「お前、清州とどんな関係なの? 苗字一緒だし、まさか兄弟とか?」
迷わず入った空手部の先輩にそう訊ねられ、そうですと即答するのをグッと堪える。
「授業が一緒な先輩っす」
そして、そう答えれば、まさかと先輩は唖然とする。
「あの清州だぞ」
果たして先輩は兄貴にどんなイメージをもっているのか。
兄貴は大学でも有名人だった。入学直後、あのルックスで女子たちを騒つかせたらしい。だが、全く靡かないそのクールな立ち振る舞いに、今度は男子たちの好感を爆上げしたそうだ。俺から言わせてみれば、人と関わるのをめんどくさがっているだけだと思うが。その不可侵な雰囲気に、皆魅了されたのだ。言うなれば高嶺の花というやつだ。だから空手部の先輩もあの清州とか言うのだ。
「仲がいいならさ、今からでも遅くないから空手部に入ってくれって頼んでくれないか?」
「え?」
空手部の先輩からの思わぬお願いに、俺は目をパチクリさせた。
空手部の先輩とそんな話をしたのは昨日の練習終わり。それで早速その話をしようと、件の人を探して学食に入る。そうすれば、すぐに見つけた。大盛りのカレーが乗ったお盆を持って、人を縫って歩いていけば、目当ての人、兄貴が一人で生姜焼き定食を食べていた。そんな兄貴の前に腰を下ろし、清州先輩はさと話しかける。
「空手部に入らないの?」
空手部の先輩に頼まれたお願いを口にすると、ギロリと睨まれた。この話題が不快だったのかと思ったが、敬語と兄貴に付け加えられそっちかと慌てて言い直す。
「入らないんデスカ?」
「今さらだろ」
やっと返ってきた答えに、一理あるなと思う。だって兄貴はもう三年生。空手部に入ったとしてもすぐに引退と言うことになる。しかし、かなり熱烈に兄貴を勧誘してくるように先輩に頼まれた。だから、簡単に引き下がるわけにはいかない。
「空手部の先輩がさ、清州先輩にどうしても入って欲しいって」
「超進化研究所でバイトしてるから、そんな暇ないな」
それも一理あって、これ以上空手部に口説く言葉が見つからなかった。
空手部の先輩は、中学一年生の頃に全国大会で兄貴を見たと言っていた。兄貴が空手をやめる前に出た最後の大会だ。そのとき、兄貴の圧倒的強さに惚れ込んだという。だが、次の年からその姿が見つからない。風の噂で空手をやめたと聞いた時は大いにショックを受けたという。そんな男が同じ大学にいる。一年の頃から熱心に勧誘しているが、話すら聞いてもらえない。そんなところへ、兄貴と親しげに喋れる俺が現れたということらしい。
空手部の先輩の気持ちもわかる気がする。兄貴の空手をやる姿を見たら、やめてしまうなんてもったいないと思うものだ。その才能を間近で見てきた俺が言うのだからそうなのだ。
「空手はもうやらないんデスカ?」
「今のところはな」
「もったいないと思いマス」
俺の素直な言葉に、兄貴の生姜焼き定食を食べていた手が止まる。
「また一緒に空手がやりたいデス」
高校では空手部に入るかと思いきや、兄貴は帰宅部だった。それは臨時指導代理として超進化研究所に出入りしていたから、部活どころじゃなかったからだろう。それでも鍛錬を欠かさないのを知っている。それは大学に入ってからも続いているはずだ。今でもそれなりにできるはず。
「考えておいてやる」
思いがけず前向きな答えに、俺は嬉しくなる。
「そういえば、こないだ貸した一万は?」
「あ、そうだった!」
先日、授業前に教科書を買おうとしてお金が足りなくて兄貴に泣きついていた。すぐ返すと言って借りたが、すっかり忘れていたのだ。お金あったかなと焦りながら、鞄から財布を取り出す。そうすれば、ポロリと鞄から何かが落ちた。落ちたぞと兄貴が拾ってくれたが、手にしたそれに兄貴の眉間にしわが寄った。
「定期?」
兄貴が拾ってくれたのは、俺の定期だった。電車通学の学生なら誰もが持っているものだ。だが、俺の定期は他の定期とは少し違っていた。
「新幹線の?」
「俺、名古屋から通ってて」
「はぁ?」
そう、俺の定期は新幹線の定期だった。
「だから、一限に間に合わなくてさ」
始発で新幹線に乗っても、やはり一限には間に合わない。なので、必修以外は一限に授業を入れないようにしている。
「名古屋からって、バカなのか?」
「二人も下宿なんて母さんに申し訳ないというか……」
「新幹線で通っていたら、下宿でも変わらないだろ」
「だって……」
頭を抱える兄貴に、俺はそう口を尖らせる。我が家は母子家庭であるのに、二人も県外の大学に進学させてもらった。その家計の負担を考えると、下宿したいだなんて口が裂けても言えなかったのだ。そんな俺の事情を聞いて、こればかりは仕方ないと兄貴はため息をつく。
「俺のうちに来い」
「え?」
「うちは部屋が広いから、居候させてやる」
「広いの?」
「超進化研究所のご厚意で、寮にしているアパートの一室を格安で貸してもらってるんだ。広い部屋だから、一人くらい増えてもかまわん。それに母さんにあまり負担はかけたくないからな」
母さんに負担をかけたくないという気持ちは兄貴も一緒なのだ。それでそう提案してくれている。これに乗らないわけがない。だって、これってつまり……。
「同棲ってやつ?」
そう口走れば、調子に乗るなと睨まれる。
「ルームシェアだ」
そして、そう言い直される。だが、一緒に住めるのならどっちだっていい。
「母さんに話をつけておけ」
「わかった!」
俺は満面の笑みで頷いたのだった。
♢♢♢
「改めて、よろしくオネガイシマス」
玄関を開けるなり、俺は元気に頭を下げた。だが、近所迷惑だから静かにしろと兄貴に怒られる。
いつか兄貴の一人暮らしの部屋に行きたいと思っていたが、まさかこんなに早く実現できるなんて思ってもみなかった。しかも、今日から同棲。もとい、ルームシェアだ。浮かれないはずがない。
「生活費は折半と言いたいところだが、バイトが決まるまで出してやる」
「ありがとう!」
そう抱きつこうとすれば、手で制される。そして、睨まれ、そうだったと言い直す。
「ありがとうゴザイマス」
一緒に住めることになったが、まだ俺と兄貴は先輩後輩の関係らしい。また一つ屋根の下で住めるようになったのだから、焦ることはないだろう。
「荷物は適当に置いてくれ。そこの収納は自由に使ってくれてかまわない」
兄貴に部屋の案内をされる。兄貴の言う通り、学生の一人暮らしの部屋にしては広い部屋だった。とは言っても一人暮らしをするような部屋だ。部屋の案内はすぐに終わる。そして、俺たちは机を挟んで座る。座ったときにズボンのポケットに入れたままにしていたスマホがつっかえたので、それを机に置いた。
「ルームシェアするにあたって、ルールを決めるぞ」
「そんなかしこまらなくていいじゃん」
俺が気だるくそう言えば、キッと視線を向けられる。それで、いいのじゃないでしょうかと言い直す。
元々俺たちは実家で一緒に暮らしていたのだ。それに、母さんが入院中は家事も分担してやっていた。そのノリで問題ないと思うが。
「俺とお前はこないだ出会ったばかりなんだろ?」
それは俺が言い出したこと。その設定を守ろうとするならば、確かに一緒に暮らすにあたってルールの一つくらいは必要だろう。
「ご飯は俺が作ってやる。どうせ、部活で忙しいだろ」
「ありがとうゴザイマス」
「その代わり、ゴミ出しはしろ」
「はい」
「洗濯は交代だ」
「了解」
「あと、女は連れ込むなよ」
「は?」
最後に提示されたルールに、俺は開いた口が塞がらない。兄貴は何を言っているんだ。
「俺、清州先輩のことが好きなんですけど?」
兄貴が好きだと兄貴が家を出る前にも伝えたはずだ。兄貴が好きだから、大学まで追いかけてきたのだ。何を今更言っているんだと眉間にしわを寄せていると、まだ言っていたのかと兄貴はため息をつく。
「大学にはいろんな女性がいる。それで、少しは目が覚めるんじゃないのか?」
兄貴の一言に、バンっと俺は机を叩く。それを兄貴は動揺することなく見つめている。そんな兄貴に腹が立つ。
「俺がどんだけ本気かわかってねぇの?」
本気で好きじゃなかったら、受験勉強なんて頑張らない。母さんに迷惑かけてまで、ここまで追いかけてこない。初めましてから始めたいだなんて言うはずがない。それが兄貴には全く伝わっていない。
「俺は兄貴のことが好きだ」
改めて、そう告白する。だが、俺と対峙する兄貴は、微動だにしない。ただ俺を見つめていた。その視線から逃げたら負けなような気がして、俺もその目を見つめる。怒っているのだろうか。照れているのだろうか。その瞳から感情を読み取ることができない。ただ、俺の気持ちを受け入れる気がないということだけはわかる。
数秒、俺たちは睨み合う。そこへスマホの着信音が流れ出した。それは机に置いたままにしてあった俺のスマホからだった。お互いにそれヘ視線を向けると、ディスプレイには母さんと表示されていた。このタイミングで出るか悩んでいると、一つ息をつき、兄貴は立ち上がる。
「先に風呂に入るから、母さんによろしく伝えておいてくれ」
兄貴は暗に席を外すから電話に出ろと言っている。相手が母さんなら、兄貴も一緒に話せばいいのにと思いつつ、俺は電話に出た。
電話の内容は俺と兄貴を心配するものだった。母さんはなぜか俺と兄貴が喧嘩をしていると思っているのだ。兄貴が大学に進学するために家を出たときに、喧嘩別れのような状態だったから仕方がない。俺が兄貴の大学に行きたいと言い出したときはかなり驚いていたし、兄貴と一緒に住むと言ったときはうまくやれるか心配していたくらいだ。だから、母さんに心配をかけないようにうまくやってるよと努めて明るく言う。ついさっき不穏な雰囲気になったが、そのほかは概ね良好な関係だ。たぶん。だから、嘘じゃない。一応納得してくれた母さんが、それでと次の話題を振ってくる。
「布団は買ったの?」
「あっ……?」
「そっちで買うって言ってたじゃない」
母さんの一言に、やってしまったと頭を抱える。布団はこっちで買うからと言って、お金まで貰っていた。しかし、買うのをすっかり忘れていたのだ。
「明日、買うよ」
「じゃあ、今夜はどうするの?」
「一日くらい床で寝たって平気だって」
「まだ夜は冷えるんだから、風邪ひかないようにしなさいよ」
電話の向こうで呆れている母さんに、あははと笑ってみせる。話はそこまでで、兄貴に迷惑をかけないようにとよく言いつけられて、電話は終わった。俺だっていい歳だ。兄貴に迷惑なんてかけるわけがない。と、言い切れないからため息が出た。
「電話は終わったのか?」
電話が終わったタイミングで、兄貴がお風呂から出てくる。そのタイミングが良すぎるような気もした。
「母さんが心配してた」
母さんからの電話を簡単にまとめてそう伝えれば、そうかと兄貴は頷いた。
「あのさ」
そんなあ兄貴に控えめにそう声をかける。そうすれば、心底めんどくさそうな顔で、なんだと兄貴は答えてくれる。これから俺から厄介事を頼まれることを察しているのだろう。その兄貴の予感は当たっている。母さんにあれだけ心配されたし、迷惑をかけるなと言われた。だが、早速迷惑をかけなければならないことがあるのだ。大学生になってまでままならない自分に不甲斐なさを感じつつ、この失敗を活かさずにどうする。
「布団まだないからさ、一緒に寝てもいいデスカ?」
「床で寝ろ」
「えー」
俺のお願いはサクッと拒否される。
「風邪ひいちゃうじゃん」
簡単に引き下がるわけにはいかなくてそうぶーたれれば、じゃあと兄貴が口を開く。
「お前がベットで寝ろ。俺が床で寝る」
「それは家主に悪いじゃん」
俺は別にベットで寝たいわけじゃない。兄貴と一緒に寝たいのだ。俺の主張に、兄貴はわざとらしくため息をつく。なんだかわがままを言っている子どもに呆れる親のようで、ムッとする。
「お前は、俺が好きなんだろ?」
「ふぇ?」
兄貴の一言に、思わず変な声が出る。
「だから、お前は俺が好きなんだろ?」
「ま、まぁ……」
確認するように問うてくる兄貴の意図が分からなくて、戸惑いながら答えると、そんな奴とと兄貴は続ける。
「一緒に寝れるか」
そう言い捨てられ、やっとその意味がわかる。
「何もしないから!」
「信用できるか!」
警戒されているということは、兄貴も意識し始めているということだ。それだけわかっただけでも、俺の恋は一歩前進したということになる。