Silver Snow ふと、ヒュンケルは顔をあげた。
暖炉にくべられた薪が、かすかな音をたててはぜる。
それまで手にしていたものを床に置いた箱に入れ、麻布をかぶせると、ヒュンケルは、テーブルの上の木屑をさっと払った。
もう一度椅子に落ち着くのと、扉がどんどんと叩かれたのは、ほぼ同時だった。
「錠はしていない。入ってくれ」
声をかけると、厚い木の扉が、軋みながら開く。
外の冷気をまとって、雪だらけの少年が顔を覗かせた。
「あいてんのかよ。不用心じゃねぇの」
扉を後ろ手にしめて、訪問者は雪のついたフードを払う。
「⋯なんて言っても、冬にこんな所まで来る奴なんてまずいないよな」
分厚い手袋をとり、ふかふかとした耳あてをはずすと、額の横で結ばれた黄色の細布が揺れた。雪で湿ってしまったのか、いつもよりその色は鮮やかに見える。
「俺くらいだろ」
顔をあげて、ポップは笑った。
「それにしても寒いな!」
集落からも離れた森のはずれに、その家はある。
簡素な、それでも雪に耐えられるだけの造りをした家は、以前は森番が住んでいたというが長い間打ち捨てられ、今は村の好意でヒュンケルの住まいになっていた。
渡された熱い茶のはいったカップを両手で包んで、ポップはようやく人心地ついた、という顔をしている。
「何、皮むきしてたのか」
テーブルの上に積まれたジャガイモと、ナイフを手にとった。
ポップは、武器屋の息子らしく、ナイフをためつすがめつ眺める。
「あいかわらずごっついの使ってんなあ⋯今度もう少し料理向きのを」
言いかけて、ふとポップは口をつぐむ。
「まぁ、いいか」
ポップが黙ってしまうと、小屋のなかの音は薪のはぜる小さな音だけになる。
木戸が降ろされた窓越しに、小屋を囲む木の枝からどさり、と雪が落ちる音が聞こえた。
しばらく、ポップは口を開かなかった。この静けさと、暖炉の炎の暖かさを楽しむように。
わずかな家具や道具しかない、それでも暮らしやすいように整えられた部屋を見回していた目が、テーブルのすみに置かれた壜を発見する。ポップは蓋を勝手に開け、好物の干しあんずを嬉しそうにつまみあげて、口に放りこんだ。
「そういや、このあたりさ、『精霊の護りがある村』って言われてるらしいぜ」
その甘酸っぱさに目を細め、口をもぐもぐとさせたまま言う。
「確かに、今年は不作気味とはいえ⋯周囲の村にくらべると出来栄えも収穫も少しは良かったようだ」
暖炉に薪を足しながら、ヒュンケルは答えた。
「そうじゃなくてさ」
ポップは、テーブルに肘をついて手のひらに顎を乗せた。
「今日タムばあちゃんとこにも湿布を届けに寄ったんだよ。そしたら、茶だしてくれてさ、ここのところ、いつも雪橋がうまく凍っていて、人も荷馬車も安全に渡れる、って言ってたぜ。雪の季節の間、離れた集落への道がわかんなくならないように枝たてるだろ、こんな大雪続きなのに、それが倒れたりすることもない。それだけじゃねぇ。森にコケモモの枝を取りにいった子が、日が暮れても戻ってこないわ、吹雪いてくるわで大騒ぎだったんだけど、ちゃんと帰ってこられたって話」
「そうか」
ポップがこちらを何うようにしているのを背中に感じながらヒュンケルは答えた。
「反応薄いなー」
ポップは、村々を巡回して生計をたてる、人や家畜の傷の回復を行うまじない師としてこの村では知られている。
ふらりと現れるので少々うさんくさくはあるが、腕は確かなので村人には重宝されていた。
今日もあちこちで、仕事と、それの倍はおしゃべりをして過ごしたのだろう。
薪が上手く燃えたので振り返ると、ポップが上目づかいにこちらを見ている。
「今日は、俺も手伝うぜ。精霊さん!」
ヒュンケルは、ポップの前を素通りして、扉に手をかける。
寒がりな来訪者のために、薪小屋からもう少し薪を持ってきておいたほうが良いだろう。
「無視かよー!」
家のなかからポップの叫びが聞こえてきて、ヒュンケルは雪空を見上げて小さくため息をついた。
「寒いー!!」
ポップは自分の身体を両腕で抱えるようにして、身を縮めた。
「勝手についてきたんだろう。文句を言うな」
「文句じゃねえ。率直な感想だ。うーハナ水出る⋯」
ぶつぶつ言いながらも、ポップはヒュンケルの後を遅れずについていく。
夜になると、雪がやんだ。この季節にはめずらしく雲がきれ、空一面に星が瞬いていた。
「⋯なんか星がでかいな。ゆらゆら揺れてるみたいだ」
ポップが空を見上げて言う。
「こういう寒い場所では、特にそう見えるようだな」
「そっか⋯」
さくさくと、星あかりに照らされた雪を踏みながら進む。
やがて雪野原をぬけて、小さな道らしき場所に出た。
一定の間隔で雪にさしこまれた道を示す目印の枝を、ヒュンケルは確認しながら歩いていく。
その後ろ姿を見つめながら、今日村で聞いた話をポップは反芻していた。
『変わり者だが、頼んだ仕事は農作業にせよ、土木作業にせよ、まじめによく働くんだ』
『最初は、所詮よそもの、と警戒している者もいたが、とにかく無口で物静かだからね、最近では逆に厳しい仕事をあの若いのに押しつけて、まともな給金を出さない輩も出る始末さ』
『このへんの者と違って、立ち居ふるまいがきれいなんだよ。元はどこかの貴族さまかなにかじゃないのか、って私は思ってるんだが、どうだろうね』
『どうしてこんなところに住みついたのか⋯どちらにせよ、帰る場所がないんじゃねえ⋯』
『ああ、村長のところの孫娘ね、まだ十になったばかりさ。光の精霊祭で、女の子は白いドレスを着て、コケモモの枝を冠にさすだろう?その子は妹と喧嘩をして、妹の分の枝を暖炉に投げ込んじまった。落ち着いてみれば、なんてことをしちまったんだろう、と思ったんだろうね。家を抜け出してかわりの枝を取りにいっちまった』
『それが不思議なんだけどさ、その子が吹雪で、前も後ろも、右も左もわからなくなっちまったとき、灯りが見えたんだと。見えかくれしながら、それでもずっと⋯その灯りについていくと、いつの間にか村のはずれまで戻ってこられたんだとさ。そこを総出で探していた村の衆が見つけた。光の精霊さまの守護としか思えないねえ』
村の人々が、長い冬の徒然に語るうわさ話。
大戦のあと、土地を魔物に荒らされた者や、家を無くして流れてきた者を、この村が受け入れることは多々あった。
ヒュンケルも、そのような者のひとりとしてこの村の人たちは見ている。
一年を通して気温が低く、夏の短いこの北の地の人々の外見は、すこしだけヒュンケルに似ている。
淡い色の髪と、白い肌。碧や青など、澄んだ色の眸。
ヒュンケルもそれは気づいているだろう。父か母か、あるいはその両方が、北方の人間であるだろうと。
ここは、北の国の、良い人も、ちょっとした悪人もいる、普通の村。
近づきたくて
少しでも守りたくて
けれど、触れることはできない
でもいつかは
ここでは、誰も彼の過去を知る者はいないのだ。
「ポップ」
ふいに呼ばれて、ポップは顔をあげた。
「このあたりは大丈夫のようだ。一度戻って、橋に行くが⋯」
ただついてくるだけで何を手伝うわけでもないポップをとがめる様子もなく、ヒュンケルが言う。
「ゆ、雪橋だよな。今日は手伝うって言ったろ。行くよ」
ポップは、少しどもりながら答えた。
「だー!!やっぱり寒いー!!」
「……」
あきれたのか、ヒュンケルはもうそれには答えず、ポップが沢から汲み上げた水を、雪で出来た橋の上にもくもくとかけていた。
「この橋は、冬のはじめに丸太を組んだものを沢にかけ、落ち葉を敷き詰めてつくるんだ。その上に水をまき、凍ったところに雪が積もって、平らな橋ができる。冬の間だけの、村への近道だ」
しんとした大気に、息が白い。
「な⋯なるほどねえ⋯」
滑って沢に転げ落ちないよう、岸の雪の斜面に脚をふんばりながら、ポップが言った。
「小さな沢なら雪だけで橋もどきができたりするけど、危ないもんな」
「こうやって、ときどき夜のうちに水を撒いてやれば、朝までにはまた凍って、強度があがるし、長持ちする」
「へえ⋯」
作業をしていると、自然に身体が暖まって、ポップにも少し元気が出てきた。
さらさらと音をたてて沢を流れる水の、心地の良い響きを聞きながら、ヒュンケルの家から持参した取っ手付きの桶に何度も水を汲む。
「もうこれくらいでいいだろう」
「そうか?」
すっかり暑くなり、フードをはずしたポップが、満足気に腰に片手をあて、額の汗を手袋をしたままの手の甲で拭う。
ふと、その顔がこわばった。
「よく考えりゃあ、これって俺がヒャドかければそれで良かったんじゃね?」
「そう言われればそうだな」
隣に立ったヒュンケルに言われて、へなへなとポップは座り込む。
「だが、手伝ってくれて助かった」
手入れされた雪橋は、星あかりのもとで、白銀の粉をまきちらしたように輝いていた。
帰り道、ヒュンケルは行きとは違う道を選んだ。
後ろを歩くポップに、森の奥を指し示す。
ぼっかりと、星空が見えるそこには、小さな沼があった。
その水面には、さざなみひとつ立っていない。
鏡のようなみなもに、雪をかぶった周囲の木々がうつりこんでいた。枝は漆黒に、雪は真っ白に。くっきりと。
その美しさに、ポップは息をのんだ。
フードをはずし、雪野をゆくヒュンケルの銀の髪がきらめく。確かに、雪の世界の精霊王に見まごう姿かも知れなかった。
いざなわれるまま、ポップは雪に足跡を残す。
なだらかな雪の斜面にそこだけ残る影のような、古えの時代の城壁。
ポップは、崩れかけた一部のみが残る石組の上に座り、黒と白と銀の世界を見渡す。
聞こえるのは、傍らに立つヒュンケルと、自分の息づかいだけだった。
耳鳴りがするような、圧倒的な静けさにつつまれたまま、また歩き出す。気づけば、ポップはヒュンケルの家の前に立っていた。
熱いスパイスワインを飲んでそれから。
「疲れたんじゃなかったのか?」
ポップからの口づけに、ヒュンケルは静かに問う。
「いい⋯」
ポップがそれだけ言うと、ヒュンケルの腕が、ポップを包みこんだ。
ここは部屋のなかで、灯されているのはろうそくのあたたかな光なのに、目を閉じれば、それそのものが淡く光りを発しているような夜の雪野がポップの前に広がる。
寝台で、熱い吐息をこぼしながら、また雪が降りはじめた気配がする、と思う。
この場所に生きること
それは彼の救いに、安らぎになりますか。
もしそうなら私は
受け入れて、震えながら果てた身体をその腕に抱きこまれ、眠りについたはずなのに、目覚めたときヒュンケルの姿はなかった。
「どこに行ったんだよ、あいつ⋯」
ぼさぼさになった髪をかきあげる。
素足には凍るように冷たい床に、寝台から降りたポップは、思わずつま先立ちになった。床に落ちた服を拾い集め、身につけると、雪用のブーツに足を突っ込む。
「でもちょうど良かったのかもな」
ポップがそう呟いたのと、軋みながら扉が開いたのは同時だった。
「何がちょうど良かったって?」
雪を払って、ヒュンケルが顔をあげる。薄明のなか、紫の眸がまっすぐにポップを見ていた。
「…っ」
ポップは、言葉に詰まった。
シャツの裾を握りしめたまま、いつものように適当に言い繕うこともできなかった。
黙ったままのポップの頬を、ヒュンケルは手の甲で軽く叩く。
「用意が出来たなら、行くぞ」
「行くって、どこにだよ⋯」
絞り出すように、ポップが言った。
気づかれている。そう思った。
自分の迷いを。
「呼びに来たのだろう」
最後に、元気で暮らしているかどうか確かめるだけ、と自分に言い訳しながら、共に来てほしいと願っていたことを。
「だって、お前、ここでの暮らしは⋯」
「別れなら、すませてきた」
ヒュンケルは、かすかに笑みをにじませた。
「行こう。ポップ」
雪の村を後にして。地の果てでも、はるかな魔界でも。
***
孫娘の小さな手のなかに収まった、ふたつの木彫りのメダルを、村長はじっと見つめた。
興奮した様子の彼女の話では、光の精霊の象徴を彫り込んだその美しい細工物は、蝋引きの封筒に収められた手紙とともに、家の前の新雪の上に置かれていたのだという。
孫娘たちは、精霊の贈りものだとはしゃいでいる。飾り紐を通してやれば、彼女たちの素晴らしいペンダントヘッドになるだろう。
読み終わった手紙から目をあげて、村長は窓の外を見やる。
手紙には、旅に出ること、いままでの礼、雪橋の手入れの工夫についてや、特に丈夫な枝にする必要のある道標の位置などが簡潔に書き記されていた。
あなたの孫娘はとても勇敢です、とも。
「こんな硬い木材によくここまで細工を⋯」
村長はちいさく息を吐いた。
「銀の髪の精霊よ、あなたが帰ってきたときには、より木彫刻に適した木の種類を救えてさしあげよう。待っているよ」
村長は、静かに手紙を折り、微笑みながらそっと引き出しの奥へしまった。