隠れていた琥珀が少しずつ僕のほうへ向いてくれて、朝日の光を反射し、
「……それは、僕も、だよ」
僕の思考を真っ白に塗りつぶす。
「……ねぇ、つかさく、」
「ね、ねるぞ!」
「わっ、」
布団を引っ張り、逃げるように布団の中へ潜り込み丸くなった司くんの、恐らく背中あたりをそっと撫でたら、目の前にある丸い物体はびくっと小さく跳ねた。
「……司くんを、抱きしめながら、寝てもいいかい?」
「……」
暫くして、布団の一角が小さく持ち上げられて、中から朱色に染まった毛先が零れた。
「……もちろんだ」
そこへ腕を伸ばしながら羽毛布団へ滑り込み、毛玉を腕に収めた。
「……ぁ、」
温かい。ぴったり胸にくっついた小さい背中が、僕より少し高い体温が、緊張で少し震える指先から伝わる鼓動が、言葉がなくても、強く「生」を主張している。
生きている。
「っ、」
ふと、目尻から滲んだ雫と共に湧きあがったものが喉につっかえて、それを飲み込むのと同時に、思わず腕に力を入れた。
「……るい? ないてる、のか?」
「っ、ごめん、痛くしたかい?」
「ううん、だいじょうぶだ」
慌てて腕を離すと、もぞもぞと腕の中の毛玉は寝返った。こちらを見てふわりと微笑み、顔を僕の首元へ埋める。もふもふとした彼の耳が僕の耳に触れて、少しくすぐったい。
「るいこそ、どこかいたい、のか?」
「いいや、嬉しいんだ。司くんが、ちゃんとここにいるって」
「るいがどこにもいかないでくれているから、オレも、どこにもいかないぞ」
「……うん。どこにも行かないで、傍にいて」
よし、よし。背中に回された小さな手のひらが、ぽん、ぽんと撫でてくれるたび、落ち着かない心臓が少しずつ大人しくなり、それに続いて、涙で少し濡れた瞼も、いつの間にか視界を覆った。
◇
コン、コンコン。
「んむ……?」
コンコン。
「いま、なんじだ……」
「ん……」
『陛下、起きていらっしゃいますか?』
はっ。
メイドらしき声で一気に目が覚めた。ベッドの天蓋は、すっかり夕暮れ色に染まっている。夕方ぐらいだろうか。朝食の後、またそんなに寝てしまったとは。頭上に類の息がかかってくすぐったい。まだ起きそうにないな。恐らくここ二週間、ずっとオレのことを心配して、ちゃんとした睡眠も取れていなかっただろう。ならこのままメイドに応答せずに誤魔化す手も……
『……すみません、咲希様。まだ休んでいらっしゃるようで……』
『ほんとうにだいじょうぶなの?? ひどいびょうき、ときいて、でもめがさめたって、だからアタシ、いそいで、』
「咲希!?」
『! お兄ちゃん!』
思わず大声を出してしまったが、幸い類は深い眠りの中のようで、変わらずすうすう寝息を立てている。メイドには申し訳ないながらも狸寝入りをするつもりだったが、咲希が来ているなら話は別だ。
オレと同じ猫族の咲希は、我が妹、つまりこの国の姫なのだが、大好きな音楽の勉学も兼ねて、国で一番大きい音楽堂のある北の領地を任せている。小さい頃体が弱く、王宮を出るのも億劫だった咲希だが、今はもうすっかり元気になり、同じ趣味を持つ幼馴染の仲間と一緒に我が国の音楽文化に尽力し、今や立派な領主だ。確か最近は、隣国の楽器にも興味を持っているとのこと。エレピ……? といった名前だそうだ。
と、メイドとの会話から察するに、恐らくオレの体の事を今朝知らされたばかりで、急いで馬車を飛ばしてきたのだろう。これ以上心配をかけないためにも、顔を合わせなければ。類を起こさないようにゆっくり布団から抜け出し、周りの家具を支えにしながらドアへ向かう。
「すま、すまない、少し待っていてくれ」
『む、無理したらダメだよ! ドア開けてもいい?? アタシがそっちいくから!』
「そ、それが少し困るんだ、大丈夫、もうついたから」
ようやく触れられたドアノブを回し、ガチャ、と少しだけドアを開けたら、数か月ぶりに愛しい我が妹がそこにいた。
「お、お兄ちゃ――ん!」
「咲希――!! はっ、ま、待って、あまり大声を出さないでくれ」
再会の喜びでまたつい大声を上げたが、振り向いてみてもベッドはシーン、と動く様子がなく、ほっとした。咲希とは猫語で話しているから、人語より気にならないだろう。と、改めて久しぶりに妹を腕いっぱいに抱きしめたが、咲希はどうしても類が入っている布団が気になるようだ。
「誰か寝ているの?」
「うむ……まあ入ってくれ」
「えっと、ほなちゃんも入ってもいい?」
「あ、」
「あ、お久しぶりです、陛下」
咲希の後ろにはシスターの穂波が立っていた。咲希の幼馴染の一人で、咲希が九歳の時に王宮入りした人間の子だ。料理も家事も掃除も得意で、咲希のシスター――言い換えてみれば、オレのロゼみたいな職だ――を決める時、この子しかいないと思った。
ロゼのことを咲希に伝えようと思ったが、穂波にも伝えて大丈夫か少し思い悩んでいたら、状況をまだ何も説明していないのに、優しい穂波が先に察してくれた。
「大丈夫だよ、咲希ちゃん。久しぶりに陛下に会えたんだもん。二人でゆっくりお話ししてて。わたしは外で待っているね」
「うぅ、ごめんほなちゃーん!」
「すまない、ほなみ。おちついたら、みんなにもしらせるから」
「いえいえ。何かあったら呼んでくださいね」
バタン、興味津々に尻尾を揺らしている咲希を部屋に入れ、穂波に一つ礼をし、ドアをゆっくり閉めた。
「さて……座ろうか」
椅子のほうへ不器用に移動しようとするオレを見て、すぐに気遣ってくれた咲希は、オレの腕を肩にのせた。
「……と、すまない、ありがとう」
「これぐらいいいの! それより、二週間寝込んだって、本当?」
「オレもまだいまいち状況を掴めていないが、本当だろう。見ての通り、一人で歩くのも億劫になってきているからな……」
猫族は元より体が柔らかいほうだが、今はもはやふにゃふにゃとも言えるぐらい、力が入らないのだ。
「じゃあ……今寝ているのって……あっ、ロゼさん?」
「そうだ」
布団からはみ出ている紫に気づいたのだろう、咲希は納得した表情になった。机のポットを見てみたら水が入っていたので、少しぷるぷるする手で、隣に座った咲希へと、カップに水を注いだ。
「ありがとう。ふむ、確かにロゼさん、お兄ちゃんが寝込んでしまったら、心配で心配で一睡もできなそうだもんね。目の下すっごいクマできてそう!」
「……正解だ。凄いな」
「わかるよぉ~! だって、子供の頃からお兄ちゃん大好きなんだもん、ロゼさん」
「! 知ってたのか?」
いや、オレだって、嫌いか好きかと言ったら絶対、好きのほうだろうとは思っていたが、恋という意味での好きだと気づいたのは、先日のことだ。(そして確信できたのが今朝のことだった。)なのに咲希の口ぶりでは、完全に恋のそれで。
「え! お兄ちゃん気づいてなかったの!? アタシてっきりもうず~~っと前からこっそり付き合っているものかと……」
「ど、どうしてそうなるんだ……!?」
「え、だってお兄ちゃんの添い寝してるんでしょ、ロゼさん」
ん?
「確かに添い寝してもらっているが、だからって付き合うことにはならないだろう」
そ、そうだ。男二人が同じベッドで寝ているだけだ。別に何も……う、数時間前にどぎまぎしていた自分が蘇る。自分にも注いだ水を口につけ、優雅に喉へ流し込んだ。手はまだ震えているが、これは病み上がりのせいであって、動揺の震えではなくてだな。
「そうかなぁ。お父さんのロゼはしなかったような……とにかく、ロゼさんがお兄ちゃんのこと好きなのは間違いないから」
「だからなんでお前がそう確信するんだ……ロゼと恋バナでもしたのか?」
「目が違うんだよ、ロゼさんがお兄ちゃんを見る目が。『好き、大好き』って目してるもん」
「っ」
言われてみれば、そう、なのかもしれない。
「それは……わかる、と思う」
今まで察してやれなかったが……思い返せば、あの目はいつだって他では見られない熱意が籠っていた。いつだって、類はオレをよく見てくれているんだ。これからはオレも、もっとあいつを見なければ。……いや、見ないほうが難しいだろう。今もつい、ベッドのほうを見てしまうからな。
「お兄ちゃんがマタタビを食べすぎて倒れたのは聞いてたけど、なんでマタタビ? 何かあったの……?」
「それが、その、笑わないで聞いてくれ」
「笑わないよぉ~!」
言葉通り、咲希は静かにオレの話を聞いてくれた。二週間前のあの出来事から、今に至るまでの事を、全て包み隠さず、ゆっくり咲希に伝えた。改めて言葉にしてみると、自分の行いが恥ずかしくてたまらない。でも咲希になら、言ってもいいと思った。
「……もっと、王らしいやり方が、あったはずだがな」
「それができなかったぐらい、お兄ちゃんは取り乱していて、それだけ、本当はロゼさんのことが好きだったってことじゃない?」
「そう、だな。情けない兄ですまない」
「も~! 情けなくないよ! そういうものなの、恋は」
ツインテールの横にある、三角耳の先のピンクがぴくぴくと跳ねる。オレの手からカップを取って机に置き、咲希は温かいハグでオレを包んだ。思いやりの籠った体温が心地いい。
「お兄ちゃんはアタシの自慢の兄で、自慢の王様なんだよ。国民全員に認めてもらうのは難しそうだけど、お兄ちゃんなら……ううん、お兄ちゃんと、ロゼさんなら、できると思うんだ!」
「咲希……」
「それに、少なくともアタシが見てきた国民はみ~んな、王様が大好きなんだよ。きっとみんなが味方になってくれるから、頑張って、その気持ちをみんなに伝えて!」
「……伝える……」
伝える。
「……っ! ああ! ありがとう、咲希! どうすればいいか、わかってきたぞ!」
「ほんと? よかった!」
笑顔が綻んだ咲希をもう一度ぎゅう、と抱きしめて、ベッドにいるオレの眠り姫が起きたら、一番に伝えようと思った。オレも大、大、大好きだということと、オレたちにぴったりな台本を。
◇
「えっ、咲希くんが来ていたのかい?」
「あぁ!」
類は深夜に目覚めた。まだ目元に隈が見えるが、だいぶ疲れも取れたようで安心した。
「何か話したのかい?」
「あぁ、オレがるいのことを、おもったいじょうにだいすきだってことだ」
「え、ぇっ?」
「ほんとうに、いままできづけなくて、すまなかった。そして、ありがとうな、るい。オレも、るいのことが、だいすきだ」
改めて気持ちを伝えたら、また類が泣きそうになった。泣き虫なロゼを持ったものだ。
「ないているひまはないぞ。きいてくれ。いいあんがうかんだんだ」
「? いい案?」
座っていたベッド際から登って、類に跨いで、目線を同じ高さにして見つめた。
「ショーだ!」
「!」
「ショーをつくるみたいに、といったが、みたい、ではなく、ほんもののショーをつくればいいではないか!」
「……!!」
今までだって、オレ達はいっぱいショーをしてきた。豊作への感謝を神に伝えるために、新しい施策をわかりやすく国民に伝えるために。そうだ、音楽堂で、音楽の良さを伝えるためのショーもしたな。
「オレたちのこのきもちも、ショーでつたえたらいい。いちばんとくいなショーでなら、きっとみんなにつたわるし、みんながえがおのハッピーエンドにたどりつけるにちがいない!」
「……!」
見開いた類の瞳は、キラキラと、宇宙のように輝いた。この目は、知っている。ショーがたまらなく好きで、アイデアが止まらず湧いてくる時の目だ。
「そのためには、るいがひつようだ。てつだって、」
「……やはり、やはり君が一番だ!」
「おわっ!?」
座ったままなのに、類は軽々とオレを持ち上げては、ぎゅうと抱きしめた。そのまま体重を預け、類をベッドへ倒した。
「僕はお手伝いじゃなくて、主演の一人だろう? ねぇ、君のその案だと、多分あんな演出や、こんな演出じゃないと、国民全員に伝わるほどのインパクトを出せないけど、君にできるのかい?」
挑発的なセリフを投げてきた口にキスを落とし、自分の鼻を類のそれにつんと擦り付けた。猫族では、「信頼」を意味する仕草だ。
「もちろんだ! あんしんしてまかせるがいい!」
王たる者、それぐらいできなくてどうする!
END