夏の思い出僕たち運転士の親睦会にめったに顔を出さないその人は、今日は珍しく大宮支部主催の海水浴に参加するそうだ。ナガラ曰く、毎回しつこく誘うのだが、運転士じゃないからと断られてしまうらしい。今回はレイさんの力を借りて誘うのだと、ナガラは意気込んでいた。そのレイさんも奥の手を使うと自信満々に言っていた。果たしてレイさんはどんな奥の手を使ったのだろうか。
「みんなー!お待たせ!」
ナガラが手を振りながら走ってくる。名古屋支部メンバーの到着だ。ナガラの後ろに、シマカゼが見える。その隣にはリュウジさん。さらに後ろに、見知らぬ顔が見えた。
「あの人は?」
駆け寄ってきたナガラに訊ねれば、リュウジさんの弟のタツミさんだと教えてくれる。タツミさんも元運転士だそうだ。なるほど。レイさんはタツミさんを巻き込むことで、リュウジさんを海水浴に参加させたのだ。
清洲兄弟が物珍しいようで、みなリュウジさんとタツミさんの周りに群がっている。いつもクールにしているリュウジさんが、みんなに遊ばれている様は面白い。それを波打ち際から眺めている背中があった。その背中に無性にイライラして、持っていたビーチボールを思わず投げつけた。
「いてっ!」
僕のことなど全く視界に入っていなかったようで、ボールはシマカゼの顔面にヒットする。
「なにするんだよ」
不満げにシマカゼは僕を睨みつけてくる。しかし、先に僕をイラつかせたのはシマカゼのほうだから、謝ってはやらない。
「そんなに気になるなら、混ざってこればいいじゃないか」
なんのこととは言っていないのに、別に気になってなんかないとシマカゼは語気を強める。
「ずっと羨ましそうに見ているくせに、それでよく気になってないなんて言えるな」
売り言葉に買い言葉でそう続けると、ヤマカサには関係ないだろとふいっと顔を背けられた。その反応がいつもより幼く見える。感情の起伏が少ないシマカゼを、こうまでさせるリュウジさんが羨ましい。
さて、次はどんな言葉をかけてやろうかと考えていると、だってとシマカゼが小さく漏らす。
「僕にはみんなみたいにはできないし…」
その言葉を受け、リュウジさんたちへと改めて視線を向ける。ナガラはリュウジさんにしがみついて遊んでいる。ハナビたちはリュウジさんの手を引き、海に引き摺り込もうとしている。さらにタツミさんはリュウジさんを揶揄ったりしている。それのどれもが、シマカゼがリュウジさんにやるところは想像できなかった。
「僕といるときより、楽しそうだ…」
楽しそうと言えばそうだが、ただただ元気な子どもたちに振り回されているようにも見える。結局、楽しいのかどうかは、本人しかわからない。
「僕からしたら、シマカゼと静かに談笑しているリュウジさんも楽しそうに見えるが」
そうフォローしてやっても、そんなことないよとシマカゼは受け入れない。リュウジさんのことになると、消極的になるシマカゼが僕は心底嫌いだった。
「僕は側にいるだけでいいんだ…」
言い聞かせるように呟くシマカゼに、僕の苛立ちはピークに達する。
「意気地なし」
その言葉と共に、僕はもう一度ビーチボールを投げつけた。しかし、今度は難なく受け止められてしまった。その顔はムスっとしている。
「ヤマカサにはわからないよっ!」
そして、シマカゼがビーチボールを投げ返してきた。それを受け止めようとして手を出すが、勢いがありすぎて僕の腕からこぼれる。それからポトリと海へ落ちた。それは選ばれなかった僕のようだ。
「シマカゼは、隣にもいさせてもらえない者の気持ちを考えたことはあるか?」
「えっ…」
「隣はいつも埋まっているんだ。僕が入る余地なんてどこにもない」
いつもシマカゼの隣はリュウジさんで埋まっている。シマカゼの視線も興味も意識も、全てリュウジさんで埋まっている。僕が入る余地などどこにもない。
「自分が可哀想だとでも思っているのか?片思いをしている自分に酔っているのか?」
リュウジさんにそこまで許してもらっておきながら、弱気なシマカゼが嫌いだった。僕にはないものを持っているのに、それで満足しているシマカゼが嫌いだった。
「僕はっ!」
僕の言葉を受け、シマカゼが掴みかかってくる。そうすると波打ち際で足場が悪いせいか、僕たちはバランスを崩した。そして、そのまま海へと倒れ込んでしまった。バシャンと大きな音とともに、下半身に衝撃がはしる。ビショビショになった僕たちに、波は容赦なく打ち付ける。海水のせいか、視界も悪い。それでも、目の前にいるシマカゼは、僕をつかんで離さない。
「誰にもリュウジさんの隣を譲りたくないし、今だってリュウジさんを独り占めしたいっ!」
シマカゼの瞳に宿るのは独占欲。そんなシマカゼに僕はゾクゾクする。
「素直に言えるじゃないか」
どうにか冷静さを保ちつつそう口にすれば、少しスッキリした顔のシマカゼがいた。世話のかかる奴だと、眼鏡を上げようとしたときだった。その指が空をきる。
「えっ?」
困惑しながら目のあたりへと手を持っていけば、あるはずのものがなかった。
「メガネ?」
「な、流されてるっ!」
ぐるりと周りを見渡したシマカゼがそう叫ぶ。先程、倒れ込んだときに、メガネが外れて落ちてしまったようだ。それが波に乗って、沖へと流されていく。
「まずい!」
僕たち二人はメガネを追って泳ぎ出す。あれがなければ帰れない。
僕も水泳は嗜んでいるが、やはりプールと海では訳が違う。中々前に進まない。そんな僕とは対照的に、シマカゼはぐんぐん進んでいく。空手で鍛えているとこうも違うのかと悔しくなる。ここはシマカゼに任せようと泳ぐのを辞め、その背中を見守ることにする。シマカゼは必死に泳いで、必死にメガネに手を伸ばしている。なんだかメガネすら羨ましく見えてくる。あんな風に僕も追いかけられたかった。
「とったよ!」
そんな感傷に浸っていると、シマカゼから声が上がった。その右手には、僕のメガネがしっかりと握られている。
それから、重い身体を引きずって海から上がり、僕たちは浜辺で寝転んだ。そんな僕の右手には、先ほどシマカゼから返してもらったメガネがある。僕のためにシマカゼが取ってきてくれたと思うと、少し浮かれそうになる。
「メガネ、見つかってよかったね」
「まったくだ」
「あんなに必死に泳いだのは久しぶりだよ」
「プールとは訳が違うな」
「波があるからね」
そんなことを言いながら笑い合う。こんな風に僕もシマカゼの隣にいたかった。
「それにしても、まさかヤマカサに喝を入れられるとは思ってもみなかったよ」
しかし、そう思っているのは僕だけのようで、シマカゼの頭の中はやっぱりリュウジさんでいっぱいだ。
「シマカゼがウジウジしすぎなんだ」
「そうかもね」
メガネをぎゅっと握りしめ、僕はぶっきらぼうに答える。シマカゼは清々しい表情を浮かべているが、僕はというと気を抜いたら何かがこぼれ落ちそうだった。
「背中を押してくれて、ありがとう。ちょっとリュウジさん取り返してくるね」
そう言って、シマカゼは立ち上がる。そして、僕が何かいう前に走り出してしまった。さっきまであんなに息が上がっていたくせに、それを感じさせないくらい颯爽と走っていく。乾ききっていないメガネをかけてその様を追っていくと、何か適当な理由をつけてリュウジさんを連れ去るところだった。やればできるじゃないかと僕は笑った。そうしていると、何かが頰を流れ落ちた。きっと汗か海水だろう。
僕は一つ息を吐いて、空を仰ぐ。シマカゼには自分の気持ちに正直になってもらわないと困るのだ。あんな風にウジウジされていると困るのだ。でなければ、僕がちゃんと失恋できないじゃないか。